まとめてブログ
12月5日(日) 目が覚めて時計を見ると午前5時だ。自宅へ帰って弁当をつくり、塩引鮭づくりに出かけなくてはならない。ん?待てよ・・・。今日は日曜日じゃあないか。塩引鮭づくりは休みだった。夭夭亭も定休日。だから昨夜は少しハメをはずして飲んだのだった。そして、店の2階で寝袋にくるまって寝たのだった。トイレに行き安堵と開放感の中、2度目の眠りについた。再び目覚めると8時半を過ぎていた。いい天気だ。
ここのところ、ブログを更新できないでいる。先回もにっしーさんからお叱りを受けた。ブログネタは溜まるし、気にはなっているのだが、なにしろ時間がない。11月から当地の特産物「塩引鮭」づくりに従事しているのだ。日曜祭日を除き、午前9時から午後5時まで、生鮭の処理、洗い、そして塩をすり込んで数日後、今度は塩出しをして吊るし干しにする。すでに900匹の鮭を3人で処理した。これからは干す作業が続く。日中のこの仕事を終えてから店へでかける。なかなかゆっくりとパソコンに向かう時間が持てないのだ。
デジカメの記録などをもとに、ここ数日を振り返ってみる。
10月16日(土) Kodama先生が数年ぶりに来店。中学校の教頭になっていた。どこかの大学教授と一緒で、語り合う話の中身は教育に関することばかり。隔世の感がある。彼が新卒の新米教師として市内の学校に赴任した頃は、連日のように店に来ては飲んで語らった。新潟市のホテルでおこなわれた彼の結婚披露宴では、私が司会を務めた。あの頃はよく結婚披露宴の司会を頼まれた。当時若かった教師たちも何人かは管理職になった。市内の中学校の校長も先日、若手の教師たちを連れてきた。日本でトライアスロンがおこなわれはじめた頃、宮古島大会に参加するなど、体育会系の行動派だった。「管理職にはいちばん遠い教師だと思っていたのになあ・・・」との、私の感慨にいっしょになって笑った。
10月26日(火) 「若女将の会」6名様がご来店。料亭、旅館、ホテルの若い女将さんたちだ。
料亭「千渡里(ちどり)」からはMiyakoさん、トライアスロン実況の私のパートナーだ。Yukikoさんは東京から地元の老舗料亭「能登新」に嫁いできた。和服に身を包むと、しっとりしたまさに若女将だが、プライベートでは現代的で都会風な若いお嫁さんなのだ。
この夜は、映画「いのちの山河」無料試写会もあった。およそ150人が招待に応じてくれた。この試写での評価が本上映に影響する。広島出身の普済寺住職が奥さんと連れ立って来てくれた。後援をしてもらった村上総合病院からは院長や副院長も・・・。医者のいない離島粟島の村長なども招待したが荒天で船が欠航。残念だった。
10月30、31日(土、日)市内のユリ栽培の第一人者といってもいいOtakiさんが、数人で遅くの来店。Otakiさんは専業農家。カサブランカを中心に数種のユリを栽培している。この夜は彼のもとで働いていた青年の送別会の流れだった。
7月になるとOtakiさんのユリは出荷の最盛期を迎える。私は10年も前から、収穫の手伝いをしている。出荷できない大量のユリをいただき、知人に配ったり店の客に持ち帰ってもらって喜ばれている。このユリもOtaki夫妻が育てたものだ。名前を聞いたが忘れてしまった。ゴメンナサイ。
米づくりは「マガモ米」と称して雑草をマガモに食べてもらう自然農法をおこなっている。田んぼの除草に一役かったマガモは、役目を終えて人間の胃袋に収まる。暮れから正月にかけてのご馳走になるのだ。合掌。
この夜は、空手指導者のShinicihroさんやIinumaさん、歯科助手のMikaさんなども集っておおいに気勢をあげた。午前2時半を回って轟沈。
