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見上げてごらん夜の星を

 
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  5月5日(子どもの日)の朝日新聞一面コラム「折々のことば」は「子どもは親の目が届かないところで育つ」という臨床心理家河合隼速雄のことばを載せた。「親の目が届かないところ」では危険で逸脱的言動もありがちだが、それも成長の過程と捉えるのが臨床心理家の見方なのだろう。
 巣立ち直後で飛翔力の弱い小鳥が親からはぐれていた。後頭部にまだ産毛が残る小鳥は、親鳥の鳴き声に懸命に応えていたが、やがてそれも聞こえなくなった。猫の襲撃が危惧されたが、親鳥がいたと思(おぼ)しい隣家の庭に移動させた。この時期は親の目と庇護がなければ生きてはいけない。親子の再会を願うばかりだ。
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 先月は福島の有名な桜を2度も観る機会があった。その後、店の書棚に『櫻史(おうし)』(山田孝雄(やまだ・よしお)著/講談社1990)という本を見つけた。故・本間桂先生が残されたものだ。著者による<序>の1節に「抑(そもそも)この櫻史は櫻の会の委嘱により、その会の雑誌「櫻」の為に起草したるものにして、(中略)大正八年より昭和六年にわたりて僅かに之を終へたるものなり」とあり、「昭和十六年四月 御衣黄(ぎょいこう)の花の盛りの時(改行)神官皇学館大学の居室にてしるす」と結んである。寄稿から10年を経て、補訂をし体裁を整えた上ての上梓であり、「日本人は春爛漫の櫻に何を想い、どのように付き合ってきたか。上古から明治期に至る日本文芸誌を渉猟し、櫻にまつわる事件・人物・詩歌を集大成した馥郁たる優作」と、講談社学術文庫版で紹介するように、さっと目を通しただけでも書名にふさわしい内容だと思った。
 初めて目にした「御衣黄(ぎょいこう)の花」ということば。櫻の別称・異称、または美称・尊称かと想像してみたが、あるいは場所かもしれない。
 この「櫻史」に4月に観てきた「瀧(滝)櫻」の項目があった。「陸奥の片田舎に在りながら名をば雲井に轟かしたる花こそあれ。そは何ぞといふに、三春の瀧櫻これなり。磐城国田村郡三春町の附近に瀧村といふあり瀧櫻はこの地にありて、古(いにしえ)より名高く、今に存せり。その樹は紅の枝垂櫻にして樹齢数百歳に及べりといふ」。
 客寄せの宣伝文句といった筆致だが、実際に観てきた私にはけっして大袈裟ではない。
 さらに著者は、天宝7年に河田迪齋という人物が著した「瀧櫻記」から「瀧の有べき所ならねど瀧村呼べるもの佐久良のあたりを見たててたき櫻といひそめしが、やがてむらの名にもをふせたる成るべし」を掲げて、以下のように述べる。「げにも糸櫻の瀧の漲(みなぎ)り落つるさまなるにより、瀧櫻といひ、瀧櫻の村といふによりて瀧村といひそめけむ」
 ちなみに瀧桜の現在の住所は「福島県田村郡三春町滝字桜久保」である。
 桜の季節は終わったが、「櫻史」なる書物を見出したうれしさに来年の桜の季節まで待ちきれなかった。浄土真宗だった私の生家では、「今のうちにやっときんさいよ(今のうちにやっておきなさい)」と促すとき、ときおり母は「明日ありと思う桜の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」と、親鸞作と伝わる和歌を添えたものだった。「夜半の嵐」は、いつわが身にも吹き来ないとは限らない。そして、絹さんから届いた今月の『短歌通信』も<桜>が詠まれていた。

 「国立・大学通り」

 新しき車に母を車椅子ごと乗せて風切る桜並木を
 息詰まるほどの桜を見上ぐるはここが最高大学通り
 サークルは新入生の争奪戦 敷物広げ早くも宴会
 母の友われの友らも集まりて広き通りを歩いていかん
 重箱に赤飯おにぎり、煮物、煮玉子「外で食べるとおいしいね」と母
 病にて心塞ぎし母なれどほんのひととき気も晴るるらし
 次の春再びここで会うまでは桜よ母を見守り給え
 
「「滝桜」の根元に跪いて手を合わせ、頭(こうべ)を垂れていた老女の姿が眼前に浮かぶ。そのとき、幾星霜をも経た桜に、私は紛(まご)うことなき<神霊>を感じた。「桜よ母を見守り給え」 
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 車で数分の岩船港湾内で15から20センチのアジが釣れているというので1週間ほど通った。狙い目は早朝早朝4時頃から5時半、夕方は6時から7時が狙い目だ。釣れる日もあれば釣れない日もある。釣り場の岸壁には車を横付けにできる。車には県外ナンバーもある。魚の食いが止まると会話が始まる。
「鹿児島まで行って来ました。5年前に退職しましてね。この5年ほどで百名山を登りました。百灯台もね」
 日本には大小3200もの灯台があるという。聞けば、私と同い年。福島ナンバーの顎ヒゲが白い。
「能登半島まで行くんだ。百勝やめてよ。釣れなくたっていいんだ」
と、こちらは仙台から。「釣れなくっていいんだ」と言いながら、新しいアジ釣りの仕掛けを買いに行った。
 好天に恵まれた日曜日の朝。女の子3人が釣り糸を垂れている脇で、竿をしゃくりながら母親がぼやく。
「釣れないねえ。夕べ家を出て来たんですよ。ガソリン代くらいは釣りたいね」
 父親はチェアーに腰を沈めたままタバコをくゆらせている。大柄で、口ヒゲも似合っている。大きい車輪のアメリカ製のピックアップトラックのナンバーは土浦。
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 釣果にはイワシも混じる。これはオイルサーディンにした。新玉葱のスライスとバゲットにのせて食べるとうまい。
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 店がツタの緑に覆われて第4回目のイベント「えちご村上バル街」が行われた。
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 イベント最初のお客は親子連れだった。ブンさん(左}とジュンさん(右)の始めての来店は23,4年前。二人の間に生まれたヒトシさん(中)は22歳になった。長く店を続けていることで得られる<よろこび>のひとつだ。
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 初来店のノリコさん(左)とマユミさん(右)と来店2回目のナツミさん(中)だ。ナツミさんはこの2日後、友人を連れてまた来てくれた。リピートの短時間記録といっていいだろう。
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 <バルイベント>の最年少来店者はキイトちゃん4歳。「石亀」のエミママ(エミババ?)の同伴だ。 
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 ヨシヒロさん、ユキオさん、マツモトさん。いとこ同士のユキオさんとマツモトさんが、おじのヨシヒロさんを<バル>に連れ出した。このところ体調が思わしくないシヒロさんも、この夜はウイスキーがすすみご機嫌だった。
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 下りのJR羽越線で帰宅しなければならないが、駅前の「楽屋」から薦められての初来店。勇士と書いてタケシと読ませるという。誠実で几帳面な性格が、風貌とカメラを見つめる表情に表れている。
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 マリア&ボビーということにしておく。もちろん仮名だが本物の夫婦である。マリアの愉快なキャラを穏やかに受け止めるボビー。100組の夫婦があれば100通りの夫婦の姿がある。<夫婦百態><夫婦百様>なのだ。
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揃いのポーズがバッチリ決まるのは同じ職場で働く人たちのチームワークのよさだろう。左からワキちゃん、ヨシ君、トモミさん、ナミさん、そしてヤスコさん。
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 長男夫婦(右2人)と次男(右)に挟まれて母は幸せだ。<バルイベント>では夫婦や家族の来店が多い。<バルイベント>、いいイベントだ。
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 バル初日は瀬波温泉のホテでフロント担当のサトウさんに、2日目は<おもてなし親善大使>のミカさんに手伝ってもらった。特に2日目は開店と同時に客が押し寄せ、パニックになりそうだったが、40分後に振り出した大雨で客足がパタッと途絶えた。それでも遅くになって常連たちが顔をそろえた。サチコさんからは羽田空港で検査官として働く娘の元気な近況も聞いた。知人の<子守り仕事・最初の1人目>だったというヨーコさん。明るくてとても元気な人だった。最後はスタジオミュージシャンのオオタキさんの<オン・ステージ>で盛り上がった。
 建築設計をしているオオタキさんと飲み続け、彼を送り出したのは午前2時を回った時刻だった。店内はミカさんがすっかり片付けて、洗い物も済ませてあった。おっと、忘れてはいけない。シブヤさんは翌日、トイレの水漏れを直しにきてくれた。手際のいいプロの仕事だった。「水周りはまかしてくれ!」。頼もしい人が常連になってくれた。
 今回の<バルイベント>。客数は前回に届かなかったが、いちばん楽しんだのは私だったかもし知れない。  
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 ナツミ、トッツ、ユカさんの3人は小中の同級生。ナツミさんは1昨日の夜に続いてのりピート。午前0時になって深夜の道を帰路についた女子2人の会話が、見送る私の耳に届いた。
「まだ飲む?」
「もう少し飲みたいね」
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 釣り場にはカラスやカモメも来る。カラスも親になる季節だ。ウグイなど、釣り人が持ち帰らない魚をカモメと奪い合うこともある。

