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あの時代

 

 4節からなる詩は次のように書き始められている。

  わたしたちが射竦められたこの地では
  乾いた空気のなかで乾いた時間が切り売りされ
  商人の行為が吐き出す言葉は行為の内側の内皮にへばりつくばかりで
  それは母親の根元へ戻ろうとする証だ
  ひとりひとりが染色体を死守するために
  男は女の 女は男の 肌を剥ぎとり
  錆びてすさんだ旅路へ向かう
   

 定期預金を解約するための印鑑が紛失した話は前々回に書いた。印鑑を探しながら家と店の中を探し回った。探し物をしていて思いがけない物を発見することはよくある。そのひとつが同人誌「同時代」であった。詩はこの同人誌に収められている。詩とともにあの時代が鮮明によみがえってきた。
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 東京の中央線東中野駅から歩いて10分足らずの高根町にそのアパートはあった。6畳一間にガスコンロと水道の蛇口がついた小さい流し台。高校の同窓生が借りていたその部屋に転がり込んだのは1960年代半ばの夏だった。
 同窓生はデザイン専門学校の学生だったが、私が同居した時には学校に通っている様子はなかった。私も大阪の同じような学校に入学したが、半年でやめて上京したのだった。
 部屋には同窓生の知人だという奇妙な人物たちが頻繁に出入りをしていた。2、3日でいなくなる者もいれば、何日間も住みつく者もいた。
 青森出身だという男は、ある日ボストンバッグにスペインの雑誌を大量に詰め込んで現れた。日本語は訛りの濃い津軽弁だったが、学習しているというスペイン語は流暢に聞こえた。年齢不詳で眉間や額に深い皺を刻んだ風貌は、もしかするとスペイン人の血が混じっていたかもしれない。
 端正な顔立ちに髪を七三に分けた男は、新宿歌舞伎町界隈の飲食店でボーイをしているということだった。時々、勤めている店からウイスキーをこっそり持ち帰って同居人たちに振舞った。スコッチの「オールドパー」を持ち帰った夜、彼はほとんど私たちの英雄だった。飲めば頭が痛くなるような粗悪な酒しか飲めない田舎出の若者にとって、「オールドパー」は初めて口にする舶来の酒だった。鼻孔を突き抜けていく芳醇な香りと、口中を満たしてゆく濃密な時の結晶は、別世界への扉を開くようだった。慈しむように、だが何度も口に運んでやがて「オールドパー」は空になった。酔いは急速に訪れたが、それはなんとも心地いい酔いだった。上質な酒は上質な酔いをもたらすということを、この夜、身をもって知った。。
 青山周辺に洒落たレストラン・バーが建ちはじめると、彼は経験を生かして開店準備に関わるようになった。レセプションで提供されて、食べ残された料理を持ち帰ることも何度かあった。丸のままのローストチキン、ローストビーフ、大きい海老もあった。封を切っていくらも飲まれていないワインを飲みながら、私たちは歓声を上げてそれらの料理をむさぼるのだった。
 ある朝、始発電車で帰ってきた彼が、寝ている私たちを起こした。いつも何かしら持ち帰る彼が今朝はなにを、と見守るなかで、ボストンバッグの中から彼が取り出したのは大量のパンだった。
「ほら、そこの通りの食料品店、あの前を通ったら店の出入り口の前に木箱が積み上げてあるですよ。それがこのパン」
 食パンや、数種類の菓子パンは部屋の隅に小山のように積み上げられた。そこから納品伝票が出てきた時には少なからず罪の意識がよぎった。
 彼はごていねいにも数本の牛乳も調達してきていた。
「ぼくの前を配達の自転車が行くんです。その後について、集めながら帰って来ました」
 おそらく彼は、私たちが驚き喜ぶのを見たかったのだろう。そんな彼だが家賃としての現金を差し出すことはなかった。家賃は同窓生と私がアルバイトで稼いで折半にしていた。
 
 法律事務所に書生のように住み込んで大学に通う、高校の1年先輩もアパートを訪ねて来る一人だった。空腹でたまらない時には、水をたらふく飲み、膨れ上がった腹に重い物を乗せて仰向けになるといいと教えたのも、寒い時には新聞紙を身体と衣類の間に挟むといいと教えたのもその先輩だった。両方とも実践してその効果を確認した。先輩がやってくるのは金の無心だが貸せる金を持っている者は一人もいなかった。

