沙翁ヲ暗誦シテ得意然タリ/音容的皪トシテ顔前ニアリ/誰有ッテカ疑着セン君ノ才學/惆悵ス今宵永遠ノ眠り
故八木三男先生を偲ぶ、没後5年の臘梅忌(ろうばいき)が26日(土)の午後おこなわれた。八木先生は「夭夭亭」の名づけ親であり、多方面での師として私淑していた人であった。当日は大型寒波の襲来で吹きすさぶ吹雪の中、研究者、社会活動家、恩師、教え子、歌人など、錚々(そうそう)たる人たちが顔をそろえた。
八木先生の高校時代の恩師であり、後に県立村上高校で共に教鞭を執った本間桂先生は、この日の心情を「追悼八木仁兄」と題した自作の漢詩で吐露した。
暗誦沙翁得意然
音容的皪在顔前
有誰疑着君才學
惆悵今宵永遠眠
(脚韻/然、前、眠、下平声先韻、仄起式七言絶句)
私は本間桂先生の隣に居住している。先生は2年前に妻を亡くされ、ヘルパーの助けを受けながらの一人暮らしだ。齢(よわい)は90歳に近い。
右隣に座るのがこの集まりの世話役で、自宅に往診しながら八木先生を最後まで治療し続けた瀬賀医師。八木、本間両先生の教え子でもある。当地における最高レベルの「知」の巨人が八木、本間の両先生だと瀬賀医師は言う。彼は八木先生が残し、本間先生が所有する膨大な書籍の散逸を案じ、文庫の設立を準備している。
漢詩の「沙翁」はシェイクスピアのこと。病床を見舞った英語教師だった恩師本間桂先生に、教え子八木三男先生は、50数年前の高校時代に教わったシェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」の長い科白(せりふ)を、16世紀末期の古典的英語で朗誦したという。「惆悵(チュウチョウ=恨み悲しむ)」の語句の、師よりも先に逝った教え子の「才學」を惜しむ心情が胸に迫る。
臘梅忌の終わりに八木先生の一人娘絹さんが語った。それは亡き父への娘としての限りない思慕であり、数々の「遣り残し」もあっただろう無念への思いだった。
父が知らないで逝ってしまったことがいくつかある。政権交代と、自公政権の復活といった政治の変動。父ならどんな論評をしたのか。3/11の東北大震災による福島原発事故。避難を余儀なくされている子どもたち。父が生きていたら、自らが立ち上げた教育研究所の総力を挙げての社会的な支援と、人間存在を守るために反原発へ取り組んだであろうこと。
そして、父と娘との確執による疎遠と断絶。その後、死の病を得た父と娘の確執の氷解。涙ながらの絹さんの披瀝は参加者の胸を強く、しかし温かく揺さぶった。
この日、体調悪化で欠席を余儀なくされた妻八重子さんは私歌集「出でませ子」(2010年)で娘と夫(父)を歌に詠んでいる。
子の帰り行きたる雪の夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」
母の日に花を贈りて父の日に何もせぬ子は父が大好き
為(し)残して逝きたる教育論文集一年かけて子は遺志を遂ぐ
父の死後、絹さんは遺品の中から、あるものを見つけ出したという。それは絹さんが社会人になって、署名入りで新聞に掲載された何篇かの記事だ。
「父は必ず切り抜いて保管してくれているはずだ」
大好きな父と、その父に愛されている確信。そして、新聞記事の切抜きは小学生からの通知表といっしょに大切に保管されてあった。
絹さんの話に土浦から参加した今井さんが肩をふるわせ、顔を両手で覆った。
2008年1月八木三男先生逝く。没後5年目の臘梅忌。八木家の庭から手折られてきた臘梅の一枝。今年は開花が遅いようだ。
新年早々の「モウケガナイ」新年会に参加していたAnriさんが、夫のTakeshiさんを伴なって来た。この夜はAnriさんのちょっと早い誕生祝い。Anriさんは、当地では数少ないバスの観光ガイドさん。私の根掘り葉掘りの問いかけににこやかに応えてくれた。小さいときからの夢だったバスガイド。それを実現させた本当の笑顔のAnriさんだ。
