この世のものとは
「この世のものとは思えない・・・」
83歳になる老学者は何度も口にした。確かに、その学校の在りようは「異界」にあるかのように、教育の理想のひとつを具現化していた。山形県の山奥にある「基督教独立学園高等学校」(以下「学園」)である。東京大学で教育学を研究してきた老学者、コペンハーゲン(デンマーク)の大学で教鞭を執る現役教授、退職高校教師などでその学校を訪れた一日。5月も末ながら小雨模様の肌寒さもなんのその、なにやらため息にも似た、ぬくもりのある感動を味わった。老学者の「この世のものとは思えない」との感慨につながるものは、私には「ため息」だったかもしれない。
専門の学者の訪問だったからか、学校長をはじめ90歳近い女性教師からも懇切な応対にあずかった。その女性教師の「私は生徒によって今も変わり続けている。頂上が十合目だとしたらまだ私は二合目か三合目にいる」との謙虚さは、柔和な表情もあいまって学園での生徒との向き合い方を物語った。
内村鑑三(1861年~1930年 無教会キリスト教の創始者)の「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、為すべきことは労働」を信条に、奥地伝道を開始した1924年(大正13)、生徒2人から始まった1934年(昭和9)の開学、「基督教独立学園高等学校」として認可された1948年(昭和23)から今日までの歴史は、250ページ近い「年表」に詳しい。私は一気に読み終えた。「読む年表」と記されていたが、まさに苦難と喜びが織り込まれた歴史ドキュメントだ。
「学校要覧」から<建学の理念>を紹介すると「神によって創られた人格」の尊重を自覚せしめ、天賦の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する。上記の内村鑑三の信条のごとく、聖書と自然と労働をとおしての人間教育と、真理としてのキリスト教の伝道をめざす、とある。1学年25名を定員とした3学年75名の生徒が寮生活をしながら、36名の職員とともに労働・教育にあたる。携帯電話は禁止、一対一の男女交際も禁止、マンガ、雑誌の寮への持ち込みも禁止となっている。また、受験教育は一切しないというのもこの学校の大きな特徴だ。朝・夕・日曜の礼拝、牛・豚・鶏の世話、米や野菜作り、製パン、炊事など、学園共同体を支えるための労働作業も多くある。「憲法勉強会」など平和を学ぶさまざまな行事もある。
「学園」訪問の折に、同行の教授から資料として「内村鑑三と鈴木弼美」なる一文を頂戴した。著者は前野正(山形大学・明治大学教授 1984年没)、学園で講師をつとめたこともある、学園創設者・鈴木弼美(すけよし)の支援者の一人だ。1955年(昭和30)に雑誌『聖約』に掲載されたものだ。
そのなかに、同じ山形県の山間村落にあった「山びこ学校」が取り上げられている。「考える人間」を作ろうとした無着成恭(むちゃくせいきょう)の実験校だ。
『無着は弼美と同じく、迷信と貧しさから農村を救うためには「考える人間」を作らなければならないと考えた。しかし、その方法に於いて弼美と対蹠的であるは興味深い。彼は「生活綴方」なる児童文学運動をテコとして、児童たちが取囲まれている因習や貧困を手がかりとし、(略)現実を凝視することから「考える教育」を始めた。(略)社会科は村の「お光りさん」から説き初められた。国語科は自分の生活を綴ることからはじめられた。算数は村人の貧乏の原因を究明することからはじめられた。すべてが自分達の生活の中から、生活に即して、生活のためになされた。弼美にあっては未だ聞いたこともない基督教を真向からうたい、偏狭な山村の子弟に世界的視野を与え、かつて夢想だにしなかった新しい思想と文化に触れさせようとした。おのずから前者の即物的教育とは正反対に理念的たらざるを得ない。(略)無着は生徒の中に下って生徒と同じ地平で考え、弼美は生徒に手をさし延べて自己と同じ高さに引き上げようとする。革命家と警世家との相違であろうか。いずれをよしとし、悪しと決めるわけにはゆくまい。が与えられた思想より生れ出た思考が素朴であっても粗雑であっても強靭であることを忘れてはなるまい。「新しい村造り」にはその土地から生まれた農民の智慧こそ最も大きい力を持つものである』
