稲荷山登頂始末記
その日の朝、カーテンを開けると外は雪景色だった。雪はやわらかく地上を覆い、一見して穢れのない純白に世界を変貌させている。だが、木々の枝はその重さに、ただうなだれるばかり。地を這うようにして懸命に耐えている金木犀(きんもくせい)からは呻き声が聞こえてくるようだ。この冬、何度こうして雪に蹂躙されてきたことか。遅い春の到来と共に、ようやく解放されようとした矢先の、むごい天の仕打ちだった。
私は窓の外を見つめながら、ある大きな計画を実行に踏み切るかどうか思案していた。
前日、ようやく確定申告を済ませた。「これでやっと春が来ます」と言った私に、最終チェックをしてくれた商工会議所の女子職員は「私たちもこれが終わると春です」と笑った。「来年は申告の初日に来てみなさんを驚かせますよ」と、できそうもないことを口にしながら、「決行は明日だ!」と心に決めたのだった。それが稲荷山登頂への挑戦だった。
空の鉛色が東から解けてきた。雲が姿をあらわし、薄い黄金色に染まり始めた。雪の白が輝いている。私は決断した。天候は急速に好転している。やはり決行は今日を措いてはない。私は早速、準備にかかった。
私のモットーは「緻密な計画、周到な準備、果敢な挑戦」である。
今回、初めての単独登山ということで、ほとんどの準備はすでに完了してあった。そこへ予想しなかった今朝の雪だ。単独登山は突如として単独雪山登山ということに計画変更を余儀なくされた。だが状況変化に臨機に対応できるのは、私の優れた能力の一端である。この時季に天気が変わりやすいのは周知のことだ。ましてこれから挑戦するのは雪山ということになった。それでなくても山の天気異変は予想がつかない。天候悪化に備えてテントや非常食の携行が、生死に関わる重要案件として急遽、浮上した。当然、保温性の高い寝袋も必要だ。所持品は相当の重量になりそうだとバックパックの容量を検討し始めたとき、稲荷山を含む周辺は携帯電話の使用可能圏内だという情報が届いた。この情報は緊急事態が勃発したとき、速やかに救援を要請できることを意味する。さらにそれはテントや寝袋など、携行品の大幅削減可能を意味する。またさらにそれは「携行品の重量」対「奪われる登山者の体力」、「携行品の重量」対「蓄積される登山者の疲労」、という公式に認定されている正比例の相関関係を配慮する必要を認めないことを意味するのである。
ただしかし、非常食については熟慮を要した。たとえば、吹雪の中で登山者が遭難したとしよう。携帯電話によって速やかに救援要請ができたとしても、吹雪の中で救援隊が遭難者を発見するのは容易なことではない。発見が大幅に遅れることを想定すれば、その間に空腹状態に陥った登山者の延命のためには、栄養価が高く消化吸収に優れた食料を携行する必要はなんとしても欠かせない。であるならばどのような食料を携行するか。
そのとき、突如として私の脳裏にひらめいたものがあった。突如としてひらめくのも私の優れた能力のひとつだ。しかも今回は連想によるひらめきだった。すなわち、稲荷山登山-稲荷神社-稲荷寿司-油揚げ。この連想によって非常用携行食品は油揚げと決まった。軽くてかさばらないことが採用の最重要条件であったが、結果的には私を窮地から救う食品となった。
最後まで判断を迷わせたのは、何を履くかという問題だった。防水能力の高い冬用登山靴が最適であることは言を待たない。ただ、ある筋からの情報では、過去に稲荷山登頂を、なんとサンダル履きで成功させた先人がいるというのだ。さらにさかのぼると下駄履き成功者も十指にあまるという。一瞬、私はわが耳を疑い、やがて怒りが湧き上がってきた。いったいその者たちは山をなんと心得ているのか。山を冒涜するにもほどがある。サンダルや下駄履きで登頂に成功したのが、よしんば事実であったとしても、それは偶然いくつかの幸運が重なったのに過ぎない。山を甘く見てはならないのだ。
結論から先に言うと、私は冬用の防寒ゴム長を採用した。理由は家の玄関に脱ぎ捨ててあったからだ。
いよいよ出発である。心配そうに見上げる愛犬ナメロー。「大丈夫だよ!」と、私はほとんど自分に言い聞かせて車に乗り込んだ。ミラーの中で住み慣れた我が家が遠ざかる。時計は午前9時16分を示していた。
国道345号線を走る。道路に雪はない。大型の除雪車が一仕事を終えた様子で路肩にエンジンを切って止まっている。運転手と助手が私に手を振る。
「おお、そうかそうか!」
二人は私の表情に、選ばれし者の恍惚を見たのだ!ほとばしり、燃えたぎる血潮の奔流を見たのだ!雄叫びにも似た勇者の咆哮を聞いたのだ!