 向島電機が倒産した。「乙女寮」で暮らしていた<乙女たち>も転職などで離れ離れになる。体の弱い優子は秋田の田舎へ帰ることになった。
「私を忘れないでね」「忘れるわけないでっしょっ!」
 同室の乙女6人が抱き合って泣く。テレビを見ていた私も泣く。NHKテレビ小説「ひよっこ」である。私と同世代の青春群像。当時の乙女たちの生態はかくありしか。毎回ちょっと笑わせて、ちょっと泣かせる。時代を背景に素直に共感を引き出す優れた作品だ。土浦(茨城県)の今井さんも熱烈なファンのようだ。
「そうですね今井さん」
「んだ、んだ、んだ!」
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 カツユキ&マユミ夫妻とも「ひよっこ」談義で盛り上がった。ドラマを見ながら、しばしば涙ぐんでいる様子のカツユキさんをマユミさんはそっと見ている。私よりも10年ほど若い世代だが、ドラマから受け取る感動は同じようだ。来年3月で定年退職を迎えるカツユキさん。新津生まれだが、ずっと村上で暮らしたいと思っているマユミさん。これから展開される<乙女たち>の人生に、大きな波乱がないことをいっしょに祈りましょう。もちろん2人のこれからの人生にも・・・・・・。
 
 見上げてごらん夜の星を
 小さな星の小さな光が
 ささやかな幸せを歌ってる
           (作詞/永六輔)
 今井さんのように筆まめででない私は、喫茶店で働きながら劇団に通い、女優への夢を育む時子のハガキを真似てみた。
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# by yoyotei | 2017-05-31 15:03  

桜花咲きかも散ると見るまでに誰かも此処に見えて散り行く

 1月2月3月は、「行く逃げる去る」といわれるように瞬く間に過ぎた。特別、時季に応じた暮らしをしてはいないし、年度末から新年度に向けた仕事の整理などがあるわけではない。来店客も少なく、これといった会合や集まりもない。無為に過ごす時間が長いのだから、時はゆっくりと経過するものと思いきや、なにやらサラッと過ぎてしまったという印象なのだ。 
 ところが4月になると、人との出会い、ホテルのパート仕事の雇用関係の変化、ショートトリップなど、私を取り巻く周囲も<春爛漫>のなかで大きく動いた。
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 日録の4月1日には東北大震災のドキュメンタリー映画『東北の新月』について、セガ医師がイザベルさんと来店とある。アメリカ人イザベルさんに配慮して英語だけで会話をするセガ医師。それに合わせる私は冷や汗だくだくだった。
  映画はカナダ人の日系三世リンダ・オオハマさんが制作監督したもの。こカナダ在住の建築家ホンマ・シノブさんから、当地におけるの上映依頼を受けて始まったプロジェクトだ。ホンマ・シノブさんは私の住居の隣家故本間桂先生の次男だ。映画の上映は「6月3日(土)午後2時から会場/村上市教育情報センター」で、ということが後の集まりで決定した。カナダのトルドー首相は「震災による喪失が引き起こした人々の嘆き苦しみを、被災者の目を通して描きながらも、なお未来に託す希望のメッセージを我々に送っている」と言葉を寄せている。
 震災から6年、風化がささやかれる「絆」。カナダ人は被災から立ち上がろうとする日本人東北の人たちをどう見たのか。あらためて自らに問うてみるいい機会だ。
 
 5日には大岡信死去。朝日新のコラム「折々のうた」を1979年から2007年にわたって連載した詩人だ。手元にある『詩歌ことはじめ』(大岡信著/昭和60年・講談社)に興味深い記述を見出した。<俳句の歳時記では「花」は春の季語で、古典和歌や俳諧では自動的に「桜」を意味するのが常識だが、それはおおむね平安時代からで、「万葉集」のできた奈良時代には「花」といえば「梅」だった。梅は中国から移入したものだから、当時はハイカラな樹木だった。桜に比べたら梅は香りがずっと高い。梅の香りを愛することが、当時においては文化的な人間であることの証拠だった>
 私はすぐに裏庭の梅の元に走った。だが、散り始めていた「三五郎梅」から香りを嗅ぎ取ることはできなかった。にわかに奈良時代の文化人を気取ってみても、所詮は底が知れている。
 
 夜はテルコさん84歳がナオコさんと来店。誘われて村上で最古のバー「木馬」へ行った。旧知のマスター長さんとも久しぶりに顔をあわせた。妻に先立たれて何年になるだろうか。カウンターの端には白い一輪のユリに花が、往年と変わらない凛としたたたずまいを見せていた。<変わらない>ことの落ち着きと充足感がこのp店にはある。この日は「気温高く暖かし」と日録にある。

 8日土曜日。作家で翻訳家でもある池田香代子氏の講演に行った。ブログではかなり激しい政権批判を続けている人だが、講演は優しく穏やかな語り口調だった。相変わらず視力の低下に難儀をしている私は前から3列目に座ったが、終始うとうととしてしまった。

 このところ日・月曜日を店の定休日としているが、10日の月曜日は勤務するホテルの、新しい雇用者側スタッフとパート勤務者たちとの懇親会が、私の店であった。酒を飲む人は少なく、口の重い人が多い集まりで、<座持ち>に苦慮した。

 3,11から6年、かねてから念願だったフクシマへの旅が実現した。ドライバーを引き受けたジョージさん、いまだ愛犬カールを失った喪失感の中にいるユウコさん、リハビリ中のジョージさんの妻と彼女をフォローする姉、そして私。なによりも今回のフクシマ行きのために宿の手配をはじめ、原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員・原発事故被害いわき市民訴訟原告団長の伊東さんとの面談を実現してもらった土浦の今井さんの尽力には感謝の言葉もない。しかも、詳細な現地の地図を用意して、1泊2日の現地視察ともいうべき旅のガイドまでしてもらった。
 いくつかのエピソードを含めて、貴重な体験だったが、何よりもゴーストタウンと化した避難地域のありさまは、見る者をして暗澹とさせ、やがて沸々と怒りが湧き上がってきた。これまでもテレビの画像などで見てはいたが、実際に目の前にした光景、そして怒りを忘れてはならないと強く思った。何が誰が住民をここまで追い込んだのか。非難解除がなされたばかりの町にも人影は少なく、はたして元の生活に戻ることができるのだろうかとの懸念は重く深い。
 東京電力福島第1原発事故による避難指示が解除された富岡町では、名所として知られる夜の森地区の桜並木も見た。ほぼ満開となっていた桜並木は全長2.2キロ。このうち1.9キロは放射線量が高いため原則立ち入り禁止の帰還困難区域に含まれ、訪れる人はまばらだった。6年前にはこの辺りもやむなく放たれた牛がさまよっていたという。立ち入り禁止区域の住宅の庭にキジを見つけた今井さんは丹念にカメラに収めていた。
 
 ところで、今回のブログに画像がないのはカメラに装填したSDカードのトラブルによる。写した画像データーが消えてしまったのだ。もっともフクシマへはカメラを持参するのを忘れた。スマホに数点の画像があるがブログに取り込む技術を知らない。 

 15日、実家の新しい住人への引渡しが最終段階になった絹さんが次男と来店。新しい住人家族、仲介に並々ならない尽力をしセガ医師たちと会食。この折の<実家引渡し>を絹さんは次のように詠んだ。

 幾とせをわが家の暮らし見守りし暖簾を外してていねいに畳む
 新しき家族の家紋染め抜きし暖簾贈るを儀式となせり
 家と庭、家具に食器も引継ぎて新しき家族は暮らし始むる
 着古しの父の背広を仕立て直し着てくるるという若き主(あるじ)は
 古家なれど人す住めばすべて瑞々し緑萌え出ず城山の下(もと)
 漆黒の空の彼方に小(ち)さき月 湯に浸かりつつ父を偲びぬ
 父が建て父が愛せしこの家を四十余年経てわれが手放す
 家眺め浮かぶ姿は母でなくまさしく父あくまでも父
 父の字の清水焼の表札を包みて今日は家を跡にす

 このようにして40年を経た家が新しい住人を得る例を、寡聞にして私は知らない。さらに、旧住人家族と新住人家族が親交を深める例も聞いたことがない。<住人無き家>が増えている昨今、きわめて稀な、そしてきわめて<いい出来事>である。そうか、あの表札は清水焼だったのか。

