また新年が巡ってきた
両人対酌すれば 山花開く
一杯一杯 復(ま)た一杯
我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しば)らく去れ
明朝意有らば 琴を抱いて来(きた)れ
店のドアに掲げる新年のあいさつに今年は李白の詩を借りた。「山中にて幽人と対酌す」と題する詩だ。幽人(ゆうじん)は世を避けて山奥に住んでいる人をいう。山中で幽人と酒を酌み交わしていたら、酔って眠くなった。そこで李白は、君はひとまず帰れ、明日の朝、気がむいたら琴を抱いてまた来たまえというのだ。当時、中国の男子は教養として琴を弾いたという。
李白には酒の詩が多いが、その中からこの詩を選んだのにはちょっとしたわけがある。昨年の暮れには店で客と飲んでいて眠りこんだ事が数度あったのだ。当地の特産「塩引き鮭」づくりに関わって、睡眠時間がかなり削られたことも要因のひとつだが、酒に弱くなったこともあるのだろう。夜の12時をとっくに過ぎているのだから、「我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しば)らく去れ」と言えば、客だって素直に応じてくれるにきまっている。それが客と話をしながら眠ってしまうのだった。
李白には「自遣」と題する詩もある。「對酒不覚暝 落花盈我衣 醉起歩溪月 鳥還人亦稀」。「酒と差し向かいでいたら、日が暮れたのに気がつかなかった。降りしきる花びらは、私の衣にいっぱいになった。酔った後の眠りから覚めて、谷川の月にそぞろ歩きをすると、鳥たちはねぐらに帰り、人影もまた稀であった」と、こちらは昼酒だ。私の場合は、夜明け近くに酔った後の眠りから覚めると、店には人影もない。客たちはタクシーを呼んで帰ったらしい。後片付けや洗いものをしていると、新聞配達の車が通る。
そんな風にして年は暮れた。塩引き鮭の仕事が30日で終わり、大晦日はOgata氏と昼間から温泉に行った。彼が無料の入湯券を持っていたからだ。瀬波温泉の磐舟(ばんしゅう)という古い宿である。風呂場まで急な階段を上らなくてはならない。息が切れた。
帰りがけにフロントで知人と会った。別のホテルに勤めていた人で、そのホテルで私の店の25周年パーティーをおこなった際に世話になった人だ。「いろいろありまして・・・」と、勤務先を替えたことに言及したが、具体的な理由をたずねるほどの仲ではない。その人の妹とは演劇を一緒にやったことがあったが、消息をたずねることもしなかった。腰が低く笑顔を絶やさない人だが、その笑顔にちょっと卑屈さの見えるのが気になった。
「紅白歌合戦」を観た。それも初めの数分だけ。赤組司会者が「ゲゲゲの女房」で、この連続朝ドラは貧乏時代が長く、漫画が売れ出したときには、ドラマに引きずられながら「よかった、よかった」と一緒になって喜んだ。現在放映中の「てっぱん」は村上あかり役の若い女優も悪くはないが、かつての東映任侠映画のヒロイン「緋牡丹のお竜さん」こと、富司純子がいい。実は「紅白」には特別審査員として彼女が出演するのではと予測していたのだった。彼女が出ていないのを確認してチャンネルを替えた。それにしても勝ち負けを争うようなこの番組のコンセプトには以前から疑問を持っている。「お遊び」だとしても幼稚だ。「紅白歌の祭典」でもいいのではないか。
元旦。このブログの更新をと、パソコンに向かったら携帯が鳴った。「どうしてますか?」とJojiさんからだ。携帯を通して酒が匂って来る。「暇をしてるよ」「来ませんか。おふくろの所。酒、何かあります?」「あなたがこの間置いていった薩摩の焼酎が・・・」。話は早い。一升瓶をぶら下げて出かけた。
