墓地散策
陽気がよくなってきたので犬と連れ立って散歩に出る。犬は7歳ぐらいになるオスのシーズーで名前は「なめろう」という。このブログではおなじみの私の愛犬である。陽気がよくなくても、朝の放尿排便にはいっしょに外に出るのだが、今のような時季にはそれだけが目的ではないから散歩ということになる。
ほんとうはいけないことだが、なめろうにはリードをつけない。したがって車がひんぱんに走る大通りへは向かわないで、反対方向のお寺へ進み墓地に足を踏み入れる。私の家がお寺の参道に面していることはここでも書いたことがある。もっとも、なめろうは通りの方へは家の敷地から7、8メートルほどのところで足が止まって、そこから先へは行かない。自転車や郵便配達のオートバイが家の前を通るとダッシュして追いかけることがあるが、そのときですらほぼ同じあたりで追いかけるのをやめる。そこから追い出しさえすればなめろうにとってはひとまず自分の領地を守ったことになるのだろう。どこか意気揚々といった様子で引き上げてくる。かつて何度かリードをつけて連れ出したこともあるが、やはり同じ地点から歩くのを拒み「伏せ」の姿勢になる。そのあたりが自分のテリトリーの境界、そこから先は異界であって自分の力量のおよぶところではないと心得ているようでもある。
そこへいくと、山の斜面に広がる墓地では我がもの顔でどんどんと先にすすむ。そして、立ち並ぶ墓石に隠れてしまう。初めの頃はなめろうに誘導されるように墓石の間を縫って追いかけていたが、近頃は姿が見えなくなっても平気だ。しばらくほおっておいてから「なめっ、なめっ」と呼ぶと、どこからともなく姿を現してキョトンと私を見上げる。
そんなふうに、なめろうを墓地で遊ばせながら、私はちょとした墓石観察をしてみる。お盆や彼岸の時季以外は墓参者の姿はないから不審に思われることはないし、お寺はご近所さんである。
まず墓石の正面にはどんな風に刻印されてあるか。正確に数えたわけではないが、いちばん多いと思われるのは「先祖代々之墓」だろうか。つづいて「○○家之墓」も多い。比較的に墓石が新しいものではただ「○○家」というのもけっこう目につく。わざわざ「墓」と断らなくても、というささやかな主張を感じる。それはそうだ。こんなところに石塔を建てて墓以外になにがあるだろう。「○○家之墓」は、いってみれば家の表札に「○○家之家」と掲げるようなものだ。もっとも犬小屋に「ポチの家」と書くことは昔からあった。ちなみになめろうは、私が見るかぎり墓石にむかって放尿したことはない。なめろうですら墓だとわかるのだろうか。わかるはずないとはいえ、えらいものだ。
「先祖累代之墓」というのもある。「代々」と「累代(るいだい)」とはちがうのか。「広辞苑」にあたってみた。【累代】「代をかさねること。累世。代々」【代々】「新旧相次ぐこと。世々。歴代」とあった。同じようでもあるし、ちょっとちがうようでもある。
近年の流行なのか、洋風横長型も目につく。正面に「和」とか「清」とか大きく一字だけ刻印されて、その右下にちょっと控えめに「○○家」とある。「和」が比較的に多いが、これは墓に入った霊たちが仲良くするようにという建立者の願いだろうか。まさか、霊の方からの生きている者たちへの、遺産相続などで争いはしないようにというメッセージでもあるまい。まあ、○○家においては和を家訓としていますとのアピールと思えばそれなりの納得はいくが、墓石に家訓を刻まなくてもとの思いも残る。
「感謝」というのもあるが、これは建立者から先祖へということだろう。この洋風横長型は建立年月日と建立者の名前が真裏に彫られてあって、四角柱の伝統的和風墓石では同様のことが左横に刻印されてある。
