桜花咲きかも散ると見るまでに誰かも此処に見えて散り行く

 1月2月3月は、「行く逃げる去る」といわれるように瞬く間に過ぎた。特別、時季に応じた暮らしをしてはいないし、年度末から新年度に向けた仕事の整理などがあるわけではない。来店客も少なく、これといった会合や集まりもない。無為に過ごす時間が長いのだから、時はゆっくりと経過するものと思いきや、なにやらサラッと過ぎてしまったという印象なのだ。 
 ところが4月になると、人との出会い、ホテルのパート仕事の雇用関係の変化、ショートトリップなど、私を取り巻く周囲も<春爛漫>のなかで大きく動いた。
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 日録の4月1日には東北大震災のドキュメンタリー映画『東北の新月』について、セガ医師がイザベルさんと来店とある。アメリカ人イザベルさんに配慮して英語だけで会話をするセガ医師。それに合わせる私は冷や汗だくだくだった。
  映画はカナダ人の日系三世リンダ・オオハマさんが制作監督したもの。こカナダ在住の建築家ホンマ・シノブさんから、当地におけるの上映依頼を受けて始まったプロジェクトだ。ホンマ・シノブさんは私の住居の隣家故本間桂先生の次男だ。映画の上映は「6月3日(土)午後2時から会場/村上市教育情報センター」で、ということが後の集まりで決定した。カナダのトルドー首相は「震災による喪失が引き起こした人々の嘆き苦しみを、被災者の目を通して描きながらも、なお未来に託す希望のメッセージを我々に送っている」と言葉を寄せている。
 震災から6年、風化がささやかれる「絆」。カナダ人は被災から立ち上がろうとする日本人東北の人たちをどう見たのか。あらためて自らに問うてみるいい機会だ。
 
 5日には大岡信死去。朝日新のコラム「折々のうた」を1979年から2007年にわたって連載した詩人だ。手元にある『詩歌ことはじめ』(大岡信著/昭和60年・講談社)に興味深い記述を見出した。<俳句の歳時記では「花」は春の季語で、古典和歌や俳諧では自動的に「桜」を意味するのが常識だが、それはおおむね平安時代からで、「万葉集」のできた奈良時代には「花」といえば「梅」だった。梅は中国から移入したものだから、当時はハイカラな樹木だった。桜に比べたら梅は香りがずっと高い。梅の香りを愛することが、当時においては文化的な人間であることの証拠だった>
 私はすぐに裏庭の梅の元に走った。だが、散り始めていた「三五郎梅」から香りを嗅ぎ取ることはできなかった。にわかに奈良時代の文化人を気取ってみても、所詮は底が知れている。
 
 夜はテルコさん84歳がナオコさんと来店。誘われて村上で最古のバー「木馬」へ行った。旧知のマスター長さんとも久しぶりに顔をあわせた。妻に先立たれて何年になるだろうか。カウンターの端には白い一輪のユリに花が、往年と変わらない凛としたたたずまいを見せていた。<変わらない>ことの落ち着きと充足感がこのp店にはある。この日は「気温高く暖かし」と日録にある。

 8日土曜日。作家で翻訳家でもある池田香代子氏の講演に行った。ブログではかなり激しい政権批判を続けている人だが、講演は優しく穏やかな語り口調だった。相変わらず視力の低下に難儀をしている私は前から3列目に座ったが、終始うとうととしてしまった。

 このところ日・月曜日を店の定休日としているが、10日の月曜日は勤務するホテルの、新しい雇用者側スタッフとパート勤務者たちとの懇親会が、私の店であった。酒を飲む人は少なく、口の重い人が多い集まりで、<座持ち>に苦慮した。