そのとき、私の耳にあの「ドラゴンクエスト」の曲が鳴り響いた。眼前に栄光への道が開けていく。
「行ってくるぞ!」
私は二人に手を振ると、勢いよくアクセルを踏み込んだ。行き交う車が次々にクラクション鳴らす。
塩谷集落への道へハンドル切ると両側に松林が続く。いつどこからスライムが出現してもおかしくない。緊張が増す。この周辺では春のタラの芽、秋の茸と、自然の恵みを収穫したことはあるが、それ以外の経験知は皆無だ。メタルスライムに遭遇しようものなら万事休すである。すでに稲荷山の広大な裾野エリアに突入している。私は注意深く車を走らせた。
ところが、集落に入ってから地図を忘れてきたことに気づいた。あれほど周到な準備をし、念入りに点検もしたというのになんということだ。茫然自失となった私は、突き当たりの三叉路を、何の判断根拠もないまま右にハンドルを切った。突然、左側に日本海が広がった。雪の中に船小屋らしい小さな建物が点在し、荒涼とした風景が続いている。稲荷山がこの方角ではないと気づくのに時間はかからなかった。前方には山らしいものは確認できないのだ。
車を返して海沿いを反対方向に走り、集落への道に戻った。車の屋根をかすめて緑の枝が後ろに去った。広い通りに出ると左手に神社があった。「盬竃(しおがま)神社」と石柱にある。車を停めて境内に入ってみた。「写真塚」という珍しいものがあったが、塚の裏に由来は記してなかった。
しかし、こんなところを彷徨している場合ではない。目的地は稲荷山なのだ。明るいうちに登頂し、下山しなければ危険だ。神社を出た私はあらためて周辺を見回したが、ここからも山らしいものは見えない。稲荷山はどこに身を潜めているのか。私は登山口に到達する前に道に迷ってしまったらしい。いまやほとんど遭難寸前であった。早くも救援要請か。
そのとき、視界に一台の軽自動車が飛び込んできた。私は右手をあげながら駆け寄った。止まった車のボディには「○○商店」とあった。
「おがあさん、塩谷の人だかね」
小柄な六十半ばとおぼしい女性に、私はすがる思いで声をかけた。言葉は通じたようであった。こんなこともあろうかと、私は出発直前に現地語を習得していたのだ。女性は「んだっ」と応えながら、しかしそのまなざしにはあからさまな警戒の色があった。そういえば、この集落に入ってわずかな距離を走っただけなのに「不審者に注意!」「不審者を許すな!」といった看板を何度か見ていた。俄(にわ)か学習で習得した現地語は、意味は通じても現地の人にとっては異邦人の言葉でしかないのだ。イントネーションの不自然さは隠しようもない。しかも、私は雪上歩行のためのカンジキ、滑落防止用のアイゼンを腰からぶら下げている。彼女から見れば異様な風体なのかもしれなかった。私は不審者に見られている。だが、情報収集を急がなくてはならない。
「稲荷山はどこだね?」「こっちだっ」
彼女は警戒の色を解かぬまま、あごをしゃくった。
私は車に飛び乗った。途中、ミラーで後方を窺うと、女性はいつまでもこちらを見つめている。そして携帯電話を耳に当てたのが見えた。私はまちがいなく不審者に見られている。女性からの電話で誰かが追跡を始めたかもしれない。私は逃げるようにアクセルを踏み込んだ。
前方に赤い鳥居が見えた。それが稲荷山の登山口だった。とうとう探し当てた。近くに駐車してバックパックを背負い、ピッケルを手にした。登山届を出しておかなくてはと辺りを見回したが、それらしいところは見当たらない。いづれにしても私は許されない不審者だ。追跡者から逃げるためにも、明るいうちに下山するためにも急がなくてはならない。
登山口は海側からの裏登山口もあるという。なるほど、稲荷山は複数の登山道を持つ悠然たる山なのだ。私は迷わず表登山道を選んだ。何事によらず表から向かう、正面から挑むのが雄々しき勇者の道だ。私は敢然として表登山口に最初の一歩を刻した。道はいきなり石段になっていた。今朝降った雪が積もっているがカンジキは必要なさそうだ。どうやらこの登山道は稲荷神社の参道もかねているらしい。私は頂上を目指して、はやる気持ちをなだめるように石段を踏みしめて行った。
