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言葉こそ生きる楽しみ生きる術(すべ) 不如意の無念も表せぬとは

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「かなしからずや身はピエロ、月のやもめの父無児(ててなしご)!月はみ空に身はここに、身すぎ世すぎの泣き笑い!」(第一詩集「月光とピエロ」堀口大学から「ピエロの嘆き」)。9月10日(土)の新潟日報は題字下にこの詩を掲げた。泣き笑いの日々を生きるのは人のさだめ、その身を昂然と輝く月に比すればおのれはピエロのごとくだという。
 石原裕次郎が「青い満月」を歌ったのは40数年も前だっただろうか。
   青い満月教えてくれよ/親も故郷をも捨てたいときは/だれにすがればよいものか
   好きな同士が一緒になれぬ/何もせぬのに嘘まで触れて/なんで世間が邪魔をする

   青い満月察してくれよ/人の世界にあいそがつきて/月に物問う切なさを
   人にかくれて泣きたい時は/月よお前の雫(しずく)にぬれよう/あすも今頃出てお呉れ
                       (作詞・萩原四郎 作曲・上原賢六)
 「月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万(よろづ)の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり」と、これは「徒然草」第八十三段の一節。
 人を感傷に誘い、人と語らせ、物事の消長にまで思いを巡らしめる月。その月はまた雲間に隠れることもある。
「待てど暮らせど来ぬ人を/宵待ち草のやるせなさ/今宵は月も出ぬそうな」と歌われる竹久夢二の『宵待草』。

はげしいむし歯のいたみから/ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら/わたしは棗の木の下を掘つてゐた、
なにかの草の種を蒔かうとして/きやしやの指を泥だらけにしながら/つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえてゐる/うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で/ちろ、ちろ、とみみずがうごいてゐた、
そのとき低い建物のうしろから/まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた/月があがつた。

日本近代詩の父と称される萩原朔太郎(1886~1942)の最初の詩集『月に吠える』におさめられた詩「白い月」。
                       
『百人一首』にも月を詠んだ歌は数多い。私などでも口をついで出るのは次の一首だ。
「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」(大江千里』)。また、「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」という西行の歌もある。王朝人のなんとセンチメンタルなことかと思うが、突如として高校時代の国語教師野津迪子(みちこ)先生を思い出した。先生が大学の卒業論文に西行を取り上げたと聞いたことがあったからだ。先生の知的なまなざしで見つめられると妙な反抗心が生まれた、そんな素直でない年代であった。
 迪子先生は結婚して野津から神田へ姓が変わった。神田先生は美術や演劇部の顧問で、美術部に入部した私に「代金はいつでもいいから」と言って油絵の道具一式を買い与えた。その道具で描いた油絵の第一作が今も店の壁にある。代金はいまだ未払いのままである。
 神田先生はベトナム戦争の悲惨な状況を私に教えた人でもあり、社会への関心というひとつの窓を開けてくれた先生だった。敬愛する二人の結婚を同窓生から聞いたのは卒業してから30年も後のことだった。自分のことのように嬉しかった。
 童謡『月の沙漠』の情景が私は好きだ。「月の沙漠をはるばると旅の駱駝が行きました」(作詞・加藤まさを 作曲・佐々木すぐる)
 かつてシルクロードの旅やインド西部タール砂漠のキャメル・サファリに大きく興味をそそられこともあったが・・・・・。作詞の加藤まさをは外国へも、まして砂漠へも行ったことはなくて、千葉県の御宿海岸でこの詩の着想を得たという。
  「広(ひろ)い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
  朧(おぼろ)にけぶる 月の夜(よ)を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと
  砂丘(さきゅう)を 越(こ)えて 行きました
  黙(だま)って 越えて 行きました」
 神田先生夫妻は健在だろうか。同じ月を二人寄り添って眺めておられるだろうか。
*<沙漠>と<砂丘>、沙と砂が使い分けられていることを歌詞を確認して初めて知った。
                         