 3,11から6年、かねてから念願だったフクシマへの旅が実現した。ドライバーを引き受けたジョージさん、いまだ愛犬カールを失った喪失感の中にいるユウコさん、リハビリ中のジョージさんの妻と彼女をフォローする姉、そして私。なによりも今回のフクシマ行きのために宿の手配をはじめ、原発問題住民運動全国連絡センター筆頭代表委員・原発事故被害いわき市民訴訟原告団長の伊東さんとの面談を実現してもらった土浦の今井さんの尽力には感謝の言葉もない。しかも、詳細な現地の地図を用意して、1泊2日の現地視察ともいうべき旅のガイドまでしてもらった。
 いくつかのエピソードを含めて、貴重な体験だったが、何よりもゴーストタウンと化した避難地域のありさまは、見る者をして暗澹とさせ、やがて沸々と怒りが湧き上がってきた。これまでもテレビの画像などで見てはいたが、実際に目の前にした光景、そして怒りを忘れてはならないと強く思った。何が誰が住民をここまで追い込んだのか。非難解除がなされたばかりの町にも人影は少なく、はたして元の生活に戻ることができるのだろうかとの懸念は重く深い。
 東京電力福島第1原発事故による避難指示が解除された富岡町では、名所として知られる夜の森地区の桜並木も見た。ほぼ満開となっていた桜並木は全長2.2キロ。このうち1.9キロは放射線量が高いため原則立ち入り禁止の帰還困難区域に含まれ、訪れる人はまばらだった。6年前にはこの辺りもやむなく放たれた牛がさまよっていたという。立ち入り禁止区域の住宅の庭にキジを見つけた今井さんは丹念にカメラに収めていた。
 
 ところで、今回のブログに画像がないのはカメラに装填したSDカードのトラブルによる。写した画像データーが消えてしまったのだ。もっともフクシマへはカメラを持参するのを忘れた。スマホに数点の画像があるがブログに取り込む技術を知らない。 

 15日、実家の新しい住人への引渡しが最終段階になった絹さんが次男と来店。新しい住人家族、仲介に並々ならない尽力をしセガ医師たちと会食。この折の<実家引渡し>を絹さんは次のように詠んだ。

 幾とせをわが家の暮らし見守りし暖簾を外してていねいに畳む
 新しき家族の家紋染め抜きし暖簾贈るを儀式となせり
 家と庭、家具に食器も引継ぎて新しき家族は暮らし始むる
 着古しの父の背広を仕立て直し着てくるるという若き主(あるじ)は
 古家なれど人す住めばすべて瑞々し緑萌え出ず城山の下(もと)
 漆黒の空の彼方に小(ち)さき月 湯に浸かりつつ父を偲びぬ
 父が建て父が愛せしこの家を四十余年経てわれが手放す
 家眺め浮かぶ姿は母でなくまさしく父あくまでも父
 父の字の清水焼の表札を包みて今日は家を跡にす

 このようにして40年を経た家が新しい住人を得る例を、寡聞にして私は知らない。さらに、旧住人家族と新住人家族が親交を深める例も聞いたことがない。<住人無き家>が増えている昨今、きわめて稀な、そしてきわめて<いい出来事>である。そうか、あの表札は清水焼だったのか。

 2009年に3週間のインドの旅に同行した<世界を歩く人>ヨシヒロさんが顔を出した。長距離を歩くことが困難になったことですっかり元気をなくしていた。76歳という年齢をどうとらえるかは人によってちがうだろうが、健康状態が及ぼす心境の変化は大きい。いろいろ話し少し元気になって帰って行ったが、他人事ではない。
 この日の朝、鶯の初泣きを聞いた。
 
