江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ

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 20年前にオーストラリア人アンドリューと結婚してキャンベラで新生活を始めたチカさん(右)が一時帰国をした。チカさんの実家は300年前に芭蕉が『奥の細道』の道中で宿泊した「井筒屋」という宿屋である。数年前まで喫茶営業や、一日一組限定で客を泊めていたが、現在は住宅だけの町屋「仕舞屋(しもたや)」になっていると思っていたら、外観を一新した食事処になっていた。開催中の「町屋の人形様巡り」期間だけの営業かもしれない。
 この日はチカさんの帰国に合わせて学生時代の友人二人が村上にやってきた。マミさん(左)は福岡から、ナリコさん(中)は富山から。3人は15年ぶりの再会だという。
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 2日後、かつて毎週のように集まっていたチカさんの村上の友人も再会を喜び合った。イズミさん(左)とセイキさん(右)さんだ。日本食のラーメンが2000円前後もするというオーストラリアの物価事情など、久しぶりの再会に話は尽きない。
 イズミさんと私は、少なくとも年に一度は顔をあわせる。彼女は「MURAKAMI・SASAGAWANAGARE国際トライアスロン大会」のメインMCとして欠かせない存在なのだ。スタートのスイム会場でオープニングセレモニーから、緊迫するスタート実況を、昨年は一人で担当した。私は数年前からフィニッシュ地点での実況だけにしている。
 かつては英語塾で子どもたちに英語を教えていたイズムさん。私の孫も二人が彼女の生徒だった。その一人は大学で英語を専攻し、また一人孫娘は高校を卒業するとアメリカへ渡って行った。
 セイキさんの妻の叔父と私は村上へ来てすぐに親しくなった。隣村に実家があった妻とすでに一緒に暮らしていた私は、当地に住むことになって、親戚への<顔見世>をしないわけにはいかなくなった。設けた席は妻の実家。囲炉裏を囲んで鍋をつつくという貧しい異例の披露宴だった。時は正月元旦、親戚衆は紋付羽織の正装で、祝儀袋に丁重な祝辞。普段着の私は身の置き所もなく恐縮して頭を下げるだけだった。
 そんな中、セイキさんの妻の叔父、サトシさんが顔を出してくれた。彼は大きな風呂敷包み持参していた。「伸ちゃん、これを」といわれて解(ほど)いた包みの中では、大きく鮮やかな鯛が緑の松葉の上で踊っていた。生きた鯛ではない。祝いの生菓子だ。当時、サトシさんの家は和菓子の製造を家業としていたのだ。しかし、私はその生菓子をサトシさんに頼んでいたのだろうか。代金を払った確かな記憶はない。なにしろ金はなかった。見事な生菓子は親戚衆への唯一の引き出物となった。
 クリスチャンだったサトシさんは教会で出会った、少し障害のある女性と結婚した。子どもはつくらないことにしている、と聞いたことがあった。セッターという猟犬を飼っていて狩猟もする、酒は豪快に飲む、教会に通う、意気に感じたことはドン!と引き受ける。上手な物の言い方はできないが、心根(こころね)は深く優しい。こんな人と出会い、私の村上での生活は始まったのだった。
 サトシさんが天に召されて久しい。妻はサトシさんの没後、実家に戻ったと、この夜セイキさんから聞いた。
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介護施設で働くミカさん(左)マロンさん(中)サトコさん(右)の3人。ミカさんは夭夭亭における<おもてなしの友好親善大使>と私が勝手に任命している。マロンさんは「大滝舞踊研究所」の舞台仲間だ。1昨年の発表会の演目「居場所」で共演した。彼女の役名が「マロンおばさん」だったのでマロンさんとする。右のサトコさんはスタジオミュージシャン大滝秀則さんが、先ごろリリースしたCDを購入してくれた。大滝さんの同期生らしい。
 マロンさんにはトライアスロンのMCをお願いしてみた。彼女は演劇もするし、読み聞かせもしている。MCフリートークの経験的ノウハウは私が付きっきりで伝授する。確約はしてもらっていないがおおいに期待している。本当に私は急激な視力低下で難儀をしているのだ。
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 産婦人科医セリさんが結婚のために村上を離れた。この夜、紅一点の彼女を囲んで10人ほどの医師たちが送別の酒盃を傾けた。圧倒的に男性が多い総合病院の医師たちの中で、女性らしい優美な存在感と、専門職としての毅然とした存在感を絶妙なバランスで並存させていた。いつか母になったセリさんに会ってみたいと思う。
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 商工会議所で働くジュンちゃんが、県内の国立大学に通う次男ナオヤさんとカウンターに座った。幼いころに「川崎病」を煩い、母親が心配していたのを覚えている。その子どもが父親とウイスキーのグラスを交わすまでに成長した。親に対する丁寧な言葉遣い、さわやかに謙虚に自分を語る穏やかな口調。どうしたらこんな青年が育つのか、その秘訣をたずねたいほどだ。
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 ジュンちゃんは3年前の3月にも、横浜の裁判所に就職が決まった長男ユウキさんと、同じようにカウンターに座った(上)。父の笑顔は3年前も現在も変わらない。
 子どもに向き合い、子どもと一緒に将来を展望する。そんな親らしいこととはほとんどしないまま、私は7人もの孫を持つ身になった。「ウ~ム」である。