 2009年に3週間のインドの旅に同行した<世界を歩く人>ヨシヒロさんが顔を出した。長距離を歩くことが困難になったことですっかり元気をなくしていた。76歳という年齢をどうとらえるかは人によってちがうだろうが、健康状態が及ぼす心境の変化は大きい。いろいろ話し少し元気になって帰って行ったが、他人事ではない。
 この日の朝、鶯の初泣きを聞いた。
 
 21日(金)は福島県三春町へ滝桜を観に行った。マヤ姐さんとその父、おもてなし大使のミカさんと私の4人。情報収集から飲食の準備、運転まですべてマヤ姐さんがやってくれた。
満開の滝桜はみごとだった。樹齢1000年を超えるという1本の桜が多くの人を集める。根元には小さな祠があり、跪いて手を合わせる人もいた。よくぞここまでという畏敬の念、わが身にも生命の荘厳を与え給えとの願いだろうか。数本もの支柱に支えられた姿は痛ましくもあるが、私はこの桜の「生きてやる」と言わんばかりの生命の力に打たれた。
 観桜のためのチケット売り場の脇に、桜の開花状態を示すボードがあった。この日は「満開」だったが、その二つ三つ下の「落花しきり」という表示が新鮮だった。「花吹雪」という表現とは別なのかもしれない。大岡信氏に聞いてみたいが・・・・・・。あれほどの桜だ、しきりの落花はやがてふかふかの花筵(はなむしろ)を敷き広げるのだろう。
 滝桜もカメラに収めたが、粗悪なSDカードのせいですべて消滅した。滝桜をバックに草原で寝ている私の画像が、ミカさんから私のスマホに送られてきている。下の画像はパンフレットである。
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 滝桜を観ての帰途、「諸橋近代美術館」に立ち寄った。前日に開幕したばかりの企画展「ダリの美食学」を観賞するためであった。若い頃、絵描き修行のためにパリに留学したマヤ姐さんの父の意向もあったかもしれない。
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 「ダリ展」では著名な作品を観ることができた。軟体動物のよう時計で知られる「風景ー記憶の固執」に連なる作品も観た。至近距離まで近寄って絵を見る癖がある私は、ここでもダリの絵をそうして見た。そして「画家の母の肖像」など、毛髪1本で描いたかのような緻密な描写に驚愕した。ダリのデッサン力や技巧の才能は専門家から高く評価されていたものだ。<抽き出しのあるミロのヴィーナス>も<白鳥=象>の彫刻も見た。
 パリでシュールレアリズム運動に参加し、夢や変質狂的な幻想を絵画化・彫刻化し、アメリカに渡ってからは商業主義的なセンセーションを起こし、奇矯なパフォーマンスなどでも知られたダリの、多くの作品に出会えたことは幸運なことであった。マヤ姐さんへの<感謝しきり>である。
 帰宅してからハーバート・リードの『芸術の意味』(滝口修造訳/みすず書房/昭和41)を引っ張り出した。まさに<芸術の意味>を知りたかった半世紀前、東京新宿の書店で購った一冊だ。「彼(ダリ)はしばしば婦人靴を題材に使っている。精神分析家の著書に明るい人ならば、靴は夢に現れるといわれる性的象徴のもっともありふれたもののひとつであり、ダリの題材の大部分がこの種の象徴である」(同書)
さらに「マックス・エルンストがいったようにシュールレアリストの目的は現実と非現実、瞑想と行為がく交叉し、混合し、全生命を支配するような超現実性を創造することである」(同書)といった記述は、当時も理解ができなくて、おのれの無能を呪ったが、50年たっても理解は覚束ない。
 パンフレットの絵は「ガラとロブスターの肖像」(1934年頃)である。読み始めたばかりの『ダリー異質の愛』(アマンダ・リア著/北川重男訳/西村書店1993)に次のくだりがある。
『ダリは私(著者)のほっそりした身体に話題を戻した。「骨格が最も大切なんだ。」と彼は説明した。「なぜかと言えば、重要なのは構造で、死後残るのはそれだけだからだ」。彼がロブスターを好むのはこのためだった。人間と違って、ロブスターは外側に骨格を持ち、肉は内側にある』。ガラはダリの妻である。
 諸橋近代美術館では「コレクション展/サロン・ドートンヌを彩った巨匠たち」を見ることもできた。ボナール、ルオー、マティスから、ピカソ、ゴッホ、ルノワールなどなど。なかでも藤田嗣治の「シーソー」は印書深かった。 
 車の後部座席に腰を沈めてビールを飲み、チーズを口に運んでいるだけで、得がたい果報に預かった。
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 小児科医チャーリーさん(左)と皮膚科医ヨシユキさん(右)だ。チャーリーさんは中国新疆ウイグル自治区最西部パキスタンのギルギットをカタコルム山脈を横断して結ぶカラコルムハイウエイを通過してきた人だ。前にもこのブロブで紹介したことある。
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 村上市山辺里(さべり)地区のヤマガミさん(左)とお馴染みのカサブランカダンディーことオオタキさんだ。海外へ行っても美術館巡りを欠かさないオオタキさん。諸橋近代美術館へはもう行ったかな。
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 中学校の校長を終えて現在は教育長を務めるサトウさん(左)は、当地におけるトライアスロンの草分け的存在であった。「大滝舞踊研究所」の発表会も何度か見てもらったということで恐縮した。右は関川村で古民家カフェ「元麹屋」を営む、こちらもサトウさん。中央も同じサトウさんで3人は親族だと聞いた。
 
 卯月4月はこのようにして過ぎた。そして、5月は大型連休から始まった。
 2日夜、翌日開催の「SANPOKU魚祭り」参加のために、先月フクシマで世話になった土浦の今井さんが十日町市(新潟県)から古くからの知己であるヨシノブさんを伴ってやってきた。さらにヨシノブさんの友人ミキコさんが合流、またさらに農民歌人稲葉典子さん、フクシマへ同行したユウコさんも加わって楽しい飲み会になった。声高く、こうした場でも座をリードするのは今井さんである。残念だがこのときの画像も消滅した。
 深夜になって帰宅すると、新潟市から次女と、春から中学生になった孫、東京からは三女と孫3人が来ていた。孫たちが寝静まってから娘二人と、他愛のない話で明け方まで酒盛りが続いた。挙句は、今井さんとヨシノブさんのホテルへの迎えも、「魚祭り」への出発集合時間にも遅れる羽目になってしまった。集合時間に遅れてはならない、人を待たせてはならないということを固く戒めてきた私にとっては、不覚の至りで慙愧に耐えないことであった。
「魚祭り」は絶好の天候であった。海も穏やか。船上での漁師料理は、例年のようにエビやカニが満載とならなかった。時間のタイミングがずれたのかもしれない。野方海岸での<大宴会>は巨大な鯛の片側の身おろしをしたところまでは覚えているが、それからは記憶が曖昧だ。ムラヤマドクターから、私がギターを弾いている画像がスマホに届いていた。一連の画像には参加者30数人の集合画像もあった。最年少は生後3っ花月の私の孫だった。
 初回から参加し、バーベキューコンロの前でカキを焼いている姿が忘れられないヤマガさんは、昨年の「魚祭り」の直後、旅立った。それでも、妻のショウコさんや子どもたち、孫たちもこぞって参加した。愛犬クーも穏やかな潮の香りにごきげんだった。
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 海のない土浦からの初参加だった今井さん、常に穏やかな笑みを浮かべていた十日町町から参加のクワハラさん。酔っ払った私のもてなしの不手際をご寛恕ねがうばかりである。  
 魚を入手したらブイヤベ「スをつくろううと、調味料や香辛料も持参していたが手付かずのままだった。

「魚祭り」の翌日は娘たちの希望でBBQとなった。自宅前の駐車スペースに、子ども用に日除けテントを張り、知人3人も加わって、昼間から酒を飲み、ギターで歌い、馬鹿話に興じた。連休中であればこそ近所の目もさほど気にならないってことか。肉を焼きながら娘たちが軽口をたたく。
「お父さん、ミディアムにするのレアにするの?」
「その肉はよく焼いたほうがいいかな」
「そうじゃなくて、お父さんの火葬のこと。ちゃんと火葬場の人にお願いしないといけないでしょ」
「そうか、でも焼き加減をオーダーできるのかなあ」
「できるでしょ。あまりよく焼くと燃料代が加算されて火葬料金が高くなるかもよ。エンディングノートに書いておいてよ」
 こんな会話で笑いあう父と娘たちである。エンディングノートは何年も前に長女から届けられている。  
 こうして、私も世間並みの大型連休を享受したが、気持ちと体調を平常に戻すためにしばしの時間を必要とした。
  