Jojiさんの実家には88歳になる母親と未婚の妹が2人で暮らしている。彼とは長く濃い付き合いを続けて20年近くになる。社会的な活動はほとんど彼と連携してきた。酒もどれだけ酌み交わしたことか。短い海外旅行も数度、3年前にはインドまで引っ張って行った。インド行きの彼の服装がジャージにスニーカーだった。後日その写真を見た私の三女が、すかさず「ジャージ・Joji」と命名した。
ジャージ・Jojiの妹が古いギターを出してきて、88歳のご母堂も老人クラブの集まりで配られたという古い歌の歌集を探し出してこられた。みんなで古い歌を歌った。やがて酔ったジャージ・Jojiが電話をかけた。共通の知人で1人暮らしのOgata氏にである。ジャージ・Jojiは「これから行くよ」と言って電話を切って立ち上がり、私も飲みかけのワインを持って彼に従った。
Ogata氏のアパートのドアを叩いたが応答がない。あらためて電話をするが出ない。「おかしいな」と、ジャージ・Jojiはさらに激しくドアを叩くがやはり応答がない。「もういいよ」と彼を制してわが家へ行く。互いのグラスにビールを注いだところで私の記憶は途切れた。「我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しば)らく去れ」と言ったわけではないが、酔った後の眠りから覚めると、ジャージ・Jojiの姿はなく、彼のカバンだけがむなしくソファーに置かれてあった。
これには、後日談がある。Jojiさんが電話をした相手はOgata氏ではなかったのだ。まちがって電話をかけられた誰かさんは、今来るか今来るかと元旦の夜をジャージ・Jojiを待って過ごしたということだ。誠実さを疑われたOgata氏には罪もなければ事の成り行きを知る由もない。携帯の電源を切ってアパートは不在にしていただけのことだ。さすがのジャージ・Jojiも酔った自分の所業にしょげていた。
今年の仕事始めは3日だった。10数名の予約を昨年の早い時期からもらっていた。
この日、新潟市に住む次女と東京・世田谷に住んでいる三女が帰郷した。それぞれに1人ずつの子どもがいる。三女は4月末に第2子を出産の予定だ。私にとっては6人目の孫ということになる。
いちばん年長の孫は今春、高校生になる。すでに志望校への推薦入学が内定したということだ。元旦にメールのやり取りをした。「今年からは高校生だな、ゆとりができたらキミと旅をするのが夢だよ。よい年になりますように」と私。「ボクもそれを願っています。また今度お会いしましょう。失礼します」。な、なんだ、この他人行儀な言葉遣いは・・・。塾とか学校で面接の練習でもした結果なのか。
7年前、店に来た県職員たちの中にその女性はいた。「今度、1人で来てもいいですか」といったが、数日後、顔を見せたときには男性と一緒だった。「どういうつながりなんだ?」と私が驚くくらいにその男性のことは知っていた。といっても知っていたのは彼のごく一部だけだったということを、深刻な報告と共に知ることになった。
その女性Yokoさんはほとんど電撃的にその男性と結婚した。結婚を祝うパーティーには私も招かれた。教員をしていたが何らかの理由で辞めたことは本人から聞いていたが、その理由は知らなかった。その後、彼は安定した職についていたし、実家の支援もあって結婚生活は順調だと思っていた。やがて男児も誕生した。
昨年の2月、深夜を過ぎても、いつになく賑わっていた店に彼が来た。以前から酔って普通ではない状態におちいることが気になっていたが、その夜の彼は視線がまったく定まらず、周りの状況も私の声もわからないようだった。車を呼んで、帰るようにすすめても聞き入れない。私が声を荒げ、たまたまいた古い常連の看護士がなだめて、ようやくにしてタクシーに乗せた。3日程して、迷惑をかけたと謝りの電話があった。大丈夫なのか?仕事には行っているのか?と聞いたが、応えはあいまいで声は小さかった。高校時代の担任で、彼をよく知る教師に様子を見てやってくれとそれとなく頼んだこともあった。