小さめで「○○信士」「○○信女」と、戒名が正面に仲良く並んだ墓があった。夫婦だったのだろうか。同時に亡くなったというのは考えにくいから、成長した子どもたちが、親亡き後に建立したのだろう。少数派だが「○○家之霊位」というのもある。また、これもさほど大きくはないが、正面に十字を掘り込んだものがあった。右横には「私はよみがえりであり命である ヨハネ」という聖書の一文らしいものが読み取れた。クリスチャンも仏教徒とも同じ墓地に眠っているのだ。
他を圧して背の高い墓石には「故陸軍歩兵上等兵勳八等○○○○之墓」とあり、横の面には「明治37年○月○日 於清国○○高地戦死」と刻してあった。兵隊の身分のままで墓に納まるということは名誉の戦死であって、誇らしいことだったのだろう。これも時代ではある。墓石をながめていたら、この上等兵はあの世への入り口で「自分は帝国陸軍○○連隊・・・・であります!」と敬礼したのかも知れないと思ってしまった。
実をいうと墓石を観察したのにはきっかけがあった。俳人尾崎放哉の「墓のうらに廻る」という、代表作のひとつとされる句の鑑賞をめぐる本に遭遇したことである。『海へ放つ 尾崎放哉句伝』(小玉石水著 春秋社 1994)がそれだ。
尾崎放哉(1885~1926)は鳥取県に生まれ、一高、東大法学部を卒業して日本通信社に就職するが、役人の権威主義に腹を立て一ヶ月で退職。その後生命保険会社などに就職、そこでも会社不適合で離職。晩年は寺男をしながら、短律・自由律俳句に独自の句境を生んだ。代表作とされる句には「墓のうらに廻る」のほかに次のような句がある。
たった一人になり切って夕空
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
春の山のうしろから烟が出だした
その本でさまざまな鑑賞を読みながら、句の奥にある作者の気持ちを読み取ろうとする鑑賞者の洞察力に、私はウーンとなかば呻いてしまった。
「墓石の裏に回るという行為のみを表に出して、そういう行為をする人の心理が現されている。墓地に入ったとき、ふとある墓の前に立ちどまる。そして、次の瞬間、別にこれといった目的意識なしにその墓石の裏に回るという心理が働くのである」
「人は墓地などに詣ったとき、何ということなしに墓のうらに回ってみたりするものである。碑だったら、なにか由来など記してあるが、墓のうらには、殆ど何もないだろう。それでもともかく何かあるとまわってみたりする人間の好奇心というものは妙なものであると、放哉は軽く揶揄しているのかもしれない」
なるほど、そういわれれば私も墓の周りを回っている。
「墓地では誰でもよく経験する行為だが、この句の場合、暗いイメージが漂っている。うらへ回ればそれきり帰ってこないような、死のイメージである」といった鑑賞もある。
なめろうとの散歩だからか、暗いとか死とかのイメージはさほどないが、私の場合は墓石やそこに刻まれたものから、死者のなにかしらを窺い知ろうとしている自分に気づく。
「放哉はおそらく、生涯この世の営みに心をとられ、そこから目をそらすことができなかった人だ。しかも、そういう己を自嘲しながら、なお世捨て人になりきれず、俗にも徹しきれず、中途半端な生を苦しくも酒に紛らわしつつ、泥まみれの生をのたうちまわった人である」(前出書)
放哉ほどではないにしても、私からして中途半端な自分に嫌気がさすことはままある。酒に逃げ込み、酒に紛らわしながらどうにか大きな破綻からかろうじて逃れているといったところなのだ。まあ、ここで放哉と自分を引き比べてみても仕方がない。もとはといえば愛犬なめろうとの墓地での散歩と、放哉の句「墓のうらへ廻る」との連想から書き始めたこの一文なのだ。
そこでこの際、無聊にまかせて『尾崎放哉全句集』(伊藤完吾・小玉石水編 春秋社 1993)により、全1314句から「犬」を詠んだ句を拾い出してみた。
のら犬の背の毛の秋風にたつさへ
犬をかかへたわが肌には毛がない
濠端犬つれて行く雪空となる
霜がびっしり下りて居る朝犬を叱る
犬よちぎれる程尾をふってくれる
朝早い道のいぬころ
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