 徒然草に「友とするに悪き者、七つあり」として「やんごとなき人、若き人、病なく、身強(みつよき)人、酒を好む人、たけく勇(いさ)める、兵(つわもの)、虚言(そらごと)する人、欲深き人」をあげている。よき友としては「物をくれる友、医者、智恵のある友」と三つをあげている(第百十七段)
 異論や見解の差異をあげつらう気はないが「酒を好む」のは程度問題ということだろう。「やんごとなき人」は「身分が高く重んずべき人」で、そんな人が友になる気遣いはない。「物をくれる」のをよい友というのも、いささかひっかかる。なによりも「友」の定義が曖昧だ。知人ではあるが友ではなく、こちらが友だと思っていても相手はこちらをただの知人だとしか見ていない、ということはありそうだ。やたらに物をくれる人は要注意という時代だ。
 徒然草を開いてチラッと目をずらしたら前段の第百十六段が目に留まった。「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」。文字を知っていても読めない名前が多い。今に始まったことではなかったのか。
気になったのは次のくだりだ。「何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ」」。すなわち「何事についても、珍奇なことを強いて探し、通説と変わった見解を知りたがるのは、学才の乏しい人の必ずやることであるという」。胸に突き刺さる指摘である。

 先に大岡信を引いて「万葉集」のできた奈良時代には「花」といえば「梅」をさすとした。だが、「万葉集」にも桜を詠んだ歌はけっこうある。
 桜花咲きかも散ると見るまでに誰かも此処に見えて散り行く(3129)
 此処(ここ)における人々の離合集散の比喩だとされる。また、福島富岡町の「夜の森桜並木」と、いまだ立ち入り禁止区域の民家の庭先に見た<雉>。その情景に重なる歌もあった。
 春雉(きぎし)鳴く高円(たかまど)の辺(へ)に桜花散りて流らふ見む人もがな(1866)
 雉は春、妻を求めて鳴く。桜が散り流れる様子を見るような人も欲しいことだ、と詠う。
 新緑が日に映えてまぶしい。大好きな季節だ。

# by yoyotei | 2017-05-09 04:55  

江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ

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 20年前にオーストラリア人アンドリューと結婚してキャンベラで新生活を始めたチカさん(右)が一時帰国をした。チカさんの実家は300年前に芭蕉が『奥の細道』の道中で宿泊した「井筒屋」という宿屋である。数年前まで喫茶営業や、一日一組限定で客を泊めていたが、現在は住宅だけの町屋「仕舞屋(しもたや)」になっていると思っていたら、外観を一新した食事処になっていた。開催中の「町屋の人形様巡り」期間だけの営業かもしれない。
 この日はチカさんの帰国に合わせて学生時代の友人二人が村上にやってきた。マミさん(左)は福岡から、ナリコさん(中)は富山から。3人は15年ぶりの再会だという。
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 2日後、かつて毎週のように集まっていたチカさんの村上の友人も再会を喜び合った。イズミさん(左)とセイキさん(右)さんだ。日本食のラーメンが2000円前後もするというオーストラリアの物価事情など、久しぶりの再会に話は尽きない。
 イズミさんと私は、少なくとも年に一度は顔をあわせる。彼女は「MURAKAMI・SASAGAWANAGARE国際トライアスロン大会」のメインMCとして欠かせない存在なのだ。スタートのスイム会場でオープニングセレモニーから、緊迫するスタート実況を、昨年は一人で担当した。私は数年前からフィニッシュ地点での実況だけにしている。
 かつては英語塾で子どもたちに英語を教えていたイズムさん。私の孫も二人が彼女の生徒だった。その一人は大学で英語を専攻し、また一人孫娘は高校を卒業するとアメリカへ渡って行った。
 セイキさんの妻の叔父と私は村上へ来てすぐに親しくなった。隣村に実家があった妻とすでに一緒に暮らしていた私は、当地に住むことになって、親戚への<顔見世>をしないわけにはいかなくなった。設けた席は妻の実家。囲炉裏を囲んで鍋をつつくという貧しい異例の披露宴だった。時は正月元旦、親戚衆は紋付羽織の正装で、祝儀袋に丁重な祝辞。普段着の私は身の置き所もなく恐縮して頭を下げるだけだった。
 そんな中、セイキさんの妻の叔父、サトシさんが顔を出してくれた。彼は大きな風呂敷包み持参していた。「伸ちゃん、これを」といわれて解(ほど)いた包みの中では、大きく鮮やかな鯛が緑の松葉の上で踊っていた。生きた鯛ではない。祝いの生菓子だ。当時、サトシさんの家は和菓子の製造を家業としていたのだ。しかし、私はその生菓子をサトシさんに頼んでいたのだろうか。代金を払った確かな記憶はない。なにしろ金はなかった。見事な生菓子は親戚衆への唯一の引き出物となった。
 クリスチャンだったサトシさんは教会で出会った、少し障害のある女性と結婚した。子どもはつくらないことにしている、と聞いたことがあった。セッターという猟犬を飼っていて狩猟もする、酒は豪快に飲む、教会に通う、意気に感じたことはドン!と引き受ける。上手な物の言い方はできないが、心根(こころね)は深く優しい。こんな人と出会い、私の村上での生活は始まったのだった。
 サトシさんが天に召されて久しい。妻はサトシさんの没後、実家に戻ったと、この夜セイキさんから聞いた。
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介護施設で働くミカさん(左)マロンさん(中)サトコさん(右)の3人。ミカさんは夭夭亭における<おもてなしの友好親善大使>と私が勝手に任命している。マロンさんは「大滝舞踊研究所」の舞台仲間だ。1昨年の発表会の演目「居場所」で共演した。彼女の役名が「マロンおばさん」だったのでマロンさんとする。右のサトコさんはスタジオミュージシャン大滝秀則さんが、先ごろリリースしたCDを購入してくれた。大滝さんの同期生らしい。
 マロンさんにはトライアスロンのMCをお願いしてみた。彼女は演劇もするし、読み聞かせもしている。MCフリートークの経験的ノウハウは私が付きっきりで伝授する。確約はしてもらっていないがおおいに期待している。本当に私は急激な視力低下で難儀をしているのだ。
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 産婦人科医セリさんが結婚のために村上を離れた。この夜、紅一点の彼女を囲んで10人ほどの医師たちが送別の酒盃を傾けた。圧倒的に男性が多い総合病院の医師たちの中で、女性らしい優美な存在感と、専門職としての毅然とした存在感を絶妙なバランスで並存させていた。いつか母になったセリさんに会ってみたいと思う。
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 商工会議所で働くジュンちゃんが、県内の国立大学に通う次男ナオヤさんとカウンターに座った。幼いころに「川崎病」を煩い、母親が心配していたのを覚えている。その子どもが父親とウイスキーのグラスを交わすまでに成長した。親に対する丁寧な言葉遣い、さわやかに謙虚に自分を語る穏やかな口調。どうしたらこんな青年が育つのか、その秘訣をたずねたいほどだ。
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 ジュンちゃんは3年前の3月にも、横浜の裁判所に就職が決まった長男ユウキさんと、同じようにカウンターに座った(上)。父の笑顔は3年前も現在も変わらない。
 子どもに向き合い、子どもと一緒に将来を展望する。そんな親らしいこととはほとんどしないまま、私は7人もの孫を持つ身になった。「ウ~ム」である。

    《絹さんの短歌通信》

 十六で国を離れて八年を異国で学びし息子は二十四
 窓のなき四畳の下宿住人はインド、中国、韓国、パキスタン
 学業を終えミュージシャンになるという息子と歩くロンドンの街
 黒人と日本人で組むバンドその名はザ・ユナイテッド・キングダム
 滞在は大丈夫なのか金はあるか心残してヒースローを去る

 絹さんの長男は日本の高校でうまくいかず、2年のときにオーストラリアへ脱出。その後イギリスのマンチェスター大学、ロンドン大学大学院へ進み、昨年12月に卒業した。短歌は卒業式に出席した折に詠まれた。
 子どもが持つ潜在能力や適性、親のあり方や家庭環境などはけっして一様ではない。世界を広げ知友の和を輪を広げて成長していく子ども。ときとして親の理解の外へ踏み出していくのが子どもたちだ。それでも親子の関係は途切れない。
 それにしても昨年12月は夫の父の葬儀が大阪であり、同じ月に息子の卒業式でロンドンに飛ぶ。母の介護もある。4月には<家>のことで、次男をともなって村上に来る予定もある。忙しく駆け回る絹さんだが、<短歌通信>は来信がある限り続けるつもりだ。一人の女性の、展開されていく人生を見つめていきたい。
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 手前左から、エノキーダ、ミヤー、トミー、ヤマガーミ、セキシャン、ガーリーチエコ。保健所みなさんだがニックネームには聞き取りのミスがあるかも知れない。
 数年前の冬、大阪での甥の結婚式に出席した。帰宅後、保健所で行われた飲食業者や食品製造業者を対象にした講習会に参加した。主要な講習内容は「ノロウイルス対応」だった。しかし、私自身がその時点で「ノロ」に感染していた。大阪からの帰途、東京の長女宅に立ち寄った際に感染したのだった。「ノロ」感染で頻繁にトイレに駆け込みながら受けた「ノロ対応講習」だった。
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 ドキュメンタリー映画『標的の村』(監督・三上知恵/制作・著作/琉球朝日放送)を見た。「オスプレイ」着陸帯の建設に反対して座り込んだ東村・高江の住民を、国は「通行妨害」で訴えた。反対運動を萎縮させる目的だ。わが物顔で飛び回る米軍のヘリ。自分たちは「標的」なのかと憤る住民たち。10万人が結集した県民大会の直後、日本政府は電話一本で「オスプレイ」配備を通達。ついに、沖縄の怒りが爆発した。
 2012年9月29日、新型輸送機「オスプレイ」の強行配備前夜。台風17号の暴風雨の中、人々はアメリカ軍普天間基地ゲート前に身を投げ出し、車を並べ、22時間にわったってこれを完全封鎖した。映画は、前代未聞のこの出来事の一部始終の記録だ。(上映パンフレットから)