    《絹さんの短歌通信》

 十六で国を離れて八年を異国で学びし息子は二十四
 窓のなき四畳の下宿住人はインド、中国、韓国、パキスタン
 学業を終えミュージシャンになるという息子と歩くロンドンの街
 黒人と日本人で組むバンドその名はザ・ユナイテッド・キングダム
 滞在は大丈夫なのか金はあるか心残してヒースローを去る

 絹さんの長男は日本の高校でうまくいかず、2年のときにオーストラリアへ脱出。その後イギリスのマンチェスター大学、ロンドン大学大学院へ進み、昨年12月に卒業した。短歌は卒業式に出席した折に詠まれた。
 子どもが持つ潜在能力や適性、親のあり方や家庭環境などはけっして一様ではない。世界を広げ知友の和を輪を広げて成長していく子ども。ときとして親の理解の外へ踏み出していくのが子どもたちだ。それでも親子の関係は途切れない。
 それにしても昨年12月は夫の父の葬儀が大阪であり、同じ月に息子の卒業式でロンドンに飛ぶ。母の介護もある。4月には<家>のことで、次男をともなって村上に来る予定もある。忙しく駆け回る絹さんだが、<短歌通信>は来信がある限り続けるつもりだ。一人の女性の、展開されていく人生を見つめていきたい。
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 手前左から、エノキーダ、ミヤー、トミー、ヤマガーミ、セキシャン、ガーリーチエコ。保健所みなさんだがニックネームには聞き取りのミスがあるかも知れない。
 数年前の冬、大阪での甥の結婚式に出席した。帰宅後、保健所で行われた飲食業者や食品製造業者を対象にした講習会に参加した。主要な講習内容は「ノロウイルス対応」だった。しかし、私自身がその時点で「ノロ」に感染していた。大阪からの帰途、東京の長女宅に立ち寄った際に感染したのだった。「ノロ」感染で頻繁にトイレに駆け込みながら受けた「ノロ対応講習」だった。
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 ドキュメンタリー映画『標的の村』(監督・三上知恵/制作・著作/琉球朝日放送)を見た。「オスプレイ」着陸帯の建設に反対して座り込んだ東村・高江の住民を、国は「通行妨害」で訴えた。反対運動を萎縮させる目的だ。わが物顔で飛び回る米軍のヘリ。自分たちは「標的」なのかと憤る住民たち。10万人が結集した県民大会の直後、日本政府は電話一本で「オスプレイ」配備を通達。ついに、沖縄の怒りが爆発した。
 2012年9月29日、新型輸送機「オスプレイ」の強行配備前夜。台風17号の暴風雨の中、人々はアメリカ軍普天間基地ゲート前に身を投げ出し、車を並べ、22時間にわったってこれを完全封鎖した。映画は、前代未聞のこの出来事の一部始終の記録だ。(上映パンフレットから)

