年常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ

 年賀状を出さなくなって久しいが、それでも毎年、何通かは頂戴する。そんな中に封書で届く年賀の挨拶状がある。自宅の隣、故本間桂・笑子夫妻の次男でカナダ在住のシノブさんからのものだ。書かれてある今年の計画には、姪の結婚式出席、妻の母の米寿の祝い、娘の30歳と自身の65歳の合同誕生会などとあり、8月には母の七回忌で村上を訪れると記されてあった。もう七回忌とは・・・・・。今年もさらに早くなった時の流れに、ため息交じりの感慨に沈む。
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 寒さに閉じ込められて鬱々している私は、少し前に<春になったらしたいこと>をまとめてみた。「巣箱を取り付ける」「スマホを購入する」「神楽面をつくる」「燻製をつくる」「側溝の蓋をつくる」などなど。
 昨年の秋、紐が外れて落下した巣箱は、数日前にたまたま通りかかった近所の知人に頼んで取り付けてもらった。高所に弱い私とちがって、知人は理想的な高さに設置してくれた。1昨年巣箱にスズメの姿を確認したのは6月だった。その時期が待ち遠しい。
 スマホは春になる前に購入した。こうした<モノ>にもきわめて弱い私はまったく使いこなせないでいる。店に来たヨシマサさんに<ライン>をつないでもらったが、発信どころか受信があるとドギマギする。つながった人に無作法をしていないかも気になっている。
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 神楽面(かぐらめん)は石見神楽で使われる面で、基本的な作り方は、石見神楽が盛んな浜田市の小学校時代に体験している。型をつくる粘土は30年も前に益子焼の土を30キロばかり購入したものがある。その時には、いずれ窯(かま)でも手に入れて焼き物をと思っていたが、高価な窯には手が届かないでいる。
 ここのところ、島根県の同窓生から送られたりした石見神楽のDVDを見る度に「鬼」の面に魅せられている。おどろおどろしく、ちょっと滑稽で哀しい「鬼」。子どもの頃から、「鬼」は私にとって「舞(まい)」のヒーローだった。(私たちは石見神楽を舞と言っていた)。
 面といえば、中国の伝統芸に「変面(へんめん)」というのがある。同名の中国映画『変面』で知ったが、そのステージパフォーマンスが新潟市で行われた「春節祭」で披露されたようだ。動画サイトでも見ることができる。一瞬にして隈取をした顔が何度も変わる、その仕掛けを知りたいと思う。石見神楽でも<面が変わる>演出があって、こちらも興味深い。
 燻製は酒の肴として常備しておきたい保存食品だが、冷蔵庫も冷凍庫もあり、真空包装も家庭でできる現在では保存性よりも、その風味が魅力だ。燻(いぶ)された色もいい。先日、手作りしたチキンハムを、古い鍋を使って燻してみた。出来は悪くかったようだ。
 側溝の蓋は昨秋にもつくったが、なお2つ3つ欲しい。昨今はホームセンターで「ドライコンクリート」や「ドライモルタル」が売られている。砂利も砂も混入済みで水を加えて練ればいいだけ。型をつくって流し込み、数日おいて型をはずす。ドロドロのものが固まって形になることには、ある種の達成感がある。スイーツづくりでも同様の面白さがある。
 スイーツといえば、土浦の今井さんから「焼き芋」が送られてきた。男から男へ焼き芋を送るというのも妙な感じだが、届いた焼き芋は滲み出した蜜で皮が濡れて光っていた。口に入れて甘さと旨さに仰天した。昔、食べたものとは別のものだ。感動の余波で、自宅にあった3種類のサツマイモで「焼き芋スイーツ」をつくった。芋を蒸(ふ)かしてつぶし、三温糖と生クリーム入れて捏(こ)ね、成型した表に卵白と蜂蜜を混ぜたものを塗ってオーブンで焼く。出来たものを、隣のカラオケスナック「レガート」のアヤコママに試食してもらった。「おいし~い!」との評価だった。シナモンを振りかけてもいいだろう。
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 2月15日、カールが旅立った。旅立ちの直前、カールは「今日は休みだよ」という飼い主のユウコさんにかまわず、リードを引いて夭夭亭の前まで来たという。通いなれた道だ。「黒曜石のような瞳」「ちょっとおしゃまなパリジェンヌ」と、かつて私がエッセイで紹介したこともあったカール。ユウコさんの隣にちょこんと座り、「かわいい!」の声とともに女性客に抱き上げられることもしばしばだった。
「カール行くよ」と、少し酔ったユウコさんが声をかけるとスッと体を起こし、カウンターの高い椅子から下ろしてもらうと尻尾を振ってドアの前で待つ。深夜の道をユラユラ歩くユウコさんを小さなカールがしっかりした足取りで暗い道を遠くなる。そんな光景も、もう見ることはない。おしゃれに着ていた衣服やリード紐は、荼毘(だび)の煙といっしょに天に昇ったか。それとも思い出として残されたか。小さな骨になったカール。ユウコさんの寂しさはしばらく続く。
 そんなユウコさんを誘ってショートトリップでもしようかということになった。友人でユコさんと登山仲間でもあるジョージさんも乗り気だ。もちろん、酒を飲みながらの話だったが、ユウコさんは早速パスポートの申請をしてきた。春とはいわないが、今年の計画のひとつに上げておこう。
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「冬の201(ふれあい)音楽祭」に参加した女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」の打ち上げ。受験生のように歌詞を書いた紙を家中に貼って覚えたという、英語の歌も聞かせてもらった。
「テクニックを磨かなければ本当の楽しさは味わえない」。グループの指導をしている村上出身のスタジオ・ミュージシャン大滝秀則さんは言う。その彼が、このほど「ANNYA BAND」を率いてニューアルバム『THE BEST』をリリースした。
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 全作品、大滝秀則さんの作詞作曲。ヴォーカル・キーボードを担当して、総合プロデュースをつとめた。演奏メンバーは高中正義バンドのギタリスト兼エンジニアの「稲葉ナルヒ」がギターとエンジニア。名プロデューサーの「藤谷一郎」がベース。ドラムスに弟の和製ポーカロ「大滝敏則と、渾身のロックアルバムだ。収録されている
 新潟県ではよく知られているテレビCM「♪大観荘~瀬波の湯~♪」は大滝秀則さんの作品である。
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 絹さんから「歌」が届いた。

 如何にして死ねばいいのかわからぬと嘆く母抱きわれもまた泣く

 余りにも重き病に苛まれ母の魂は何処を彷徨(さまよ)う

 十六の子を戦場に送り出し死なせし人の歌集賜る
           <その歌集は「この子らに戦いあるな」詠み人米田ひさ>
 一夜にて歌集読みたる母の眼(まなこ)別人のごとく輝きし朝