迷って来たまんまの犬で居る
山の匂いかぎ行く犬の如く
犬がのびあがる砂山のさきの海
堤の上ふと顔出せし犬ありけり
犬が吠ゆる水打ぎわの月光
犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
稲妻や犬しきりなく椽の下
いぬころの道忘れたる冬田かな
山茶花やいぬころ死んで庭淋し
このなかから「犬よちぎれる程尾を振ってくれる」を私なりに鑑賞してみる。むろん俳句はつくったこともないまったくの素人である。
「犬がちぎれるほど尾を振るというのは、飼い犬であればしごくあたりまえのことだ。だが、この句で放哉は、犬よと声には出さないが呼びかけている。呼びかけるというより、ああ犬よというような感嘆がある。さらに尾を振ってくれる、それもちぎれるほどである。すぐれた句の条件が、景を詠って景に終わらず、情を詠って情に終わらず、というならこの句は犬の情を詠って自己の情を引き出している。自分のような者に対して差別も区別もなく尾を振ってくれる、ああ犬よ、といったところだろうか」
放哉の略年譜から晩年をみる。
大正12年(1923)38歳 保険会社の支配人として京城(現ソウル)に赴任するが、禁酒の 誓約が守れずに解雇。この頃より湿性肋膜炎を病む。生活の当てを求めて満州に渡るが病状悪 化、内地へ引揚げる。やがて妻と別居し宗教組織・京都一燈園に入る。
13年(1924)39歳 一燈園の縁で京都常称院の寺男となるが、酒による失敗で兵庫須磨 寺の堂寺へ移る。
14年(1925)40歳 福井常高寺、京都龍岸寺を転々とし、小豆島土庄南郷庵の庵主とな る。これより独居無言、読経と詠句三昧に入る。
15年(1926)41歳 4月7日、島の老爺に看取られながら瞑目。
「犬よちぎれる程尾をふってくれる」は酒による失敗で兵庫須磨寺へ移った頃の句だ。酒による失敗は私にも大小さまざまある。激しい自己嫌悪と、衆人蔑視の意識に苛まれるなかで、ちぎれるほどに尾をふってくれる犬・・・。
これらも墓である。「うらに廻る」どころか「周りを廻る」しかない。墓は大の字になって遠い空を見上げている。
ほんとうはいけないことだが、なめろうにはリードをつけない。したがって車がひんぱんに走る大通りへは向かわないで、反対方向のお寺へ進み墓地に足を踏み入れる。私の家がお寺の参道に面していることはここでも書いたことがある。もっとも、なめろうは通りの方へは家の敷地から7、8メートルほどのところで足が止まって、そこから先へは行かない。自転車や郵便配達のオートバイが家の前を通るとダッシュして追いかけることがあるが、そのときですらほぼ同じあたりで追いかけるのをやめる。そこから追い出しさえすればなめろうにとってはひとまず自分の領地を守ったことになるのだろう。どこか意気揚々といった様子で引き上げてくる。かつて何度かリードをつけて連れ出したこともあるが、やはり同じ地点から歩くのを拒み「伏せ」の姿勢になる。そのあたりが自分のテリトリーの境界、そこから先は異界であって自分の力量のおよぶところではないと心得ているようでもある。
そこへいくと、山の斜面に広がる墓地では我がもの顔でどんどんと先にすすむ。そして、立ち並ぶ墓石に隠れてしまう。初めの頃はなめろうに誘導されるように墓石の間を縫って追いかけていたが、近頃は姿が見えなくなっても平気だ。しばらくほおっておいてから「なめっ、なめっ」と呼ぶと、どこからともなく姿を現してキョトンと私を見上げる。
そんなふうに、なめろうを墓地で遊ばせながら、私はちょとした墓石観察をしてみる。お盆や彼岸の時季以外は墓参者の姿はないから不審に思われることはないし、お寺はご近所さんである。