 この国には<犠牲のシステム>がある、という研究者がいる。どのような<大義>があろうとも、それによってだれかが犠牲になることがあってはならない。犠牲なくしてなりたたない<大義>なら、それは<大義>そのものに間違いがあるのではないか。基地の前でスクラムを組み、車の下に身を横たえて抵抗する人たち。彼らを力ずくで排除する警察。抵抗する人たちは<大義>の前には余計者で邪魔者なのか。騒乱の基地ゲート前、並べた車の中で「安里屋ユンタ」を歌い続ける女性。爆発した怒りは、悲しみとなって深く深く沈潜していく。絶え間のない怒りと悲しみは<怨念の鬼>を生んでも不思議ではない。しかし、沖縄の人は飲んで歌って踊る。そう、内なる<鬼>をなだめるかのように飲んで歌って、踊るのだ。
 流れる涙の中で上映が終わり、明るくなった会場に女子高生の一団がいた。「どうでした?」と声をかけると、「衝撃でした」と一人が応えてくれた。「穏やかに暮らさせてあげたいよね」と、私は涙声になった。
 映画の中で、抵抗し闘う親たちを見て育った11歳の少女が言う。「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく」。状況は大きく違うが、親子の連関は濃密だ。
 
 客の来ない夜、この映画の上映を主催した一人のノリコさんと飲みながら話した。多岐にわたった話の中で稲葉範子さんの歌集『綿雪』所収の一首、「ささくれし手もてわが肌撫づ田植えせし夜を遠蛙鳴く」が話題になった。秀逸だとノリコさんは高く評価し、私も異議なく同調した。そして、ノリコさんは与謝野晶子を連想し、私は結句の「遠蛙鳴く」から想起した短歌があった。斉藤茂吉『死にたまふ母』の「死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(てん)にきこゆる」の一首だ。蛙(かはづ)の声は、夫婦の情愛を、生死の別れ際(ぎわ)にいる母と子を無窮の世界へ誘うようである。

<短歌通信>の絹さんの母、八重子の刀自(とじ・とうじ)の大学の卒業論文は斉藤茂吉だったと、『綿雪』の稲葉範子さんが教えてくれた。 
 斉藤茂吉といえば、私にとっては「人麻呂」であり、終焉の地「鴨山」である。過去のブログ「あの、ちょっと一杯やりませんか」(2014年8月)からそれに関する部分を再掲する。
『小児科医の姓は水流(つる)さんという。なんとも珍しい。本人は栃木出身だが、九州方面にルーツがあるらしい。後日、『難読姓氏辞典』(大野史朗・藤田豊編/東京堂出版 昭和52年)で見つけることができた。その隣には「水流丸(つるまる)」という姓も紹介されてあった。
 この姓の由来を考えてみた。水が流れて<つるつる>になるという連想から思い浮かんだのは、高校時代の夏、学友たちと訪れたことのある、島根県中部地方を流れる江川の支流濁川にある断魚渓だ。流紋岩の谷を侵食してできた渓谷。激しい水の流れによって削られた川床は<つるつる>になっている。同行していた女子たちの視線もかまわずパンツ一枚になった男たちは、天然の滑り台よろしく水の流れに押されて何度も何度も滑り下った。その時にいた男たちの何人かは、すでにこの世にいない。
 その断魚渓のある濁川が古くは石川と呼ばれていたとして、万葉集の柿本人麻呂の妻・依羅娘子(よさみのをとめ)が詠んだ、「今日今日とわが待つ君は石川の貝(谷)に交じりてありといはずやも」の和歌の谷(かい)は、ここ断魚渓ではないかとの説があるという。
   (『人麻呂的恋愛指南-万葉・恋の舞台-石見をめぐる旅』発行/石見観光振興協議会)
 この、石川断魚渓説は私もどこかで読んだように思い、確認しようと斉藤茂吉の『鴨山考』『鴨山考補注』などにあたったが見つけることができない。だが、人麻呂の終焉地を探索する茂吉の『備後石見紀行』から、私は思いがけない<旅>をすることになった。
「自動車は乙原(おんばら)に着いた。此処はやや広い所を占め生活が何となく活発で、小学校児童が自動車に寄って来て物言ふのでも何となく賑やかである。自動車から見える向かひ家に、諸薬請売業、安産一粒丸などと言ふ看板が懸かってゐて、これも一つの旅行気分といふことが出来る」(『備後石見紀行』)
 この時の茂吉の紀行は昭和10年4月である。私は昭和30年代後半の中学高校の6年間を、この乙原の母方の祖母が住む家で暮らした。粗末で小さな家だった。
 さらに、『鴨山考補注』にはこんな個所もある。
「そして写真を撮った。一は川本町の琴平山から対岸の川下村谷戸方面を撮った。ここも山が重畳して山峡の感じである。二は川本町の農蚕学校の方面を斜に対岸を撮った。ここにも相当に高い山がある」
 この「農蚕学校」が昭和13年に「農林学校」となって私の叔父の母校、さらに昭和24年に島根県立川本高等学校となる。夏の一日、断魚渓に遊んだ学友たちの、そして私の母校である。
 長くなるが、『備後石見紀行』をもう少し引用したい。
 昭和10年4月19日、午前6時50分の川本行乗合自動車で浜原を出発した茂吉一行は、粕淵を過ぎ、午前7時半に吾郷本郷に着いた。「此処で自動車が江ノ川を舟に乗って渡る」とある。吾郷には私が卒業した中学校があったが、すでに廃校となった。しかし、かつて自動車を乗せるほどの渡し舟があったことは知らなかった。
「其処を渡れば、今度は自動車が江ノ川の左岸に沿うて走る。江ノ川を主として、風光がなかなか佳く、若しこの三江線の鉄道が備後の三次まで完成したなら、この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」
 はたして茂吉の予見は的中したのだろうか。   
 三江線は1978年(昭和53)に江津(島根県)・三次(広島県)間の108、1kmで全線直通運転が始まった。しかし、豪雨災害による運休もたびたび。名だたる過疎路線で廃止論議の途絶えることがない。2013年(平成25)8月の島根西部を襲った豪雨被害では、またもや寸断。再開が危ぶまれていたが、大規模場復旧工事が終わり、先月、およそ1年ぶりに全線運行再開となった。1日の乗降客が300人程度で日本一ともいわれる超過疎路線。運行経費、被災からの復興費用などを考えると、日本一の<贅沢路線>なのだそうである。私はこの三江線で3年間高校に通った。
 さて、再び『備後石見紀行』に戻る。乙原を経由した茂吉一行は午前8時半に川本町に着く。そこで小学校長に会った後、「旭旅館で午食を済まし、大急ぎで零時五十一分の汽車で発った」とある。私の高校時代にもこの旭旅館はあった。すでに他界した友人とのつながりから、この旅館に出入りするようになり、女将には本当によくしてもらった。この女将に娘が二人いたことも記しておこう。
 小児科医の水流(つる)さんの姓をきっかけに、はからずも、歌人斉藤茂吉をガイドに思い出の地を旅することになった。
 江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ(茂吉)』

 この4月は国鉄が分割、民営化されて30年になった。ローカル線はなくならないとした国の約束はどこへやら赤字路線の切り捨てが続いている。そして、昨年9月、この三江線をJR西日本は来年4月1日をもって廃止、との届出書を国交省に提出した。以来、鉄道ファンなど観光客が増え、土日祝日ともなれば1両から2両編成になった車両が満席だという。全線で3つしかない有人駅の一つ石見川本駅では、反対車両の待ち合わせで90分もの停車となる。地元の観光協会や島根中央高校の生徒らが「街中ぶらり90分案内」のビラ配りなどでもてなしている。島根中央高校は統廃合で新設された私の母校である。
「この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」と茂吉に言わしめた三江線。存続への道はもうないのだろうか。

