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追想へのいざない

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『父は島根県邑智郡矢上村の生まれであった。「石州の江の川が流れたところに因原という渡し場のある賑やかな村があるがのう。そこから南に入ったところが断魚渓じゃ。日露戦争のころ、大倉桃郎という人が懸賞小説に断魚渓を舞台に小説を書いて出征し、戦地で当選の知らせを受けたというので、わしが広島に居ったころに新聞でだいぶん評判になったもんじゃ。断魚渓を流れとる川が西へ折れ曲がったとこが矢上村じゃ」』
 これは『草の径』(1991年 文藝春秋社)と題された松本清張の短編小説集の「夜が怕い」の一節である。初出は月刊「文藝春秋」1991年2月号だから清張が死去する約1年前の作品だ。
 少し長くなるが別の部分も引用する。
『因原は江の川の中流に沿い、西の江ノ津から一五里、南から断魚渓の井原川、北からは木谷川が江の川に流れこむ。もう半里ほど東に寄った川本村の本町には奥三俣川と矢谷川が北と南から江の川に注ぐ。因原村はこうした船便の要衝にあったが、のちに川本村に合併された』
『そのころ邑智郡には電灯がこなかった。私が父から聞く話は洋灯(ランプ)の世界であった。私は十年前に、島根県矢上村を一人で訪れたことがある。矢上村とはいわず、今は石見町という名称となり、矢上は字(あざ)であった。山陰本線を江津駅で三江線に乗換えて約四十分、因原駅で下車して車で芸州街道を南へむかった。この街道は県境を越えて広島県の高田郡に達する。これが断魚渓を通る』

「夜が怕い」は、癌で入院している75歳になる主人公が、病室で夜を過ごすことの怕(こわ)さから、父の生い立ちなどに思いをはせるというものだが、小説としては中途半端な尻切れトンボの感がある。清張晩年の病状の故かも知れない。

 ところで、因原(いんばら)から一駅南に川本がある。私は小学校の数ヶ月と、中学と高校の6年間をこの邑智(おおち)郡で過ごしたが、高校はこの川本にあった。夏の一日を高校の友人たちとここに出てくる断魚渓に遊んだことがある。因原駅から埃っぽい道をてくてくと歩き、断魚渓の急流を滑り降りた。岸辺には旅館か商店のような建物があった。現在はどうなっているのだろう。高校は統廃合されて島根中央高校になり、断魚渓も行政区は邑南町になった。

 松本清張が島根県を小説の舞台にしたものでは「砂の器」が有名だ。業病を負った父と主人公が故郷の村を追われ、遍路姿でたどり着いた所が島根県奥出雲町の亀嵩(かめだけ)だった。
 また、清張には石見銀山などが登場する小説に「数の風景」(朝日新聞社 1987年/初出「週刊朝日1986年~1987年連載)がある。地理などが出てくる場面を引用してみる。
「列車は短いトンネルを出たり入ったりした。右側に、窓下まで迫っているような日本海がある。昨日につづき空は鉛色に曇り、突き出た岩礁に波が白い渦を巻いている。左の窓に三瓶山があったが、前山の陰だし中腹から上は雲に消えている」
『「あのバスが、大森を通って祖式(そじき)という所へ行き、そこから西へ折れて、大家(おおえ)を経て、北へ曲がり江津へ出る定期です。断魚荘は、その祖式にあります」』
 清張はここでは「断魚荘」という旅館を創作している。
 三瓶山(さんべさん)にも友人たちと何度か足を運んだ。山麓には草原が広がり、馬に乗ったこともあった。山の端に沈む夕陽の美しさに魅了されて、帰路に遅れる女子生徒もいた。浮布の池、定めの松、片腕の松。記憶をとどめさせるのはなんだろう。
 中学生のころ、三瓶山麓や大田市を舞台にした日活映画のロケがあった。宍戸錠が主演で、笹森礼子、小高雄二などが出演していた。ロケの中にピストルで撃たれた小高雄二が吊橋から落下するシーンがあった。落下する役、いまでいうスタントをやれば相当の金がもらえるという噂も流れたがだれもいなかったらしい。その吊橋を渡って通学する友人がいて、彼の話ではただ飛び込むだけでは駄目で、ピストルで撃たれてのけぞったまま落ちなければならないということだった。
 結局はゴム人形を落としてロケは終わった。映画は「赤い荒野」という。小林旭の敵役だった宍戸錠が主演で「いい人」を演じた数少ない映画ではなかったか。完成した映画では、大田の町に豪華で華やかなナイトクラブがあり、白木マリが妖艶に踊っていた。
 吊橋から落ちるシーンは巧妙に映像をつないでつくられていた。橋の上で撃たれてのけぞる小高雄二。落下するゴム人形を河原からのカメラが捉える。橋の上から人間の体重に近い石を落とす。それを橋の上から撮影する。「バーン」「うわーっ」、落下する小高雄二の河原からの遠い姿。「バシャーッ」というわけであった。中学校からの下校時にそのロケをつぶさに見ていた私は、映画の秘密を知った気がした。
 石見銀山は大森にあり、私たちは「大森銀山」と呼ぶことがふつうだった。当時、江戸時代の古い家並みの軒をかすめて走る路線バスで大森の町を何度か通過したことがあった。バスが通るたびに巻き上がる土ぼこりで家々は寂しく汚れていた。現在は世界遺産である。様相は大きく変わった。