 母とわれ声に出し読む一首ごとが滋養となりて身に浸みゆけり

 歌を詠みて生き来し人の生きる術は歌のほかなし歌詠めずとも

 『まひる野』にわたしの歌が載りました。いっしょに読もうね、お母さん

 絹さんは母と同じ『まひる野』の同人となっている。手紙に「高木さんは私の気持ちを汲んでくださるすばらしい鑑賞者なので気をよくして送ります」とあったが、私に短歌の素養はまったくない。絹さんや両親を知っていることで、その歌にいくらか寄り添うことができるのだと思っている。むしろ、絹さんが歌に詠む事象や印象、さらには心の風景が<滋養>となって私の心を潤してくれる。
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 狭山のマスダさんが学生時代の友人とともに来店した。小関のアキちゃん(上左)と大塚さん(下左)だ。二人とも初対面とは思えないフレンドリーな人柄。アキちゃんは笑顔を大塚さんはギターの音を振りまいてくれた。(上右)は夭夭亭の親善おもてなし大使ミカさん。(下右)がマスダさんだ。初来店から5年にもなる。
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 この夜はしばらく途絶えていた週末常連組が久々に集まった。ヒデさん、マヤ姐(ねえ)、ムラタ兄、イシグリ大工、そしてミカさん。彼らもマスダさんたちと同じテーブルを囲んだ。
 人更ニ少(ワカ)キコト無シ時須(スベカ)ラク惜シムベシ、
 時常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ
                   (小野篁『和漢朗詠集』から「春光細賦」の一節)
 「少年期は二度と来ないから、人は寸陰を惜しんでつとめなければならない。年に春は二度と巡ってこないから酒盃をあげて思い切り楽しみを尽くそうではないか。いざ、一献、といった勧盃歌である」
                   (『ことばの季節』山本健吉/文藝春秋)
 巡ってこないのは年に二度の春だけではない。人生も二度はない。天に昇ったアメリカ人マークもかつてはこのメンバーにいた。
よく知られている漢詩「勧酒」(于武陵)は井伏鱒二の訳でさらに著名になった。
 勧君金屈巵/満酌不須辞/花発多風雨/人生足別離         
コノサカヅキヲ受ケテクレ/ ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/サヨナラ」ダケガ人生ダ
 色々あったし色々あるさ。飲んで語れば、それも君だけではない。まあまあ。
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 ムラタ兄も、先月愛犬の旅立ちを見送った。このところ猫談義に花が咲くマヤ姐とミカさん。いつの間にか、二人とも並々ならない愛猫家になっていた。ワインボトルのラベルはマヤ猫のオリジナルラベルだ。
 今日、2千万匹近い犬や猫が人生のパートナーになっているという。一方で、いじめられ、捨てられて引き取り手もなく殺処分された犬猫は15年度だけで全国で9万匹、新潟県で1千匹以上。マヤ姐はそうした殺処分から1匹でも救いたいと、私にも熱心に飼育を働きかける。
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 新潟市で行列ができるパン屋があるという。マヤ姐がその店のパンを買ってきてくれた。フランスパンにさまざまな具をトッピングしたり挟んだりしたもので、具には辛子明太子や野沢菜漬などもある。朝食にはホームメイドのパンを欠かさない長女の家で、前夜食べたきんぴら牛蒡がパンに乗っかって出てきたことがあった。
 ベトナムではフランスパンにレバーペーストや漬物を挟んだパン・ミー・ティットが食べられている。パンの持つ多様な食材との協調性・融和性は今更ながらだが驚かされる。思いつくままに上げれば、骨を抜いたサンマのトマト煮物、ニラの卵とじ、新たまねぎとスモークサーモンのドレッシング和え、ほうれん草とベーコン炒め、刻みネギを多めに入れた納豆・・・・・・。つまり何でもいい。

 近くの割烹「千渡里(ちどり)」で腹子丼を食べた人が、その旨さに涙が出たと述懐した。鮭の卵をこの地では<腹子(はらこ)>と称するが、これの醤油漬を熱々のご飯にたっぷり乗せて食す。当地では子どもの頃からのソウルフードといってよい。その人は生まれたこの地に馴染めず関東地方での生活が長いが、老いた親の元へ様子を伺いに時々は帰ってくる。どこから沸いてくる涙なのか。
 送りきし土佐の干魚(ひうお)を焼くときは目も潤むがに海を恋しむ
                            吉井勇

 今朝も鳴き交わしながら空を渡る白鳥の群れを見た。北帰行(ほっきこう)だ。生命(いのち)の営み。季節の巡り。彷徨(さまよ)った人の心の落ち着く先・・・・・・・。水が温んできた。
             
 
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# by yoyotei | 2017-03-06 19:54 | Comments(0)  

内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い・・・・・

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 1月2日、近所に住む一人暮らしの知人たちと新年を祝った。
 この日の夕方までホテルの厨房で働いた私はゆったりと温泉に浸かってから、おせち料理の余りなどを貰って帰宅。知人たちを自宅に呼び寄せた。妻は仕事、子や孫たちも来ない年明けだったが、「おめでとう!」と言って酌み交わす酒はうまい。
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 総合法務事務所の新年会。予定していた助っ人が来れなくなり、みなさんにセルフ・サービスを強いることになった。紅一点のルミさんには皿洗いまでしてもらった。
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 新しい年の抱負だろうか。二人はしばらくの間、身振りを交えながら笑顔で語り合っていた。上掲の法務事務所の若いスタッフである。 
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「生活と健康を守る会」の新年会は約30人が参加して、市の保養施設を会場に今年もおこなわれた。ゲームに興じ、私のギター伴奏で歌い、カラオケで盛り上がった。
 年明け早々に厚生労働省は昨年10月時点の生活保護状況を発表。全国の生活保護受給世帯数は前月より964世帯増の163万7866世帯で3ヵ月連続で過去最多を更新した。
 新潟県内の受給世帯は前月比19世帯増の1万6088世帯で、3ヵ月連続の増加となった。受給者数は29人増の2万1060人。世帯別では65歳以上の高齢者世帯が12世帯増の7342世帯で全受給者世帯の45,6%を占めている。その多くが1人世帯だ。私が所属する「会」でも事情はそれぞれだが、1人暮らしの高齢者会員が圧倒的に多い。
 生活を守るために、くらしに役立つ制度の活用や、改善と新設を進めるなどの活動をおこなっている「生活と健康を守る会」。現在、全国連合会(全生連)は<いのちを守る、戦争から貧困から>の総がかりキャンペーンを展開中だ。 