石段の道は徐々に狭まっていくようであった。二十段も登っただろうか。石段は右に方向を変えた。いくつもの鳥居が間を詰めて並んでいる。そして、その先に神社の社殿があった。これが稲荷神社であり、同時に稲荷山の頂上だった。登山口から時間にして一分とかからなかったように思う。あらためて自分の健脚ぶりに驚きながら、しばしの間、頂上を極めた感慨に浸った。息も上がらなかったのは、日ごろの鍛錬の賜物にちがいない。
社殿の左手に回ってみた。そこには稲荷神社とは異質なたたずまいの木製展望台が設置されていた。佐藤由弘さんが見せてくれた「稲荷山登頂証明書」のスケッチ画の風景がそこにあった。私は息を詰めて展望台に立った。突然、左手に広がる日本海が視野を満たした。粟島、佐渡、弥彦が遠くにかすむ。まだ冬色の海は白い波頭を大きな弓状に続く海岸と荒川河口に向かって次々と打ち寄せている。聞こえるのはその波音だけである。
右手の眼下には、塩谷集落の雪に覆われて白い甍が、北東にまっすぐ伸びている。この地は古くから北前船の寄港地として栄えた。繁栄の歴史をとどめる家屋も残されている。
歴史に思いをめぐらせながら、私は登頂した達成感に浸っていた。このとき、私は大きく展開する景観を独り占めしている果報者であった。登頂を証明してくれる現場認定者は誰もいないが、私は雪にしるされた自分の足跡をカメラに収めた。
「人々にとってはありふれた一歩かもしれない。だが私にとっては歴史に残る偉大なる一歩である」
脳裏に浮かんだそんな言葉を重くかみしめながら、私は感動のあまり滂沱と流れる涙をどうすることもできなかった。そのとき、再びあの曲が耳によみがえってきた。「ドラゴンクエスト」だ。
数多(あまた)の艱難辛苦を乗り越えて、勇者は今ひとりこの頂上に立った。
「おお天よ、我を讃えよ!おお神よ、我を寿(ことほ)げ!人々よ、美酒に酔え!」
誰もいない展望台を舞台に、いつしか私はヒーローを演じていた。
「獅子は鼠が相手でも全力で戦うという、その眼を開いてよく見るのだ。私のこのいでたちを!万が一にもぬかりなく、千に一つの油断もない。この名誉は細心の注意の賜物。臆病と嘲笑されようが戦いの女神ベローナは我に微笑んだではないか!勇者は豪胆からは生まれぬ。真の勇者は畏れを父に臆病を母として生まれるのだ!いざ、人々よ。我に続け!畏れの旗を振れ!臆病の銅鑼を鳴らせ!いまや、天も神も我ら弱き者と共にあるのだ!」
頂上を極めた喜びの余韻が去らぬまま、私は展望台から下りて社殿の周囲をまわってみた。空の一升瓶が転がっている。登頂記念に祝杯をあげた先人がいたのだ。そして、ついに私は社殿の左手に三角点を認めた。これこそ国土地理院がこの地を「山」と認定した、厳然たる証(あかし)なのであった。それは慎ましく、しかし誇り高く屹立していた。
大きな達成感に満たされて、私はいよいよ下山に向かった。登りより下りに事故は起きやすいと聞く。滑落防止にアイゼンの着用を考えたが、雪はゆるんできている。ゴム長だけで、私は慎重に一歩一歩石段を下りて行った。
左に回ると登山口の向こうに早くも道路が見えてきた。そのとき私は背後から刺すような鋭い視線を感じた。不審者と見られたらしい私は、やはり誰かに追跡されているのだろうか。稲荷山登頂は私が自宅に無事に帰り着いて完結する。こんなところで許されざる不審者として拘束されるわけにいかない。私はピッケルを握る手に力を入れ、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、叫び出しそうな自分の口を左手で押さえた。そこに私が見たものは人間ではなかった。異様に大きい両耳はピンと立ち、目じりのつり上がった切れ長の細い目がこちらを睨んでいる。突き出した口は、大きく裂けて今にも噛み付きそうだ。それはなんと狐だった。しかも一匹だけではない。笹薮の蔭からもう一匹がこちらを窺っている。スキをみせればいきなり跳びかかってくる。ピッケルを振り上げた途端、まちがいなく狐は私の喉元に食いつく。たとえ一匹をピッケルで打ち倒したとしても、もう一匹が私を許さないだろう。どうするか。私は二匹の狐の目を交互に睨みつけながらジリッジリッと後ずさった。
