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動物達の白熱教室

 前回「犬たちのひと時」と題して、彼らの語り合いを紹介したところ、意外にも好評を得ておおいに気をよくした。気をよくすると第2弾、第3弾と続けたくなるのは古今東西、人の世の常だ。そこで、今回は新人も交えて「異業種」ならぬ「異種間討論」なるものをおこなうことにした。昨年、ハーバード大学史上空前の履修者数を記録し続けている、マイケル・サンデル教授の講義が「ハーバード白熱教室」としてNHKで放映されたし、国内でも日本版の「白熱教室」として、公開講義が千葉大学などでおこなわれ、先ごろTV放映された。そこで、ここでは「動物たちの白熱教室」と題してお伝えする。なお、今回のテーマは「幸福について」である。
それではレオパードさんから話をはじめてもらおう。
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 てなことで今回は幸福についてということですわ。カール・ヒルティ(1833~1909)は『幸福論』のなかで、<幸福>という言葉を口にするとき、幸福はすでに逃げている、だから幸福は本来ただ無意識のうちにのみあるのだと述べておりますな。幸福への問いかけは不幸のなかでのみ発せられるというわけです。ヒルティに従えば幸福をテーマに選んだところで、ここにいてはるみんなが不幸ということになるんやが・・・。
 せやけど、なにをもって幸福とするかはほんま難しいわな。まあ通常は神社仏閣などで多くの人がお願いしはります、無事、安全、長久、安泰といったことやね。生活も経済的に安定した状態で将来不安はなく、重い病を抱えず、家族はめっちゃ仲良しとなれば、これは幸福やわな。なんや現世利益だけで、それだけでええんかいなとも思いますんやが・・・。
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 そうです。私にしても雨露をしのぐ住まいはあり、食に困ることもありません。将来の生活上の不安もありません。前にもこの場で言いましたが、時々やってくるトイプードルが少しばかり平穏を乱すことがあります。それをのぞけば「無事安全」についての不満もありません。充分に幸福といえるでしょう。
 しかしです。食べて寝て、怪しげな者がいれば少し吠える程度で、毎日が過ぎていきます。無事安全はいいとしても、無難に過ぎていく毎日に飽き飽きしているのも事実です。
 少しの精神的緊張もない生活を幸福だと思えないのは贅沢というものでしょうか。
 無事安全にしがみついて、ほんとうの生きがいを求めようとしない者を、ニーチェは侮蔑しました。失敗を恐れずに理想と価値を求めて船出をする、自分の生きがいに向けて努力をする、そこに充実した幸福があるのではないか、と最近は考えるようになりました。
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 時々やってくるトイプードルって、あたしのことじゃあないわよね。あなたとは初対面ですもの。ところでレオパードさんの「無事安全」の幸福だっていつ破綻するかわかんないわ。天変地異、災害、事故や不運など、予期しないことで不幸のどん底に突き落とされるってことはいくらでもあるじゃあないの。病気で愛するものを失うこともあるし、なめろうさんのいう「生きがいの追及」にしても、努力が報われずに挫折した例を、あたしはいくらでも知ってるもの。努力や精進をした結果の果実を手にする者はほんとうにわずかだわ。幸福ってそんなわずかなものにしか獲得できないものなのかしら。真の幸福というのは、無事安全や生きがいの追求だけでは約束されないってことじゃあないの。これって結果だけを望むからかしら?あっ、あたし女言葉を使ってるけど、男子なのよ。念のため。
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 カールちゃん、あっいやカール君やったな。あんさんの指摘はまさにそのとおりでんな。なめろう君の「生きがいの追及」も、その多くが挫折に終わり、労多くして悲運や不運に泣くことが無茶苦茶多い。ほんなら、それは無駄で無意味なことなんやろか。たしかに限りある命と時間のなかで、思い通りにことが運ぶ方が稀やし、なんやうちらの意志や思いを超えた、運命的なもんに翻弄されてるんとちゃうのんかいなと感じることもありますわな。徒労感にがっくりと膝をつき、厭世観や無常観に苛まれてまうのや。そやけど、失敗や挫折を恐れて無事安全にしがみつくだけで幸福といえるやろうか。たとえ望んだような結果がもたらせないとしても、必死に努力するのでなくてはならないと、カントは言っている。そうした者にだけ「恵み」の至福が訪れるということや。
 まあ、なんにもせんといて幸福を望んだかてあかんというこっちゃ。このことはヒルティやアラン(1868~1951)、バートランド・ラッセル(1872~1970)など、『幸福論』を著した3人も共通していうとることや。
 おもろいのはアランや。幸福であったり不幸であったりする理由は大したことではないや、とアランはいうのや。深い悲しみも肉体の病状に由来するのであって、我慢しておったら気分が変わると、楽天的というてもええような幸福論や。また、常識ある大人の処世訓として、社会的儀礼の重要さもすすめておるな。
 