 東京に住む絹さんから便りが届き、夫の父の葬儀で大阪へ行ってきたことが記されてあった。絹さんは私が私淑し、店名を付けてもらった故八木三男先生の一人娘。母を介護しながら<自費出版・編集工房>に携わり、社会学的な研究やアプローチをおこなっている。
 便りには「義父は中卒で徳之島から大阪へ夫婦で出てきて、沖縄や奄美諸島出身者への差別が強い中、トラック運転手として働いて働いて、3人の男の子を大学に行かせました。そのうち長男の私の夫と次男は大学教員となりました。苦労の末、18年前に脳梗塞で倒れ、後遺症の痛みに耐えながら闘病してきましたが、ついに帰らぬ人となりました」とあり、数首の短歌が添えてあった。

 慟哭の義母(はは)の叫びよ義父に届けこの人を置きどこへ行きしや
 泣き泣きて涙かれても泣く義母に人を愛する生き方をみる
 
 
 義父の臨終と慟哭の義母に心を寄せる絹さんの真情に、私は深く胸をえぐられた。夫婦で歩いた歳月。義母の慟哭はそこへ繋がる。
 今、絹さんの介護に支えられてリハビリに励む母八重子の刀自は、数年前に夫の言葉を引いて絹さんを詠んでいる。
  
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」  
                     (八木八重子歌集『出でませ子』)
 
 絹さんの便りと歌から、すぐに思い浮かんだのはこの一首だった。そして、30数年前に沖縄上空から見た、島々を抱くように取り囲むコバルト色の海だった。島々の中には徳之島もあったか。

 トラックで走りて三人の子を育て学を与うるが父の夢なり
 
 そのために「働いて働いて」と語句を畳んだ絹さん。<吹き付ける疾風の中>を生きてきた義父への思いが胸を締めつける。85歳の、故郷・徳之島へ帰る旅立ちだった。
 
 三線(さんしん)の島唄の節に見送られ御霊よ美しき海へと帰れ
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(セロジネ)
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 土浦の今井さんが東北大震災で被害を受けた岩手に行き、酒田からの経由で店に立ち寄ってくれた。1月は八木三男先生を偲ぶ蝋梅忌。だが、前記した義父の葬儀のことなどから話題は絹さんが中心だった。今回の旅には歌集『出でませ子』を携行していた今井さん。諳(そら)んじていた1首は私と同じだった。
 
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」
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 高校の同窓生に依頼していた、ふるさとの秋の伝統行事<しゃぎり>のDVDが届いた。
 中学生のころ、私も同じような装束をして参加していたのだ。何通りもある締め太鼓の撥(ばち)捌きは、半世紀以上の時間を隔てても覚えていた。隊列が移動する村の家並みにも目を凝らしたが、こちらは時の流れを痛感するほかなかった。<大祭>などという大規模なものではないが、祭衣装の幼児に付き添う若い母親。巧みな横笛で囃子を導く村人。見守る村人たち。<しゃぎり>が島根県石見地方のどの辺りでおこなわれているかは知らないが、離れて暮らすものにとっては、存続されていることに感謝の念がこみ上げてくる。軽トラックに鎮座する御輿(みこし)には思わず笑った。
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 年末年始をインドで過ごしたとマサエさんから連絡をもらった。マサエさんとは10年ほど前にニューデリーのカフェで出会ったことをきっかけに、村上にも何度か来るなど、付き合いが続いている。世界一周の女ひとり旅をやりとげるなど、バックパッカーの達人だ。そのマサエさんもやはり<インド通い>がやめられない。
 最初に出会ったサダルストリートの<ゴールデンカフェ>は健在。種々の商店がひしめき、牛がたむろする賑わう界隈もそのままだったという。聖地ヴァラナシ(ベナレス)では早朝から、巡礼者や観光客が行き交う通りを清掃する集団(クリーン部隊)がいたことが目に付いた変化だったという。<汚い>のもインド好きには魅力のひとつだったが・・・・。
(画像は1993年祭りパレードの一コマ・ニューデリー)
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(1997年バラナシ・ポンデチェリーのゲストハウス、列車内など)
26年前の秋、旅に出た。行き先はインド。どのような磁力に引き寄せられたのか、43歳のやや遅めのバックパッカーデビューだった。帰国後、その体験を本としてまとめ、書名を『朝焼けのガンガー』とした。著述にあたって『インド入門』(東京大学出版会1977)を参照した。著・編者は辛島昇東京大学教授(当時)。旅の印象だけにとどまっていたインドが、この本によって多面的なアプローチの対象として立ち上がる端緒となった貴重な一冊だった。
 10年後、放送大学(文部科学省設置の通信制大学)の入学案内に辛島教授の名前を見つけた。講義は「南アジアの歴史と文化」。アンテナを掲げ、インドとあればさまざまなものに触手を伸ばしていた当時の私は飛びつくようにして入学した。
 衛星放送のテレビやラジオ、インターネットを通じて学ぶ放送大学だが、画面からも伝わる辛島教授の風貌と人柄、講義の内容に強くひきつけられた。新しい講義「南アジアの文化を学ぶ」も受講し、夫人辛島貴子氏の著書「私たちのインド」も、インド社会で暮らす日本人の戸惑いや発見に、旅だけでは得られないインドを知る手がかりになった。インドへの旅を続ける中で、満を持して臨んだ単位認定試験は、しかし厳しいものだった。「教養学部・人間の探求」を専攻して6年間在籍、所定の単位を修得して卒業したのが2006年(平成18)、59歳だった。
 その辛島昇東京大学名誉教授・大正大学名誉教授が、2015年11月26日に逝去されていたことを「日印協会」のホームページで知った。死因は急性骨髄性白血病、享年82歳。喪主は妻の貴子さんとあった。
『インド入門』が手元にないので記憶に頼るが、その<あとがき>に大意「1960年代から若者を中心にインドへの関心が高まっている。そうした人たちによる著書も多い。しかし、大部分ははインドといういわば<書割(かきわり)>の中の自分に照明を当てたものに過ぎない」とあった。それには大いに触発されたが、同時に反発も感じた。実際に、私自身がインドの中で自分に向き合うことが大きな比重を占めていたからだ。
 それもあって<自分史>という言葉をつくりだしたといわれる、日本近代史・民衆思想史を専門とする歴史家色川大吉(1925~)の「物質文明の中で行き先を見失ってしまったらリュックを背負ってインドへ出かけなさい。そこには忘れていた生命の輝きがあり、生きることの厳しさがある」といった主張に強い共感を抱いた。請われてインドの話をするときには、きまって色川大吉氏を持ち出し、こうした言葉を紹介するのが常だった。