 この国には<犠牲のシステム>がある、という研究者がいる。どのような<大義>があろうとも、それによってだれかが犠牲になることがあってはならない。犠牲なくしてなりたたない<大義>なら、それは<大義>そのものに間違いがあるのではないか。基地の前でスクラムを組み、車の下に身を横たえて抵抗する人たち。彼らを力ずくで排除する警察。抵抗する人たちは<大義>の前には余計者で邪魔者なのか。騒乱の基地ゲート前、並べた車の中で「安里屋ユンタ」を歌い続ける女性。爆発した怒りは、悲しみとなって深く深く沈潜していく。絶え間のない怒りと悲しみは<怨念の鬼>を生んでも不思議ではない。しかし、沖縄の人は飲んで歌って踊る。そう、内なる<鬼>をなだめるかのように飲んで歌って、踊るのだ。
 流れる涙の中で上映が終わり、明るくなった会場に女子高生の一団がいた。「どうでした?」と声をかけると、「衝撃でした」と一人が応えてくれた。「穏やかに暮らさせてあげたいよね」と、私は涙声になった。
 映画の中で、抵抗し闘う親たちを見て育った11歳の少女が言う。「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく」。状況は大きく違うが、親子の連関は濃密だ。
 
 客の来ない夜、この映画の上映を主催した一人のノリコさんと飲みながら話した。多岐にわたった話の中で稲葉範子さんの歌集『綿雪』所収の一首、「ささくれし手もてわが肌撫づ田植えせし夜を遠蛙鳴く」が話題になった。秀逸だとノリコさんは高く評価し、私も異議なく同調した。そして、ノリコさんは与謝野晶子を連想し、私は結句の「遠蛙鳴く」から想起した短歌があった。斉藤茂吉『死にたまふ母』の「死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(てん)にきこゆる」の一首だ。蛙(かはづ)の声は、夫婦の情愛を、生死の別れ際(ぎわ)にいる母と子を無窮の世界へ誘うようである。