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 農業の現状と将来を語る農業者二人。山形県高畠町からやってきた猪野クニオさん(左)と地元で米中心の農業集団を率いる板垣ヨシマサさんだ。彼らの熱い語り合いから、<農業こそはわれらが天職>といった思いが強く伝わってくる。
 そんな中で環太平洋連携協定(TPP)をめぐって、輸入米の価格偽装問題が浮上している。
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 産婦人科医のユミコさん(左端)が結婚して村上を去ってから3年近くも経っただろうか。その彼女がかって勤務した当地の病院の同僚たちと顔を見せた。ユミコ医師と私は<インドつながり>で、ベトナムに同行したこともある。ユミコ医師の右隣は、同じ産婦人科医のセリさん。先月のブログにも登場してもらった。
 セリさんの隣がこの夜の主役・小児科医のカツヤマさんだ。カツヤマさんは7年ほど勤めた当地の総合病院から長岡市の病院へ移ることになった。右は長い馴染みの外科医ワタナベさん。
 先に引いた詩人萩原朔太郎は群馬県前橋市の開業医の家に生まれた。セリさんも前橋の出身だが生家は開業医ではないらしい。これも前回のブログで紹介したが、セリさんは「前女(まえじょ)」こと県立前橋女子高校出身。朔太郎は「前高(まえたか)」と呼ばれている県立前橋高校(旧・県立前橋中学校)へ入学したが落第したと経歴にある。
 そのセリさんが、転勤するカツヤマ医師を「いい人オーラ」が蓋(おお)っていると表現した。本人もほとんど怒ったことがないという。<いつも穏やかに笑顔を湛えている人>というのが私が持ち続けてきた印象だ。長岡でも子どもやおかあさんたちから信頼される医師として活躍してほしい。
 先ごろ、朝日新聞「声」欄に次のような投稿が載った。
「医師の役目は病気を治すことだけではない。できる限り、患者が望む生き方ができるようにサポートすることだ。そのためには、患者の声をよく聴き、その人の生き方や思いを理解し、不安や悩みを取り除く必要がある」。 
 小学生の時、ストレスから体調を崩し受診した投稿者は、医師の冷たい態度に診察のたびに泣いていたという。患者としてのつらい体験から、「患者の心を傷つけない医師になる」という18歳の決意表明。心からエールを送りたい。もちろん、長岡へ転勤するカツヤマ医師にも。
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 鹿島アントラーズの育成部長高島さんを真ん中に飯島夫妻である。鹿島・高島・飯島と<島>が並んだ。ついでに私は島根県出身だ。
 歩行に支障をきたしていた飯島夫人カヨさんがずいぶんと回復したように見受けられた。そして、相変わらずの可愛い笑顔だ。トライアスロンでもボランティアとして、やはり笑顔で参加していた。
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「ギターを抱いた吟遊詩人」とも「さすらいのフォークシンガー」とも称される楠木しんいちさんが顔を見せた。1年ぶりか。京都市を拠点に、青春18切符で鈍行列車を乗り継いでの全国フォーク行脚は30年が過ぎた。この夏のライブ・スケジュールの一端を紹介してみる。
〇7/18(月)京都市嵐山『音や』〇7/30(土)金沢市湯涌創作の森『夕暮れ時コンサート』〇8/3(水)神奈川県大磯町『今古今(こんここん)』投げ銭ライブ〇8/6(土)三浦市三崎『ラ・クエンタ』投げ銭ライブ〇8/7(日)東京・阿佐ヶ谷『あるぽらん』〇8/15(月)ピースウォーク京都市市役所前スタート〇8/16(火)京都市『キッチンハリナ』ライブ〇8/20(土)東京都国立市『くにたち市民芸術小ホール』参加フリーライブ〇8/27(土)北海道今金町〇9/2(金)札幌市ギャラリー&カフェ『樹樹』〇9/3(土)札幌市『タペストリー』〇9/9(金)群馬県前橋市『クールフール』〇9/10(土)前橋市『水星』〇9/15(木)東京東中野『リズ』などといった具合である。
 この夜、二人だけでビールを飲みながら話した。さまざまな人間の営みや社会における価値観の変遷・・・・・。彼の語り口調はいつも穏やかで緩やかだ。
 彼には、はつ菜さんという一人娘がいる。父と同様のシンガーソング&ライターとして活動し、<京都の妖精>といわれていた。そのはつ菜さんが、今年の5月に博多の音楽関係者と結婚したという。そして、父しんいちさんは9月24日(土)に博多でライブを行ったはずだ。
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 これは、一昨年の「夭夭亭ライブ」のはつ菜さん。そして歌った歌の一節。 
 
 私は運命のなんとやらなんて信じてない
 そう簡単に安心なんてできない
 何度だって転ばせてよ
 何度だって傷つけてくれたっていいよ
 何度だって立ち上がってみせるから
 ねえ、ほらっ・・・。
                 「Resilience」から
 いささか自虐的な歌詞だが、結婚によってはつ菜さんの歌世界に変化があるだろうか。
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 診察待ちの眼科で、看護師から生年月日をたずねられた。右隣の人が「昭和13年8月29日」と答え、私は「昭和22年8月29日です!」と答えた。並んだ二人の誕生日が同じだった。私は右隣の男性に「同じですね」と声をかけた。男は、それがどうした?といわんばかりに、私をちらっと見ただけであった。偶然を面白がらない人だ。看護師さんの方がちょっと感動した面もちで「珍しいですね」と軽く笑った。
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 近所のスーパーで買い物をした。レジでの会計が7品目で、ちょうど1000円だった。私の次に並んでいた中年女性が「ピッタリ賞ですね」と言って顔をほころばせた。私もレジ係りも笑った。こんな些細なことでも人は笑い合える。
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 八重子の刀自(とじ)が倒れた、との報は5月下旬にもたらされていたが、このほど娘の絹さんから詳しい近況が知らされた。5月はじめに脳梗塞で倒れ、右半身のマヒと失語症の後遺症が残り、要介護5と認定されたこと。さまざまなリハビリに励みながら、現在は介護施設に入所していることなど。
 八重子の刀自は「夭夭亭」の名付親、故八木三男先生の夫人。村上を去って国分寺市に住む一人娘絹さんの近くに住まいを移したのは2年も前だろうか。村上を去るにあたって八重子の刀自と絹さん、八木三男先生の治療にあたった高校の教え子・瀬賀医師と私とで別れの膳を囲んだ。その折、刀自からひとつの話題が提供された。『百人一首』の「忍ぶれど 色にでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」(平兼盛)と「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」(壬生忠見)の2首の和歌について、「汝らはいづれを好むや、またいづれを優とするや」というものであった。「天暦の御時(おほんとき)の歌合(うたあわせ)」(960年)以来千年の論争となっていることを、私はこの時に刀自から教わった。
 絹さんからの便りに、「介護施設は私の自宅から近く、リハビリの手伝いをしたり、百人一首の勉強をして過ごそうと考えています」とあった。
 刀自(とじ・とうじ)とは(老若にかかわらず)一家の女主人の敬称などと『古語大辞典』(小学館)にある。私のブログ「八重子の刀自(とじ)」(2012年6月)に、そのいきさつを載せているので再掲する。画像の左が6年前の元気な頃の八重子の刀自で、右は土浦の今井さん。
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 『二年前に「出でませ子」と題したブログで、八木八重子さんの歌集『出でませ子』を紹介した。そのなかで歌のいくつかも紹介したが、じつは歌集名の由来について、あとがきに次のようにあったのだ。 
(前略)ある日、日本書紀の中の歌垣の歌が話題になり、夫は傍らにあった筆をとり、すらすらと書きました。