「命運これまでか」
無事な帰宅を待っている愛犬ナメローの顔が浮かんだ。
「痛恨!巨星、稲荷山に果てる」朝刊一面の見出しがナメローの顔に重なった。
そのときであった。
「そうだ!狐の好物は・・・?」
天啓のごときひらめき、これも私の優れた能力の一つであるが、この事態になってひらめくのが尋常ではない。私は不穏な動きで相手を刺激しないように、静かにバックパックを背から下ろした。右手のピッケルを低く構えながら、片方の手をバックパックに滑り込ませた。目は二匹の狐からそらさない。狐も私の目を鋭く見据えている。「バチッ!」。両者の視線がぶつかって音を立てた。左手はようやく油揚げを探り当てた。
放り投げてやった油揚げに二匹の狐は貪りついた。その間に、私は残り数段の石段を駆け下りて道路に出た。道路に出れば、そこは人間たちのテリトリーだ。時計を見ると、登り始めてから10分が経過していた。展望台での一人芝居に時間をとられたようだった。それでも、明るいうちに下山できたのは、まちがいなく日ごろの鍛錬の成果だ。
かくして、海抜15.3メートル、新潟県で最も低い山として公式に認定された稲荷山の単独雪中登山は、救助要請することもなく、涙ながらの登頂という大成功をおさめた。帰宅してから愛犬ナメローと無事を喜びあい、祝杯をあげたのはいうまでもない。
翌朝、案じていた筋肉痛も腰痛もなく、あらためて肉体能力の若さと強靭さを確認することができた。
この「登頂証明書」はまだ本物ではない。本物は100円を収めなくてはもらえない。そして登頂は自己申告で認められることを確認した。苦労して登頂した私からすると、いささかの不満が残る。安全上からも、また証明をする上からも単独より二人以上の登頂を推奨する。
私は窓の外を見つめながら、ある大きな計画を実行に踏み切るかどうか思案していた。
前日、ようやく確定申告を済ませた。「これでやっと春が来ます」と言った私に、最終チェックをしてくれた商工会議所の女子職員は「私たちもこれが終わると春です」と笑った。「来年は申告の初日に来てみなさんを驚かせますよ」と、できそうもないことを口にしながら、「決行は明日だ!」と心に決めたのだった。それが稲荷山登頂への挑戦だった。
空の鉛色が東から解けてきた。雲が姿をあらわし、薄い黄金色に染まり始めた。雪の白が輝いている。私は決断した。天候は急速に好転している。やはり決行は今日を措いてはない。私は早速、準備にかかった。
私のモットーは「緻密な計画、周到な準備、果敢な挑戦」である。
今回、初めての単独登山ということで、ほとんどの準備はすでに完了してあった。そこへ予想しなかった今朝の雪だ。単独登山は突如として単独雪山登山ということに計画変更を余儀なくされた。だが状況変化に臨機に対応できるのは、私の優れた能力の一端である。この時季に天気が変わりやすいのは周知のことだ。ましてこれから挑戦するのは雪山ということになった。それでなくても山の天気異変は予想がつかない。天候悪化に備えてテントや非常食の携行が、生死に関わる重要案件として急遽、浮上した。当然、保温性の高い寝袋も必要だ。所持品は相当の重量になりそうだとバックパックの容量を検討し始めたとき、稲荷山を含む周辺は携帯電話の使用可能圏内だという情報が届いた。この情報は緊急事態が勃発したとき、速やかに救援を要請できることを意味する。さらにそれはテントや寝袋など、携行品の大幅削減可能を意味する。またさらにそれは「携行品の重量」対「奪われる登山者の体力」、「携行品の重量」対「蓄積される登山者の疲労」、という公式に認定されている正比例の相関関係を配慮する必要を認めないことを意味するのである。