<短歌通信>の絹さんの母、八重子の刀自(とじ・とうじ)の大学の卒業論文は斉藤茂吉だったと、『綿雪』の稲葉範子さんが教えてくれた。 
 斉藤茂吉といえば、私にとっては「人麻呂」であり、終焉の地「鴨山」である。過去のブログ「あの、ちょっと一杯やりませんか」(2014年8月)からそれに関する部分を再掲する。
『小児科医の姓は水流(つる)さんという。なんとも珍しい。本人は栃木出身だが、九州方面にルーツがあるらしい。後日、『難読姓氏辞典』(大野史朗・藤田豊編/東京堂出版 昭和52年)で見つけることができた。その隣には「水流丸(つるまる)」という姓も紹介されてあった。
 この姓の由来を考えてみた。水が流れて<つるつる>になるという連想から思い浮かんだのは、高校時代の夏、学友たちと訪れたことのある、島根県中部地方を流れる江川の支流濁川にある断魚渓だ。流紋岩の谷を侵食してできた渓谷。激しい水の流れによって削られた川床は<つるつる>になっている。同行していた女子たちの視線もかまわずパンツ一枚になった男たちは、天然の滑り台よろしく水の流れに押されて何度も何度も滑り下った。その時にいた男たちの何人かは、すでにこの世にいない。
 その断魚渓のある濁川が古くは石川と呼ばれていたとして、万葉集の柿本人麻呂の妻・依羅娘子(よさみのをとめ)が詠んだ、「今日今日とわが待つ君は石川の貝(谷)に交じりてありといはずやも」の和歌の谷(かい)は、ここ断魚渓ではないかとの説があるという。
   (『人麻呂的恋愛指南-万葉・恋の舞台-石見をめぐる旅』発行/石見観光振興協議会)
 この、石川断魚渓説は私もどこかで読んだように思い、確認しようと斉藤茂吉の『鴨山考』『鴨山考補注』などにあたったが見つけることができない。だが、人麻呂の終焉地を探索する茂吉の『備後石見紀行』から、私は思いがけない<旅>をすることになった。
「自動車は乙原(おんばら)に着いた。此処はやや広い所を占め生活が何となく活発で、小学校児童が自動車に寄って来て物言ふのでも何となく賑やかである。自動車から見える向かひ家に、諸薬請売業、安産一粒丸などと言ふ看板が懸かってゐて、これも一つの旅行気分といふことが出来る」(『備後石見紀行』)
 この時の茂吉の紀行は昭和10年4月である。私は昭和30年代後半の中学高校の6年間を、この乙原の母方の祖母が住む家で暮らした。粗末で小さな家だった。
 さらに、『鴨山考補注』にはこんな個所もある。
「そして写真を撮った。一は川本町の琴平山から対岸の川下村谷戸方面を撮った。ここも山が重畳して山峡の感じである。二は川本町の農蚕学校の方面を斜に対岸を撮った。ここにも相当に高い山がある」
 この「農蚕学校」が昭和13年に「農林学校」となって私の叔父の母校、さらに昭和24年に島根県立川本高等学校となる。夏の一日、断魚渓に遊んだ学友たちの、そして私の母校である。
 長くなるが、『備後石見紀行』をもう少し引用したい。
 昭和10年4月19日、午前6時50分の川本行乗合自動車で浜原を出発した茂吉一行は、粕淵を過ぎ、午前7時半に吾郷本郷に着いた。「此処で自動車が江ノ川を舟に乗って渡る」とある。吾郷には私が卒業した中学校があったが、すでに廃校となった。しかし、かつて自動車を乗せるほどの渡し舟があったことは知らなかった。
「其処を渡れば、今度は自動車が江ノ川の左岸に沿うて走る。江ノ川を主として、風光がなかなか佳く、若しこの三江線の鉄道が備後の三次まで完成したなら、この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」
 はたして茂吉の予見は的中したのだろうか。   
 三江線は1978年(昭和53)に江津(島根県)・三次(広島県)間の108、1kmで全線直通運転が始まった。しかし、豪雨災害による運休もたびたび。名だたる過疎路線で廃止論議の途絶えることがない。2013年(平成25)8月の島根西部を襲った豪雨被害では、またもや寸断。再開が危ぶまれていたが、大規模場復旧工事が終わり、先月、およそ1年ぶりに全線運行再開となった。1日の乗降客が300人程度で日本一ともいわれる超過疎路線。運行経費、被災からの復興費用などを考えると、日本一の<贅沢路線>なのだそうである。私はこの三江線で3年間高校に通った。
 さて、再び『備後石見紀行』に戻る。乙原を経由した茂吉一行は午前8時半に川本町に着く。そこで小学校長に会った後、「旭旅館で午食を済まし、大急ぎで零時五十一分の汽車で発った」とある。私の高校時代にもこの旭旅館はあった。すでに他界した友人とのつながりから、この旅館に出入りするようになり、女将には本当によくしてもらった。この女将に娘が二人いたことも記しておこう。
 小児科医の水流(つる)さんの姓をきっかけに、はからずも、歌人斉藤茂吉をガイドに思い出の地を旅することになった。
 江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ(茂吉)』

 この4月は国鉄が分割、民営化されて30年になった。ローカル線はなくならないとした国の約束はどこへやら赤字路線の切り捨てが続いている。そして、昨年9月、この三江線をJR西日本は来年4月1日をもって廃止、との届出書を国交省に提出した。以来、鉄道ファンなど観光客が増え、土日祝日ともなれば1両から2両編成になった車両が満席だという。全線で3つしかない有人駅の一つ石見川本駅では、反対車両の待ち合わせで90分もの停車となる。地元の観光協会や島根中央高校の生徒らが「街中ぶらり90分案内」のビラ配りなどでもてなしている。島根中央高校は統廃合で新設された私の母校である。
「この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」と茂吉に言わしめた三江線。存続への道はもうないのだろうか。

 座間宮ガレイさんの講演会がおこなわれ、講演後、主催者たちとの懇親会があった。座間宮さんは画像にあるように発行する『日本選挙新聞』で国内外の選挙の展望や、詳細な資料による分析などをしている。最新号では宇都宮健児氏のロングインタビューが目を引いた。「ポピュリズムを批判するだけでは、現実に目を向けられないですよね」という宇都宮氏の発言による見出しが説得力を持っている。
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 30代後半の若い座間宮ガレイさん。ペンネームは<ざまあみやあがれ>のもじりだ。
 
