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作家の年譜を読む

 作家の年譜に強い興味をそそられる。どんな家庭に生まれ、どんな環境で育ったのか。どんな境遇がその作家の人となりを形成したのか。どのように生きてどのように死んだのか。年譜がそれらを伝えてくれる。
 たとえば、種田山頭火の年譜を、『作家の自伝35種田山頭火』(日本図書センター1995)でたどってみる。

明治十五年(1882)  
十二月三日、山口県佐波郡西佐波令村現在の防府市八王子)に誕生。父竹次郎(二十六歳)、母フサ(二十二歳)の長男。正一と命名された。一歳年長の姉フサがいた。種田家は八百坪を越す広壮な屋敷を持ち、二百七十年も続いた旧家。
明治二十五年(1892)十歳 
三月六日、母フサが自宅の井戸で投身自殺。山頭火は母の水死体を見て衝撃を受けた。この頃の父は政治運動に狂奔、家政は乱脈をきわめていた。
明治二十七年(1894)   
十月十五日に弟信一死亡(二歳)。八月一日、日清戦争開戦。
明治三十二年(1899)十七歳   
七月、周陽学校を席次一番で卒業。九月、県立山口尋常中学四年級に編入。
明治三十四年(1901)十九歳   
三月に異母妹マサコ誕生。同月、山口尋常中学校卒業。七月、東京専門学校高等予科に入学。
明治三十五年(1902)二十歳 
七月、東京専門学校高等予科卒業。九月に早稲田大学大学部文学科に入学。東京専門学校はこの年九月に早稲田大学と改称した。
明治三十七年(1904)二十二歳   
二月、神経衰弱のために早稲田大学を退学。七月に療養のために帰郷した。
明治四十二年(1909)二十七歳   
八月二十日、サキノと結婚。種田家は前年に防府の家屋敷すべてを売却。山頭火は父とともに酒造業に専念したと思われる。
明治四十三年(1910))二十八歳   
八月三日、長男健が誕生。この頃から飲酒で乱れるようになる。

 この翌年から山頭火は郷土で文芸活動を開始。翻訳や随筆の発表を行い、定型俳句も作るようになったが、今は山頭火の文芸については触れない。
 大正5年には種田家は破産。父は行方不明となり、山頭火は妻子を連れて熊本へ。この時、山頭火は34歳。大正7年には弟二郎が岩国の山中で縊死。大正9年、サキノと戸籍上の離婚。東京市役所臨時雇として一ッ橋図書館に勤務。半年後、正式に東京市事務員となったが、その翌年末、神経衰弱のため退職。額縁の行商などをした。

大正十二年(1923)四十一歳   
関東大震災に遭遇。避難中に憲兵に拉致され巣鴨刑務所に留置された。
大正十三年(1924)四十二歳   
十二月末、酒に酔って熊本市公会堂前を進行中の電車を急停車させる。市内東坪井町の報恩寺に連行され、これが機縁で禅門に入った。翌年には報恩寺において出家得度。
大正十五年・昭和元年(1926)四十四歳  
四月、行乞放浪の旅に出る。

 以後、「其中庵」「一草庵」と称する庵を結ぶなどをするが、行乞放浪の旅が続く。その間、自殺未遂(53歳)、無銭飲食による留置(55歳)もあった。

昭和十五年(1940)五十八歳   
十月十一日午前四時(推定)死去。死因は心臓麻痺と診断。

 尋常ではない壮絶な人生である。
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 自殺未遂をした昭和10年(1935)末、山頭火は死場所を求めて「其中庵」(山口県小郡町矢足)を出発、東上の旅に向かう。岡山で越年した翌昭和11年(1936)、信濃路から新潟、山形への途中、当市村上に立ち寄り、句会を開いている。
 句碑に刻まれた「水音が眠らせないおもひでがそれからそれへ」は「越後を訪ねる途中、立ち寄った群馬県万座温泉での作句」と解説にある。


 明治末年ごろ、フランス自然主義の影響を受けて、自己の現実に根ざしたリアリズムの文学が起こった。その中から作家が自分を主人公として、身辺の日常生活に取材しながら、自分の心境や感慨を吐露する形態の私小説が、大正10年頃から昭和10年頃にかけて成立した。志賀直哉など実生活との調和型と、芸術至上的な破滅型に区別されるが、破滅型の代表的作家に葛西善蔵がいる。この人の年譜から浮かび上がる人生も極めて壮絶だ。