ただしかし、非常食については熟慮を要した。たとえば、吹雪の中で登山者が遭難したとしよう。携帯電話によって速やかに救援要請ができたとしても、吹雪の中で救援隊が遭難者を発見するのは容易なことではない。発見が大幅に遅れることを想定すれば、その間に空腹状態に陥った登山者の延命のためには、栄養価が高く消化吸収に優れた食料を携行する必要はなんとしても欠かせない。であるならばどのような食料を携行するか。
そのとき、突如として私の脳裏にひらめいたものがあった。突如としてひらめくのも私の優れた能力のひとつだ。しかも今回は連想によるひらめきだった。すなわち、稲荷山登山-稲荷神社-稲荷寿司-油揚げ。この連想によって非常用携行食品は油揚げと決まった。軽くてかさばらないことが採用の最重要条件であったが、結果的には私を窮地から救う食品となった。
最後まで判断を迷わせたのは、何を履くかという問題だった。防水能力の高い冬用登山靴が最適であることは言を待たない。ただ、ある筋からの情報では、過去に稲荷山登頂を、なんとサンダル履きで成功させた先人がいるというのだ。さらにさかのぼると下駄履き成功者も十指にあまるという。一瞬、私はわが耳を疑い、やがて怒りが湧き上がってきた。いったいその者たちは山をなんと心得ているのか。山を冒涜するにもほどがある。サンダルや下駄履きで登頂に成功したのが、よしんば事実であったとしても、それは偶然いくつかの幸運が重なったのに過ぎない。山を甘く見てはならないのだ。
結論から先に言うと、私は冬用の防寒ゴム長を採用した。理由は家の玄関に脱ぎ捨ててあったからだ。
いよいよ出発である。心配そうに見上げる愛犬ナメロー。「大丈夫だよ!」と、私はほとんど自分に言い聞かせて車に乗り込んだ。ミラーの中で住み慣れた我が家が遠ざかる。時計は午前9時16分を示していた。
国道345号線を走る。道路に雪はない。大型の除雪車が一仕事を終えた様子で路肩にエンジンを切って止まっている。運転手と助手が私に手を振る。
「おお、そうかそうか!」
二人は私の表情に、選ばれし者の恍惚を見たのだ!ほとばしり、燃えたぎる血潮の奔流を見たのだ!雄叫びにも似た勇者の咆哮を聞いたのだ!
そのとき、私の耳にあの「ドラゴンクエスト」の曲が鳴り響いた。眼前に栄光への道が開けていく。
「行ってくるぞ!」
私は二人に手を振ると、勢いよくアクセルを踏み込んだ。行き交う車が次々にクラクション鳴らす。
塩谷集落への道へハンドル切ると両側に松林が続く。いつどこからスライムが出現してもおかしくない。緊張が増す。この周辺では春のタラの芽、秋の茸と、自然の恵みを収穫したことはあるが、それ以外の経験知は皆無だ。メタルスライムに遭遇しようものなら万事休すである。すでに稲荷山の広大な裾野エリアに突入している。私は注意深く車を走らせた。
ところが、集落に入ってから地図を忘れてきたことに気づいた。あれほど周到な準備をし、念入りに点検もしたというのになんということだ。茫然自失となった私は、突き当たりの三叉路を、何の判断根拠もないまま右にハンドルを切った。突然、左側に日本海が広がった。雪の中に船小屋らしい小さな建物が点在し、荒涼とした風景が続いている。稲荷山がこの方角ではないと気づくのに時間はかからなかった。前方には山らしいものは確認できないのだ。
車を返して海沿いを反対方向に走り、集落への道に戻った。車の屋根をかすめて緑の枝が後ろに去った。広い通りに出ると左手に神社があった。「盬竃(しおがま)神社」と石柱にある。車を停めて境内に入ってみた。「写真塚」という珍しいものがあったが、塚の裏に由来は記してなかった。
しかし、こんなところを彷徨している場合ではない。目的地は稲荷山なのだ。明るいうちに登頂し、下山しなければ危険だ。神社を出た私はあらためて周辺を見回したが、ここからも山らしいものは見えない。稲荷山はどこに身を潜めているのか。私は登山口に到達する前に道に迷ってしまったらしい。いまやほとんど遭難寸前であった。早くも救援要請か。
そのとき、視界に一台の軽自動車が飛び込んできた。私は右手をあげながら駆け寄った。止まった車のボディには「○○商店」とあった。