 3月中にと思っていブログのアップが4月にずれこんだ。そして今日は4月1日。忘れられない4月1日が私にはある。
 50年前、箱根の老舗のホテル旅館で働いていた私は、その日、同僚の一人にいたずらを思いついた。
「あんたのおふくろさんがフロントロビーに来てるってよ」
「え?」
 血相を変えた彼はすっ飛んで行った。
 ほどなく戻ってきた彼は泣き顔になっていた。そして、殴りかかろうとして私を追いかけ回した。青森の山村から出てきて、ラーメン屋を開くのが夢だと語っていた彼。「エイプリルフールだよ」との弁解も彼には通用しなかった。ましてや「ザマアミヤガレ!」とも言えない。残酷で罪深い私の<嘘>だった。親を冗談や嘘話に持ち出していけない。
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# by yoyotei | 2017-04-01 18:32 | Comments(0)  

年常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ

 年賀状を出さなくなって久しいが、それでも毎年、何通かは頂戴する。そんな中に封書で届く年賀の挨拶状がある。自宅の隣、故本間桂・笑子夫妻の次男でカナダ在住のシノブさんからのものだ。書かれてある今年の計画には、姪の結婚式出席、妻の母の米寿の祝い、娘の30歳と自身の65歳の合同誕生会などとあり、8月には母の七回忌で村上を訪れると記されてあった。もう七回忌とは・・・・・。今年もさらに早くなった時の流れに、ため息交じりの感慨に沈む。
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 寒さに閉じ込められて鬱々している私は、少し前に<春になったらしたいこと>をまとめてみた。「巣箱を取り付ける」「スマホを購入する」「神楽面をつくる」「燻製をつくる」「側溝の蓋をつくる」などなど。
 昨年の秋、紐が外れて落下した巣箱は、数日前にたまたま通りかかった近所の知人に頼んで取り付けてもらった。高所に弱い私とちがって、知人は理想的な高さに設置してくれた。1昨年巣箱にスズメの姿を確認したのは6月だった。その時期が待ち遠しい。
 スマホは春になる前に購入した。こうした<モノ>にもきわめて弱い私はまったく使いこなせないでいる。店に来たヨシマサさんに<ライン>をつないでもらったが、発信どころか受信があるとドギマギする。つながった人に無作法をしていないかも気になっている。
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 神楽面(かぐらめん)は石見神楽で使われる面で、基本的な作り方は、石見神楽が盛んな浜田市の小学校時代に体験している。型をつくる粘土は30年も前に益子焼の土を30キロばかり購入したものがある。その時には、いずれ窯(かま)でも手に入れて焼き物をと思っていたが、高価な窯には手が届かないでいる。
 ここのところ、島根県の同窓生から送られたりした石見神楽のDVDを見る度に「鬼」の面に魅せられている。おどろおどろしく、ちょっと滑稽で哀しい「鬼」。子どもの頃から、「鬼」は私にとって「舞(まい)」のヒーローだった。(私たちは石見神楽を舞と言っていた)。
 面といえば、中国の伝統芸に「変面(へんめん)」というのがある。同名の中国映画『変面』で知ったが、そのステージパフォーマンスが新潟市で行われた「春節祭」で披露されたようだ。動画サイトでも見ることができる。一瞬にして隈取をした顔が何度も変わる、その仕掛けを知りたいと思う。石見神楽でも<面が変わる>演出があって、こちらも興味深い。
 燻製は酒の肴として常備しておきたい保存食品だが、冷蔵庫も冷凍庫もあり、真空包装も家庭でできる現在では保存性よりも、その風味が魅力だ。燻(いぶ)された色もいい。先日、手作りしたチキンハムを、古い鍋を使って燻してみた。出来は悪くかったようだ。