明治二十年(1887)  
一月十六日、青森県中津軽郡弘前松森町に、葛西卯一郎・ひさの長男として生まれる。長女いそ、次女ちよの二姉があり、曽祖母たけ、祖母かよ、叔母あさが同居していた。父は祖父善吉を継いで米の仲買を業としていた。
明治二十二年(1889)二歳  
秋、北海道後志国寿都郡開進町(現寿都町)に移り住む。弟勇蔵生まれる。
明治二十四年(1891)四歳  
一家は青森県東津軽郡青森町(現青森市)に引き上げる。父は呉服太物の行商などで家を支えていた。
明治二十六年(1893)六歳  
北津軽郡五所川原村(現五所川原市)に移住。五所川原尋常小学校に入学。五月、一家が母ひさの生地南津軽郡碇ヶ関村大字碇ヶ関に移ったのを機に、碇ヶ関小学校に転入。度重なる転居は、善蔵に不安定な幼少時を過ごさせることになった。
明治三十五年(1902)十五歳  
苦学を決意して上京。これより早く、青森で半歳ほど丁稚奉公を経験しているが、上京後も新聞売子のかたわら夜学に通うという生活だった。街の艶歌師グループに身を置いたこともあるというが、母ひさの病気のため帰郷。七月十一日、母死亡。父は同年中に小野みよを後妻に迎える。
明治三十六年(1903)十六歳  
不如意な生活を脱すべく北海道に渡る。鉄道従業員として車掌になり、また営林署員などをつとめた。
明治三十八年(1905)十八歳   
再び上京。八月、哲学館(現東洋大学)に入学。この頃から文学を志向する。
明治四十一年(1908)二十一歳   
三月、郷里で平野弥亮の長女つると結婚。四月十六日、単身上京。徳田秋声に師事し、本格的な小説修行を心する。五月四日、東京府下豊多摩郡戸塚村字下戸塚の富士屋に転宿。無為の日を過ごす。六月二十四日帰郷、碇ヶ関の山の番小屋に妻と住む。九月十一日、妻を置いて上京、十三日、下戸塚の後楽館に宿を定める。飲酒の末、谷中警察署に保護されたりする。
明治四十二年(1909)二十二歳  
生計の資を義父平野弥亮に仰ぎつつ、五月六日、茨城県大洗へおもむき、小林楼に約半歳を過ごす。五月二十三日、浪岡村(妻つるの実家)で長男亮三誕生。「作」のためと称して平野への無心を重ねつつ、徒食の日を送る。十月帰京、十一月三日、後楽館から牛込区の石本館に移る。
 
 その後は貧窮に病苦が加わる。「経済的な行き詰まりから妻子を帰郷させる」「胸部のリウマチに苦しむ」「金策に追われる」「家庭を解消しようと妻に手紙を書く」「一張羅と愛用の万年筆まで質入れして正月を迎える」「生活の逼迫はさらに募り、妻を金策のために帰郷させる」「家計成らず、妻子を再び妻の実家に預ける」「またまた故郷へ遁走、実父の元へ身を寄せる」といった窮状を年譜は綴る。
 
大正十年(1921)三十四歳   
夏、肺炎を起こして以来、健康すぐれず、宿痾の喘息に加えて肺を冒されはじめ、床につくことが多くなった。
大正十五年・昭和元年(1926)三十九歳   
一月五日、徳田秋声夫人の葬儀に酔って弔辞を献じ醜態を演ずる。

 年譜に記されるほどの醜態とは、いったいどんな醜態だったのか。おおいに気になるところだ。酔っての醜態は他人事ではないからだ。この年の後半は「すでにほとんどペンを執ること叶わず、病苦酔中での口述に頼る」とある。病気に苦しむ中でも酒は飲んでいたようだ。
 2年後の昭和3年(1928)、すでに死を覚悟する中で、作家仲間など数人と別れの盃を交わした翌日、息を引き取った。41歳だった。芸術院善巧酒仙居士が戒名だ。
 文壇を代表して徳田秋声が弔辞を贈った、とこれも年譜にあった。