前野正も基督者であったから、「山びこ学校」を対蹠的に評価をしながら、『種を播こうではないか。御心であれば神は砂漠も花咲く園となし給う』と、弼美へエールをおくっている。
「山びこ学校」(上山市立山元小中学校・2006年小学校閉校・2009年中学校閉校)は前記のように、無着成恭の旧山元村立山元小中学校での6年間の生活綴り方運動によって世に知られた。後に「全国子ども電話相談」の回答者として、ラジオでの独特の語り口は今も私の記憶に新しい。
この「山びこ学校」の初期の卒業生の一人と、私はブナの保存運動を通じて知り合った。蓬髪に長いヒゲをたくわえた彼を運動仲間は「仙人」と呼んでいる。多様な社会的知識と自然に対する畏敬、平和運動に携わる一方で詩を綴るという、多才で魅力的な人物である。
曹洞宗の寺に生まれた無着は、1987年からは僧侶として教育についての発言を続けているらしい。無着とは現在も親交があるという「仙人」に、今度会ったら彼のもたらしたものについて聞きたいと思う。
「学園」の年表に知人の名前があった。歯科の学校医として長く学園に通い続けた人だった。私の住む町で開業していたが、すでに天に召されて久しい。生前、彼が語ったことがあった。「子どもは神からの預かりものです。大切に育てて神にお返ししなければなりません」。クリスチャンであった彼の言葉は重く心に響いた。育児放棄や虐待は、子どもを私物視する意識からも誘発される。
「この世のものとは思えない」と語った老学者に、後日電話で伺った。
こんなむちゃくちゃな世の中に、あのような学校が存在していた、信じがたいというのが率直な真意と受け取れた。
83歳になる老学者は何度も口にした。確かに、その学校の在りようは「異界」にあるかのように、教育の理想のひとつを具現化していた。山形県の山奥にある「基督教独立学園高等学校」(以下「学園」)である。東京大学で教育学を研究してきた老学者、コペンハーゲン(デンマーク)の大学で教鞭を執る現役教授、退職高校教師などでその学校を訪れた一日。5月も末ながら小雨模様の肌寒さもなんのその、なにやらため息にも似た、ぬくもりのある感動を味わった。老学者の「この世のものとは思えない」との感慨につながるものは、私には「ため息」だったかもしれない。
専門の学者の訪問だったからか、学校長をはじめ90歳近い女性教師からも懇切な応対にあずかった。その女性教師の「私は生徒によって今も変わり続けている。頂上が十合目だとしたらまだ私は二合目か三合目にいる」との謙虚さは、柔和な表情もあいまって学園での生徒との向き合い方を物語った。
内村鑑三(1861年~1930年 無教会キリスト教の創始者)の「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、為すべきことは労働」を信条に、奥地伝道を開始した1924年(大正13)、生徒2人から始まった1934年(昭和9)の開学、「基督教独立学園高等学校」として認可された1948年(昭和23)から今日までの歴史は、250ページ近い「年表」に詳しい。私は一気に読み終えた。「読む年表」と記されていたが、まさに苦難と喜びが織り込まれた歴史ドキュメントだ。
「学校要覧」から<建学の理念>を紹介すると「神によって創られた人格」の尊重を自覚せしめ、天賦の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する。上記の内村鑑三の信条のごとく、聖書と自然と労働をとおしての人間教育と、真理としてのキリスト教の伝道をめざす、とある。1学年25名を定員とした3学年75名の生徒が寮生活をしながら、36名の職員とともに労働・教育にあたる。携帯電話は禁止、一対一の男女交際も禁止、マンガ、雑誌の寮への持ち込みも禁止となっている。また、受験教育は一切しないというのもこの学校の大きな特徴だ。朝・夕・日曜の礼拝、牛・豚・鶏の世話、米や野菜作り、製パン、炊事など、学園共同体を支えるための労働作業も多くある。「憲法勉強会」など平和を学ぶさまざまな行事もある。