 側溝の蓋は昨秋にもつくったが、なお2つ3つ欲しい。昨今はホームセンターで「ドライコンクリート」や「ドライモルタル」が売られている。砂利も砂も混入済みで水を加えて練ればいいだけ。型をつくって流し込み、数日おいて型をはずす。ドロドロのものが固まって形になることには、ある種の達成感がある。スイーツづくりでも同様の面白さがある。
 スイーツといえば、土浦の今井さんから「焼き芋」が送られてきた。男から男へ焼き芋を送るというのも妙な感じだが、届いた焼き芋は滲み出した蜜で皮が濡れて光っていた。口に入れて甘さと旨さに仰天した。昔、食べたものとは別のものだ。感動の余波で、自宅にあった3種類のサツマイモで「焼き芋スイーツ」をつくった。芋を蒸(ふ)かしてつぶし、三温糖と生クリーム入れて捏(こ)ね、成型した表に卵白と蜂蜜を混ぜたものを塗ってオーブンで焼く。出来たものを、隣のカラオケスナック「レガート」のアヤコママに試食してもらった。「おいし~い!」との評価だった。シナモンを振りかけてもいいだろう。
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 2月15日、カールが旅立った。旅立ちの直前、カールは「今日は休みだよ」という飼い主のユウコさんにかまわず、リードを引いて夭夭亭の前まで来たという。通いなれた道だ。「黒曜石のような瞳」「ちょっとおしゃまなパリジェンヌ」と、かつて私がエッセイで紹介したこともあったカール。ユウコさんの隣にちょこんと座り、「かわいい!」の声とともに女性客に抱き上げられることもしばしばだった。
「カール行くよ」と、少し酔ったユウコさんが声をかけるとスッと体を起こし、カウンターの高い椅子から下ろしてもらうと尻尾を振ってドアの前で待つ。深夜の道をユラユラ歩くユウコさんを小さなカールがしっかりした足取りで暗い道を遠くなる。そんな光景も、もう見ることはない。おしゃれに着ていた衣服やリード紐は、荼毘(だび)の煙といっしょに天に昇ったか。それとも思い出として残されたか。小さな骨になったカール。ユウコさんの寂しさはしばらく続く。
 そんなユウコさんを誘ってショートトリップでもしようかということになった。友人でユコさんと登山仲間でもあるジョージさんも乗り気だ。もちろん、酒を飲みながらの話だったが、ユウコさんは早速パスポートの申請をしてきた。春とはいわないが、今年の計画のひとつに上げておこう。
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「冬の201(ふれあい)音楽祭」に参加した女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」の打ち上げ。受験生のように歌詞を書いた紙を家中に貼って覚えたという、英語の歌も聞かせてもらった。
「テクニックを磨かなければ本当の楽しさは味わえない」。グループの指導をしている村上出身のスタジオ・ミュージシャン大滝秀則さんは言う。その彼が、このほど「ANNYA BAND」を率いてニューアルバム『THE BEST』をリリースした。
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 全作品、大滝秀則さんの作詞作曲。ヴォーカル・キーボードを担当して、総合プロデュースをつとめた。演奏メンバーは高中正義バンドのギタリスト兼エンジニアの「稲葉ナルヒ」がギターとエンジニア。名プロデューサーの「藤谷一郎」がベース。ドラムスに弟の和製ポーカロ「大滝敏則と、渾身のロックアルバムだ。
 新潟県ではよく知られているテレビCM「♪大観荘~瀬波の湯~♪」は大滝秀則さんの作品である。
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 絹さんから「歌」が届いた。