正月気分の中にどっぷり浸かっていた4日。Yokoさんが1人息子を連れて店に来た。今までにないことだった。ただ事ではないと感じながら彼女が口を開くのを待った。
「彼と別れる事を前提に引っ越すことにしました」
かすかな予想が的中したように感じた。
Shinitiroさんや弟のHideyukiさんが息子の相手をしてくれている中で、彼女から話を聞いた。うつ病、アルコール依存、暴力・・・。パトカーを呼ぶなどの修羅場を繰り返した挙句の入院。「私がなんとか力になって・・・」と頑張ったが、「力尽きました」と彼女は涙を浮かべた。私は、子どもと自分のことをいちばんに考えることを進言し、きっと子どもが支えになると力づけた。話を聞いていたのかShinitiroさんは、「お母さんを守れよ!」と小学1年生の息子に何度も語りかけた。
「マスター、Yukaだよ」と、Hideyukiさんが自分の携帯を私に渡した。「Yuka、おめでとう」「マスター、今年は絶対お店に行くからね」「おお来いよ、待ってる」
10年ばかり前、同じ村の中学の同窓生たちが足しげく店に通っていた。中心はHideyukiさんだった。毎月のように誰かの誕生会と称して集まっては遅くまで盛り上がった。後片付けをし、洗い物をして帰るのが彼らの慣わしのようになっていた。当時カメラ店に勤めていたYukaはそんな賑わいを撮影するのが常だった。おびただしい数の当時の彼らの写真は、今も店の引き出しにある。やがて彼らにも結婚の季節が訪れ、Yukaも結婚した。結婚すれば酒場から足が遠のくのはあたりまえだ。
久しぶりのYukaの声だった。電話を切るとHideyukiさんが言った。「Yukaも厳しい人生を生きてますよ」「ん?」「Yukaのだんな、肩から下が不随なんですよ。自損の交通事故で・・・」
私は言葉を失った。電話のYukaの声にはそんな重い現実を抱えた悲壮感はなかった。
Hideyukiさんも結婚し、子どもにも恵まれながら離婚して数年になる。ようやく、再婚という選択肢も見えてきたようだ。昨年の暮れの「来年こそは・・・」という言葉に力がこもっていた。そして、新しい年が巡ってきた。
冒頭の李白の詩の一節、「我酔欲眠卿且去」。「わたしは酔って眠たくなった。きみもひとまず帰りたまえ」は、「篇篇酒あり」といわれた六朝の詩人陶淵明による。酒が好きで、誰が訪れて来ても一緒に酒を飲んだ陶淵明だが、先に酔っ払ってしまうと客に向かって言ったという。
李白はそれに続けて「明日の朝、気がむいたら琴を抱いてまた来たまえ」としたのだが、同じ酒飲みの私はこう言おう。
「何かあれば我が店に来たれ。何もなくても我が店に来たれ。琴は抱かずともよし。悩みがあればそれを抱いて来たれ。ここには酒があり人がいる」
そして、歌ってあげよう。「喜びも悲しみも立ち止りはしない、巡りめぐって行くのさ」(『生きてりゃいいさ』河島英五)
そういえば、暮れにIijimaさんが来た。東京でデザイン会社を立ち上げて20年。ようやく借金を返済したということだった。この厳しい時代に「本当に苦しかったです」と打ち明けた。そして、今年はおおいに飲みに来ますよと、嬉しく力強い言葉を聞いた。さらに、今小説を執筆中だという。おっと、これはまだ内緒かな。
それにしても多才な人だ。かつては詩も書いていて、曲が付けられてCDもある。彼によってインド音楽家伊藤公朗、美郷夫妻を知り、私の店などで演奏会もした。夫妻の初めてのCDアルバム「YATORI」は今も店で流れている。
アルバムの中で伊藤美郷さんは、ラビンドラナート・タゴールの詩を歌う。
「こんな夕暮れに 市場はもう終わったのに 籠をさげ あなたはどこへ急いで行くのです」。このフレーズは何度も何度も繰り返される。
ほんとうに私たちはどこへ行こうとしているのだろう。なにを急いでいるのだろう。
また新しい年が巡ってきた・・・。
by yoyotei | 2011-01-07 20:12