「おがあさん、塩谷の人だかね」
小柄な六十半ばとおぼしい女性に、私はすがる思いで声をかけた。言葉は通じたようであった。こんなこともあろうかと、私は出発直前に現地語を習得していたのだ。女性は「んだっ」と応えながら、しかしそのまなざしにはあからさまな警戒の色があった。そういえば、この集落に入ってわずかな距離を走っただけなのに「不審者に注意!」「不審者を許すな!」といった看板を何度か見ていた。俄(にわ)か学習で習得した現地語は、意味は通じても現地の人にとっては異邦人の言葉でしかないのだ。イントネーションの不自然さは隠しようもない。しかも、私は雪上歩行のためのカンジキ、滑落防止用のアイゼンを腰からぶら下げている。彼女から見れば異様な風体なのかもしれなかった。私は不審者に見られている。だが、情報収集を急がなくてはならない。
「稲荷山はどこだね?」「こっちだっ」
彼女は警戒の色を解かぬまま、あごをしゃくった。
私は車に飛び乗った。途中、ミラーで後方を窺うと、女性はいつまでもこちらを見つめている。そして携帯電話を耳に当てたのが見えた。私はまちがいなく不審者に見られている。女性からの電話で誰かが追跡を始めたかもしれない。私は逃げるようにアクセルを踏み込んだ。
前方に赤い鳥居が見えた。それが稲荷山の登山口だった。とうとう探し当てた。近くに駐車してバックパックを背負い、ピッケルを手にした。登山届を出しておかなくてはと辺りを見回したが、それらしいところは見当たらない。いづれにしても私は許されない不審者だ。追跡者から逃げるためにも、明るいうちに下山するためにも急がなくてはならない。
登山口は海側からの裏登山口もあるという。なるほど、稲荷山は複数の登山道を持つ悠然たる山なのだ。私は迷わず表登山道を選んだ。何事によらず表から向かう、正面から挑むのが雄々しき勇者の道だ。私は敢然として表登山口に最初の一歩を刻した。道はいきなり石段になっていた。今朝降った雪が積もっているがカンジキは必要なさそうだ。どうやらこの登山道は稲荷神社の参道もかねているらしい。私は頂上を目指して、はやる気持ちをなだめるように石段を踏みしめて行った。
石段の道は徐々に狭まっていくようであった。二十段も登っただろうか。石段は右に方向を変えた。いくつもの鳥居が間を詰めて並んでいる。そして、その先に神社の社殿があった。これが稲荷神社であり、同時に稲荷山の頂上だった。登山口から時間にして一分とかからなかったように思う。あらためて自分の健脚ぶりに驚きながら、しばしの間、頂上を極めた感慨に浸った。息も上がらなかったのは、日ごろの鍛錬の賜物にちがいない。
社殿の左手に回ってみた。そこには稲荷神社とは異質なたたずまいの木製展望台が設置されていた。佐藤由弘さんが見せてくれた「稲荷山登頂証明書」のスケッチ画の風景がそこにあった。私は息を詰めて展望台に立った。突然、左手に広がる日本海が視野を満たした。粟島、佐渡、弥彦が遠くにかすむ。まだ冬色の海は白い波頭を大きな弓状に続く海岸と荒川河口に向かって次々と打ち寄せている。聞こえるのはその波音だけである。
右手の眼下には、塩谷集落の雪に覆われて白い甍が、北東にまっすぐ伸びている。この地は古くから北前船の寄港地として栄えた。繁栄の歴史をとどめる家屋も残されている。
歴史に思いをめぐらせながら、私は登頂した達成感に浸っていた。このとき、私は大きく展開する景観を独り占めしている果報者であった。登頂を証明してくれる現場認定者は誰もいないが、私は雪にしるされた自分の足跡をカメラに収めた。
「人々にとってはありふれた一歩かもしれない。だが私にとっては歴史に残る偉大なる一歩である」
脳裏に浮かんだそんな言葉を重くかみしめながら、私は感動のあまり滂沱と流れる涙をどうすることもできなかった。そのとき、再びあの曲が耳によみがえってきた。「ドラゴンクエスト」だ。
数多(あまた)の艱難辛苦を乗り越えて、勇者は今ひとりこの頂上に立った。
「おお天よ、我を讃えよ!おお神よ、我を寿(ことほ)げ!人々よ、美酒に酔え!」