 21日(金)は福島県三春町へ滝桜を観に行った。マヤ姐さんとその父、おもてなし大使のミカさんと私の4人。情報収集から飲食の準備、運転まですべてマヤ姐さんがやってくれた。
満開の滝桜はみごとだった。樹齢1000年を超えるという1本の桜が多くの人を集める。根元には小さな祠があり、跪いて手を合わせる人もいた。よくぞここまでという畏敬の念、わが身にも生命の荘厳を与え給えとの願いだろうか。数本もの支柱に支えられた姿は痛ましくもあるが、私はこの桜の「生きてやる」と言わんばかりの生命の力に打たれた。
 観桜のためのチケット売り場の脇に、桜の開花状態を示すボードがあった。この日は「満開」だったが、その二つ三つ下の「落花しきり」という表示が新鮮だった。「花吹雪」という表現とは別なのかもしれない。大岡信氏に聞いてみたいが・・・・・・。あれほどの桜だ、しきりの落花はやがてふかふかの花筵(はなむしろ)を敷き広げるのだろう。
 滝桜もカメラに収めたが、粗悪なSDカードのせいですべて消滅した。滝桜をバックに草原で寝ている私の画像が、ミカさんから私のスマホに送られてきている。下の画像はパンフレットである。
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 滝桜を観ての帰途、「諸橋近代美術館」に立ち寄った。前日に開幕したばかりの企画展「ダリの美食学」を観賞するためであった。若い頃、絵描き修行のためにパリに留学したマヤ姐さんの父の意向もあったかもしれない。
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 「ダリ展」では著名な作品を観ることができた。軟体動物のよう時計で知られる「風景ー記憶の固執」に連なる作品も観た。至近距離まで近寄って絵を見る癖がある私は、ここでもダリの絵をそうして見た。そして「画家の母の肖像」など、毛髪1本で描いたかのような緻密な描写に驚愕した。ダリのデッサン力や技巧の才能は専門家から高く評価されていたものだ。<抽き出しのあるミロのヴィーナス>も<白鳥=象>の彫刻も見た。
 パリでシュールレアリズム運動に参加し、夢や変質狂的な幻想を絵画化・彫刻化し、アメリカに渡ってからは商業主義的なセンセーションを起こし、奇矯なパフォーマンスなどでも知られたダリの、多くの作品に出会えたことは幸運なことであった。マヤ姐さんへの<感謝しきり>である。
 帰宅してからハーバート・リードの『芸術の意味』(滝口修造訳/みすず書房/昭和41)を引っ張り出した。まさに<芸術の意味>を知りたかった半世紀前、東京新宿の書店で購った一冊だ。「彼(ダリ)はしばしば婦人靴を題材に使っている。精神分析家の著書に明るい人ならば、靴は夢に現れるといわれる性的象徴のもっともありふれたもののひとつであり、ダリの題材の大部分がこの種の象徴である」(同書)
さらに「マックス・エルンストがいったようにシュールレアリストの目的は現実と非現実、瞑想と行為がく交叉し、混合し、全生命を支配するような超現実性を創造することである」(同書)といった記述は、当時も理解ができなくて、おのれの無能を呪ったが、50年たっても理解は覚束ない。
 パンフレットの絵は「ガラとロブスターの肖像」(1934年頃)である。読み始めたばかりの『ダリー異質の愛』(アマンダ・リア著/北川重男訳/西村書店1993)に次のくだりがある。
『ダリは私(著者)のほっそりした身体に話題を戻した。「骨格が最も大切なんだ。」と彼は説明した。「なぜかと言えば、重要なのは構造で、死後残るのはそれだけだからだ」。彼がロブスターを好むのはこのためだった。人間と違って、ロブスターは外側に骨格を持ち、肉は内側にある』。ガラはダリの妻である。
 諸橋近代美術館では「コレクション展/サロン・ドートンヌを彩った巨匠たち」を見ることもできた。ボナール、ルオー、マティスから、ピカソ、ゴッホ、ルノワールなどなど。なかでも藤田嗣治の「シーソー」は印書深かった。 
 車の後部座席に腰を沈めてビールを飲み、チーズを口に運んでいるだけで、得がたい果報に預かった。
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 小児科医チャーリーさん(左)と皮膚科医ヨシユキさん(右)だ。チャーリーさんは中国新疆ウイグル自治区最西部パキスタンのギルギットをカタコルム山脈を横断して結ぶカラコルムハイウエイを通過してきた人だ。前にもこのブロブで紹介したことある。
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 村上市山辺里(さべり)地区のヤマガミさん(左)とお馴染みのカサブランカダンディーことオオタキさんだ。海外へ行っても美術館巡りを欠かさないオオタキさん。諸橋近代美術館へはもう行ったかな。
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 中学校の校長を終えて現在は教育長を務めるサトウさん(左)は、当地におけるトライアスロンの草分け的存在であった。「大滝舞踊研究所」の発表会も何度か見てもらったということで恐縮した。右は関川村で古民家カフェ「元麹屋」を営む、こちらもサトウさん。中央も同じサトウさんで3人は親族だと聞いた。
 
