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坂下(バンゲ)に着いたのは六時であった。ここは人口五千の商業の町である。

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好天に恵まれた日曜日、週末常連組と福島県会津へ日帰りドライブをした。新潟県北部の村上市に住んで40年を過ぎたが、周辺の観光スポットなどにはほとんど行ったことがない。私にとっては、行くところも見るものも、すべてが初めてだ。Mayaさんがルートをつくり、運転はHideちゃんとMurata兄の担当。出発と同時に冷たいビールをゴクリ!後は飲んでる間に、あちこちと連れて行ってもらう。ありがたいことだ。
 会津城(鶴ヶ城)、塔のへつり、大内宿を巡ったが、特筆すべきは大内宿の「ねぎ蕎麦」だ。長ネギ一本を箸にして蕎麦をたぐり、長ネギもまたかじるという趣向なのである。乱暴というかケッタイというか、由来もその意味もわからない。薬味としては代表格の長ネギではあるが、しょせんは脇役。しかし、この「ねぎ蕎麦」は、なにやら長ネギが蕎麦を従えているといった風格なのであった。私たち一行にしてから、長ネギでたべるという趣向なるが故に「ねぎ蕎麦」に対面したのであった。
 しかし、「ネギ硬いですから」と、蕎麦を運んできたおネエさんが言ったとおり、その硬さは尋常ではなかった。私はすぐに箸に持ち替え、長ネギをかじるのもあきらめた。越後の「柔肌(やわはだ)ネギ」を知る私たちにとってはあまりにも硬い。それでもマイクだけは果敢にも長ネギをかじりながら蕎麦を食べ終えた。
 夏ネギは硬いのが普通ではある。だが、先ほどわが家にあった長ネギをかじってみたが、あれほど硬くはなかった。会津出身の知人によれば、「今年は生育期に雨が少なかったせいで・・・」ということだった。
 まるで映画のセットのような旧宿場で、重要伝統的建造物に指定されているという大内宿。1878年(明治11)にイサベラ・バードが美濃屋に宿泊したというので、『日本奥地紀行』(イサベラ・バード著/高梨健吉訳・平凡社/東洋文庫)をひもといてみた。
「この地方はまことに美しかった。日を経るごとに景色は良くなり、見晴らしは広々となった。山頂まで森林に覆われた尖った山々が遠くまで連なって見えた。山王峠(サンノー)の頂上から眺めると、連山は夕日の金色の靄に包まれて光り輝き、この世のものとも思えぬ美しさであった。私は大内(オーウチ)村の農家に泊まった。この家は蚕部屋と郵便局、運送所と大名(ダイミョ-)の宿泊を一緒にした屋敷であった」
 イサベラ・バードの記述にはないが、どうやらこの屋敷が美濃屋であるらしい。そして、「村は山にかこまれた美しい谷間の中にあった」と続き、「すばらしい騎馬旅行であった」と絶賛している。 
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 その数日後、朝のテレビがその大内宿を映していた。
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「ねぎ蕎麦」を食した私たち全員に、MikaさんとMayaさんが長ネギストラップを買ってくれた。かくして私たちは「長ネギ族」ということになった。 
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 カサブランカ・ダンディOtakiさんの水田に、今年もカモが放された。雑草を食べて秋の稔りに貢献してくれるカモたちなのだ。
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 左からYoshio、Tetuya、Takashi、Naoko、Saeko(敬称略)の林業行政にたずさわる県の職員たち。Yoshioさんは各地を転々として10年ぶりに村上市帰ってきたという。私にはとても10年ぶりとは思えない。ついこの間という感じなのだが・・・。加齢による感覚変化なのだろうか。
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 シャイで可憐なSaekoさんは一升瓶の蔭に隠れて顔を見せてくれない。
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 Yoshioさんたちが来店した二日後、瀬波温泉一帯で森林整備がおこなわれた。新潟県と瀬波温泉の旅館やホテル関係者が協働して作業するもので、私は勤務するホテルから派遣されて参加した。なんと、そこでYoshioさんと遭遇した。目をこらせて見れば、集合写真にはYoshioさんも私も写っている。
「また行きます」とYoshioさんが言ってくれた。嬉しいねえ。
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「長ネギ族」一行は、テレビドラマ「八重の桜」の旗並木を抜けて、竹久夢路や与謝野晶子が愛したという東山温泉で入浴となった。小ぶりだが風情のある温泉だ。入浴後、服を着る段になってソックスが片方ないことに気づいた。脱衣籠をひっくり返してみたがない。不思議である。さらに不思議なのは、私の脱衣籠の近くに、色の似通ったハイソックスが落ちていたことであった。それも片方だけ。私のは黒にストライプの5本指スニーカーソックス。そちらは黒の普通のハイソックス。誰かが間違えようにも間違えるはずがない。泥酔していても履きながら、その違和感に間違いと気づくくらいなものだ。
 それでも私は、一緒に入浴したHideさん、Murataさん、マイクに確かめた。彼らは自分のソックスを正しく両の足に履いていた。そもそも5本指ソックスなんか誰も履いていない。もっと不思議なことに、温泉には、入浴前も入浴中も、着衣中も、私たちのほかには誰もいなかったのだ。狐にだまされたような感覚で、帰路は片方の足は素足で靴を履くほかはなかった。
 後日談である。
「マスターさあ、あの日は朝から片方は黒のハイソックスだったんだよ。大内宿でねぎ蕎麦を食べるときに靴を脱いで座敷に上がったでしょう。あのときにみんなが気づいたんだけど、黙っていようねって」
「とうとうマスターも来るべきときが来たんだなあって」
 バカなこと言ってんじゃあないよ。一瞬エッて思ったじゃあないか。だいいちあんなハイソックス、わが家にはありまっせん!
 東山温泉の、谷沿いの、向かいに崩れ落ちそうな建物が見えるホテルのみなさん。このソックスの片方がありましたら保管して置いてください。嫌疑をはらす唯一の証拠物件です。

「坂下(バンゲ)」は、現在私たちがいうところの会津坂下である。イサベラ・バードは日本の農村部や山間に暮らす人々様子を、きわめて率直な叙述で描き出す。
 タイトルの後、1878年(明治11年)夏の坂下をイサベラ・バードは以下のように記している。
「まさに水田湿地帯の中にあって、みすぼらしく、汚く、じめじめと湿っぽい。黒いどぶから来る悪臭が鼻をつく。(中略)私たちは馬を下りて、干魚をつめた俵がいっぱい入っている小屋に入った。干魚から出る臭いは強烈であった。雨に濡れた汚い人々がどっと入り込んできて、外人をじろじろと眺めるので、あたりの空気までが息苦しく感じられた」
 大内宿周辺を絶賛したイサベラ・バードが、同じ筆で嫌悪をあからさまにする。
 NHKドラマ「八重の桜」のクライマックスである戊辰戦争(1868)から10年後の、イサベラ・バード47歳の会津奥地紀行だった。 

「長ネギ族」こと「チーム長ネギ」は今週末、ちょっとディープな集結をする。

by yoyotei | 2013-06-14 07:40  

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