 如何にして死ねばいいのかわからぬと嘆く母抱きわれもまた泣く

 余りにも重き病に苛まれ母の魂は何処を彷徨(さまよ)う

 十六の子を戦場に送り出し死なせし人の歌集賜る
           <その歌集は「この子らに戦いあるな」詠み人米田ひさ>
 一夜にて歌集読みたる母の眼(まなこ)別人のごとく輝きし朝

 母とわれ声に出し読む一首ごとが滋養となりて身に浸みゆけり

 歌を詠みて生き来し人の生きる術は歌のほかなし歌詠めずとも

 『まひる野』にわたしの歌が載りました。いっしょに読もうね、お母さん

 絹さんは母と同じ『まひる野』の同人となっている。手紙に「高木さんは私の気持ちを汲んでくださるすばらしい鑑賞者なので気をよくして送ります」とあったが、私に短歌の素養はまったくない。絹さんや両親を知っていることで、その歌にいくらか寄り添うことができるのだと思っている。むしろ、絹さんが歌に詠む事象や印象、さらには心の風景が<滋養>となって私の心を潤してくれる。
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 狭山のマスダさんが学生時代の友人とともに来店した。小関のアキちゃん(上左)と大塚さん(下左)だ。二人とも初対面とは思えないフレンドリーな人柄。アキちゃんは笑顔を大塚さんはギターの音を振りまいてくれた。(上右)は夭夭亭の親善おもてなし大使ミカさん。(下右)がマスダさんだ。初来店から5年にもなる。
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 この夜はしばらく途絶えていた週末常連組が久々に集まった。ヒデさん、マヤ姐(ねえ)、ムラタ兄、イシグリ大工、そしてミカさん。彼らもマスダさんたちと同じテーブルを囲んだ。
 人更ニ少(ワカ)キコト無シ時須(スベカ)ラク惜シムベシ、
 時常ニ春ナラズ酒ヲ空シクスルコト莫(ナカ)レ
                   (小野篁『和漢朗詠集』から「春光細賦」の一節)
 「少年期は二度と来ないから、人は寸陰を惜しんでつとめなければならない。年に春は二度と巡ってこないから酒盃をあげて思い切り楽しみを尽くそうではないか。いざ、一献、といった勧盃歌である」
                   (『ことばの季節』山本健吉/文藝春秋)
 巡ってこないのは年に二度の春だけではない。人生も二度はない。天に昇ったアメリカ人マークもかつてはこのメンバーにいた。
よく知られている漢詩「勧酒」(于武陵)は井伏鱒二の訳でさらに著名になった。
 勧君金屈巵/満酌不須辞/花発多風雨/人生足別離         
コノサカヅキヲ受ケテクレ/ ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/サヨナラ」ダケガ人生ダ
 色々あったし色々あるさ。飲んで語れば、それも君だけではない。まあまあ。
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 ムラタ兄も、先月愛犬の旅立ちを見送った。このところ猫談義に花が咲くマヤ姐とミカさん。いつの間にか、二人とも並々ならない愛猫家になっていた。ワインボトルのラベルはマヤ猫のオリジナルラベルだ。
 今日、2千万匹近い犬や猫が人生のパートナーになっているという。一方で、いじめられ、捨てられて引き取り手もなく殺処分された犬猫は15年度だけで全国で9万匹、新潟県で1千匹以上。マヤ姐はそうした殺処分から1匹でも救いたいと、私にも熱心に飼育を働きかける。
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 新潟市で行列ができるパン屋があるという。マヤ姐がその店のパンを買ってきてくれた。フランスパンにさまざまな具をトッピングしたり挟んだりしたもので、具には辛子明太子や野沢菜漬などもある。朝食にはホームメイドのパンを欠かさない長女の家で、前夜食べたきんぴら牛蒡がパンに乗っかって出てきたことがあった。
 ベトナムではフランスパンにレバーペーストや漬物を挟んだパン・ミー・ティットが食べられている。パンの持つ多様な食材との協調性・融和性は今更ながらだが驚かされる。思いつくままに上げれば、骨を抜いたサンマのトマト煮物、ニラの卵とじ、新たまねぎとスモークサーモンのドレッシング和え、ほうれん草とベーコン炒め、刻みネギを多めに入れた納豆・・・・・・。つまり何でもいい。

 近くの割烹「千渡里(ちどり)」で腹子丼を食べた人が、その旨さに涙が出たと述懐した。鮭の卵をこの地では<腹子(はらこ)>と称するが、これの醤油漬を熱々のご飯にたっぷり乗せて食す。当地では子どもの頃からのソウルフードといってよい。その人は生まれたこの地に馴染めず関東地方での生活が長いが、老いた親の元へ様子を伺いに時々は帰ってくる。どこから沸いてくる涙なのか。
 送りきし土佐の干魚(ひうお)を焼くときは目も潤むがに海を恋しむ
                            吉井勇

 今朝も鳴き交わしながら空を渡る白鳥の群れを見た。北帰行(ほっきこう)だ。生命(いのち)の営み。季節の巡り。彷徨(さまよ)った人の心の落ち着く先・・・・・・・。水が温んできた。
             
 
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# by yoyotei | 2017-03-06 19:54 | Comments(0)  