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 ヤスパースという方は「人間は幸福であるときよりも不幸であるときのほうが、自分自身であることのできやすいものである」と言っておられます。人間さまはどうか存じませんが、わたくしたちは、ふだんあわただしく、時にあさましく餌をいただいておりますときには、ということは幸福感に満たされておりますときには、自分がトリだということを忘れているのでございます。なにしろ、トリでありながら、飛ぶことすら忘れたくらいですから・・・。
 突然、インフルエンザで大量処分という怖ろしいことになって、ああっわたくしたちはトリなんだと自覚するわけでございます。生きたい!と叫んでみてもどうにもなりません。
 ところで、ラッセル様でございますが、この方はイギリスの貴族でいらっしゃいまして、ご自由な知的活動がおできになったお方だそうでございます。そうした生い立ちからなのでございましょうか。この方の『幸福論』は、内向的な自己没頭やナルシストは不幸を招くとおっしゃられて、外向的に周囲へのバランスのある関心を持つことなどを幸福への道だとご主張なさっておられます。ですけれども、思い通りにならぬことで、内面的に深く苦悩するものにとりましては慰めにもなりません。悩むものに対して、悩むから不幸になると説くことが、果たして有効でございましょうか。
 もっとも、ラッセル様は愛情の問題にお触れになって、「幸福は相互に生命を与え合う愛情にもとづく」ということもおっしゃっておられます。そして、人生において生きる意欲を失わせる大きな原因のひとつは「自分は愛されていないという感情」だとも。そういえばどなただったでしょうか、フランスの詩にこんな1節がございました。「もっとも不幸な女は忘れられた女だ」と。わたくしのことだって、もうどなたも覚えていてはくださいませんでしょう。ああ・・・。
 あっ、わたくしも女言葉をつかっておりますけれど、世間では「オンドリ」といわれているのでございます。
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 前回、私は無常ということに少し触れましたが(え?触れてない。触れたことにしてください)、この世は思い通りにならないことの方がはるかに多い。力が及ばないことと言い換えてもいいかもしれません。そのような自分の力の及ばないことのなかに幸福を求めるのは、逆に不幸を招くことでもある、と。これはショーペンハウアーが指摘している人生論的幸福論の一端です。
 ところで、私の主人はよく酒を飲みます。日曜日の朝には冷たいビールを、グイッとうまそうに飲みます。そして幸せそうな顔をします。でも、私はけっしてビールは欲しがりません。ビールが私を幸福にするとは思えないからです。また、主人は財布からお札を取り出して、ニタッとしたり大きなため息をついたりします。なにやら、その紙切れで一喜一憂しているようです。そんなものも私は欲しがりません。そんな紙切れが私を幸福にしてくれるとは思えないのです。 
 先ほど私は生きがいということを言いました。私にとっての生きがいとは何かちょっと考えてみました。たとえば、私は主人が帰ってきたらちぎれんばかりに尻尾を振ってあげる。寂しそうな顔をしていたらジッ見つめてあげる。一緒に歩いてあげる。寄り添って寝てあげる。そして、うれしそうな主人を見ると、私もうれしくなります。私も誰かの役に立っている。そう思えたとき、私は幸福感に包まれます。生きがいとはちょっと違うかな・・・。
 先日、雪の多い朝の道でバスとすれちがいました。運転手さんが私を見て大きく手を振ってくれました。ちょっとした知り合いの運転手さんです。それだけのことでしたが、なんだかとても嬉しくて幸せな気持ちになりました。今日はいいことがあるような気がしました。数時間後、雲の切れ間から太陽が顔を出しました。雪がきらきら光りました。心があたたかいもので満たされました。幸福というのはそんなものなのかな、と思いました。
 カール・ブッセの詩のように、幸せは遠く山の彼方にはないようです。ですが、山の彼方を目指したからこそ、実は身近にあったことにやがて気づくのではないでしょうか。苦難や挫折や敗北、すなわち不幸こそが、真の幸福の扉を開くと、レオパードさんが持ち出されたヒルティが言っています。それは「不幸」と戦うことによってこそ幸福が訪れるということのようです。
 そしてキリスト教的人生観を基盤にしたヒルティは、最終的には「神のそばにある」ことこそが「真の幸福」と説きます。私は特に信仰を持ちません。持ちませんが、何かに対して謙虚であることは大事なことだと思っています。
 今回、演奏はないのですか?ない。楽器はあるけど弾けるひとがいない?
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 ネパールで入手した楽器です。「サランギ」と称したと記憶していますが・・・。
 <参考図書> 
『幸福論(第一部)』(ヒルティ 草間平作・訳 岩波文庫 1995 第77刷)
『人生の哲学』(渡邊二郎・著 放送大学教育振興会 1999)
『アラン「幸福論」の読み方』(加藤邦宏・著 プレジデント社 1994)
『落語的学問のすすめ』(桂文珍・著 新潮文庫 平成5)

by yoyotei | 2011-02-05 19:05  

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