11月3日(祝日) 大滝舞踊研究所発表会
招待を頂いていたが、昨日から始まった「塩引鮭」づくりの慣れない仕事で疲れて、出かける気にならなかった。このモダンバレエ研究所とは30年来の付き合いがあり、出演や舞台美術を要請される。バレエができるわけではないから、ナレーションや舞台でのちょっとしたからみに出る。来年は研究所設立40周年記念ということで、すでに出演の打診があった。何をするのかは決まっていない。
「塩引鮭」づくりに従事して、久々に身体で覚える仕事を実感している。鮭のエラの付け根に包丁を刺しこみ、カマに沿ってグサグサと切り取る。鮭の肛門に包丁の切っ先を入れ腹を割いて内臓を掻き出す。一連の作業を流れるように、あるいはリズミカルにこなすには熟練が必要だ。私にはまだまだだ。
バシャバシャと水道の水を流しながらの、これらの作業中、ある歌人を思い浮かべていた。それは市内在住の稲葉範子さんだ。専業農家に生まれ、専業農家の青年と結婚、農業を続けながら歌を詠み続けている人だ。数年前に中央の歌壇賞を受けている。歌人と呼ぶべき人なのだ。数ヶ月前に歌集「綿雪」を頂いた。彼女の歌は農業を夫を子供を、その折々の哀歓を詠う。なぜ鮭を捌きながら彼女を思ったのか。それは労働や作業を歌にできる彼女の豊かな感性に思い至ったことと、農業のかたわら、農閑期にはスーパーの魚屋で働いていたことを知っていたからだ。
「スーパーの魚売り場の水仕事野良の仕事といずれたやすき」「手のひらに包丁だこと鍬だこが並びぬ野良と魚屋の仕事」。さらには「近海の真鯖が旬の季節なり包丁の腹に脂つきくる」「あんこうの大きな口に出刃先を刺せばぬるりとよだれをたらす」「包丁に傷めし指を庇いつつ冷たき作業のひとひは長し」
よく働く彼女は、よく酒を飲む人でもある。飲みながら聞いたエピソードはこんな歌になっていた。「酔い痴れてトイレに転び水洗の便器一式毀してしまいぬ」
11月12日(金) 料亭「千渡里(ちどり)」で鮭料理を賞味してきたと、東京から田中ブラザースさんが来店。『居酒屋味酒覧』の著者、太田和彦さんと知友だそうで、著書の紹介記事や以前スカパーTVで放映された番組を見たことが来店動機だとか。東京からやってきた仲のいい男だけの3人兄弟、だから田中ブラザース。一緒になって飲んだが本当に気持ちのいい人たちだった。「あこがれの店とマスターに会えたことに感激です!」とは、嬉しいやら面映いやら。「なっちゃん」も同席して出会いを楽しんだ。Hirayamaさんも、バイオリンを弾いて遠来の客を喜ばせた。
放映されたテレビ番組の録画DVDが、3日ほど前に田中さんから届いた。私が見ていないと言ったからだが、自分が写ったものを見る勇気がなかなか持てない。
11月13日(土) Taro君が友人2人と深夜の来店。父は開業医、母は先のブログでスカーフを忘れた人だ。Taro君も医者になっていた。小学生の頃から時々両親とやってきては、酒を飲む両親のかたわらでスパゲティ・ペペロンチーノをほおばっていた。若いがなかなか重厚な雰囲気になっていた。
この夜は、Taro君の隣に2人の外科医が陣取っていた。大学で同期だったという男女である。
女性のManaさんは院長たちと初めての来店の折、いきなり立ち上がってあいさつをもらった。失礼だが面白すぎるキャラクターである。数ヶ月間(?)当地の総合病院に勤務する。男性の方は彼女の前任で、この日は先輩医師の講義のために当地に来た。風貌から想像できると思うが、ものすごく毛深い人である。人類の進化を逆にたどっているかのような裸の写真があるがここへ紹介するにはいささかの抵抗がある。本人には掲載許可をもらったが、いつか「人体見本」として掲載することがあるかもしれない。
