Cuppa
私は、ある屋敷の客になった。朝早く召使が車つきのテーブルを押しながら私の部屋に入ってきて尋ねた。
「お茶がよろしいでしょうか、それとも桃になさいますか」
私がお茶を選ぶと、すぐに次の問いが発せられた。
「中国になさいますか、インドになさいますか、セイロンになさいますか」
私がインドを頼むと、彼は尋ねた。
「レモンでしょうか、クリームでしょうか、ミルクでしょうか」
私はミルクにしたが、彼はどの品種の牛が好みかを知りたがった。
「ジャージーですか、ヘレフォードですか、ショートホーンですか」
こんなにうまい茶を飲んだのは初めてだった。
これは、『茶の世界史』(ビアトリス・ホーネガー・著 平田紀之・訳 白水社 2010)に挿入されているイギリスの歴史家セシル・ロス(1899~1970)の一文だ。「こんなにうまい茶を飲んだのは初めてだった」のは正直な述懐なのか、あるいは痛烈な皮肉なのかはわからない。私は断じて後者だと思うのだが・・・。
喫茶の起源は中国であり(茶の木の原産地はインド、中国の2説がある)、「茶」が「チャ(cha)」と発音されて日本に伝わったことはいうまでもない。しかも、ラクダの隊商を組んだアラビア商人は、茶を中国の主要語である広東語と北京語の「チャ」として、イラン、ロシア、インド、アラブ諸国へと広げた。インドではチャーイ、あるいはチャイという。
では、ヨーロッパの「ティー(tea)」はどこから来たのか。私は単純に「チャ」が東から西に伝播するにしたがって「ティー」に変化したと思っていた。
しかしそうではないことを、この『茶の世界史』で教えられた。
17世紀初めに、茶を北ヨーロッパに広めたのは海洋商人のオランダ人だった。彼らは最初、福建省南部のアモイ島から茶を積み出した。アモイ方言では茶を「テイ(t’e)」と言ったのである。ヨーロッパの貿易を支配していたオランダによって、茶はティーとしてヨーロッパ諸国に広まった。thea、tey、tay、teeなどと、さまざまに綴られたが、18世紀中ごろになってteaに落ち着いたとされる。イタリア語ではテ(te)、ドイツ語ではテー(Tee)、フランス語ではテ(the)という。
ところで、ヨーロッパでもポルトガルでは「チャ」というらしい。なぜか。ポルトガルはオランダに先駆けて、茶を中国から自国へ持ち帰ったが、それはマカオと広東からだったのだ。広東語では茶はチャといったとは先に書いたが、ポルトガル人は茶を国内だけで消費したために、「チャ」はヨーロッパには広がらず、ポルトガル国内だけでの呼称になった。
おもしろいことに、ポルトガルの商船に乗り組んでいたヨーロッパ人船乗りたちは、茶とともにチャの呼称を出身地に持ち帰った。それによって、イギリスやアイルランドの方言に「char」という言語が生き残っているという。
研究社の『新英和大辞典』にあたってみた。
char <俗>=tea(cha).[Chin.cha teaの転化]とある。
さらに、cha 茶(tea)(cf.cuppa).とあるのでcuppaをみる。
cuppa <英俗>一杯のお茶(cup of tea)(cuppa chaともいう)[cup ofの略]。なるほど・・・。「茶」恐るべしだ。「チャ」も「ティー」も語源は中国なのだった。
19年前に初めてインドを訪れた。旅の終わり頃ブッダガヤ(ボードガヤ)にいた。釈迦が菩提樹の下で悟りを得た地である。体調最悪の状態でビルマ寺(現ミャンマー寺)の宿坊に旅の荷を解いていた。わずか2畳ほどの個室が一泊5ルピー(15円)だった。茶店のチャーイ5杯分の宿代だ。
ある日、寺の裏手のぬかるんだ細道を歩いていると一人の老人に呼び止められた。老人は家の軒下に私を坐らせて置いてヨロヨロと歩み去ったが、しばらくすると1杯のチャーイを運んできた。
「日本の首相が宮沢になったよ」
老人が英語で話したことに私は少なからず驚いたが、日本の事情を知っていることのほうがより大きな驚きだった。やがて、自分がこの老人に英語を教えているという青年もやってきた。近くの子どもたちも集まってきて、青年を通訳に束の間の異文化交流の場となった。
別れ際に老人が聞いた。
「今度いつ来る?」
インドから逃げ帰りたくて、帰国の日を毎夜指折り数えていた頃である。その時にはインドを再訪する気はまったくなかった。だが、老人に見つめられてそれは言えなかった。
「いつか・・・。でも必ず来る」
そう言ってから、私は胸の中でつぶやいた。・・・この老人に会うためにだけでも来なければならない・・・。
その後、何度もインドに足を運んだがブッダガヤには行っていない。老人はまだ生きているのかどうか。それでも、老人や英語の先生、子どもたちと写した写真が数枚ある。それを届けなければならないという気持ちは消えないままだ。
「侘茶(わびちゃ)」を完成した千利休は、茶の湯は日々の現実を超越して絶対的存在とひとつになることだという。4畳半の茶室をさらに2畳の狭さにし(茶室ではないが、まさにビルマ寺がそうだった)、質朴なあつらえの中で主人と客が精神的な親密さを分かち合う機会だと定義した。通りすがりにふるまわれた1杯のチャーイは疲れた旅人を癒し、育った文化も環境も異なる者たちを、束の間小さな宇宙にとり込んだ。