 昨年の10月18日、沖縄県北部の国頭郡東村(ひがしそん)高江の米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の建設工事を止めようと体を張っている市民に対し、大阪県警の機動隊員が「触るなくそ、どこつかんどんじゃボケ、土人が」と言い放った。この差別発言が報じられたときに受けた衝撃は、ほとんど死語だと思っていた「土人」という言葉が、20代の機動隊員から発せられたことだ。いったい彼はどこでこのような言葉と差別意識を教え込まれたのか。
 月刊誌『世界』(岩波書店)のリレーコラム「沖縄(シマ)という窓」で、執筆者のひとり松元松剛(まつもと・つよし=琉球新報)は、この「土人」発言を取り上げた(2017年1月号)。そのなかで「命令に従い義務を遂行していたのが分かった。ご苦労様」とツイッターに書き込んだ松井一郎大阪府知事、「差別と断じることはできない」と主張した鶴保沖縄担当相の延長上で、安倍内閣が「差別とは断じられない」とする答弁書を閣議決定したことについて、「圧倒的な力を持つ権力の側が市民を組み敷くために派遣した機動隊員が公務中に吐いた暴言をたしなめようともしない鶴保氏や松井氏の認識は、言葉に宿る差別意識を意図的にぼかし、結果的に沖縄県民への偏見を助長している」と述べた。
 そして「沖縄人の尊厳を否定する構造的差別の地下水脈、活断層は動いている。土人発言とその後も続く騒動は、鋭利な物で傷口を突かれるような痛みを沖縄社会に与えている」と松元氏はコラムを結んだ。

 ある新年の集まりで挨拶を求められた私は、昨年起きた<いやな事件>の一つとしてこの「発言」を取り上げ、芝居の<せりふ>のように発してみた。おぞましいほどの相手を見下すような差別的罵倒に、会場がしばし凍りついた。
 <いやな事件>の二つ目は相模原事件。相模原市の障害者施設で入所者が刃物で刺され、19人が殺された事件だ。容疑者が「ヒトラーの思想が降りてきた」と話したと報じられ、<優生思想>がよみがえったかと神経を逆なでされた。
 三つ目は電通社員の過労自殺。いずれの事件も、人間が時間をかけて練り上げ積み上げ、切り開いてきた<尊厳あるもの>としての人間存在が否定され、文明の歯車が逆に回ったかのように思われた。
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 長い馴染みの左からヒロアキ、マサヒコ、マサヒトの各氏。右はカールママ。マサヒトさんから「自分が読むのにふさわしい本を選んでよ」と言われたりして、カールママも交えて読書談義になった。
 
 近年スマホの普及にともなってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)が急速に広まっている。2008年に日本語版サービスが始まった簡易投稿サイト「ツイッター」は140文字以内「つぶやき」を書き込める。また、LINEでは仲間内で対話型のコミュニケーションが可能だ。いずれも瞬時に短いメッセージを発信できる利点があるが、長文のやりとりには適さない。
 昨年12月に公表された国際学力調査の結果では、「日本の15歳の読解力が4位から8位に低下。文部科学省は原因の一つとしてスマホの普及に伴う長文を読む機会の減少を挙げた。
 内閣府の15年度の調査では、平日にスマホで2時間以上ネットを利用する高校生の66,8%。全国学校図書館協議会(東京)によると、高校生の1ヶ月の平均冊数も16年は1,4冊と読書量が減少している。

 読書といえば、私自身はドライアイによる視力低下で読書には難儀をしている。勤務先ホテルの地下にある機械室は外光が遮断されているので幾分かは字を見易い。しかし、そこで長時間、本は読むことはできない。日に何度も点眼する治療薬の効果にも疑問が生じてきている。 
 それもあってかDVDで往年の名画といわれるものを精力的に見ている。先日はサマセット・モーム(1874ー1965)原作、タイロン・パワー主演の映画「剃刀の刃」(1946年)を見た。世俗的な価値観に馴染めない主人公がインドへ行き、聖人から教えを受ける。聖人は「賢者とは自分の内面に存在する神の声を聞き従う者のことだ。内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い永遠の平安をもたらす」と諭し、神(自然)と一体になるための修行を促す。ある朝、主人公は大地の脈動を感じ、朝靄の中で木々の間から差し込む光が自分の体内に入る体験をする。その体験を持った上で、聖者に世俗の中で生きることをすすめられた主人公は・・・・・。
 
 ところで、作家の格言にはアイロニー(皮肉・風刺)が含まれているものが多いが、モームは「読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ」といっている。もちろん、スマホもSNSもない、読書をすることが当たり前の時代の格言だ。

 世界を混乱させているトランプ大統領。モームだったら何と皮肉るだろう。そして、彼にインド行きをすすめたら、ツイッターでなんと応えるだろう。「老年の最大の報酬は精神の自由だ」と、これもモームの言葉だが、老人にはしばしば<頑迷>という報酬がもたらされることもある。

 私自身は、いまだいわゆるガラ系の使用者だが、近いうちにスマホにしようと思っている。



 
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# by yoyotei | 2017-02-02 07:39 | Comments(3)  

新年明けましておめでとうございます。

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 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。このブロブ、タイトルはダイアリーなのにマンスリーのアップが定着してしまいました。当分はこれで続けたいと思います。年賀状を下さった方々、ありがとうございます。本日4日から夭夭亭を開店します。
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# by yoyotei | 2017-01-04 08:29 | Comments(0)  

おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう

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「Live as long as you may, the first twenty years are the longest half of 
your life」 
 イギリスの詩人ロバート・サウジーの「The Doctor」一節。『心に残る言葉』(小野寺健・著/河出書房新社・1992)からの引用だ。
 11月に広島で行われた高校の同窓会。早くに会場ホテルに着いた私は、続いて姿を見せた詳子ちゃんと「平和公園」へ出かけた。そのことは前回のブログに書いた。すると、同窓生のニッシー君から「たったそれだけ?」という感想が寄せられた。もちろんそれだけのことではなかった。
 たまたま同窓会の前夜はバレエの発表会があり、またその前夜は舞台稽古と店での「投げ銭ライブ」。さらにその前には舞台美術担当として持ち道具や大道具の点検と搬入などもあった。ひとつづつこなしていくことに、まさに忙殺された。同窓会は私にとってそれらを終えた後の<打ち上げ>でもあった。だからといって、同窓会の印象が希薄だったわけでは決してない。長年にわたって同窓会事務局を担当しているクニさんから、送っていた当日のSDカードが戻ってきたのであらためて振り返ってみる。クニさんは直前になって母親が倒れ、欠席となった。母親はその後いくらかの回復をみせていると聞いた。
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 冒頭の英詩は以下のように日本語訳がなされてある。
「いくら長生きしても、最初の20年こそ人生のいちばん長い半分だ」
 今年、古希を迎えた私たち同窓生。まさに、この最初の20年に相当する時代に人生の大部分が凝縮されていたのは確かだ。だからこそ、いささかの羞恥を覚えながらも懐かしさに相集う。そして、その後のいくらかの成長を見せようとしても底が見えてしまう滑稽さもある。風貌は時間とともに変化をするが、瞳の奥にはあの時代の輝きを残している。無謀なな夢。自信と不安。脆弱な自尊心。異性への憧れと劣等感、自己嫌悪。人生の道標を見ずに知らずに、己だけを頼みにしていた不遜。そして蹉跌の第一歩はこの時期に経験した。
 とまあ、それらは私であって、着実に一段一段、人生の階段を上っていった同窓生もいただろう。それにしたって、その人にとっては波乱に満ちたものだったにちがいない。同窓生ひとり一人に「よくがんばったなあ」と声をかけたい思いだ。
「二十歳くらいまでに知ったこと、経験したことが土台になって、あとはそれを拡大、延長していくのが、あらかたの人間の人生なのではないだろうか。この感受性のつよい時期に、ほんとうにすぐれた人に出会い、美しいものに打たれ、高い理念に燃え、激しい愛情を経験するかどうかーそういうことが、その後の人生を左右する」と著者は詩の一節に解説を加える。半世紀前にこの文章に接していたらと思う。
「人生に手おくれということはない」(同書)といってもなあ。
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 平和公園に行った折、原爆資料館のエレベーターに車椅子の女子高生と同乗した。スポーツをしていて怪我をしたが、修学旅行へは車椅子と松葉杖で参加したという。
 資料館を出て「原爆の子の像」へ歩を進めると、高校生たちが像を囲んで合唱をしていた。鎮魂と平和の歌声に私は強く心をうたれた。集団の端にエレベーターで遭遇した車椅子の女子高生もいた。引率教師に尋ねた学校名はつくば市の並木中等教育学校。帰宅してから、その時の感動を認(したた)め、写真とともに学校宛に投函した。
 そうして先日、車椅子の生徒から手紙が届いた。
「広島へ行った際、原爆被害の実相を初めて目にしました。戦争、また原爆の理不尽さを知りました。無差別で残酷な原爆にとても心を痛め、二度とこのようなことは起きてはいけないと思いました。そのためには私たち若い世代が語り継ぐ必要があると感じました。お手紙をくださったこと本当に嬉しかったです」
 感じたことを言葉にし文にし、手紙にする。大事なことが人生の1ページに刻まれた。彼女にも私にも・・・・・。託されたことを引き受けて、思いを言葉をつないで、私たちは生きていく。
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 内山アキラさん(左)も横山ノリオさん(右)も、私と同じく古希を迎えた同時代人である。内山さんは世界的な写真家として活躍を続け(2015年2月ブログ「物語は始まり、物語は終らない」)、横山さんは妻を帰らぬ旅に送り出して、この日はふた七日目だった。結婚以来、頭髪は妻が切ってくれていたという横山さん。「妻以外の人に切ってもらうってのはどうもね」。長く伸びた白髪交じりの髪を掻き上げながら、横山さんはさびしく笑った。
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「明日から死ぬほど忙しくなります」というのは村上郵便局に勤務する仕事仲間たち。左からカツオ、トシカズ、エリ、マサカツさん。トシカズさんとは車関係の仕事をしているころからの長い付き合いだ。
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 こちらは新潟県林業事務所の職員たち。ナツホさん、エミコさんと二人の女子だけが名前を明かしてくれた。
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 左からサトシ、ケイ、サオリ、ユウイチさん。新潟市から50分もかけての初来店。以前に休業日に来たことがあってリベンジの再訪となった。ありがたいことだ。情報誌の紹介記事を見たことがきっかけだと聞いた。その記事の掲載は1年以上も前だと思う。みなさん、今度は飲みましょう!あっ、当分は日・月を定休日にしているからね。
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 この夜は「村上9条の会」の役員会もあった。彼らも新潟からの4人と、こちらも初めて来店した平田医師(左端)も加わって画像に収まった。酒場が<出会いの場>でもあることを喜びとしている亭主冥利の一枚だ。
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 瀬賀医師と平田医師は高校・大学の先輩と後輩である。
平田医師は村上市に隣接する関川村の平田大六村長の息子。平田村長からは、かつてブナ林伐採阻止の住民運動や市町村合併問題でも指導や協力をもらった。11月のバレエ発表会では村長の孫娘とも共演した。岩船郡関川村。藁で作られた巨大な蛇がギネスにも登録され村人を繋ぐ「大したもん蛇まつり」。人口5700人の「小さくても輝く村」だ。
 目標は総合診療の充実だという平田医師。穏やかな笑顔が誠実な人柄を表している。在宅診療で忙しく往診に飛び回っている瀬賀医師とともに地域の重要な存在となっている。
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 市内で開業している医師をはさんでいる二人のピコ太郎は製薬メーカーの社員。今年の暮れはあちらこちらの忘年会でピコ太郎が出現したことだろう。衣装は一式5000円前後と聞いた。
 11月の「バレエ発表会」でオオカミに扮した私も長いマフラーで密かにピコ太郎を真似た。そして、舞台の袖で青年部の女子から教わった<恋ダンス>のフリを少しだけ本番で取り入れた。
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 クリスマス近くになると村上高校時代の恩師を囲んでワイングラスを傾ける集いが持たれる。何年も続くこの女子だけのパーティーへ、今年は瀬賀医師が加わった。恩師は彼の恩師でもある。
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 日々出来(しゅったい)する大小さまざまな出来事。穏やかであれと願っても浮世(うきよ)は<憂き世>でもある。スガイさんフナヤマさん、ヤスザワさん・・・・。それでも、みんなどうやら今年も乗り切ったぜ! 
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 手作りして庭のヒマラヤスギに取り付けた巣箱にスズメの姿を見つけたのは2015年6月だった。しかし、今年はその姿を見ることはなかった。それどころか、先日の風で巣箱が落下した。取り付けていた紐が穴から抜けたようだった。中を覗いて驚いたのは産卵、抱卵、羽化、巣立ちまでのために親スズメがつくった巣箱のベッドの厚さだった。天気のいい日に同じところに設置しなおすことにするが、中のベッドはそのままでいいのだろうか。それとも次の住人のために古いベッドは取り除くほうがいいのだろうか。迷いながら年を越すことになる。来年は酉(鳥)年である。
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 ユウキさん(左)が恩師の桑名先生に連れられて来店したのが20年前。それ以来の来店に同級生のトモコさん(右)を同伴した。二人と少し話して、ギターを取って1曲歌い、「いいお年を」と言い交わして送り出し、静かに店を終えた。夭夭亭年内最後の来客となったユウキさんトモコさん、あらためていいお年をお迎えください。巳年生まれで蛇好きのトモコさん、帰郷の折にはまたね。
 