まず墓石の正面にはどんな風に刻印されてあるか。正確に数えたわけではないが、いちばん多いと思われるのは「先祖代々之墓」だろうか。つづいて「○○家之墓」も多い。比較的に墓石が新しいものではただ「○○家」というのもけっこう目につく。わざわざ「墓」と断らなくても、というささやかな主張を感じる。それはそうだ。こんなところに石塔を建てて墓以外になにがあるだろう。「○○家之墓」は、いってみれば家の表札に「○○家之家」と掲げるようなものだ。もっとも犬小屋に「ポチの家」と書くことは昔からあった。ちなみになめろうは、私が見るかぎり墓石にむかって放尿したことはない。なめろうですら墓だとわかるのだろうか。わかるはずないとはいえ、えらいものだ。
「先祖累代之墓」というのもある。「代々」と「累代(るいだい)」とはちがうのか。「広辞苑」にあたってみた。【累代】「代をかさねること。累世。代々」【代々】「新旧相次ぐこと。世々。歴代」とあった。同じようでもあるし、ちょっとちがうようでもある。
近年の流行なのか、洋風横長型も目につく。正面に「和」とか「清」とか大きく一字だけ刻印されて、その右下にちょっと控えめに「○○家」とある。「和」が比較的に多いが、これは墓に入った霊たちが仲良くするようにという建立者の願いだろうか。まさか、霊の方からの生きている者たちへの、遺産相続などで争いはしないようにというメッセージでもあるまい。まあ、○○家においては和を家訓としていますとのアピールと思えばそれなりの納得はいくが、墓石に家訓を刻まなくてもとの思いも残る。
「感謝」というのもあるが、これは建立者から先祖へということだろう。この洋風横長型は建立年月日と建立者の名前が真裏に彫られてあって、四角柱の伝統的和風墓石では同様のことが左横に刻印されてある。
小さめで「○○信士」「○○信女」と、戒名が正面に仲良く並んだ墓があった。夫婦だったのだろうか。同時に亡くなったというのは考えにくいから、成長した子どもたちが、親亡き後に建立したのだろう。少数派だが「○○家之霊位」というのもある。また、これもさほど大きくはないが、正面に十字を掘り込んだものがあった。右横には「私はよみがえりであり命である ヨハネ」という聖書の一文らしいものが読み取れた。クリスチャンも仏教徒とも同じ墓地に眠っているのだ。
他を圧して背の高い墓石には「故陸軍歩兵上等兵勳八等○○○○之墓」とあり、横の面には「明治37年○月○日 於清国○○高地戦死」と刻してあった。兵隊の身分のままで墓に納まるということは名誉の戦死であって、誇らしいことだったのだろう。これも時代ではある。墓石をながめていたら、この上等兵はあの世への入り口で「自分は帝国陸軍○○連隊・・・・であります!」と敬礼したのかも知れないと思ってしまった。
実をいうと墓石を観察したのにはきっかけがあった。俳人尾崎放哉の「墓のうらに廻る」という、代表作のひとつとされる句の鑑賞をめぐる本に遭遇したことである。『海へ放つ 尾崎放哉句伝』(小玉石水著 春秋社 1994)がそれだ。
尾崎放哉(1885~1926)は鳥取県に生まれ、一高、東大法学部を卒業して日本通信社に就職するが、役人の権威主義に腹を立て一ヶ月で退職。その後生命保険会社などに就職、そこでも会社不適合で離職。晩年は寺男をしながら、短律・自由律俳句に独自の句境を生んだ。代表作とされる句には「墓のうらに廻る」のほかに次のような句がある。
たった一人になり切って夕空
入れものが無い両手で受ける
咳をしても一人
春の山のうしろから烟が出だした
その本でさまざまな鑑賞を読みながら、句の奥にある作者の気持ちを読み取ろうとする鑑賞者の洞察力に、私はウーンとなかば呻いてしまった。
「墓石の裏に回るという行為のみを表に出して、そういう行為をする人の心理が現されている。墓地に入ったとき、ふとある墓の前に立ちどまる。そして、次の瞬間、別にこれといった目的意識なしにその墓石の裏に回るという心理が働くのである」
「人は墓地などに詣ったとき、何ということなしに墓のうらに回ってみたりするものである。碑だったら、なにか由来など記してあるが、墓のうらには、殆ど何もないだろう。それでもともかく何かあるとまわってみたりする人間の好奇心というものは妙なものであると、放哉は軽く揶揄しているのかもしれない」