11月20日(土) 広島市で高校の同窓会があった。羽田から空路広島に到着。同窓会開始まで、原爆ドームや資料館を見学。約半世紀ぶりだった。ドームの周辺にずいぶん建物が増えたようだ。資料館の入館料が50円という廉価だったことにも驚いた。小学生の頃、原爆の映像を学校で見た。当時は幻灯といった白黒のスライドだったと思う。折り重なる被爆者の中を肉親を探してさまようシーンがおぼろげな記憶にある。あれはドラマだったのかドキュメンタリだったのか。今回の訪問で痛ましい写真の中に、それらあいまいな記憶につながるような数点を見つけた。
「ああ、やれんのう、こがあな辛い目に、なんで遭わにゃあいけんのかいのう」で始まる秋葉広島市長の今年の平和宣言も掲示されてあった。秋葉市長の平和宣言には毎年注目しているのだが、乗ったタクシーの運転手からはいい評価は聞けなかった。
同窓会で感じたことのひとつ。高校時代のその人らしさは40年を経過しても、そうは変わらないものだということ。各部屋に引き上げてからの2次会が解散して、私とAsahara君はホテル内外泊と相成った。なんと女性たちの部屋で寝ていたのだ。もちろん女性たちの許可があってのこと。
来年はふるさと島根での同窓会が決定した。
11月25日(木) 映画「いのちの山河」上映会。3回の上映で1、000人を超える来場があった。まずは大成功。
11月28日(日)「第5回にいがた自治体学校」に参加する(於・新潟市)。受付で元県議に会った。彼は島根県松江市の出身、新潟島根県人会で顔を合わせて以来、社会的問題について多くの示唆をいただき、協同の行動をおこなってきた。「久しぶり!選挙の応援をしてもらって以来だね、落選したときの・・・」。確かに島根県人会を代表して彼の応援演説に立ったことがあるし、そのときの選挙で彼は落選もした。だが、それ以来ではない。何度も何度も会っている。加齢による健忘か・・・。ちょっと悲しくなった。
講演は渡辺治・一橋大学名誉教授による「民主党政権の新段階と新たな国づくりをめぐる対抗」。話はよかったらしいが、私はほとんど居眠りをしていた。2部のシンポジウムでは、「深刻さを増す中小工業と地域経済の実態の中で」として、中小業者の商売や暮らしが極度に悪化している切実な実態が報告された。「売上げは通常の半分以下、このままの状態では商売を続けられない」「遠くの現場が多く、経費が多くかかり利益が出ない。職人に支払うと自分の生活費も出ない」「仕事が出ても単価が安く、仕事をしながらジリ貧状態だ。職人の手間を払うと自分の取り分は残らない。ここまで頑張って従業員も抱えてきたが限界に来ている。続ければ続けるほど赤字になる」「3日に1日ぐらいしか仕事がない。家族で働いてなんとか生活している」
本業の商売だけでは生活も維持できない状態の中で、業者婦人がアルバイトを掛け持ちして商売を支え、家族の暮らしを必死で支えている。今は事業主も本業以外のアルバイトに出ているケースが増加している。「ぶっ倒れないのが不思議だ」との悲鳴があがっている。なにやら私が訴えているようだ。
新潟県では年収200万未満の人が48%だという(2009年)。また、従業員4人以下の事業所は統計には現れないのだという。表面に現れないところでこうなったのは自分のせいとする自己責任論が、精神的にも自分を追い詰める。
昨年、新潟県の自殺率は全国のワースト6位だった。原因では健康問題に次いで「経済・生活苦」が多くなり、40、50代では「経済・生活苦」が原因の第1位となっている。中小業者の自殺が増加してきていることも指摘があった。