八重子の刀自
打橋(うちはし)の頭(つめ)の遊びに出(い)でませ子
玉手の家の八重子の刀自
出でましの悔いはあらじぞ出でませ子
玉手の家の八重子の刀自

 この古歌は四十数年前に夫が私におくってくれたもので、結婚のきっかけとなりました。歌集名『出でませ子』は夫が書き遺したこの古歌からとり、題字は夫の最後の筆跡です。(後略)』
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 絹さんの便りには20首の歌が添えられてあった。数首を載せる。
 
 この人はわが母なりやぼんやりの表情のなかに面影求む
 家庭科のマチ針に絹、絹、絹、絹 書きたる母を思い出しおり
 歯ブラシにタオルにパジャマ、リハビリシューズ今度はわれが母の名を書く
 母がその母になしたる介護なればわが母にまたわれも尽くさむ
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「2016村上・笹川流れ国際トライアスロン大会」。開催前夜には決まって高崎さん(中)が顔を見せる。JTU(日本トライアスロン連合)の公認カメラマンである高崎さんはオリンピック・リオ大会にも大きなカメラを抱えて行ってきた。そして「リオは北京と同じ臭いがした」と語った。両国に共通するトイレ事情によるものだという。文章を書くことも生業(なりわい)のひとつである彼の話題は多岐にわたり、その掘り下げは深く正確だ。2年ぶりの偶然の再会となったマヤさん(左)とも話が弾んだ。
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 1000人を超える参加アスリート、競技を支える運営スタッフとボランティアは820人。当地でローカル大会として誕生したとき以来、公認の世界大会となってからも実況のマイクを握ってきた。当地が会場となった新潟国体トライアスロン競技でもやはりマイクを握った。だが、「今年でもう限界だ」と終了後に担当者に伝えた。なにしろ名簿の選手名が読み取れないのだ。ドライアイのために野外では対象物がちらちらする。サングラスで対応したが後半はボランティアの女性に読み上げてもらって、それを復唱するといった始末だった。来年に向かって後任者を見つけなくてはならない。
 作家の村上春樹さんなど著名人の参加もある大会だが、今回はモデルでタレントの道端カレンさんが出場した。「レースナンバー364道端カレン!東京都からのエントリー!」と紹介して「ん?」と顔を上げた時にはスタイルのいい後姿が右手のコーナーを曲がって消えた。
 参加者の最高齢は男子の80歳2名だった。2名とも最後尾でタイムアップとなった。それでも最後まであきらめることなく走り続けたが、無情にも道路上のコースを示すコーンなどは撤去された。道路の占有許可時間が終了したのだ。
「千葉県からのエントリー、タケウチ・シンセイさん、新潟県からのイシグロ・シュウキチさん、ともになんと80歳!二人はゴールをめざして今も懸命に走り続けています・・・・。しかし、残念ですが、ほんとうに残念ですが、こちら実況ブースからの放送はこれをもって終了させていただきます・・・・。ご協力ありがとうございました」と、私は4時間にわたってしゃべり続けたマイクを置いた。私の30年近いMC担当も終わった。
「人生はスポーツ。スポーツは人生だ!!100歳まで挑戦します。よろしくお願い申し上げます」
「日本トライアスロン連合(JTU)」創設者の一人でもある石黒修吉さん(80)から大会事務局へ寄せられたコメントだ。
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 秋雨の中、庭の金木犀が香ってきた。強い香りが印象的だが、咲かせる花は小さくつつましい。謙虚・謙遜・気高い人などの花言葉がある。数日のうちに濡れた地面が、ビーズを散りばめたように黄色く染まるだろう。
 タイトルの歌も絹さんが母を詠んだ一首。秋の雨は降り続いている。

by yoyotei | 2016-09-29 08:39  

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