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佐渡

 ヘッドライトの中で、それは逃げると思った。だが逃げなかった。開いた口から舌が垂れ下がり、見開いた目は、じっとこちらを見つめている。「わーっ」と叫びながら、私はあわててハンドルを左に切った。「どうしたの」。助手席の女性が驚いて声をかけた。

 佐渡へは何度も行った。最初は冬だった。まだ箱根のホテルに勤務していた頃、数日の休暇がもらえた。なぜか雪が見たくなった私は東京へ出て上越線に乗った。トンネルを抜けてからは車窓に雪景色を見ながら新潟駅に降り立った。万代橋まで歩いて駅まで引き返した。『新潟ブルース』が流行っていた。歌詞に「万代橋」や「新潟駅」が出てくる。駅前のバス乗り場に佐渡の案内板があった。「佐渡」へは新潟市から行くのか、と思った。私の中では佐渡は寺泊とだけ結びついていた。休暇の日数と所持金の額を計算して、佐渡行きを決めた。
 冬の日本海は荒れていた。持ち上がり落下し、右にゆれ左に傾く船の船室で船に乗ったことを後悔した。船室にじっとしていられず、甲板の舷側で波しぶきを浴びながら両津に着いた。1人だけいた客引きに連れられて行った旅館は他の客の気配もなく、ひっそりとしていた。宿の人にすすめられて尖閣湾までバスに乗った。映画『君の名は』でロケがあったという吊り橋を渡り、風と波の荒涼とした風景の中で「揚島」と書かれた木の標柱にしがみついた。人影はなかった。
 その夜は布団のなかで一晩中波の上にいるように身体が揺れた。翌日の船は荒天で欠航した。

 新潟の県北に住むようになってからも佐渡へはよく行った。何度目かの佐渡も夏の真っ盛りだった。冬の佐渡は最初で懲りていた。
 両津市(現在は合併して佐渡市)立間(たつま)に友人の生家があり、夏の数日を空き家になっているその生家で過ごすことになった。店の客たちに声をかけ、男女交えて7、8人の若者が車に分乗して佐渡に渡ることになった。だが、そのうちの1人が、仕事が終わらないと行けないということだった。彼女は食堂で働いていて、仕事が終わってから乗ることのできるカーフェリーは最終便だった。佐渡観光ベストシーズンの夏になるとカーフェリーは増便され、最終便は両津港到着が深夜近くになる。その時刻に両津港に迎えに来てくれるのなら、是非行きたいということだった。店の客でもあり、私はそれを引き受けた。立間には以前にも行ったことがあり、海岸線の道路を走ったこともあった。

 後から来る彼女1人を除いた私たちは、穏やかな真夏の日本海を快適に渡って両津港に入った。立間の友人が先導して彼の生家をめざした。両津の町を抜けてから、おやっと思った。友人の車は海岸線に向かわず、山間の道に入っていったのだ。しばらくして友人の車が停車し、これから峠越えをするという。最近、ようやく車が通れるようになった峠越えの道は、所要時間が海岸線の半分ですむのだと説明した。
 彼に従って車は山道を進んだ。人家はすでにない。鬱蒼と道路を覆うように伸びた樹木で、夏の昼間だというのに薄暗い。当時、乗っていたカー・クーラーのない年代物のフォルクス・ワーゲンに吹き込む風が寒いほどの冷気を帯びている。私は夜のことを思った。深夜にはこの道を後から来る女性を迎えに行かなければならない。しかも、1人でだ。
 薄気味の悪い道はカーブも多い。カーブを回るたびに変わる視野は未知の気味悪さをもたらす。ようやくにして峠の頂上に着いて、友人は車を止めた。眼下に日本海が広がった。うねって下る道が見え隠れしながら小さな集落につながっている。赤玉集落だ。立間は赤玉から海岸線を、さらに東に行った隣の集落になる。峠からは右手に道が伸びていた。池があるのだという。こんなところに池が・・・。
 峠を下る道はまだ舗装されていないところもあった。カーブの多い道だけに真新しいガードレールが随所に設置してある。

 立間に着いて、私たちはすぐに海に向かった。立間は観光客もなく、地元の人たちも生業としての漁はほとんどしていない。海はサザエや鮑の宝庫だった。アワビは海になれた立間生まれの友人が、サザエは私が獲った。ヤスで魚を突くのも佐渡の海の大きな楽しみだ。この地では「弓ヤス」という独特のヤスを使う。
 夜の宴会はそうした海の幸で盛り上がったが、私は酒も飲まずに最終フェリーでの彼女の出迎えに備えていた。しかし、あの気味の悪い峠越えの道を思うと気はすすまない。酒を飲んで上機嫌になっている若者たちに、両津港まで一緒に行かないかと声をかけても取り合ってくれない。立間の友人までもが、確かにあの道は気味が悪い、特に夜は、などと不安を煽る。さらに、頂上の池には因縁めいた言い伝えがあってなどと悪ふざけもいう。
 私は意を決して、深夜を待たずに早い時刻に両津港へ向かうことにした。遅くなればなるほど、気味悪さは増す。両津港で時間をつぶしても、帰りは彼女が同乗する。2人なら心強い。