最後に主催者側を代表してあいさつをした石崎誠也氏(新潟大学教授)は、新潟大学の来春卒業予定者の就職内定率が51%だと報告をした。全国平均57%(10月現在)を下回っている。このままだと卒業と同時に約半数の学生がワーキングプアになる。
11月29日(月) 上映実行委員会総括会議(於・夭夭亭) 報告の後、飲み会になった。
11月30日(火) なんと島根県飯石郡生まれの人が来店。しかも出身中学校は広島の爆心地に一番近い「のぼりまち中学校」。製薬会社の社員で現在は新潟勤務なのだ。島根生まれで、つい10日前に広島へ行って来たばかりの私と、話が弾まない方がおかしい。
連れの2人が帰った後、カラオケを歌いに連れ出された。結婚前の名前が「永業(えいぎょう)」と紹介されたが、島根県には変わった苗字が少なくないように思う。20日の同窓会出席者にも珍しい苗字があった。城納君は広島県の副知事をしていて「じょうのう」と読む。非々君は結婚して平凡な苗字になっていた。こちらは「ひひ」と読む。「錦織」は近年よく聞く。同窓生にもいる。正しくはどう読むのかあらためて聞いてみた。「にしこおり」だったかな?「にしこり」「にしごおり」などもあるようだ。
12月1日(水) いよいよ今年も師走。上映会打ち上げが私の店であった。都合が悪くて欠席の人もいたが、大成功だっただけにみんな上機嫌で話は盛り上がり、酒もすすむ。よきかなよきかな。
12月3日(金) 師走の金曜日なのにどうしてこんなにヒマなの?
12月4日(土) 明日は塩引鮭の仕事が休みということで、一緒に働いているOgataさんが最初のお客。そして、教育委員会のHonmaさんと教員のふたりが最後の客。その前にはインドつながりのEmiさんが友人3人を連れて久々の来店。8月のプレミアムパーティ以来かな。そのときには一家5人で来てもらってあたたかい家族に触れてこちらもいい気分であった。この夜の友人は以前の職場で一緒だった人たち。そのうちの1人が版画家棟方志功が描く女人像にそっくりだ。携帯で画像を引き出してみると本人も認めるほど酷似している。
今年結婚したY.Itagaki君の奥さんも棟方好みの美人だ。色白でふっくらした頬、切れ長の目、赤い唇。ふくよかさとたくましさ、仏のような奥深い優しさを内に秘めている。Emiさんはなんと年明けそうそう2カ月のインド旅行にでかけるという。インドなど、アジアングッズのお店をやりたいという夢があるらしい。
「石亀」のママ、Emiさんも店を終わって来店。「ママだよ」とみんなに紹介したら、ママは娘のSayakaで、自分はババですと言う。Tumugiちゃんという初孫の誕生で新米おばあちゃんは顔がほころんでばかり。携帯の動画を見せてもらったが、確かに可愛い。彼女Tumugiちゃんが私の店に顔を出すとEmiさん一族4代目の顔見世だ。
12月5日(日) 2度寝の後、8時半に目覚めた。いい天気だ。今日はなんの予定もない。冷たいビールでもきゅっとやるか。店のビールを2本持って自宅へ帰る。妻は仕事へ出かけたらしい。愛犬ナメロ-を脇に坐らせてから、ビールを喉の奥に流し込む。こんな幸せがこの世にあろうか。至福の一瞬だ。今日は中断しているブログを更新しよう。私は上機嫌でパソコンに向かった。
すると、ナメローが椅子から跳び降りて吠え出した。誰やらきたらしい。Ogataさんだった。「バーベキューをしようよ」。Ogataさんも好天の休日で気分上々らしい。
このあと、Somaさんも誘ってわが家で昼間の飲み会になった。だが、私はいつの間にか眠り込んだようだった。ソファーで目覚めて時計を見た。5時だ。外は薄暗い。あたりには誰もいない。弁当をつくって塩引鮭をつくりに行かなくては・・・。ん、待てよ。朝の5時なのか?テレビをつけてみる。なんだ、夕方の5時じゃあないか。