 座間宮ガレイさんの講演会がおこなわれ、講演後、主催者たちとの懇親会があった。座間宮さんは画像にあるように発行する『日本選挙新聞』で国内外の選挙の展望や、詳細な資料による分析などをしている。最新号では宇都宮健児氏のロングインタビューが目を引いた。「ポピュリズムを批判するだけでは、現実に目を向けられないですよね」という宇都宮氏の発言による見出しが説得力を持っている。
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 30代後半の若い座間宮ガレイさん。ペンネームは<ざまあみやあがれ>のもじりだ。
 
 3月中にと思っていブログのアップが4月にずれこんだ。そして今日は4月1日。忘れられない4月1日が私にはある。
 50年前、箱根の老舗のホテル旅館で働いていた私は、その日、同僚の一人にいたずらを思いついた。
「あんたのおふくろさんがフロントロビーに来てるってよ」
「え?」
 血相を変えた彼はすっ飛んで行った。
 ほどなく戻ってきた彼は泣き顔になっていた。そして、殴りかかろうとして私を追いかけ回した。青森の山村から出てきて、ラーメン屋を開くのが夢だと語っていた彼。「エイプリルフールだよ」との弁解も彼には通用しなかった。ましてや「ザマアミヤガレ!」とも言えない。残酷で罪深い私の<嘘>だった。親を冗談や嘘話に持ち出していけない。

# by yoyotei | 2017-04-01 18:32  

年常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ

 年賀状を出さなくなって久しいが、それでも毎年、何通かは頂戴する。そんな中に封書で届く年賀の挨拶状がある。自宅の隣、故本間桂・笑子夫妻の次男でカナダ在住のシノブさんからのものだ。書かれてある今年の計画には、姪の結婚式出席、妻の母の米寿の祝い、娘の30歳と自身の65歳の合同誕生会などとあり、8月には母の七回忌で村上を訪れると記されてあった。もう七回忌とは・・・・・。今年もさらに早くなった時の流れに、ため息交じりの感慨に沈む。
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 寒さに閉じ込められて鬱々している私は、少し前に<春になったらしたいこと>をまとめてみた。「巣箱を取り付ける」「スマホを購入する」「神楽面をつくる」「燻製をつくる」「側溝の蓋をつくる」などなど。
 昨年の秋、紐が外れて落下した巣箱は、数日前にたまたま通りかかった近所の知人に頼んで取り付けてもらった。高所に弱い私とちがって、知人は理想的な高さに設置してくれた。1昨年巣箱にスズメの姿を確認したのは6月だった。その時期が待ち遠しい。
 スマホは春になる前に購入した。こうした<モノ>にもきわめて弱い私はまったく使いこなせないでいる。店に来たヨシマサさんに<ライン>をつないでもらったが、発信どころか受信があるとドギマギする。つながった人に無作法をしていないかも気になっている。
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 神楽面(かぐらめん)は石見神楽で使われる面で、基本的な作り方は、石見神楽が盛んな浜田市の小学校時代に体験している。型をつくる粘土は30年も前に益子焼の土を30キロばかり購入したものがある。その時には、いずれ窯(かま)でも手に入れて焼き物をと思っていたが、高価な窯には手が届かないでいる。
 ここのところ、島根県の同窓生から送られたりした石見神楽のDVDを見る度に「鬼」の面に魅せられている。おどろおどろしく、ちょっと滑稽で哀しい「鬼」。子どもの頃から、「鬼」は私にとって「舞(まい)」のヒーローだった。(私たちは石見神楽を舞と言っていた)。
 面といえば、中国の伝統芸に「変面(へんめん)」というのがある。同名の中国映画『変面』で知ったが、そのステージパフォーマンスが新潟市で行われた「春節祭」で披露されたようだ。動画サイトでも見ることができる。一瞬にして隈取をした顔が何度も変わる、その仕掛けを知りたいと思う。石見神楽でも<面が変わる>演出があって、こちらも興味深い。
 燻製は酒の肴として常備しておきたい保存食品だが、冷蔵庫も冷凍庫もあり、真空包装も家庭でできる現在では保存性よりも、その風味が魅力だ。燻(いぶ)された色もいい。先日、手作りしたチキンハムを、古い鍋を使って燻してみた。出来は悪くかったようだ。
 側溝の蓋は昨秋にもつくったが、なお2つ3つ欲しい。昨今はホームセンターで「ドライコンクリート」や「ドライモルタル」が売られている。砂利も砂も混入済みで水を加えて練ればいいだけ。型をつくって流し込み、数日おいて型をはずす。ドロドロのものが固まって形になることには、ある種の達成感がある。スイーツづくりでも同様の面白さがある。
 スイーツといえば、土浦の今井さんから「焼き芋」が送られてきた。男から男へ焼き芋を送るというのも妙な感じだが、届いた焼き芋は滲み出した蜜で皮が濡れて光っていた。口に入れて甘さと旨さに仰天した。昔、食べたものとは別のものだ。感動の余波で、自宅にあった3種類のサツマイモで「焼き芋スイーツ」をつくった。芋を蒸(ふ)かしてつぶし、三温糖と生クリーム入れて捏(こ)ね、成型した表に卵白と蜂蜜を混ぜたものを塗ってオーブンで焼く。出来たものを、隣のカラオケスナック「レガート」のアヤコママに試食してもらった。「おいし~い!」との評価だった。シナモンを振りかけてもいいだろう。
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 2月15日、カールが旅立った。旅立ちの直前、カールは「今日は休みだよ」という飼い主のユウコさんにかまわず、リードを引いて夭夭亭の前まで来たという。通いなれた道だ。「黒曜石のような瞳」「ちょっとおしゃまなパリジェンヌ」と、かつて私がエッセイで紹介したこともあったカール。ユウコさんの隣にちょこんと座り、「かわいい!」の声とともに女性客に抱き上げられることもしばしばだった。
「カール行くよ」と、少し酔ったユウコさんが声をかけるとスッと体を起こし、カウンターの高い椅子から下ろしてもらうと尻尾を振ってドアの前で待つ。深夜の道をユラユラ歩くユウコさんを小さなカールがしっかりした足取りで暗い道を遠くなる。そんな光景も、もう見ることはない。おしゃれに着ていた衣服やリード紐は、荼毘(だび)の煙といっしょに天に昇ったか。それとも思い出として残されたか。小さな骨になったカール。ユウコさんの寂しさはしばらく続く。
 そんなユウコさんを誘ってショートトリップでもしようかということになった。友人でユコさんと登山仲間でもあるジョージさんも乗り気だ。もちろん、酒を飲みながらの話だったが、ユウコさんは早速パスポートの申請をしてきた。春とはいわないが、今年の計画のひとつに上げておこう。
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「冬の201(ふれあい)音楽祭」に参加した女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」の打ち上げ。受験生のように歌詞を書いた紙を家中に貼って覚えたという、英語の歌も聞かせてもらった。
「テクニックを磨かなければ本当の楽しさは味わえない」。グループの指導をしている村上出身のスタジオ・ミュージシャン大滝秀則さんは言う。その彼が、このほど「ANNYA BAND」を率いてニューアルバム『THE BEST』をリリースした。
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 全作品、大滝秀則さんの作詞作曲。ヴォーカル・キーボードを担当して、総合プロデュースをつとめた。演奏メンバーは高中正義バンドのギタリスト兼エンジニアの「稲葉ナルヒ」がギターとエンジニア。名プロデューサーの「藤谷一郎」がベース。ドラムスに弟の和製ポーカロ「大滝敏則と、渾身のロックアルバムだ。
 新潟県ではよく知られているテレビCM「♪大観荘~瀬波の湯~♪」は大滝秀則さんの作品である。
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 絹さんから「歌」が届いた。

 如何にして死ねばいいのかわからぬと嘆く母抱きわれもまた泣く

 余りにも重き病に苛まれ母の魂は何処を彷徨(さまよ)う

 十六の子を戦場に送り出し死なせし人の歌集賜る
           <その歌集は「この子らに戦いあるな」詠み人米田ひさ>
 一夜にて歌集読みたる母の眼(まなこ)別人のごとく輝きし朝