「夜が怕い」で大倉桃郎という小説家についてふれてある。大倉桃郎(おおくらとうろう/1879~1944)は明治から昭和前期の小説家で、たしかに日露戦争に出征中に「大阪朝日新聞」懸賞小説に応募した「琵琶歌」が入選している。この「琵琶歌」で、舞台になった断魚渓がどのようにえがかれているかはわからない。小説の探索はできないが、1933年(昭和8)に野村芳亭(1880~1934)の監督で映画化がなされている。監督・脚本/ 野村芳亭 原作/大倉桃郎 新釈/川村花菱 撮影/ 長井信一 音楽/ 高階哲夫、といったことがネットで検索できた。

 野村芳亭は日本映画の基礎をつくった功労者の一人で、1974年に「砂の器」を監督した野村芳太郎(のむらよしたろう)は、芳亭の長子だ。映画「砂の器」は日本映画、屈指の名作だと私は思う。清張の原作を超えているとも思う。清張自身も原作とは異なる、特に映画のラストシーンを高く評価していた。

 また「琵琶歌」は1937年にも映画化されている。監督/ 吉村操 脚本/伊知地大輔 原作/ 大倉桃郎 撮影/ 広川朝太郎 出演/琴糸路 水島道太郎 藤間林太郎 久松玉城 谷定子 木村天竜、というのがそのときのスタッフたちだ。
 
 ところで、この野村芳太郎監督を「ほうたろうさん」と呼ぶ人がいた。灘千造という人である。
 灘千造氏は、ある時期私が住む村上市の瀬波温泉に居住していた。どういう経緯があってこの地に住んだのかは聞いたことがなかった。六尺豊かな大男で、着流しに下駄履き、酒の飲みっぷりも豪快だった。温泉の芸者を伴ったりして私の店によく顔をみせていた。
 野村芳太郎や、同じ映画監督の森崎東(もりさきあづま)の話、渥美清の「男はつらいよ」が誕生したいきさつなどを私に語った。シナリオライターだったというのが、本人もはっきりとは明かさなかった経歴のようだった。どこかの女子短大で講義をすることもあったらしいが、いつのまにか姿が消えた。当時、瀬波温泉にあった「政寿司」でご馳走になったのが最後のような気がする。この地では珍しい鯖の押し寿司バッテラを食べたことを覚えている。


 数年後、「日本映画作家全史」という本を入手して彼の経歴を知った。
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灘千造(なだせんぞう) 戦後10年目頃、勃然と現れ、華々しく活躍し、5年後には姿を消した。なにやら謎の浮世絵師写楽かなんぞのような印象深い出現の仕方であり、消え方であった。大正6年2月20日、愛知県生まれ、本名は遠藤市。灘千造のペンネームがどのようにして出来たのか詳らかにしない。京都帝国大学を中退、新聞記者などをつとめた後、昭和30年、前年中国から10年ぶりに帰還して「血槍富士」をとった内田吐夢が、その第2作に取り上げたのが、無名の新人灘千造のオリジナル脚本による「たそがれ酒場」であった。すくなくともそれまで、灘千造の名を耳にしたことはなかっただけに、その成功には大きな関心が集中したが、結果は立派に成功した。場末の盛り場の一軒の酒場、多分に日本ばなれのした翻訳臭の強い店なのだが、それだけにやや新劇好みの人生を舞台いっぱいくりひろげるには好都合だった。松竹の名花津島恵子と名優小杉勇を好演させて、内田吐夢のハイカラ趣味がよく活かされていたが、なんといっても新劇的な脚本の魅力が光ったといわれた。
 ついで32年には「駐在所日記」(枝川弘)、34年には「乙女の祈り」(佐分利信)、「剣風次男侍」(野村企峰)、35年「第三の疑惑」(佐伯清)等、どっちかといえば第一作の華々しさとは縁遠い作品がつづき、灘千造らしさを伝える風格ある大作は現れなかった。体躯衆にすぐれ、風貌また大人の相をもって、悠揚迫らぬ風格の持ち主であったが、その後はどうしているのか消息を耳にしない。シナリオ作家協会などもいつのまにかやめてしまい、一時はテレビなどに名前を見かけたが、それもいつか消えてしまったようだ。大器いつの日か還るといいたい。『日本映画作家全史』(猪俣勝人・田山力哉著 社会思想社 昭和53年)