 目白学園の女子高校生が数度たづねて来たことがあった。出会いは池袋の友人の部屋だった。その友人の部屋で、8月末の私の誕生日を、当時はめずらしかった小玉スイカで祝ってくれた。その後、彼女は東中野のアパートに来たり、新宿の「王城」という大きな喫茶店で待ち合わせをしたこともあった。ある日、「王城」で話し込んだ後、誘われて彼女の家に行った。家は森の中の「お屋敷」だった。東京のど真ん中にそんな森があることが信じられなかった。夜だったこともあってか森は深く、薄闇の中の建物はほとんど廃屋のようだった。暗く広い家の中を彼女に導かれて廊下を歩くと、何度も軋む音がした。家の中に人の気配はなく、どこにも灯りがついている様子すらない。すでに私は不気味さを感じていた。
 彼女が「ここ」と言ってドアを開け、部屋の灯りをつけたとき私は眩暈(めまい)をおぼえた。目を射るような明るさの中で、部屋はピンクや黄色、オレンジや赤といった暖色系の色彩にあふれていた。そこは壁も天井もベッドや調度らしきものもすべてが同様の色彩に統一されていた。
 歩けばきしむ、暗い森の中の古い屋敷。そこに突然あらわれた極彩色の空間。異次元世界のようなその部屋を眼前にして私は固まった。
 一瞬の硬直から解かれると、「どうぞ」と部屋に招き入れようとする彼女の誘いをはねつけて逃れるように、私は屋敷を出た。その屋敷がどこにあったのかもわからないまま、何かに追われているように、夜の街で帰路を探した。その後、彼女と会うことはなかった。
 


   わたしたちが人みしりのひどい夜の雑踏の底に耳をうずめている姿は
   かっての流浪の民の身振りに似ている
   太陽を背にして荒廃の色や匂いを冷えた脳裡にすりこませるのに似ている
   だがわたしたちは
   にがい果実を手にして 飢えた目のまま
   闇から闇へ流れてゆく定住の地のない鮮血の群から
   いつ 脱れることができるのだろう



 新しい年が明けて巷にはまだ正月の気分が漂っていた。その夜は4人の男たちが寒さの中で震えていた。コタツもストーブもない部屋を暖める工夫はすでに試していた。大きめの空き缶に釘で無数の穴を開ける。それをガスコンロにのせて火をつければガスストーブになるのではないか。鍋で湯をガンガン沸かせば、蒸気で部屋が暖まるのではないか。それらが暖房効果のないことは実証済みだったし、ガス料金を考えれば、まだ薄い布団でも身体に巻きつけてじっとしているほうがいい。
 夜の11時を回ったころ、部屋の戸が軽くノックされて「あのー」といったか細い声がその後に続いた。部屋の戸を開けると、そこに二人の女性が立っていた。廊下を挟んだ向かいの部屋に住んでいる姉妹だが、姿を見かけたことが数度あるだけで挨拶を交わしたこともない。
「あの、隣の部屋の様子が変なんです」
 姉妹のおそらく姉とおぼしい女性が、隣の部屋の戸に目線を泳がせた。
「隣の部屋に誰かかが入り込んだみたいなんです。窓ガラスを割って・・・。怖くて」
 声はほとんど震えている。私たちにも気味悪さが伝わってきた。姉妹の隣の部屋は私たちの部屋の斜め向かいだ。その部屋に不審者が入り込んだのである。おそらくは物取りだろう。男たちは無言で目と目を合わせ「行こう」ということになった。私たちの隣室には男子学生が住んでいて、時々友人たち押しかけて深夜までの議論の声もめずらしくなかったが、この夜は留守のようだった。私たちだけで対処することにした。恐怖心もあるが、こちらは男4人である。
 不審者が入り込んだ部屋には女性が一人で住んでいるという。私たちは玄関を出て外へ回った。アパートの周囲には目の高さほどの板塀が廻らされている。不審者はその板塀を乗り越えたらしい。いちばん背が高い津軽弁が塀に手をかけ身体を持ち上げて部屋の様子をうかがった。あたりも暗いが、部屋の中も真っ暗だった。姉妹が持ってきた懐中電灯を照らすと、確かにガラス窓の一部が壊されている。カーテンの隙間に懐中電灯を向けて津軽弁が声をかけた。
「おい、誰だ!」部屋の中には誰かの気配があるが応答はない。「七三分け」はどこからか棒切れを持ってきていた。小柄な私の同窓生は背伸びをしても部屋の様子は窺えない。私はといえば1年前までは柔道場の畳に立っていたが、部屋に入っていく度胸はない。
「なにをしてるんだ?出て来い!」と呼びかけるのが精一杯だった。