「学園」訪問の折に、同行の教授から資料として「内村鑑三と鈴木弼美」なる一文を頂戴した。著者は前野正(山形大学・明治大学教授 1984年没)、学園で講師をつとめたこともある、学園創設者・鈴木弼美(すけよし)の支援者の一人だ。1955年(昭和30)に雑誌『聖約』に掲載されたものだ。
そのなかに、同じ山形県の山間村落にあった「山びこ学校」が取り上げられている。「考える人間」を作ろうとした無着成恭(むちゃくせいきょう)の実験校だ。
『無着は弼美と同じく、迷信と貧しさから農村を救うためには「考える人間」を作らなければならないと考えた。しかし、その方法に於いて弼美と対蹠的であるは興味深い。彼は「生活綴方」なる児童文学運動をテコとして、児童たちが取囲まれている因習や貧困を手がかりとし、(略)現実を凝視することから「考える教育」を始めた。(略)社会科は村の「お光りさん」から説き初められた。国語科は自分の生活を綴ることからはじめられた。算数は村人の貧乏の原因を究明することからはじめられた。すべてが自分達の生活の中から、生活に即して、生活のためになされた。弼美にあっては未だ聞いたこともない基督教を真向からうたい、偏狭な山村の子弟に世界的視野を与え、かつて夢想だにしなかった新しい思想と文化に触れさせようとした。おのずから前者の即物的教育とは正反対に理念的たらざるを得ない。(略)無着は生徒の中に下って生徒と同じ地平で考え、弼美は生徒に手をさし延べて自己と同じ高さに引き上げようとする。革命家と警世家との相違であろうか。いずれをよしとし、悪しと決めるわけにはゆくまい。が与えられた思想より生れ出た思考が素朴であっても粗雑であっても強靭であることを忘れてはなるまい。「新しい村造り」にはその土地から生まれた農民の智慧こそ最も大きい力を持つものである』
前野正も基督者であったから、「山びこ学校」を対蹠的に評価をしながら、『種を播こうではないか。御心であれば神は砂漠も花咲く園となし給う』と、弼美へエールをおくっている。
「山びこ学校」(上山市立山元小中学校・2006年小学校閉校・2009年中学校閉校)は前記のように、無着成恭の旧山元村立山元小中学校での6年間の生活綴り方運動によって世に知られた。後に「全国子ども電話相談」の回答者として、ラジオでの独特の語り口は今も私の記憶に新しい。
この「山びこ学校」の初期の卒業生の一人と、私はブナの保存運動を通じて知り合った。蓬髪に長いヒゲをたくわえた彼を運動仲間は「仙人」と呼んでいる。多様な社会的知識と自然に対する畏敬、平和運動に携わる一方で詩を綴るという、多才で魅力的な人物である。
曹洞宗の寺に生まれた無着は、1987年からは僧侶として教育についての発言を続けているらしい。無着とは現在も親交があるという「仙人」に、今度会ったら彼のもたらしたものについて聞きたいと思う。
「学園」の年表に知人の名前があった。歯科の学校医として長く学園に通い続けた人だった。私の住む町で開業していたが、すでに天に召されて久しい。生前、彼が語ったことがあった。「子どもは神からの預かりものです。大切に育てて神にお返ししなければなりません」。クリスチャンであった彼の言葉は重く心に響いた。育児放棄や虐待は、子どもを私物視する意識からも誘発される。
「この世のものとは思えない」と語った老学者に、後日電話で伺った。
こんなむちゃくちゃな世の中に、あのような学校が存在していた、信じがたいというのが率直な真意と受け取れた。
by yoyotei | 2010-06-02 11:47