 ネット検索をしていて、いささか驚きの情報を得た。なんと「たそがれ酒場」がリメイクされていたのだ。「いつかA列車(トレイン)に乗って(TAKE THE A-TRAIN, SOMEDAY)」がそれだ。初公開2003年の監督 /荒木とよひさ 脚本/ 灘千造(『たそがれ酒場』)出演者 /津川雅彦 加藤大治郎 真矢みき 栗山千明 峰岸徹 愛川欽也 渡辺匡 小林桂樹  音楽/ 三木たかし、といった豪華な俳優人だ。
歴史の重みを感じさせるジャズBAR「A-TRAIN」。今宵もジャズに魅了された客が店内にひしめいている。常連客の梅田、サックス奏者の丸山、専属歌手のアンナ、店員のユキらは、それぞれが様々なトラブルを抱え・・・。ストーリー紹介はこんなふうだ。

 1955年(昭和30)のオリジナル脚本による映画のスタッフとストーリーもネットで入手できた。
 監督/内田吐夢、脚本/灘千造、撮影/西垣六郎、音楽/芥川也寸志、主演/小杉勇、共演/野添ひとみ、宇津井健、津島恵子、高田稔、江川宇礼雄、東野英治郎、加東大介、丹波哲郎、多々良純、天知茂
 サラリーマンや学生、作業員の憩の場所「たそがれ酒場」。専属ピアニスト江藤釿也の伴奏で健一が唄っている。江藤は三十余年前歌劇界の花形だったが、愛弟子と妻が彼にそむいたので刃傷沙汰を起し、楽壇から姿を消した人だった。酒場で先生と呼ばれる梅田茂一郎はかつて戦記物で名を成した画伯だが、今はパチンコでかせいで暮している。通称小判鮫の汲島鉄夫は何時も梅田に焼酎を飲ませてもらう。競輪で穴を当てて得意になっている岐部と元隊長鬼塚大佐は、傍の卓子でサルトルを論じている大学の講師と学生達が気に入らない。地廻りの愚連隊森本は酒場に働く娘野口ユキのことで恋人鱒見とわたりをつけに来るが、鱒見にナイフで強迫されユキから手を引くと誓う。鱒見は大阪へ高飛びするからと、ユキへの伝言を梅田に頼んで立去る。鱒見の後を追おうとしたユキは、日雇い作業員をしている母親が怪我をしたと知らせに来た妹弓子を見つける。梅田はマネージャー谷口からユキの給料を前借りしてやる。新日本歌劇団の中小路竜介は健一の唄を聞き歌劇団加入を勧めるが江藤は何故か反対する。酒場随一の出し物エミー・ローザの踊りが始まると一人で飲んでいた多賀がエミーに斬りつける。多賀はエミーの元のパトロンである。梅田は毎朝新聞の山口の似顔を描いて金を借り、ユミの前借りを払う。中小路が江藤のかつての弟子と知り、健一は江藤の苦悩を思い煩悶する。ピアノを弾く江藤と唄う健一、それに聞き入る梅田の眼に涙が光っている。明日、江藤は健一を新日本歌劇団につれて行くのである。

 そして、ネット情報はさらに、灘千造が「ないてたまるか」や渥美清について私に語ったことの裏づけを与えた。
「渥美清のないてたまるか」
放映日1967年(昭和42)12月24日/ タイトル「雪の降る街に」
脚本/灘千造、監督/井上博
出演者/左幸子、松本克平、夏圭子、渡辺篤史、中谷一郎、井川比佐志

 ほかにも、数本のテレビ昼ドラマの脚本を手がけたことをネット情報から引き出すことができる。灘千造、大正6年(1917)生まれ、存命なら94歳だ。短い一時期、私の酒場を彩った人物のひとりだ。
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by yoyotei | 2011-06-14 23:55  

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