Takeshiさんは鳶(とび)という高所作業職。だが「あまり将来性がありません」という。長期不況の中で高所作業を必要とする大規模建築は少ない。将来設計も厳しいようだ。
そんな夫婦に割って入っているのが、土浦から臘梅忌に駆けつけた今井さんだ。
今井さんは夫妻にエールをおくって元気づけた後、大きなバックパックを背負って吹雪の中を秋田に向かって旅立っていった。長く雑誌編集にたずさわっていた今井さんの今年の年賀状には「山歩きを軸に福島・沖縄をテーマに学びなおしをはじめました」とあった。
Takeshiさんは、妻Anriさんのことを「本当によく勉強しています」と言う。ガイドとして行く先々の歴史・文化・見所などの事前学習は欠かせないことなのだ。
臘梅忌でも参加者が語ったことは、すべて故人から「何を学んだか」だった。生きている限り学びは続く。
「村上市民ネットワーク」の新年会での講演は大滝友和さん(中央)にお願いした。彼は教師としての現役時代から赴任地の歴史や文化を調査し、教材として生徒と共に学んできた。そうした「学び」の足跡は数冊にもなる冊子として残されている。
大滝さんによると、そうした学びの方向は「はてな?」の探求だという。先日の講演もミステリアスなことの多い芭蕉の、村上における足跡を曾良の日記を手がかりにした「はてな?」の推理と探求だった。
退職後、彼の「はてな?」の探求は地元紙への連載や講演で大好評だ。人工透析を受けながらの、しかしどこか飄々とした語り口。彼は「先生」と呼ばれるのを嫌う。私は「友和さん」と呼んでいる。
Honmaさん(右)は教員から転職して現在は団体職員だ。教員時代に友和さんと同じ学校で教鞭をとっていた。ブナ林を守る活動を一緒にやってきたJojiさん(左)や私の仲間でもある。数年前からは彼の実家の畑を借りてブナの苗木を育てている。
陸上競技をがんばっている男の子と、教職を続けている奥さんがいる。
「今度、また連れて来ます」
と、こどもの成長が嬉しいHonmaさんだ。
ママさんたちの週末子育て解放タイム。おなじみのMurata妹たちに加えて、私の釣り仲間Nakayamaさんの長男のお嫁さん(左端)や韓国から当地へ嫁に来た人(左から2人目)も初お目見え。そういえばこの日、昼過ぎからの臘梅忌には中国から当地に嫁入りした女性もいて、漢詩「追悼八木仁兄」を中国語で朗誦した。先般「異国風酒場」と紹介された情報誌「CARREL(キャレル)」の記事に期せずして応えた状況だ。
Nakayama嫁さんが手にしているのはマイクが買ってきたアメリカのハンバーガー用のピクルス。「うまい、うまい」と、ママたちは一ビン完食。これも異国的ということか。
子育て、夫婦、姑舅との関係、生活のこと。ママたちが日々向き合っているのは、時代が変わり、生まれ育った国が違っても、普遍的で永遠に続く課題だ。だからこそママたちには苦労と喜びを共有し、情報を交換し合うおしゃべりと、その場所が必要なのだろう。
この夜、ママさんたちから「ステキ!」と喝采を浴びた「カサブランカのおじさん」こと、ユリと米の栽培農家Ootakiさんだ。「カサブランカ・ダンディ」という呼び方もあるぜ。
航空機の内部設備機器を製造している会社に秋田から出向している若者たちだ。昨年末に秋田に帰ったモーリーの後輩たちでもある。その会社にエンジニアとしてボーイング社から来ているマイクが若いスタッフに数杯のジャックダニエルをショットでふるまった。
マイク自身はビールジョッキを何杯か傾けた後、度数の高いタンカレーをトニックウオーターで割って飲みながら、ジャックダニエルの乾杯にも数回つきあった。そして、すべての客が引けた後、雪の夜道を一人よろけながら帰っていった。
「経年変化」という言葉がある。エイジングとも・・・。
使いこみ、時間を経過して風合いが生まれる。いい素材でつくられたものでないと重厚な風合いにはならない。経年劣化なんていわれないように・・・。
by yoyotei | 2013-01-30 06:31