 母とわれ声に出し読む一首ごとが滋養となりて身に浸みゆけり

 歌を詠みて生き来し人の生きる術は歌のほかなし歌詠めずとも

 『まひる野』にわたしの歌が載りました。いっしょに読もうね、お母さん

 絹さんは母と同じ『まひる野』の同人となっている。手紙に「高木さんは私の気持ちを汲んでくださるすばらしい鑑賞者なので気をよくして送ります」とあったが、私に短歌の素養はまったくない。絹さんや両親を知っていることで、その歌にいくらか寄り添うことができるのだと思っている。むしろ、絹さんが歌に詠む事象や印象、さらには心の風景が<滋養>となって私の心を潤してくれる。
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 狭山のマスダさんが学生時代の友人とともに来店した。小関のアキちゃん(上左)と大塚さん(下左)だ。二人とも初対面とは思えないフレンドリーな人柄。アキちゃんは笑顔を大塚さんはギターの音を振りまいてくれた。(上右)は夭夭亭の親善おもてなし大使ミカさん。(下右)がマスダさんだ。初来店から5年にもなる。
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 この夜はしばらく途絶えていた週末常連組が久々に集まった。ヒデさん、マヤ姐(ねえ)、ムラタ兄、イシグリ大工、そしてミカさん。彼らもマスダさんたちと同じテーブルを囲んだ。
 人更ニ少(ワカ)キコト無シ時須(スベカ)ラク惜シムベシ、
 時常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ
                   (小野篁『和漢朗詠集』から「春光細賦」の一節)
 「少年期は二度と来ないから、人は寸陰を惜しんでつとめなければならない。年に春は二度と巡ってこないから酒盃をあげて思い切り楽しみを尽くそうではないか。いざ、一献、といった勧盃歌である」
                   (『ことばの季節』山本健吉/文藝春秋)
 巡ってこないのは年に二度の春だけではない。人生も二度はない。天に昇ったアメリカ人マークもかつてはこのメンバーにいた。
よく知られている漢詩「勧酒」(于武陵)は井伏鱒二の訳でさらに著名になった。
 勧君金屈巵/満酌不須辞/花発多風雨/人生足別離         
コノサカヅキヲ受ケテクレ/ ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/サヨナラ」ダケガ人生ダ
 色々あったし色々あるさ。飲んで語れば、それも君だけではない。まあまあ。
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 ムラタ兄も、先月愛犬の旅立ちを見送った。このところ猫談義に花が咲くマヤ姐とミカさん。いつの間にか、二人とも並々ならない愛猫家になっていた。ワインボトルのラベルはマヤ猫のオリジナルラベルだ。
 今日、2千万匹近い犬や猫が人生のパートナーになっているという。一方で、いじめられ、捨てられて引き取り手もなく殺処分された犬猫は15年度だけで全国で9万匹、新潟県で1千匹以上。マヤ姐はそうした殺処分から1匹でも救いたいと、私にも熱心に飼育を働きかける。
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 新潟市で行列ができるパン屋があるという。マヤ姐がその店のパンを買ってきてくれた。フランスパンにさまざまな具をトッピングしたり挟んだりしたもので、具には辛子明太子や野沢菜漬などもある。朝食にはホームメイドのパンを欠かさない長女の家で、前夜食べたきんぴら牛蒡がパンに乗っかって出てきたことがあった。
 ベトナムではフランスパンにレバーペーストや漬物を挟んだパン・ミー・ティットが食べられている。パンの持つ多様な食材との協調性・融和性は今更ながらだが驚かされる。思いつくままに上げれば、骨を抜いたサンマのトマト煮物、ニラの卵とじ、新たまねぎとスモークサーモンのドレッシング和え、ほうれん草とベーコン炒め、刻みネギを多めに入れた納豆・・・・・・。つまり何でもいい。

 近くの割烹「千渡里(ちどり)」で腹子丼を食べた人が、その旨さに涙が出たと述懐した。鮭の卵をこの地では<腹子(はらこ)>と称するが、これの醤油漬を熱々のご飯にたっぷり乗せて食す。当地では子どもの頃からのソウルフードといってよい。その人は生まれたこの地に馴染めず関東地方での生活が長いが、老いた親の元へ様子を伺いに時々は帰ってくる。どこから沸いてくる涙なのか。
 送りきし土佐の干魚(ひうお)を焼くときは目も潤むがに海を恋しむ
                            吉井勇

 今朝も鳴き交わしながら空を渡る白鳥の群れを見た。北帰行(ほっきこう)だ。生命(いのち)の営み。季節の巡り。彷徨(さまよ)った人の心の落ち着く先・・・・・・・。水が温んできた。
             
 

# by yoyotei | 2017-03-06 19:54  

内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い・・・・・

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 1月2日、近所に住む一人暮らしの知人たちと新年を祝った。
 この日の夕方までホテルの厨房で働いた私はゆったりと温泉に浸かってから、おせち料理の余りなどを貰って帰宅。知人たちを自宅に呼び寄せた。妻は仕事、子や孫たちも来ない年明けだったが、「おめでとう!」と言って酌み交わす酒はうまい。
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 総合法務事務所の新年会。予定していた助っ人が来れなくなり、みなさんにセルフ・サービスを強いることになった。紅一点のルミさんには皿洗いまでしてもらった。
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 新しい年の抱負だろうか。二人はしばらくの間、身振りを交えながら笑顔で語り合っていた。上掲の法務事務所の若いスタッフである。 
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「生活と健康を守る会」の新年会は約30人が参加して、市の保養施設を会場に今年もおこなわれた。ゲームに興じ、私のギター伴奏で歌い、カラオケで盛り上がった。
 年明け早々に厚生労働省は昨年10月時点の生活保護状況を発表。全国の生活保護受給世帯数は前月より964世帯増の163万7866世帯で3ヵ月連続で過去最多を更新した。
 新潟県内の受給世帯は前月比19世帯増の1万6088世帯で、3ヵ月連続の増加となった。受給者数は29人増の2万1060人。世帯別では65歳以上の高齢者世帯が12世帯増の7342世帯で全受給者世帯の45,6%を占めている。その多くが1人世帯だ。私が所属する「会」でも事情はそれぞれだが、1人暮らしの高齢者会員が圧倒的に多い。
 生活を守るために、くらしに役立つ制度の活用や、改善と新設を進めるなどの活動をおこなっている「生活と健康を守る会」。現在、全国連合会(全生連)は<いのちを守る、戦争から貧困から>の総がかりキャンペーンを展開中だ。 

 東京に住む絹さんから便りが届き、夫の父の葬儀で大阪へ行ってきたことが記されてあった。絹さんは私が私淑し、店名を付けてもらった故八木三男先生の一人娘。母を介護しながら<自費出版・編集工房>に携わり、社会学的な研究やアプローチをおこなっている。
 便りには「義父は中卒で徳之島から大阪へ夫婦で出てきて、沖縄や奄美諸島出身者への差別が強い中、トラック運転手として働いて働いて、3人の男の子を大学に行かせました。そのうち長男の私の夫と次男は大学教員となりました。苦労の末、18年前に脳梗塞で倒れ、後遺症の痛みに耐えながら闘病してきましたが、ついに帰らぬ人となりました」とあり、数首の短歌が添えてあった。

 慟哭の義母(はは)の叫びよ義父に届けこの人を置きどこへ行きしや
 泣き泣きて涙かれても泣く義母に人を愛する生き方をみる
 
 
 義父の臨終と慟哭の義母に心を寄せる絹さんの真情に、私は深く胸をえぐられた。夫婦で歩いた歳月。義母の慟哭はそこへ繋がる。
 今、絹さんの介護に支えられてリハビリに励む母八重子の刀自は、数年前に夫の言葉を引いて絹さんを詠んでいる。
  
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」  
                     (八木八重子歌集『出でませ子』)
 
 絹さんの便りと歌から、すぐに思い浮かんだのはこの一首だった。そして、30数年前に沖縄上空から見た、島々を抱くように取り囲むコバルト色の海だった。島々の中には徳之島もあったか。

 トラックで走りて三人の子を育て学を与うるが父の夢なり
 
 そのために「働いて働いて」と語句を畳んだ絹さん。<吹き付ける疾風の中>を生きてきた義父への思いが胸を締めつける。85歳の、故郷・徳之島へ帰る旅立ちだった。
 
 三線(さんしん)の島唄の節に見送られ御霊よ美しき海へと帰れ
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(セロジネ)
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 土浦の今井さんが東北大震災で被害を受けた岩手に行き、酒田からの経由で店に立ち寄ってくれた。1月は八木三男先生を偲ぶ蝋梅忌。だが、前記した義父の葬儀のことなどから話題は絹さんが中心だった。今回の旅には歌集『出でませ子』を携行していた今井さん。諳(そら)んじていた1首は私と同じだった。
 