誰もいない展望台を舞台に、いつしか私はヒーローを演じていた。
「獅子は鼠が相手でも全力で戦うという、その眼を開いてよく見るのだ。私のこのいでたちを!万が一にもぬかりなく、千に一つの油断もない。この名誉は細心の注意の賜物。臆病と嘲笑されようが戦いの女神ベローナは我に微笑んだではないか!勇者は豪胆からは生まれぬ。真の勇者は畏れを父に臆病を母として生まれるのだ!いざ、人々よ。我に続け!畏れの旗を振れ!臆病の銅鑼を鳴らせ!いまや、天も神も我ら弱き者と共にあるのだ!」
頂上を極めた喜びの余韻が去らぬまま、私は展望台から下りて社殿の周囲をまわってみた。空の一升瓶が転がっている。登頂記念に祝杯をあげた先人がいたのだ。そして、ついに私は社殿の左手に三角点を認めた。これこそ国土地理院がこの地を「山」と認定した、厳然たる証(あかし)なのであった。それは慎ましく、しかし誇り高く屹立していた。
大きな達成感に満たされて、私はいよいよ下山に向かった。登りより下りに事故は起きやすいと聞く。滑落防止にアイゼンの着用を考えたが、雪はゆるんできている。ゴム長だけで、私は慎重に一歩一歩石段を下りて行った。
左に回ると登山口の向こうに早くも道路が見えてきた。そのとき私は背後から刺すような鋭い視線を感じた。不審者と見られたらしい私は、やはり誰かに追跡されているのだろうか。稲荷山登頂は私が自宅に無事に帰り着いて完結する。こんなところで許されざる不審者として拘束されるわけにいかない。私はピッケルを握る手に力を入れ、ゆっくりと振り返った。
その瞬間、叫び出しそうな自分の口を左手で押さえた。そこに私が見たものは人間ではなかった。異様に大きい両耳はピンと立ち、目じりのつり上がった切れ長の細い目がこちらを睨んでいる。突き出した口は、大きく裂けて今にも噛み付きそうだ。それはなんと狐だった。しかも一匹だけではない。笹薮の蔭からもう一匹がこちらを窺っている。スキをみせればいきなり跳びかかってくる。ピッケルを振り上げた途端、まちがいなく狐は私の喉元に食いつく。たとえ一匹をピッケルで打ち倒したとしても、もう一匹が私を許さないだろう。どうするか。私は二匹の狐の目を交互に睨みつけながらジリッジリッと後ずさった。
「命運これまでか」
無事な帰宅を待っている愛犬ナメローの顔が浮かんだ。
「痛恨!巨星、稲荷山に果てる」朝刊一面の見出しがナメローの顔に重なった。
そのときであった。
「そうだ!狐の好物は・・・?」
天啓のごときひらめき、これも私の優れた能力の一つであるが、この事態になってひらめくのが尋常ではない。私は不穏な動きで相手を刺激しないように、静かにバックパックを背から下ろした。右手のピッケルを低く構えながら、片方の手をバックパックに滑り込ませた。目は二匹の狐からそらさない。狐も私の目を鋭く見据えている。「バチッ!」。両者の視線がぶつかって音を立てた。左手はようやく油揚げを探り当てた。
放り投げてやった油揚げに二匹の狐は貪りついた。その間に、私は残り数段の石段を駆け下りて道路に出た。道路に出れば、そこは人間たちのテリトリーだ。時計を見ると、登り始めてから10分が経過していた。展望台での一人芝居に時間をとられたようだった。それでも、明るいうちに下山できたのは、まちがいなく日ごろの鍛錬の成果だ。
かくして、海抜15.3メートル、新潟県で最も低い山として公式に認定された稲荷山の単独雪中登山は、救助要請することもなく、涙ながらの登頂という大成功をおさめた。帰宅してから愛犬ナメローと無事を喜びあい、祝杯をあげたのはいうまでもない。
翌朝、案じていた筋肉痛も腰痛もなく、あらためて肉体能力の若さと強靭さを確認することができた。
この「登頂証明書」はまだ本物ではない。本物は100円を収めなくてはもらえない。そして登頂は自己申告で認められることを確認した。苦労して登頂した私からすると、いささかの不満が残る。安全上からも、また証明をする上からも単独より二人以上の登頂を推奨する。
by yoyotei | 2012-03-17 15:46