Cuppa(1杯の茶)、恐るべしだ。
「お茶がよろしいでしょうか、それとも桃になさいますか」
私がお茶を選ぶと、すぐに次の問いが発せられた。
「中国になさいますか、インドになさいますか、セイロンになさいますか」
私がインドを頼むと、彼は尋ねた。
「レモンでしょうか、クリームでしょうか、ミルクでしょうか」
私はミルクにしたが、彼はどの品種の牛が好みかを知りたがった。
「ジャージーですか、ヘレフォードですか、ショートホーンですか」
こんなにうまい茶を飲んだのは初めてだった。
これは、『茶の世界史』(ビアトリス・ホーネガー・著 平田紀之・訳 白水社 2010)に挿入されているイギリスの歴史家セシル・ロス(1899~1970)の一文だ。「こんなにうまい茶を飲んだのは初めてだった」のは正直な述懐なのか、あるいは痛烈な皮肉なのかはわからない。私は断じて後者だと思うのだが・・・。
喫茶の起源は中国であり(茶の木の原産地はインド、中国の2説がある)、「茶」が「チャ(cha)」と発音されて日本に伝わったことはいうまでもない。しかも、ラクダの隊商を組んだアラビア商人は、茶を中国の主要語である広東語と北京語の「チャ」として、イラン、ロシア、インド、アラブ諸国へと広げた。インドではチャーイ、あるいはチャイという。
では、ヨーロッパの「ティー(tea)」はどこから来たのか。私は単純に「チャ」が東から西に伝播するにしたがって「ティー」に変化したと思っていた。
しかしそうではないことを、この『茶の世界史』で教えられた。
17世紀初めに、茶を北ヨーロッパに広めたのは海洋商人のオランダ人だった。彼らは最初、福建省南部のアモイ島から茶を積み出した。アモイ方言では茶を「テイ(t’e)」と言ったのである。ヨーロッパの貿易を支配していたオランダによって、茶はティーとしてヨーロッパ諸国に広まった。thea、tey、tay、teeなどと、さまざまに綴られたが、18世紀中ごろになってteaに落ち着いたとされる。イタリア語ではテ(te)、ドイツ語ではテー(Tee)、フランス語ではテ(the)という。
ところで、ヨーロッパでもポルトガルでは「チャ」というらしい。なぜか。ポルトガルはオランダに先駆けて、茶を中国から自国へ持ち帰ったが、それはマカオと広東からだったのだ。広東語では茶はチャといったとは先に書いたが、ポルトガル人は茶を国内だけで消費したために、「チャ」はヨーロッパには広がらず、ポルトガル国内だけでの呼称になった。
おもしろいことに、ポルトガルの商船に乗り組んでいたヨーロッパ人船乗りたちは、茶とともにチャの呼称を出身地に持ち帰った。それによって、イギリスやアイルランドの方言に「char」という言語が生き残っているという。
研究社の『新英和大辞典』にあたってみた。
char <俗>=tea(cha).[Chin.cha teaの転化]とある。
さらに、cha 茶(tea)(cf.cuppa).とあるのでcuppaをみる。
cuppa <英俗>一杯のお茶(cup of tea)(cuppa chaともいう)[cup ofの略]。なるほど・・・。「茶」恐るべしだ。「チャ」も「ティー」も語源は中国なのだった。
19年前に初めてインドを訪れた。旅の終わり頃ブッダガヤ(ボードガヤ)にいた。釈迦が菩提樹の下で悟りを得た地である。体調最悪の状態でビルマ寺(現ミャンマー寺)の宿坊に旅の荷を解いていた。わずか2畳ほどの個室が一泊5ルピー(15円)だった。茶店のチャーイ5杯分の宿代だ。
ある日、寺の裏手のぬかるんだ細道を歩いていると一人の老人に呼び止められた。老人は家の軒下に私を坐らせて置いてヨロヨロと歩み去ったが、しばらくすると1杯のチャーイを運んできた。
「日本の首相が宮沢になったよ」
老人が英語で話したことに私は少なからず驚いたが、日本の事情を知っていることのほうがより大きな驚きだった。やがて、自分がこの老人に英語を教えているという青年もやってきた。近くの子どもたちも集まってきて、青年を通訳に束の間の異文化交流の場となった。
別れ際に老人が聞いた。
「今度いつ来る?」
インドから逃げ帰りたくて、帰国の日を毎夜指折り数えていた頃である。その時にはインドを再訪する気はまったくなかった。だが、老人に見つめられてそれは言えなかった。
「いつか・・・。でも必ず来る」
そう言ってから、私は胸の中でつぶやいた。・・・この老人に会うためにだけでも来なければならない・・・。
その後、何度もインドに足を運んだがブッダガヤには行っていない。老人はまだ生きているのかどうか。それでも、老人や英語の先生、子どもたちと写した写真が数枚ある。それを届けなければならないという気持ちは消えないままだ。
「侘茶(わびちゃ)」を完成した千利休は、茶の湯は日々の現実を超越して絶対的存在とひとつになることだという。4畳半の茶室をさらに2畳の狭さにし(茶室ではないが、まさにビルマ寺がそうだった)、質朴なあつらえの中で主人と客が精神的な親密さを分かち合う機会だと定義した。通りすがりにふるまわれた1杯のチャーイは疲れた旅人を癒し、育った文化も環境も異なる者たちを、束の間小さな宇宙にとり込んだ。
Cuppa(1杯の茶)、恐るべしだ。
by yoyotei | 2010-07-10 20:08