こうして、ブログは更新できないまま12月6日になった。
ここのところ、ブログを更新できないでいる。先回もにっしーさんからお叱りを受けた。ブログネタは溜まるし、気にはなっているのだが、なにしろ時間がない。11月から当地の特産物「塩引鮭」づくりに従事しているのだ。日曜祭日を除き、午前9時から午後5時まで、生鮭の処理、洗い、そして塩をすり込んで数日後、今度は塩出しをして吊るし干しにする。すでに900匹の鮭を3人で処理した。これからは干す作業が続く。日中のこの仕事を終えてから店へでかける。なかなかゆっくりとパソコンに向かう時間が持てないのだ。
10月16日(土) Kodama先生が数年ぶりに来店。中学校の教頭になっていた。どこかの大学教授と一緒で、語り合う話の中身は教育に関することばかり。隔世の感がある。彼が新卒の新米教師として市内の学校に赴任した頃は、連日のように店に来ては飲んで語らった。新潟市のホテルでおこなわれた彼の結婚披露宴では、私が司会を務めた。あの頃はよく結婚披露宴の司会を頼まれた。当時若かった教師たちも何人かは管理職になった。市内の中学校の校長も先日、若手の教師たちを連れてきた。日本でトライアスロンがおこなわれはじめた頃、宮古島大会に参加するなど、体育会系の行動派だった。「管理職にはいちばん遠い教師だと思っていたのになあ・・・」との、私の感慨にいっしょになって笑った。
10月26日(火) 「若女将の会」6名様がご来店。料亭、旅館、ホテルの若い女将さんたちだ。
料亭「千渡里(ちどり)」からはMiyakoさん、トライアスロン実況の私のパートナーだ。Yukikoさんは東京から地元の老舗料亭「能登新」に嫁いできた。和服に身を包むと、しっとりしたまさに若女将だが、プライベートでは現代的で都会風な若いお嫁さんなのだ。
この夜は、映画「いのちの山河」無料試写会もあった。およそ150人が招待に応じてくれた。この試写での評価が本上映に影響する。広島出身の普済寺住職が奥さんと連れ立って来てくれた。後援をしてもらった村上総合病院からは院長や副院長も・・・。医者のいない離島粟島の村長なども招待したが荒天で船が欠航。残念だった。
10月30、31日(土、日)市内のユリ栽培の第一人者といってもいいOtakiさんが、数人で遅くの来店。Otakiさんは専業農家。カサブランカを中心に数種のユリを栽培している。この夜は彼のもとで働いていた青年の送別会の流れだった。
7月になるとOtakiさんのユリは出荷の最盛期を迎える。私は10年も前から、収穫の手伝いをしている。出荷できない大量のユリをいただき、知人に配ったり店の客に持ち帰ってもらって喜ばれている。このユリもOtaki夫妻が育てたものだ。名前を聞いたが忘れてしまった。ゴメンナサイ。
米づくりは「マガモ米」と称して雑草をマガモに食べてもらう自然農法をおこなっている。田んぼの除草に一役かったマガモは、役目を終えて人間の胃袋に収まる。暮れから正月にかけてのご馳走になるのだ。合掌。
この夜は、空手指導者のShinicihroさんやIinumaさん、歯科助手のMikaさんなども集っておおいに気勢をあげた。午前2時半を回って轟沈。
11月3日(祝日) 大滝舞踊研究所発表会
招待を頂いていたが、昨日から始まった「塩引鮭」づくりの慣れない仕事で疲れて、出かける気にならなかった。このモダンバレエ研究所とは30年来の付き合いがあり、出演や舞台美術を要請される。バレエができるわけではないから、ナレーションや舞台でのちょっとしたからみに出る。来年は研究所設立40周年記念ということで、すでに出演の打診があった。何をするのかは決まっていない。