 勤務するホテルのオーナーが、年明けから中国人に替わる。そのホテルの年末31日、厨房の手伝いを頼まれた。手伝いは元旦、2日と続く・・・・。

「O!what a beautiful thing God made winter to be,by stripping the trees.and letting us see their shapes and forms」(from Dorothy Wordsworth’s Journal
 ドロシー・ワーズワース(1771~1855)は英国の大詩人ウイリアム・ワーズワースの1歳ちがいの妹。イングランド湖水地方で兄とともに暮らした。
「おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう。木々を裸にし、その姿形を見せてくださって」と、 冒頭の英詩同様に日本語訳をする著者は以下のように解説を加える。(『心に残る言葉』「小野寺健・著/河出書房新社・1992)」「(葉も花も)すべてをむしりとられてなお、毅然として立っている裸木に感動するドロシーには、東洋的な心さえうかがえる」。そして、「簡素なものに美を見て感動できるのは、豊かな心の持ち主である」と結ぶ。<富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るのより難しい>というのは英国の教訓であるらしい。

 新春を迎えても、季節は冬である。むしろ、これからが冬本番だ。カナダから届いた白ワイン-summerhillを飲みながらPSに向かっている今は元旦の午前2時。しかし「明けましておめでとう」は寝て起きてからにしよう。みなさまにとって新しい年が穏やかでありますように。
<冬来たりなば春遠からじ>というフレーズが私は好きだ。冬を越さずに春を迎えるのも駱駝が針の穴を通るより難しい。
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# by yoyotei | 2016-12-31 11:59 | Comments(0)  

彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり・・・・・

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「<きときと>の鰯(いわし)いらんかね!」
 行商の魚売りが、そんな売り言葉を発するテレビドラマを見た記憶がある。<きときと>とは新鮮で生きのいい様を表現するオノマトペだと思っていた。ドラマの舞台は若狭湾か富山湾あたりか。知人から釣ったばかりの鰯をもらったので『日本国語大辞典』(小学館)にあたってみた。それらしい意味としては<きっぱりと、はっきりと、しっかりと>などの意味が記されてあった。ちょっとした記憶違い、思い違いをしているかもしれない。
 新鮮なことこの上ない鰯は知人の薦めしたがって刺身で食した。これが鰯かと驚くほどに、その身は<きっぱりと、はっきりと、しっかりと>した食感だった。<きときと>の鰯はしっかりと鱗(うろこ)をまとっている。鱗はペットボトルの蓋でこそげ取るのがいいと、日々釣三昧の知人は教えてくれた。まさにその通りだった。
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 富山からいつも土産持参で来てくれるシンさんとマサミさん。今回はかまぼこ、マスの笹寿司、ホタルイカの干物などを携えて、ほとんど家族訪問といった感じで顔を見せてくれた。先月の女優田中裕子の来店以来<裕子病>にとりつかれた私の病気見舞いともなった。マサミさんは富山の居酒屋で出会うという女優室井滋(富山県滑川市出身)に触れて、私の<病状>に寄り添ってくれた。シンさんは田中裕子は名女優だと繰り返した。
 富山市議会では政務活動費の不正使用で辞職者が相次ぎ、さきほど出直しの選挙がおこなわれた。村上市においても数年前に政務活動費について「市民ネットワーク」のメンバーたちと問題提起したことがある。不透明で公私混同になりやすい側面がある政務活動費だ。もちろん政務活動費に罪はない。
<キトキト>は富山周辺で「新鮮、生きがいい」という意味で使われていることをシンさんとマサミさんに確認した。パソコンの電子辞書でも同様の意味が記されてあった。
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 カイツさん、ヒロコさんと呼び合う夫婦だが、一度だけカイツさんが「お前は黙ってろ!」と言い放ったことがある。庭で見つけた蛇を、カイツさんが捕獲しようとしているときにヒロコさんが、ああだこうだと口を出したからだ。「カイツさんは私よりも蛇が好きなの」とヒロコさんは言った。まさかと思ったが、カイツさんは捕獲した蛇を首に巻いたというから本当に蛇好きなのだろう。蛇を捕獲した道具は、冬に雪合戦などで使う雪玉をつくるものだった。
 現在は上越市に住む夫妻だが、カイツさんはかつて村上で働いていた。この日は妻を連れてのショートトリップだった。さっそく当時の仕事仲間で横須賀に住むワダさんに連絡をとった。
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 カイツさん夫妻来店の数日後、ワダさんから横須賀名物の海軍カレーが送られてきた。段ボール箱には食品ラップやティッシュペーパーから災害用トイレ処理剤までも詰めこまれてあった。どこまでも<ワダ流>なのである。カレーは数人のお客と分け合った。ワダさん、ありがとう。
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 10月に行われた「村上バルイベント」での来店客がリピーターとして来てくれた。左からセガ、サチコ、シブヤさんだ。サチコさんは数日後、今度は娘を連れて来てくれた。
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 座禅を体験した。会場は自宅近くの曹洞宗寺院。ご近所さんの若い僧侶から指導を受けた。25分の座禅初体験は私を魅了し、自宅でも続けるべく、即座に通販で座蒲(ざふ)を購入した。だが、いつもテレビやラジオの音がするわが家に静謐の環境はない。というのはいいわけだ。現在のところ、座蒲はソファーで格好の枕となっている。警策(きょうさく)で「びしっ!」と厳しく肩を打ってもらわなくては禅修行は覚束ないが、それ以前の問題だ。まずは座るところから始めなくてはなるまい。
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 左から安澤さん、ノリコさん(1947年生)、エミコさん(1950年生)の二人の姉妹と一人の弟。カネコさん(左1942生)はエミコさんの夫。
 近頃、夭夭亭には親子・兄弟姉妹・夫婦など、ファミリー親族の客が多いという実感がある。そうした間柄には、他人にもそれとわかる空気感がある。
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 マリリンことケイコさんには、近々に孫が誕生だという。若くて少し驚いたが・・・・・。老舗の金物店を営むタムラさんは押し寄せる大型ホームセンターパワーに日々立ち向かっている。
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 村上出身で同窓生の前田&大滝さん。この夜、自営業の二人は老後の生活について語った。老いていく親に自分自身の老後を重ねる年齢になったのだ。二人の生活スタイルは大きく異なるが、<老い>は同じようにやってくる。私が二人のちょっと先をぎくしゃくしながら歩いている。
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 狭山から「狭山茶」を土産にやって来たマスダさん(左)は生涯教育に力を注いできた市役所を、この春に定年退職した。東京大学経済学部を来春卒業予定のナオヤさん(右)は鉄道関係に就職が内定した。退職した者と職に就く者。二人は旅行先の鳥取砂丘で出会って以来、親子以上に年が離れた友人になった。旅行好きで鉄道にも詳しい二人に、私が高校時代の3年間、通学に利用した三江線の廃止に触れると、二人ともその情報は既知のことで、ナオヤさんは廃止前に乗ってくる予定だと言った。
 還暦以来、毎年続いてきた高校の同窓会が来年は母校の周辺で行われるらしい。私にとってもその機会が三江線最後の乗車になるはずだ。「声が小さい!」と車両の端の連結部分で先輩たちから叱咤されながら校歌や応援歌を歌わされた新入生の頃。ベニヤ板2枚分の大画面の油絵を背負い、乙原駅から竹駅を通過して川本の学校まで線路上を歩いたこともあった。描いた絵は付き合っていた女子生徒への心象を題材にしたものだった。彼女が蕁麻疹(じんましん)になったと聞いて付けたタイトルは「蕁麻疹の尻尾」。ローカルな赤字路線の廃止だが、私にとっては青春の一時期、さまざまな夢や迷い、挫折を乗せて走った鉄道だ。ナオヤさん、車窓に中国太郎の江川を眺め、石見川本駅と乙原(おんばら)駅を目に焼き付けて来てほしい。
 マスダさん、狭山のサトイモ届きました。でかいなあ!ありがとうございました。今度、なにかうまいものを送りますね。
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 左から時計周りにヒロリン、ミマ、アユ、マサキ、ユッケ、カッチャン、ベシのみなさん。マサキさんが夭夭亭は初めてというメンバーを連れてきてくれた。詳しくは聞かなかったが学校関係者ということにしておこう。ぜひまたのご来店を。
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 左からアケミ、ミキ、サチコさん。アケミさんは数十年前からのお客で、話をすれば時は瞬時に半世紀近くも遡る。先月の<バル街>にも顔を見せた。サチコさんも<バル街>からのリピーターで、つい1週間前にも<バル街仲間>と来てくれたばかり。初登場はサチコさんの娘ミキさん。母とそっくり顔のミキさんは、このほど羽田空港の保安検査の仕事が決まった。まもなく憧れの東京生活が始まる。
「がんばらなくていからダメだと思ったら帰ってくるんだよ」と、アケミさんが何度も言った。「そうだよ、そうだよ」と私。だが、言葉は不思議だ。ミキさんは「がんばらなくてもいいい」を聞きながら、きっと「がんばろう!」と自分に言い聞かせているのだろう。
「故郷の水はうまいからね」
 言葉にはしなかったが、私のミキさんへの餞(はなむけ)だ。力尽きて帰ってきたとしても、故郷は優しく迎えてくれる。ミキさん、30歳を目前の旅立ちだ。
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 11月18日、京都の吟遊詩人楠木しんいちさんの「投げ銭ライブ」をおこなった。今回は北海道から阿知波一道(あちわ・いちどう/1954生)さん(上のCDジャケット画像)の参加もあった。
 浄土真宗の僧侶でもある一道さんは胎内市善良寺での報恩講(浄土真宗の宗祖とされる親鸞 の祥月命日の前後に、宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要)のため、また併せて昨年亡くなった善良寺住職加藤真人さんの追悼ライブも法要後におこなう予定で、妻久子さんを伴って来店した。同じ歌仲間で、こちらも僧侶の石川ひさとさんも石川県からやってきて合流、<楠木しんいち&僧侶2人>のライブとなった。
 この夜の演奏曲にはなかったかもしれないが、一道さんのCD『器(うつわ)』から歌詞の一部を紹介する。『器』は一道さんが55歳になった年、20009年の5月5日、5時間55分かけて55曲を歌ったライブを録音したもので、後に出会った楠木しんいちさんがコーディネートして製作された。

 陽気な人に出会った事がある/うつむきながら歩き続ける人にも/天高く昇る事もあるだろう/はいつくばってのたうちまわることも/生きる人々の様々な歌を聴くだろう/歌われる前からそこにあった歌/鳥が飛ぶ空を選んだにしても/空は飛ぶ鳥を選ばない
♯僕がいのちを台無しにしても/いのちは僕をだいなしにはしない/鳥が飛ぶ空を選んだにしても/空は飛ぶ鳥を選ばない   「空は飛ぶ鳥を選ばない」から