 意外というか、その不審者はあっさりと部屋から出てきた。緩慢な動作で窓を開け、板塀を乗り越えて出てきた男は相当に酔っ払っているようだった。ぼさぼさの頭にけっして清潔とはいえない身なり。抵抗する様子もなく、たとえ抵抗しても難なく取り押さえられると判断した私たちは、男を私たちの部屋に引っ張り入れた。そして、名前は、住所は、何の目的であの部屋に入ったのかなど、まるで警察の取調べのような尋問をあびせた。だが、20代なかばに見える男は何を聞いても答えようとしなかった。力なく、ただうなだれているだけだった。
「どうする?」
「警察呼ぶか」
「あんた、なんにも言わないなら警察呼ぶよ」
 もっとも何かの事情を話したとしても、窓ガラスを割って他人の部屋に侵入した男である。私たちが勝手に処分を下すようなことではない。結局、同窓生が近くの公衆電話に走った。

 パトカーはサイレンを鳴らすことなくアパートの前に止まり、二人の警官が部屋に飛び込んで来た。向かいの姉妹も加えて事情を聞かれた。男は警官の質問にもいっさい答えない。警察署へ連行されることになって男には手錠がかけられた。私たちのうちからだれか二人いっしょに来てくれということで、私と同窓生が同行した。深夜の街を、今度はけたたましくサイレンを鳴らしてパトカーは走った。
 中野警察署で私たち二人は、あらためて事情を聞かれた後、パトカーでアパートまで送ってもらうことになった。警察署を出る直前、取調室の中から激しい怒声が聞こえてきた。男を尋問する容赦のない警察官の声だった。私は男を警察に引き渡したことを少し後悔しながらパトカーに乗り込んだ。
 
 翌日、姉妹が菓子折りを持って礼に来た。私たちはなんだか妙な気持ちで菓子を食った。
 その翌々日の夜遅く、男が侵入した部屋の女性が、やはり菓子折りを持って来た。みんなが出払っていて私一人だけが部屋にいた。
「いろいろとお世話になりました」
 そして女性は続けた。
「お騒がせをしまして・・・。実はあの男は私の弟なんです」
 息を飲み、言葉を失った私に、彼女は言った。
「よかったら私の部屋に来ません?」
 
 女性の部屋はドアと窓を除いた全部の壁が、ほとんど天井まで本で埋まっていた。
「あの夜、弟は新宿でしこたま飲んだ後、私の部屋に泊めてもらおうして来たんです。私、暮れから正月休みで故郷(くに)へ帰っていて・・・。行くあてもないし寒いし、おもいあまってガラス窓を割って部屋に入ったのよね」
 彼女は、そんな弟を警察に突き出した私たちを恨みにも思っていないようだった。そして、私よりも10歳近くは年上のような彼女は、徐々にくだけた口調になり、話は別の方向に流れた。
「今夜はさっきまで新宿で草野のじいちゃんと飲んでいたの」
「草野?」
「草野心平よ、知ってるでしょ。あの蛙の詩の・・・」
 あの著名な詩人草野心平を「草野のじいちゃん」と呼ぶ女性が目の前にいる。
「私ね、会社勤めをしながら詩を書いてるの」
 彼女はそう言って一枚の名刺を私にくれた。名刺には何の肩書きもなく、「藤井章子」とだけあった。
 ただそれだけのことだった。トイレは共同のアパートなのに、廊下などで顔を合わせることはその後も一度としてなかった。  
 

