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15年の眠り

 昨年11月、一人の女性がひっそりと息を引き取った。享年46歳。15年間も意識のない植物状態で眠り続けた果ての静かな、しかし痛ましい死であった。

 時代が昭和から平成に変わったころ、オートバイで旅をすることの好きな青年と、美容師の女性が連れ立って店に来るようになった。磊落な青年と上品なかわいらしさを持った彼女は、私の店での短いデートを重ねて結婚した。青年にとっては「おまえにはもったいない」と、友人たちにうらやましがられる結婚だった。

 やがて彼女は妊娠した。出産を迎えるころ、彼は仕事で茨城にいた。陣痛が始まって入院した時には、彼女の母と姉が付き添った。陣痛は次第に激しくなったが、なかなか出産にはいたらない。長時間痛みに耐え続ける彼女に、普通ではないことを感じた母と姉は担当医に帝王切開を懇願した。しかし、それは聞き入れられず、最終的に吸引で胎児が取り出されたときには、入院から38時間が経過していた。

 子どもの誕生という嬉しい報告を待っていた彼に、一転して妻の危機的状況が伝えられた。急いで帰郷した彼が目にしたもの、それはあまりにも悲惨な現実だった。
 羊水が血管に流入することによって、母子ともに脳の全面的な機能停止を引き起こしていたのだった。
 生まれた子どもは男児だった。しかし、わずか50日を生きただけで天に召された。母の腕に抱かれたことはあったのか。母はわが子に乳首を含ませたことがあったのか。
 その母は、わが子の誕生も死も知ることなく、以来15年もの間、眠り続けたのだった。
 この出産時の不幸は裁判となり、10年を経て病院側の過失が確定した。

 青年は、今でも時おり店に顔を見せては、北海道バイクツーリングの話などをしてくれる。だが、彼ももはや青年ではない。彼女の親たちからの求めに応じて、離婚手続きは早くに終わっているが、いまだに独身だ。

 昨年の暮れ、久しぶりに店に来た彼から、彼女の死を知らされた。彼の携帯電話には、新婚旅行先で映した写真が今も保存されてある。寄り添う笑顔の二人に、待ち受けていた不幸などだれが想像しただろう。

 彼には今、ひとつの望みがあるという。自分の家の墓に眠る小さな子どもの遺骨と、その母の遺骨を一緒に埋葬してやりたいのだ。
 天に昇った母と子が抱き合い、手を取り合う姿を、彼は無念さと怒り、癒えない悲しみの先に思い描いている。           『にんげん曼荼羅』(2008年1月)


 今朝のNHKニュースで、植物状態になった女性が成人式に出席したことを取り上げていました。指先でわずかに気持ちを伝えられるようです。「がんばれ、がんばれ」と、心の中でエールを送りながら涙が流れました。
 
 「15年の眠り」の彼は、最近ゴルフに熱中しているそうです。先日店に来た彼の友人が話してくれました。 
 裁判で係争中のころ、彼も担当医も僕の店に来ていました。顔を合わせることはありませんでしたが・・・。  担当医は、僕にオリーブ油のおいしさを教えてくれた人でした。
 小さい街の小さな飲み屋にも、かけがえのない重い人生の断片が見え隠れします。 

by yoyotei | 2010-01-26 08:45  

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