なるほど、そういわれれば私も墓の周りを回っている。
「墓地では誰でもよく経験する行為だが、この句の場合、暗いイメージが漂っている。うらへ回ればそれきり帰ってこないような、死のイメージである」といった鑑賞もある。
なめろうとの散歩だからか、暗いとか死とかのイメージはさほどないが、私の場合は墓石やそこに刻まれたものから、死者のなにかしらを窺い知ろうとしている自分に気づく。
「放哉はおそらく、生涯この世の営みに心をとられ、そこから目をそらすことができなかった人だ。しかも、そういう己を自嘲しながら、なお世捨て人になりきれず、俗にも徹しきれず、中途半端な生を苦しくも酒に紛らわしつつ、泥まみれの生をのたうちまわった人である」(前出書)
放哉ほどではないにしても、私からして中途半端な自分に嫌気がさすことはままある。酒に逃げ込み、酒に紛らわしながらどうにか大きな破綻からかろうじて逃れているといったところなのだ。まあ、ここで放哉と自分を引き比べてみても仕方がない。もとはといえば愛犬なめろうとの墓地での散歩と、放哉の句「墓のうらへ廻る」との連想から書き始めたこの一文なのだ。
そこでこの際、無聊にまかせて『尾崎放哉全句集』(伊藤完吾・小玉石水編 春秋社 1993)により、全1314句から「犬」を詠んだ句を拾い出してみた。
のら犬の背の毛の秋風にたつさへ
犬をかかへたわが肌には毛がない
濠端犬つれて行く雪空となる
霜がびっしり下りて居る朝犬を叱る
犬よちぎれる程尾をふってくれる
朝早い道のいぬころ
いつしかついて来た犬と浜辺に居る
迷って来たまんまの犬で居る
山の匂いかぎ行く犬の如く
犬がのびあがる砂山のさきの海
堤の上ふと顔出せし犬ありけり
犬が吠ゆる水打ぎわの月光
犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
稲妻や犬しきりなく椽の下
いぬころの道忘れたる冬田かな
山茶花やいぬころ死んで庭淋し
このなかから「犬よちぎれる程尾を振ってくれる」を私なりに鑑賞してみる。むろん俳句はつくったこともないまったくの素人である。
「犬がちぎれるほど尾を振るというのは、飼い犬であればしごくあたりまえのことだ。だが、この句で放哉は、犬よと声には出さないが呼びかけている。呼びかけるというより、ああ犬よというような感嘆がある。さらに尾を振ってくれる、それもちぎれるほどである。すぐれた句の条件が、景を詠って景に終わらず、情を詠って情に終わらず、というならこの句は犬の情を詠って自己の情を引き出している。自分のような者に対して差別も区別もなく尾を振ってくれる、ああ犬よ、といったところだろうか」
放哉の略年譜から晩年をみる。
大正12年(1923)38歳 保険会社の支配人として京城(現ソウル)に赴任するが、禁酒の 誓約が守れずに解雇。この頃より湿性肋膜炎を病む。生活の当てを求めて満州に渡るが病状悪 化、内地へ引揚げる。やがて妻と別居し宗教組織・京都一燈園に入る。
13年(1924)39歳 一燈園の縁で京都常称院の寺男となるが、酒による失敗で兵庫須磨 寺の堂寺へ移る。
14年(1925)40歳 福井常高寺、京都龍岸寺を転々とし、小豆島土庄南郷庵の庵主とな る。これより独居無言、読経と詠句三昧に入る。
15年(1926)41歳 4月7日、島の老爺に看取られながら瞑目。
「犬よちぎれる程尾をふってくれる」は酒による失敗で兵庫須磨寺へ移った頃の句だ。酒による失敗は私にも大小さまざまある。激しい自己嫌悪と、衆人蔑視の意識に苛まれるなかで、ちぎれるほどに尾をふってくれる犬・・・。
これらも墓である。「うらに廻る」どころか「周りを廻る」しかない。墓は大の字になって遠い空を見上げている。
by yoyotei | 2011-04-27 21:38