 卯月4月はこのようにして過ぎた。そして、5月は大型連休から始まった。
 2日夜、翌日開催の「SANPOKU魚祭り」参加のために、先月フクシマで世話になった土浦の今井さんが十日町市(新潟県)から古くからの知己であるヨシノブさんを伴ってやってきた。さらにヨシノブさんの友人ミキコさんが合流、またさらに農民歌人稲葉典子さん、フクシマへ同行したユウコさんも加わって楽しい飲み会になった。声高く、こうした場でも座をリードするのは今井さんである。残念だがこのときの画像も消滅した。
 深夜になって帰宅すると、新潟市から次女と、春から中学生になった孫、東京からは三女と孫3人が来ていた。孫たちが寝静まってから娘二人と、他愛のない話で明け方まで酒盛りが続いた。挙句は、今井さんとヨシノブさんのホテルへの迎えも、「魚祭り」への出発集合時間にも遅れる羽目になってしまった。集合時間に遅れてはならない、人を待たせてはならないということを固く戒めてきた私にとっては、不覚の至りで慙愧に耐えないことであった。
「魚祭り」は絶好の天候であった。海も穏やか。船上での漁師料理は、例年のようにエビやカニが満載とならなかった。時間のタイミングがずれたのかもしれない。野方海岸での<大宴会>は巨大な鯛の片側の身おろしをしたところまでは覚えているが、それからは記憶が曖昧だ。ムラヤマドクターから、私がギターを弾いている画像がスマホに届いていた。一連の画像には参加者30数人の集合画像もあった。最年少は生後3っ花月の私の孫だった。
 初回から参加し、バーベキューコンロの前でカキを焼いている姿が忘れられないヤマガさんは、昨年の「魚祭り」の直後、旅立った。それでも、妻のショウコさんや子どもたち、孫たちもこぞって参加した。愛犬クーも穏やかな潮の香りにごきげんだった。
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 海のない土浦からの初参加だった今井さん、常に穏やかな笑みを浮かべていた十日町町から参加のクワハラさん。酔っ払った私のもてなしの不手際をご寛恕ねがうばかりである。  
 魚を入手したらブイヤベ「スをつくろううと、調味料や香辛料も持参していたが手付かずのままだった。

「魚祭り」の翌日は娘たちの希望でBBQとなった。自宅前の駐車スペースに、子ども用に日除けテントを張り、知人3人も加わって、昼間から酒を飲み、ギターで歌い、馬鹿話に興じた。連休中であればこそ近所の目もさほど気にならないってことか。肉を焼きながら娘たちが軽口をたたく。
「お父さん、ミディアムにするのレアにするの?」
「その肉はよく焼いたほうがいいかな」
「そうじゃなくて、お父さんの火葬のこと。ちゃんと火葬場の人にお願いしないといけないでしょ」
「そうか、でも焼き加減をオーダーできるのかなあ」
「できるでしょ。あまりよく焼くと燃料代が加算されて火葬料金が高くなるかもよ。エンディングノートに書いておいてよ」
 こんな会話で笑いあう父と娘たちである。エンディングノートは何年も前に長女から届けられている。  
 こうして、私も世間並みの大型連休を享受したが、気持ちと体調を平常に戻すためにしばしの時間を必要とした。
  
 徒然草に「友とするに悪き者、七つあり」として「やんごとなき人、若き人、病なく、身強(みつよき)人、酒を好む人、たけく勇(いさ)める、兵(つわもの)、虚言(そらごと)する人、欲深き人」をあげている。よき友としては「物をくれる友、医者、智恵のある友」と三つをあげている(第百十七段)
 異論や見解の差異をあげつらう気はないが「酒を好む」のは程度問題ということだろう。「やんごとなき人」は「身分が高く重んずべき人」で、そんな人が友になる気遣いはない。「物をくれる」のをよい友というのも、いささかひっかかる。なによりも「友」の定義が曖昧だ。知人ではあるが友ではなく、こちらが友だと思っていても相手はこちらをただの知人だとしか見ていない、ということはありそうだ。やたらに物をくれる人は要注意という時代だ。
 徒然草を開いてチラッと目をずらしたら前段の第百十六段が目に留まった。「人の名も、目慣れぬ文字を付かんとする、益なき事なり」。文字を知っていても読めない名前が多い。今に始まったことではなかったのか。
気になったのは次のくだりだ。「何事も、珍しき事を求め、異説を好むは、浅才(せんざい)の人の必ずある事なりとぞ」」。すなわち「何事についても、珍奇なことを強いて探し、通説と変わった見解を知りたがるのは、学才の乏しい人の必ずやることであるという」。胸に突き刺さる指摘である。

 先に大岡信を引いて「万葉集」のできた奈良時代には「花」といえば「梅」をさすとした。だが、「万葉集」にも桜を詠んだ歌はけっこうある。
 桜花咲きかも散ると見るまでに誰かも此処に見えて散り行く(3129)
 此処(ここ)における人々の離合集散の比喩だとされる。また、福島富岡町の「夜の森桜並木」と、いまだ立ち入り禁止区域の民家の庭先に見た<雉>。その情景に重なる歌もあった。
 春雉(きぎし)鳴く高円(たかまど)の辺(へ)に桜花散りて流らふ見む人もがな(1866)
 雉は春、妻を求めて鳴く。桜が散り流れる様子を見るような人も欲しいことだ、と詠う。
 新緑が日に映えてまぶしい。大好きな季節だ。
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by yoyotei | 2017-05-09 04:55 | Comments(0)  

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