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」
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 高校の同窓生に依頼していた、ふるさとの秋の伝統行事<しゃぎり>のDVDが届いた。
 中学生のころ、私も同じような装束をして参加していたのだ。何通りもある締め太鼓の撥(ばち)捌きは、半世紀以上の時間を隔てても覚えていた。隊列が移動する村の家並みにも目を凝らしたが、こちらは時の流れを痛感するほかなかった。<大祭>などという大規模なものではないが、祭衣装の幼児に付き添う若い母親。巧みな横笛で囃子を導く村人。見守る村人たち。<しゃぎり>が島根県石見地方のどの辺りでおこなわれているかは知らないが、離れて暮らすものにとっては、存続されていることに感謝の念がこみ上げてくる。軽トラックに鎮座する御輿(みこし)には思わず笑った。
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 年末年始をインドで過ごしたとマサエさんから連絡をもらった。マサエさんとは10年ほど前にニューデリーのカフェで出会ったことをきっかけに、村上にも何度か来るなど、付き合いが続いている。世界一周の女ひとり旅をやりとげるなど、バックパッカーの達人だ。そのマサエさんもやはり<インド通い>がやめられない。
 最初に出会ったサダルストリートの<ゴールデンカフェ>は健在。種々の商店がひしめき、牛がたむろする賑わう界隈もそのままだったという。聖地ヴァラナシ(ベナレス)では早朝から、巡礼者や観光客が行き交う通りを清掃する集団(クリーン部隊)がいたことが目に付いた変化だったという。<汚い>のもインド好きには魅力のひとつだったが・・・・。
(画像は1993年祭りパレードの一コマ・ニューデリー)
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(1997年バラナシ・ポンデチェリーのゲストハウス、列車内など)
26年前の秋、旅に出た。行き先はインド。どのような磁力に引き寄せられたのか、43歳のやや遅めのバックパッカーデビューだった。帰国後、その体験を本としてまとめ、書名を『朝焼けのガンガー』とした。著述にあたって『インド入門』(東京大学出版会1977)を参照した。著・編者は辛島昇東京大学教授(当時)。旅の印象だけにとどまっていたインドが、この本によって多面的なアプローチの対象として立ち上がる端緒となった貴重な一冊だった。
 10年後、放送大学(文部科学省設置の通信制大学)の入学案内に辛島教授の名前を見つけた。講義は「南アジアの歴史と文化」。アンテナを掲げ、インドとあればさまざまなものに触手を伸ばしていた当時の私は飛びつくようにして入学した。
 衛星放送のテレビやラジオ、インターネットを通じて学ぶ放送大学だが、画面からも伝わる辛島教授の風貌と人柄、講義の内容に強くひきつけられた。新しい講義「南アジアの文化を学ぶ」も受講し、夫人辛島貴子氏の著書「私たちのインド」も、インド社会で暮らす日本人の戸惑いや発見に、旅だけでは得られないインドを知る手がかりになった。インドへの旅を続ける中で、満を持して臨んだ単位認定試験は、しかし厳しいものだった。「教養学部・人間の探求」を専攻して6年間在籍、所定の単位を修得して卒業したのが2006年(平成18)、59歳だった。
 その辛島昇東京大学名誉教授・大正大学名誉教授が、2015年11月26日に逝去されていたことを「日印協会」のホームページで知った。死因は急性骨髄性白血病、享年82歳。喪主は妻の貴子さんとあった。
『インド入門』が手元にないので記憶に頼るが、その<あとがき>に大意「1960年代から若者を中心にインドへの関心が高まっている。そうした人たちによる著書も多い。しかし、大部分ははインドといういわば<書割(かきわり)>の中の自分に照明を当てたものに過ぎない」とあった。それには大いに触発されたが、同時に反発も感じた。実際に、私自身がインドの中で自分に向き合うことが大きな比重を占めていたからだ。
 それもあって<自分史>という言葉をつくりだしたといわれる、日本近代史・民衆思想史を専門とする歴史家色川大吉(1925~)の「物質文明の中で行き先を見失ってしまったらリュックを背負ってインドへ出かけなさい。そこには忘れていた生命の輝きがあり、生きることの厳しさがある」といった主張に強い共感を抱いた。請われてインドの話をするときには、きまって色川大吉氏を持ち出し、こうした言葉を紹介するのが常だった。

 昨年の10月18日、沖縄県北部の国頭郡東村(ひがしそん)高江の米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の建設工事を止めようと体を張っている市民に対し、大阪県警の機動隊員が「触るなくそ、どこつかんどんじゃボケ、土人が」と言い放った。この差別発言が報じられたときに受けた衝撃は、ほとんど死語だと思っていた「土人」という言葉が、20代の機動隊員から発せられたことだ。いったい彼はどこでこのような言葉と差別意識を教え込まれたのか。
 月刊誌『世界』(岩波書店)のリレーコラム「沖縄(シマ)という窓」で、執筆者のひとり松元松剛(まつもと・つよし=琉球新報)は、この「土人」発言を取り上げた(2017年1月号)。そのなかで「命令に従い義務を遂行していたのが分かった。ご苦労様」とツイッターに書き込んだ松井一郎大阪府知事、「差別と断じることはできない」と主張した鶴保沖縄担当相の延長上で、安倍内閣が「差別とは断じられない」とする答弁書を閣議決定したことについて、「圧倒的な力を持つ権力の側が市民を組み敷くために派遣した機動隊員が公務中に吐いた暴言をたしなめようともしない鶴保氏や松井氏の認識は、言葉に宿る差別意識を意図的にぼかし、結果的に沖縄県民への偏見を助長している」と述べた。
 そして「沖縄人の尊厳を否定する構造的差別の地下水脈、活断層は動いている。土人発言とその後も続く騒動は、鋭利な物で傷口を突かれるような痛みを沖縄社会に与えている」と松元氏はコラムを結んだ。

 ある新年の集まりで挨拶を求められた私は、昨年起きた<いやな事件>の一つとしてこの「発言」を取り上げ、芝居の<せりふ>のように発してみた。おぞましいほどの相手を見下すような差別的罵倒に、会場がしばし凍りついた。
 <いやな事件>の二つ目は相模原事件。相模原市の障害者施設で入所者が刃物で刺され、19人が殺された事件だ。容疑者が「ヒトラーの思想が降りてきた」と話したと報じられ、<優生思想>がよみがえったかと神経を逆なでされた。
 三つ目は電通社員の過労自殺。いずれの事件も、人間が時間をかけて練り上げ積み上げ、切り開いてきた<尊厳あるもの>としての人間存在が否定され、文明の歯車が逆に回ったかのように思われた。
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 長い馴染みの左からヒロアキ、マサヒコ、マサヒトの各氏。右はカールママ。マサヒトさんから「自分が読むのにふさわしい本を選んでよ」と言われたりして、カールママも交えて読書談義になった。
 
 近年スマホの普及にともなってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)が急速に広まっている。2008年に日本語版サービスが始まった簡易投稿サイト「ツイッター」は140文字以内「つぶやき」を書き込める。また、LINEでは仲間内で対話型のコミュニケーションが可能だ。いずれも瞬時に短いメッセージを発信できる利点があるが、長文のやりとりには適さない。
 昨年12月に公表された国際学力調査の結果では、「日本の15歳の読解力が4位から8位に低下。文部科学省は原因の一つとしてスマホの普及に伴う長文を読む機会の減少を挙げた。
 内閣府の15年度の調査では、平日にスマホで2時間以上ネットを利用する高校生の66,8%。全国学校図書館協議会(東京)によると、高校生の1ヶ月の平均冊数も16年は1,4冊と読書量が減少している。

 読書といえば、私自身はドライアイによる視力低下で読書には難儀をしている。勤務先ホテルの地下にある機械室は外光が遮断されているので幾分かは字を見易い。しかし、そこで長時間、本は読むことはできない。日に何度も点眼する治療薬の効果にも疑問が生じてきている。 
 それもあってかDVDで往年の名画といわれるものを精力的に見ている。先日はサマセット・モーム(1874ー1965)原作、タイロン・パワー主演の映画「剃刀の刃」(1946年)を見た。世俗的な価値観に馴染めない主人公がインドへ行き、聖人から教えを受ける。聖人は「賢者とは自分の内面に存在する神の声を聞き従う者のことだ。内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い永遠の平安をもたらす」と諭し、神(自然)と一体になるための修行を促す。ある朝、主人公は大地の脈動を感じ、朝靄の中で木々の間から差し込む光が自分の体内に入る体験をする。その体験を持った上で、聖者に世俗の中で生きることをすすめられた主人公は・・・・・。
 
 ところで、作家の格言にはアイロニー(皮肉・風刺)が含まれているものが多いが、モームは「読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ」といっている。もちろん、スマホもSNSもない、読書をすることが当たり前の時代の格言だ。

 世界を混乱させているトランプ大統領。モームだったら何と皮肉るだろう。そして、彼にインド行きをすすめたら、ツイッターでなんと応えるだろう。「老年の最大の報酬は精神の自由だ」と、これもモームの言葉だが、老人にはしばしば<頑迷>という報酬がもたらされることもある。

 私自身は、いまだいわゆるガラ系の使用者だが、近いうちにスマホにしようと思っている。



 

# by yoyotei | 2017-02-02 07:39