「塩引鮭」づくりに従事して、久々に身体で覚える仕事を実感している。鮭のエラの付け根に包丁を刺しこみ、カマに沿ってグサグサと切り取る。鮭の肛門に包丁の切っ先を入れ腹を割いて内臓を掻き出す。一連の作業を流れるように、あるいはリズミカルにこなすには熟練が必要だ。私にはまだまだだ。
バシャバシャと水道の水を流しながらの、これらの作業中、ある歌人を思い浮かべていた。それは市内在住の稲葉範子さんだ。専業農家に生まれ、専業農家の青年と結婚、農業を続けながら歌を詠み続けている人だ。数年前に中央の歌壇賞を受けている。歌人と呼ぶべき人なのだ。数ヶ月前に歌集「綿雪」を頂いた。彼女の歌は農業を夫を子供を、その折々の哀歓を詠う。なぜ鮭を捌きながら彼女を思ったのか。それは労働や作業を歌にできる彼女の豊かな感性に思い至ったことと、農業のかたわら、農閑期にはスーパーの魚屋で働いていたことを知っていたからだ。
「スーパーの魚売り場の水仕事野良の仕事といずれたやすき」「手のひらに包丁だこと鍬だこが並びぬ野良と魚屋の仕事」。さらには「近海の真鯖が旬の季節なり包丁の腹に脂つきくる」「あんこうの大きな口に出刃先を刺せばぬるりとよだれをたらす」「包丁に傷めし指を庇いつつ冷たき作業のひとひは長し」
よく働く彼女は、よく酒を飲む人でもある。飲みながら聞いたエピソードはこんな歌になっていた。「酔い痴れてトイレに転び水洗の便器一式毀してしまいぬ」
11月12日(金) 料亭「千渡里(ちどり)」で鮭料理を賞味してきたと、東京から田中ブラザースさんが来店。『居酒屋味酒覧』の著者、太田和彦さんと知友だそうで、著書の紹介記事や以前スカパーTVで放映された番組を見たことが来店動機だとか。東京からやってきた仲のいい男だけの3人兄弟、だから田中ブラザース。一緒になって飲んだが本当に気持ちのいい人たちだった。「あこがれの店とマスターに会えたことに感激です!」とは、嬉しいやら面映いやら。「なっちゃん」も同席して出会いを楽しんだ。Hirayamaさんも、バイオリンを弾いて遠来の客を喜ばせた。
放映されたテレビ番組の録画DVDが、3日ほど前に田中さんから届いた。私が見ていないと言ったからだが、自分が写ったものを見る勇気がなかなか持てない。
11月13日(土) Taro君が友人2人と深夜の来店。父は開業医、母は先のブログでスカーフを忘れた人だ。Taro君も医者になっていた。小学生の頃から時々両親とやってきては、酒を飲む両親のかたわらでスパゲティ・ペペロンチーノをほおばっていた。若いがなかなか重厚な雰囲気になっていた。
この夜は、Taro君の隣に2人の外科医が陣取っていた。大学で同期だったという男女である。
女性のManaさんは院長たちと初めての来店の折、いきなり立ち上がってあいさつをもらった。失礼だが面白すぎるキャラクターである。数ヶ月間(?)当地の総合病院に勤務する。男性の方は彼女の前任で、この日は先輩医師の講義のために当地に来た。風貌から想像できると思うが、ものすごく毛深い人である。人類の進化を逆にたどっているかのような裸の写真があるがここへ紹介するにはいささかの抵抗がある。本人には掲載許可をもらったが、いつか「人体見本」として掲載することがあるかもしれない。