 このCDアルバムは数年前、加藤真人さんが私に届けてくれた。加藤さんは夭夭亭での楠木しんいちさんのライブに息子さんと来店し、ブルースハープで参加したことがあった。その加藤さんが昨年亡くなったことを一道さんから今回のライブの折に聞いた。さらに、前回の私のブログ冒頭に掲げた「ねがうよ」の文章は加藤真人さんが書いたものではないかと一道さんはいう。加藤さんが私にCDを手渡す際に添えてあったのか、ライブで来店した時に・・・・。私の記憶の一部が欠落していたのだろうか。文章の内容にも関連して不思議は深まるばかりだ。
 不思議はもうひとつある。ライブの翌々日、広島で行わる高校の同窓会出席を控えて、デジタルカメラのSDカードを新しく購入し装填していた。その上でライブの様子も撮影したのに画像を引き出すことができない。どうしたことだろう。不思議だ。
 私は北海道には行ったことがない。一道さんをたずねて北海道に足を運ぶのもいいなと思い始めている。しんいちさんと同じく<青春18切符>で行くか。<大人の休日クラブ>もある・・・・・。いい出会いをもらった一夜だった。「抱えきれぬ程の/大きなものを/出逢いの中に/手渡されている」。一道さん作詞「Peace to you」の一節だ。胸の奥にズンッときてブルッと震えた。震えはしばし止まらなかった。
 私は、「ねがうよ」の文章は加藤真人さんから私に手渡されたメッセージだと思うことにした。
 追悼の思いをこめて加藤真人さんの「ねがい」を今一度掲載する。
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「君にこの声が届きますように/絡みつく風をすり抜け今願うよ
明日を急(せ)かす鼓動に/僕はいつからか戸惑い。
隠してた醒めない夢に迷って/繰り返す日々に居場所を探してた
君に出会い/無力を知り/抱えきれない光にも触れた
そこに何があって意味なくあれたって/答え合わせじゃつまらない
君にこの声が届きますよお(う)に/焼付く時をすり抜けて
今願うよ」
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 今年の同窓会は広島でおこなわれた。最も遠くから最も早く会場に着いた私は、続いて到着した詳子ちゃんと「平和公園」を訪れた。詳子ちゃんの父は原爆投下直後に広島へ入り、二次被爆をしたということだった。
「平和記念資料館」ではオバマ大統領が献上した折鶴(上)も見た。
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「原爆の子の像」を取り囲んでいるのは茨城県立並木中等教育学校の生徒たち。彼らは折鶴を捧げて平和と原爆犠牲者の鎮魂を歌った。深い感動に満たされた私は泣きそうになり、しばしその場を立ち去りがたかった。
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 原爆ドームを視野におさめながら、大田川の川岸ではコンサートがおこなわれていた。
<しんいち&僧侶2人>ライブ、並木中等教育学校の生徒たちが捧げたコーラス、そして広島の川岸コンサート。想いと願いは詩となりメロディーとなり音となって、深く沈潜し、高く飛翔していく。
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 平和公園で出会ったベトナムの娘さんたちが満面の笑顔をくれた。片言の日本語は日本で働く人たちだろうか。この日は日曜日。「平和公園へ行ってみようよ」と3人は話したに違いない。周辺ではイチョウが黄色く色づき、穏やかに時間が流れていた。ベトナム語で「カーム オン(ありがとう)」と言いたかった。11月20日。汗ばむほどの陽気に包まれた一日だった。
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 スーパーの地元野菜のコーナーにビーツがあった。嬉しくなってロシア料理ボルシチをつくった。コリアンダーもあった。ベトナムでもタイでもコリアンダー(パクチー・香菜)は料理に欠かせない。インスタントラーメンに入れた。たちまちベトナムの麺料理フォーのような味わいになった。いま日本でパクチーが静かなブームだという。パクチー愛好家をパクチストというとか。独特の香り、それをクリアーすれば後は病みつきになるだけだ。
 色鮮やかで多彩な野菜たち。サトイモは狭山のマスダさんから送られた。ユズは常連の姉御マヤさんが持ってきた。大地から人から恵みをもらっている。
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 11月25日にキューバのフィデル・カストロ前評議会議長が死去した。彼は2003年3月来日。広島を訪問して、「人類は広島の教訓を学び取っていない」と訴えた。27日には国連総会第1委員会(軍縮)で採択した核兵器禁止条約交渉の開始を求める決議案に、なんと日本は反対した。アメリカの「核の傘」にあるとしても反対はないだろう。これまでは一貫して棄権としてきた日本だ。広島と長崎の教訓を学び取っていないのは日本政府ではないのか。
 29年前の1987年6月にキューバからバンド「Los Novels Cuba」が当時のソ連経由で新潟から入国した。日本キューバ友好協会の招きだと聞いた。そして、日本での最初の公演が村上市で開催された。公演後メンバーたちと夭夭亭で打ち上げをした。写真はそのときのものだ。彼らが持参したキューバのラム「ハバナクラブ」にしレモンを絞り込んで飲んだ。ラムのうまさに驚いた。
 キューバ・リブレ(Cuba Libre)というカクテルがある。第二次キューバ独立戦争の合言葉として使われた「Viva Cuba Libre(キューバの自由万歳)」にちなんで作られたカクテルだという。1898年4月に始まった米西戦争においてアメリカが勝利し、キューバがスペインから独立して1つの国家としての歴史をスタートする。その独立を祝う為に生まれたカクテルがまさしくキューバ・リブレだったのだ。
 1898年8月、キューバ独立を助けた1人のアメリカ人将校がハバナのバーで、キューバにアメリカ兵と共にやって来たコカ・コーラと、当時の地元で最も人気のあった、バカルディ社のゴールド・ラムをミックスすることを思いついた。そして、他のアメリカ人将兵たちが次々にこのドリンクをオーダーし、「キューバ・リブレ!」と雄叫びを上げて乾杯したのがこのカクテル誕生の由来といわれる。(ウィキペディアから)
「キューバ・リブレ」は「ラムコーク」ともいう。
 村上公演を実現させた、日本キューバ友好協会の会員だった画家ウチヤマさんの絵が夭夭亭にある。フラメンコダンサーの絵がそれだ(下)。30年前、長くスペインで画業を磨いたウチヤマさんは、当地で教員をしていた大学時代の友人の計らいで個展を開催した。その折に、私がこの絵を購入したことがきっかけで、酒のグラスを合わせることになった。
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 故八木三男先生と八重子の刀自夫妻の家の新しい住人が決まった。その家族と移譲の仲立ちをしたセガ医師、娘の絹さんらが夭夭亭で一席を持った。「ちょっとさびしい気がする・・・」と、絹さんに葉書を書いていたが、新しい住人は素敵な家族で、自分のことのようにうれしかった。
 そして、絹さんから「実家売却(またはふるさと)」とする歌が届いた。
  
 福島を出でてこの地にたどり着きし若き家族にこの家を託す
 年ごとに学校替わりし二人子よ山見ゆるこの家で羽根を休めよ
 父母とわれの四十余年この家のすみずみまでを動画に収む
 友を呼び風呂を薦めし父の声湯殿にいまも残るかのごと

 <若き家族>は福島の原発事故を逃れて当地に暮らしていたのだ。
 八木邸の玄関を入った正面の壁にウチヤマさんの油彩画があった。やはり、30年前の個展で購入されたものだったが、今はどこにあるのだろうか。庭にあった円い穴の開いた鞍馬石の石柱は・・・・。

 タイトルは以下のように続く。「一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである」(『決定版夏目漱石』江藤淳/昭和54/新潮文庫)
 「彼」とは夏目漱石である。漱石を苦しめていたのは「愛」の問題だ。「人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男」(同)
 今年は「奇妙な男」漱石の没後100年だった。明日から師走だ。
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# by yoyotei | 2016-11-30 08:51 | Comments(2)