 国会議員が出す年賀状の宛名書き、印刷会社の夜間勤務、銀座のサンドイッチマンなど、単発のアルバイトから足を洗った私は、阿佐ヶ谷にある商事会社で働くことになった。商事会社といっても、当時の仕事は専売公社から払い下げられる輸入葉煙草を詰めた樽をトラックで集めて回ることだった。葉煙草はアメリカなどから輸入されて来るらしく、その樽は分厚い米杉で作られていた。会社では用済みとなった樽を払い下げてもらって解体し、新しく梱包用の箱の材料にするのだった。仕事のスタッフは社長とトラックの運転手、それに「ノブさん」と呼ばれている大男。それに私である。私はトラックの助手として、運転する「原さん」と常に一緒だった。朝、出社するとその日の行先が告げられて原さんとトラックに乗り込む。着いた先で真ん中から胴切りにされた樽の残骸を積み込む。阿佐ヶ谷の会社に帰ると荷を降ろす。降ろすのはノブさんも手伝うが、ノブさんの仕事は樽に巻きついている金属のタガを外すことだ。
 樽の調達先は千葉や遠くは福島県の須賀川までも行った。朝出て、帰ってくる頃にはとっぷりと日が暮れていることもよくあった。運転をしない私は、ほとんどは遠出のドライブ気分で楽しい毎日だった。正社員でない私の場合は週給で、終末に給料をもらうと帰りは東中野で電車を下りずに新宿まで行った。歌舞伎町にあった「天新」という天ぷらの専門店で天丼を食べるのが週一回のぜいたくだった。
 原さんとは車の中でさまざまなことを話した。社長は在日韓国人だということ。青山学院大学の英文科を卒業して自分で現在の商事会社を起こしたということ。原さん自身は早稲田の卒業生で会社の立ち上げにも関与したこと。どうりで2,3日のアルバイトに来る学生に早稲田が多かった。そして、社長も原さんも、まだ20代の後半なのだということもわかった。まだ若いのに運転ばかりしているせいか痔に悩まされていることも原さんは打ち明けた。
 ノブさんは癲癇持ちだった。時々、突然ぶったおれて痙攣し、口から泡を吹いた。そばに誰かいればすぐにタオルを口に突っ込んでやった。発作が治まるとノブさんはきょとんとして、次に少し照れたような笑いを浮かべた。私はトラックで遠出をしないときには、バールを持ってノブさんといっしょに樽のタガ外しをした。口数は少なく、黙々と作業をして、時々ぶっ倒れる。発作が治まるとしばらくして、照れた笑いを浮かべながら、また作業に戻る。私よりかなり年長だったノブさんを私は大好きだった。

 社長には結婚して間もないという奥さんがいた。社長と同じ青山学院大学英文科卒業だということだった。会社の作業場には露天の資材置き場とバラック建ての社屋があり、少し離れた所にやはりバラック建ての風呂があった。いつもではないが風呂をたてた日には私たちも仕事を終えてから入ることがあった。
 ある日、入浴道具を持った若い華やかな女性が現れて、風呂に向かって私たちの前を通っていった。原さんがなにやら言葉を交わして、その人が社長の奥さんだとわかった。原さんは奥さんが風呂場に入るのを目で追いながら、ノブさんと私を交互に見て「ニヤッ」とした。バラック建ての風呂場は隙間だらけだ。近づいて覗く気になれば覗ける。だが、それはあまりにも恐れ多いことだった。

 どのくらいの期間、阿佐ヶ谷の商事会社に通っただろう。社長は私に何度か正社員にならないか話を持ちかけた。そして、私にまだ向学心が残っていることを感じていたらしい社長は、大学に行くことをすすめ、そのことも考慮するからと言ってくれた。すでに「しんちゃん」と呼ばれるようになっていて、私自身も家族的な親しみを感じていた。社長とはあまり話すことはなかったが、社屋から通りを横切って少し下った低地にある在日の人たちの集落にも私を連れて行った。私は判断に迷っていた。
 
 アルバイトが休みの日、アパートで同居人とインスタントラーメンを食べていると、玄関で私の名前を呼ぶ声がする。私たちの部屋は玄関にいちばん近い。出てみると叔父夫婦だった。叔父は「お前が・・・」と言ったきり絶句した。親族の中で最も厳格で知られた叔父が、髪を肩まで伸ばし、薄汚れた私の姿に言葉を失った。部屋に入ってもらうと今度は叔母が立ちすくんだ。似たような男たちが鍋に顔を突っ込むようにしてラーメンをむさぼっていたのだ。
 大手の商社に勤務し、横浜に居住していた叔父は、私の母からの手紙で住所を知り様子をうかがいに来たのだった。叔父は私に何の説明も求めず、2,3日のうちに横浜に来るよう厳命して帰って行った。帰り際に叔父は「来る時には必ずその髪を切って来い!」と、散髪料金を玄関の上がり框(がまち)に投げ出すように置いた。叔母はいつの間にやら近くの店から赤魚の粕漬けを買ってきた。「焼いて食べるんだよ」と言う叔母の目が悲しげで、私は視線から逃れるしかなかった。