11月20日(土) 広島市で高校の同窓会があった。羽田から空路広島に到着。同窓会開始まで、原爆ドームや資料館を見学。約半世紀ぶりだった。ドームの周辺にずいぶん建物が増えたようだ。資料館の入館料が50円という廉価だったことにも驚いた。小学生の頃、原爆の映像を学校で見た。当時は幻灯といった白黒のスライドだったと思う。折り重なる被爆者の中を肉親を探してさまようシーンがおぼろげな記憶にある。あれはドラマだったのかドキュメンタリだったのか。今回の訪問で痛ましい写真の中に、それらあいまいな記憶につながるような数点を見つけた。
「ああ、やれんのう、こがあな辛い目に、なんで遭わにゃあいけんのかいのう」で始まる秋葉広島市長の今年の平和宣言も掲示されてあった。秋葉市長の平和宣言には毎年注目しているのだが、乗ったタクシーの運転手からはいい評価は聞けなかった。
同窓会で感じたことのひとつ。高校時代のその人らしさは40年を経過しても、そうは変わらないものだということ。各部屋に引き上げてからの2次会が解散して、私とAsahara君はホテル内外泊と相成った。なんと女性たちの部屋で寝ていたのだ。もちろん女性たちの許可があってのこと。
来年はふるさと島根での同窓会が決定した。
11月25日(木) 映画「いのちの山河」上映会。3回の上映で1、000人を超える来場があった。まずは大成功。
11月28日(日)「第5回にいがた自治体学校」に参加する(於・新潟市)。受付で元県議に会った。彼は島根県松江市の出身、新潟島根県人会で顔を合わせて以来、社会的問題について多くの示唆をいただき、協同の行動をおこなってきた。「久しぶり!選挙の応援をしてもらって以来だね、落選したときの・・・」。確かに島根県人会を代表して彼の応援演説に立ったことがあるし、そのときの選挙で彼は落選もした。だが、それ以来ではない。何度も何度も会っている。加齢による健忘か・・・。ちょっと悲しくなった。
講演は渡辺治・一橋大学名誉教授による「民主党政権の新段階と新たな国づくりをめぐる対抗」。話はよかったらしいが、私はほとんど居眠りをしていた。2部のシンポジウムでは、「深刻さを増す中小工業と地域経済の実態の中で」として、中小業者の商売や暮らしが極度に悪化している切実な実態が報告された。「売上げは通常の半分以下、このままの状態では商売を続けられない」「遠くの現場が多く、経費が多くかかり利益が出ない。職人に支払うと自分の生活費も出ない」「仕事が出ても単価が安く、仕事をしながらジリ貧状態だ。職人の手間を払うと自分の取り分は残らない。ここまで頑張って従業員も抱えてきたが限界に来ている。続ければ続けるほど赤字になる」「3日に1日ぐらいしか仕事がない。家族で働いてなんとか生活している」
本業の商売だけでは生活も維持できない状態の中で、業者婦人がアルバイトを掛け持ちして商売を支え、家族の暮らしを必死で支えている。今は事業主も本業以外のアルバイトに出ているケースが増加している。「ぶっ倒れないのが不思議だ」との悲鳴があがっている。なにやら私が訴えているようだ。
新潟県では年収200万未満の人が48%だという(2009年)。また、従業員4人以下の事業所は統計には現れないのだという。表面に現れないところでこうなったのは自分のせいとする自己責任論が、精神的にも自分を追い詰める。
昨年、新潟県の自殺率は全国のワースト6位だった。原因では健康問題に次いで「経済・生活苦」が多くなり、40、50代では「経済・生活苦」が原因の第1位となっている。中小業者の自殺が増加してきていることも指摘があった。
最後に主催者側を代表してあいさつをした石崎誠也氏(新潟大学教授)は、新潟大学の来春卒業予定者の就職内定率が51%だと報告をした。全国平均57%(10月現在)を下回っている。このままだと卒業と同時に約半数の学生がワーキングプアになる。