「早めに行くよ」と、私は立間を出発した。赤玉までは海岸線を走る。このまま海沿いを走っても両津には着く。時間的にも充分間に合う。しかし、暗い道は海岸線も同じだった。私は赤玉を過ぎて峠の道にハンドルを切った。登りはまだ背後に赤玉集落のわずかな灯が見えていた。だが、未舗装部分の荒れた道を大きく曲がると、その集落の灯も消えた。峠の池への分かれ道は闇の中に消えていた。こんなところで、なにかあったら、パニックになるかもしれない。私は、もう半分は来たと自分に言い聞かせながら、鬱蒼とした林の道を下って行った。すれちがう車は1台もなかった。
 両津港は明るく賑わっていた。数件の食堂も開いていた。私はぶらぶら歩いたり、ベンチに坐って時間をつぶした。
 最終フェリーから彼女が姿を見せたときには、もう峠越えの気味悪さは消えていた。
 しかし、助手席に彼女を乗せて両津の町を離れ、鬱蒼とした林の道に入ると、やはり気味悪さが戻ってきた。それは彼女も同じのようであった。
 彼女がつぶやいた。
「気持ちの悪いところだね。よく1人で来れたね」
 それが呼び水になった。船の中で読んでいた女性週刊誌に怪談特集が載っていたと、彼女が話し始めた。
「ある人が投身自殺の名所といわれている所へ行ったんだって。少し先の岩壁の上を見ると人が立っていて、妙な予感がしたものだから、思わずカメラを向けたの」
 私は押し黙ったまま車を走らせた。
「カメラのファインダーの中で、岩壁に立っていた人が海に向かって身を投げたの」
 車は峠に向かって登って行く。
「その人は反射的にシャッターを切ったの」
 話の結末はなんとなく予想できた。
「写真屋さんにプリントに出し、数日たって受け取りに行ったんだけど、あの身投げの写真がなかったんだって」
 私の予想通りだった。だが、彼女の話にはその後があった。
「岩壁の写真は写っていませんでしたかと聞くと、写真屋さんは少し口ごもって・・・」
 もうすぐ峠だ。
「写っていましたが、お渡ししていいのかどうか。ここにありますがご覧になりますか」
 ヘッドライトに峠の池に向かう道が浮かび上がった。
 彼女は話し続けた。
「写真に何が写ってたと思う?」
「さあ」
 私は不機嫌になっていた。よりによってこんな話を、こんなときにしなくてもいいではないか。
 彼女は、私の不機嫌には気づかないで先を続けた。
「岩壁から離れて海に落ちていく人が写っていて、その海からおいでおいでをするように無数の人間の手が伸びていたんだって」
 
 車は峠を越えた。はるか先に夜の日本海が月明かりに暗く銀色に輝いている。その海から無数の人間の手が突き出している光景を想像して私はブルッとした。道は日本海に続く闇に飛び込むように下り、山肌を折れるように左に曲がっている。ヘッドライトがガードレールを白く光らせたとき、ガードレールの下に犬の顔が見えた。犬は白と黒の斑(ぶち)で、大きく見開いた目がヘッドライトに光り、こちらを睨みつけている。口から舌を長く垂らし、ハアハアと大きく息をしている。「逃げろ!逃げろ!」と心で呼びかけながら、私はガードレールに接近した。

 それは逃げなかったのだ。ガードレールに激突する寸前で私は叫びながら左に急ハンドルを切ったのだった。
「どうしたの?」と驚く彼女に、私は「犬がいたんだ」と答えた。
「野良犬?」「野良犬ではないと思うよ。白黒の斑だった」「そんな犬がこんな山の中にいるの?」「うーん、すぐ下に家があるからね」
 だが、赤玉集落はすぐ下ではなかった。峠を越えたばかりで、下っても下っても赤玉には距離があった。

「狢(むじな)が化けて出たんだよ」
 立間の友人はそう言って笑った。私は何かを見間違えたのだろうとも思った。それにしてもリアルで、「ハアハア」という息づかいまで聞こえたようだった。

 二日後の昼過ぎ、私たちは立間を後にして、峠越えの道に入った。あの「犬」を見たカーブで、私たちは車を止めて降りた。昼の明るさで見るその場所はガードレールが道の端ぎりぎりに設置してあり、その向こうは垂直の崖になっていた。犬がガードレールの下から顔をのぞかせるには、両の前脚を崖っぷちにわずかにかけ、懸垂をするように腕を曲げて体を持ち上げるしかない。
「犬ではとても無理でしょう」
 みんなの一致した見解だった。いったい私が見たのは何だったのか。

 そのときを最後に佐渡へは足を運んでいない。別にあの道が怖いからではなく、機会がないだけなのだが・・・。 
 

  
                                                   
 

by yoyotei | 2010-08-19 10:52  

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