 3日後、髪を切って神奈川区生麦町の叔父の家に行った。阿佐ヶ谷の商事会社の社長や原さん、ノブさんにも別れのあいさつはしなかった。叔父の家では利発な優等生タイプの従姉妹が私を冷ややかな目で見た。太宰治を読んでいるというと、軽蔑するようにそのことを叔父に告げた。それでもその弟は、私を「兄さん兄さん」と慕ってくれた。
 叔父の一家は、ある新興宗教の熱心な信者だった。私は、朝夕一家と共に仏壇の前に坐らされ勤行を続けることになった。一ヶ月くらいたった頃、叔父に小さな寺に連れて行かれた。小さい巻物のような物で頭をコンッと叩かれて受戒を施されたことになった。その寺で叔父は私に小さな仏壇を買い与えた。
 およそ一ヵ月後、横浜での軟禁状態が解かれて、小さな仏壇とともに私は東中野のアパートに帰ってきた。すでに「津軽弁」も「七三分け」もいなかった。
 驚いたことに翌日から「座談会」と称して宗教団体のメンバー数人が部屋にやって来た。私の信仰への導きだったのだろう。だが、信仰する気もなく、むしろ懐疑的だった私は徹底的に彼らと対峙した。叔父に対しては言えなかった数々の疑問を投げつけた。毎日のように彼らはやって来た。彼らに対してことごとく反発する私に、組織の上層部が来るようになったが、私は少しもひるまなかった。
 やがて、同窓生とは何とはなしに気まずい行き違いが生じるようになった。アパートを出るために、私は仕事と住まいを求めて新聞の求人欄にあった箱根のホテルへ履歴書を持って行った。身元保証人は叔父に頼み、その日から寮に住み込んだ。温泉の大浴場で手足を伸ばしたとき、あまりの快適さに泣きそうになった。そして、こんなことを快適に感じる自分はもう駄目だと思った。芦ノ湖の湖面をさわやかな風が渡る季節だった。


   狂うことも許されない血は越境をめがけて下向しつづける
   怯える瞳と汚れる毛をもつ水牛の群のように
   ゆるやかな放物線を描いて他国へと沈下してゆく
   廃屋やすてた畑が生暖かくごったがえす脊髄を重たく背負って
   血は太陽の落ちる所 条件のなにもない未来へ
   告発されて追われる者の陽炎となって
 
 
  ここに紹介した詩は、あの藤井章子さんの「流浪」と題されたものだ。この詩は冒頭で書いたように同人誌「同時代20」(1966’3月 編集黒の会)に所収されている。この同人誌を、私は箱根のホテルに勤務してから、休日のたびに出かけた新宿の書店で見つけた。古本のコーナーにあったのかもしれない。表紙に藤井章子の名前を認めて購入し、この詩を何度も読み返した。だが何度読み返してもこの詩の世界は自分に迫って来なかった。
 あれから45年。箱根、熱海、三島、神戸、新潟と、流浪する私のわずかな所持品と共に流れさすらって来たひとつの詩であった。
 あらためてこの詩を読み返し、しばしあの時代を振り返ってみた。なんということだろう。詩と言葉は瞭然として立ち上がって来たではないか。私は詩人の凄さを知らされた、と同時に「流浪の民の血を忘れ」た自分にも気づかされた。
 既製概念の否定と破壊、変革と多様な価値の創造。熱病にかかったように、あるいは夢遊病者のように彷徨した時代。だがそれは、必ずしも過去の時代の中にすべて葬られてしまったわけではあるまい。わずかながら残っている熾き火に息を吹きかけ、炎を燃え上がらせることはもう無理だろうか。


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   わたしたちが流浪の民の血を忘れてから
   屈辱の海原を器用に漕ぎ抜けた季節から
   可憐な草花はいくど枯れたり甦ったりしたか
   血がゆく先き先きで出合う行止まり
   その度に受ける拒否された自由
   の告知をからだにしみこませていながら
   冴え冴えとして胸を貫通する響き
   古くなった魂を歯でかみ砕くときの虚な余韻を
   わたしたちも固く節くれだった魂に
   深々としみこませようではないか  

 
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 藤井章子さんには『燔祭の記録』(1970)、『夜想曲』(1984)、『しらじらとして白々と』(草原社)などの詩集がある。近年も詩誌に寄稿するなど、健在らしい。年齢は当時私が感じたよりも若いかも知れない。『同時代』は1950年代に創刊され、現在は『第3次同時代』として継続されている。
            

by yoyotei | 2011-10-04 12:28  

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