11月29日(月) 上映実行委員会総括会議(於・夭夭亭) 報告の後、飲み会になった。
11月30日(火) なんと島根県飯石郡生まれの人が来店。しかも出身中学校は広島の爆心地に一番近い「のぼりまち中学校」。製薬会社の社員で現在は新潟勤務なのだ。島根生まれで、つい10日前に広島へ行って来たばかりの私と、話が弾まない方がおかしい。
連れの2人が帰った後、カラオケを歌いに連れ出された。結婚前の名前が「永業(えいぎょう)」と紹介されたが、島根県には変わった苗字が少なくないように思う。20日の同窓会出席者にも珍しい苗字があった。城納君は広島県の副知事をしていて「じょうのう」と読む。非々君は結婚して平凡な苗字になっていた。こちらは「ひひ」と読む。「錦織」は近年よく聞く。同窓生にもいる。正しくはどう読むのかあらためて聞いてみた。「にしこおり」だったかな?「にしこり」「にしごおり」などもあるようだ。
12月1日(水) いよいよ今年も師走。上映会打ち上げが私の店であった。都合が悪くて欠席の人もいたが、大成功だっただけにみんな上機嫌で話は盛り上がり、酒もすすむ。よきかなよきかな。
12月3日(金) 師走の金曜日なのにどうしてこんなにヒマなの?
12月4日(土) 明日は塩引鮭の仕事が休みということで、一緒に働いているOgataさんが最初のお客。そして、教育委員会のHonmaさんと教員のふたりが最後の客。その前にはインドつながりのEmiさんが友人3人を連れて久々の来店。8月のプレミアムパーティ以来かな。そのときには一家5人で来てもらってあたたかい家族に触れてこちらもいい気分であった。この夜の友人は以前の職場で一緒だった人たち。そのうちの1人が版画家棟方志功が描く女人像にそっくりだ。携帯で画像を引き出してみると本人も認めるほど酷似している。
今年結婚したY.Itagaki君の奥さんも棟方好みの美人だ。色白でふっくらした頬、切れ長の目、赤い唇。ふくよかさとたくましさ、仏のような奥深い優しさを内に秘めている。Emiさんはなんと年明けそうそう2カ月のインド旅行にでかけるという。インドなど、アジアングッズのお店をやりたいという夢があるらしい。
「石亀」のママ、Emiさんも店を終わって来店。「ママだよ」とみんなに紹介したら、ママは娘のSayakaで、自分はババですと言う。Tumugiちゃんという初孫の誕生で新米おばあちゃんは顔がほころんでばかり。携帯の動画を見せてもらったが、確かに可愛い。彼女Tumugiちゃんが私の店に顔を出すとEmiさん一族4代目の顔見世だ。
12月5日(日) 2度寝の後、8時半に目覚めた。いい天気だ。今日はなんの予定もない。冷たいビールでもきゅっとやるか。店のビールを2本持って自宅へ帰る。妻は仕事へ出かけたらしい。愛犬ナメロ-を脇に坐らせてから、ビールを喉の奥に流し込む。こんな幸せがこの世にあろうか。至福の一瞬だ。今日は中断しているブログを更新しよう。私は上機嫌でパソコンに向かった。
すると、ナメローが椅子から跳び降りて吠え出した。誰やらきたらしい。Ogataさんだった。「バーベキューをしようよ」。Ogataさんも好天の休日で気分上々らしい。
このあと、Somaさんも誘ってわが家で昼間の飲み会になった。だが、私はいつの間にか眠り込んだようだった。ソファーで目覚めて時計を見た。5時だ。外は薄暗い。あたりには誰もいない。弁当をつくって塩引鮭をつくりに行かなくては・・・。ん、待てよ。朝の5時なのか?テレビをつけてみる。なんだ、夕方の5時じゃあないか。
こうして、ブログは更新できないまま12月6日になった。
by yoyotei | 2010-12-07 19:38