「焼跡闇市派」を自称した作家野坂昭如は、青年期の私のかたわらにいつもいた。型破りな言動を含めて大好きな作家の一人だが、このところ消息を聞かない。

昭和五年(1930)   
十月十日、神奈川県鎌倉郡鎌倉町小川町に、相如(すけゆき)、ヌイの二男として生まれる。父相如は、当時東京府建設局に勤め、のち新潟県副知事となり、随筆家としても知られる。母ヌイは、昭如を生んで三ヶ月後に腸を患って死去。
昭和六年(1931)一歳   
四月、神戸市永手町の張満谷(はりまや)善三の養子となる。養父は石油を扱う貿易会社の関西支配人で、養母は生母ヌイの妹に当たる。
昭和十一年(1936)六歳   
神戸市灘区中郷町に転居。
昭和二十年(1945)十五歳
六月五日、神戸大空襲で中郷町の家を全焼、養父母を失う。西宮市の親戚宅に寄寓し疎開先の福井県春江町で敗戦を迎えるが、義妹恵子は栄養失調で死去。

 この恵子の死が、小説「火垂るの墓」につながる。だが野坂昭如は次のように書いている。
「ぼくはせめて小説『火垂るの墓』にでてくる兄ほどに、妹をかわいがってやればよかったと、今になって、その無残な骨と皮の死にざまをくやむ気持ちが強く、小説中の清太に、その想いを託したのだ。ぼくはあんなにやさしくはなかった」(「私の小説から」昭和44年2月27日)

昭和二十二年(1947)十七歳   
私立中学校を四年終了後に退学。大阪中之島近辺で、進駐軍相手のぽん引きなどをして生活。十月、養母の実家を頼って上京。十一月、自転車泥棒、万引のほか、祖母や伯母の着物を盗んで古着屋に売っていたことが発覚し、多摩少年院中野出張所に入所。十二月、実父に引き取られて新潟に行き、野坂姓に戻る。
昭和二十三年(1947)十八歳   
四月、新潟高等学校文科乙類に入学。
昭和二十四年(1949)十九歳   
四月、学制改革により、新潟大学教育学部新発田分校に移るが、三日後に退学。
昭和二十五年(1950)二十歳  
四月、早稲田大学文学部仏文学科に入学。実家からの送金は酒と娼婦に使い果たし、犬洗い、基地労働者、大工手伝い、偽DDT販売、アメリカ中古衣料販売、ボーイ、パチンコ必中機販売、不動産営業、ゴミ箱販売など、さまざまな職種を転々とする。   
昭和二十九年(1954)二十四歳 
アルコール依存症治療のため、新潟大学付属病院精神科に入院。
昭和三十二年(1957)二十七歳   
三月、授業料滞納により、早稲田大学を抹籍処分となる。この年から、数多くのCMソングの作詞を始める。

 この後の野坂昭如は、シャンソンを歌い、野末陳平と組んでの漫才、多くの月刊誌や週刊誌へのコラムや雑文の執筆と多芸振りを発揮、昭和43年(1968)には、「アメリカひじき」「火垂るの墓」により第58回直木賞を受賞した。
 さらに、その後においても、大学紛争の全共闘支持表明、キックボクシングを始め、自作の歌「マリリン・モンロー・ノー・リターン/黒の舟歌」でのレコード発売、リサイタル開催、雑誌への「四畳半襖の下張り」掲載で有罪確定、国政選挙立候補(1度当選、2度落選)など、年譜は野坂昭如の振幅の大きい動きの軌跡をとどめている。

 ここまで、作家3人の年譜をたどってみた。破天荒、型破りだということで、意図的に選んだ3人ではある。しかし、誰にしても自分の中の年譜をたどってみれば波乱もあれば挫折もあっただろう。事態が順調に推移したこともあればそうでないこともあったと思う。
 もとより、どんな境遇に生を受けるかということも自分の選択の範囲にはない。生まれてみたらここだった。生まれてみたら私だったというくらいのことだ。

 ここで、またあの言葉を思い出した。以前のブログで引用した『ブレイキング・ナイト(ホームレスだった私がハーバードに入るまで)』(リズ・マレー著)の最後の一節だ。
「自分の境遇がどうであろうと人生に意味を与えるのは自分自身だ」

 作家の人生をたどりながら、あえて作品にふれなかった。境遇や才能や修行が作品を生み出し、作品が作家の人生に意味を与えるのは当然だと思うからだ。

 野坂昭如のホームページには「リハビリ中」とあった。訥弁の、照れを黒眼鏡で隠しながらいきおい込んでしゃべる野坂さんが好きだった。今の時代に、あなたらしいコメントが欲しい。野坂さん、私は待っている!

 山頭火と同じく、葛西善蔵、野坂昭如の年譜も『作家の自伝』(日本図書センター発行)に依った。

by yoyotei | 2012-05-21 10:22  

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