内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い・・・・・

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 1月2日、近所に住む一人暮らしの知人たちと新年を祝った。
 この日の夕方までホテルの厨房で働いた私はゆったりと温泉に浸かってから、おせち料理の余りなどを貰って帰宅。知人たちを自宅に呼び寄せた。妻は仕事、子や孫たちも来ない年明けだったが、「おめでとう!」と言って酌み交わす酒はうまい。
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 総合法務事務所の新年会。予定していた助っ人が来れなくなり、みなさんにセルフ・サービスを強いることになった。紅一点のルミさんには皿洗いまでしてもらった。
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 新しい年の抱負だろうか。二人はしばらくの間、身振りを交えながら笑顔で語り合っていた。上掲の法務事務所の若いスタッフである。 
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「生活と健康を守る会」の新年会は約30人が参加して、市の保養施設を会場に今年もおこなわれた。ゲームに興じ、私のギター伴奏で歌い、カラオケで盛り上がった。
 年明け早々に厚生労働省は昨年10月時点の生活保護状況を発表。全国の生活保護受給世帯数は前月より964世帯増の163万7866世帯で3ヵ月連続で過去最多を更新した。
 新潟県内の受給世帯は前月比19世帯増の1万6088世帯で、3ヵ月連続の増加となった。受給者数は29人増の2万1060人。世帯別では65歳以上の高齢者世帯が12世帯増の7342世帯で全受給者世帯の45,6%を占めている。その多くが1人世帯だ。私が所属する「会」でも事情はそれぞれだが、1人暮らしの高齢者会員が圧倒的に多い。
 生活を守るために、くらしに役立つ制度の活用や、改善と新設を進めるなどの活動をおこなっている「生活と健康を守る会」。現在、全国連合会(全生連)は<いのちを守る、戦争から貧困から>の総がかりキャンペーンを展開中だ。 

 東京に住む絹さんから便りが届き、夫の父の葬儀で大阪へ行ってきたことが記されてあった。絹さんは私が私淑し、店名を付けてもらった故八木三男先生の一人娘。母を介護しながら<自費出版・編集工房>に携わり、社会学的な研究やアプローチをおこなっている。
 便りには「義父は中卒で徳之島から大阪へ夫婦で出てきて、沖縄や奄美諸島出身者への差別が強い中、トラック運転手として働いて働いて、3人の男の子を大学に行かせました。そのうち長男の私の夫と次男は大学教員となりました。苦労の末、18年前に脳梗塞で倒れ、後遺症の痛みに耐えながら闘病してきましたが、ついに帰らぬ人となりました」とあり、数首の短歌が添えてあった。

 慟哭の義母(はは)の叫びよ義父に届けこの人を置きどこへ行きしや
 泣き泣きて涙かれても泣く義母に人を愛する生き方をみる
 
 
 義父の臨終と慟哭の義母に心を寄せる絹さんの真情に、私は深く胸をえぐられた。夫婦で歩いた歳月。義母の慟哭はそこへ繋がる。
 今、絹さんの介護に支えられてリハビリに励む母八重子の刀自は、数年前に夫の言葉を引いて絹さんを詠んでいる。
  
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」  
                     (八木八重子歌集『出でませ子』)
 
 絹さんの便りと歌から、すぐに思い浮かんだのはこの一首だった。そして、30数年前に沖縄上空から見た、島々を抱くように取り囲むコバルト色の海だった。島々の中には徳之島もあったか。

 トラックで走りて三人の子を育て学を与うるが父の夢なり
 
 そのために「働いて働いて」と語句を畳んだ絹さん。<吹き付ける疾風の中>を生きてきた義父への思いが胸を締めつける。85歳の、故郷・徳之島へ帰る旅立ちだった。
 
 三線(さんしん)の島唄の節に見送られ御霊よ美しき海へと帰れ
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(セロジネ)
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 土浦の今井さんが東北大震災で被害を受けた岩手に行き、酒田からの経由で店に立ち寄ってくれた。1月は八木三男先生を偲ぶ蝋梅忌。だが、前記した義父の葬儀のことなどから話題は絹さんが中心だった。今回の旅には歌集『出でませ子』を携行していた今井さん。諳(そら)んじていた1首は私と同じだった。
 
 子の帰り行きたる雪の降る夜に夫はつぶやく「絹はいい子だ」
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 高校の同窓生に依頼していた、ふるさとの秋の伝統行事<しゃぎり>のDVDが届いた。
 中学生のころ、私も同じような装束をして参加していたのだ。何通りもある締め太鼓の撥(ばち)捌きは、半世紀以上の時間を隔てても覚えていた。隊列が移動する村の家並みにも目を凝らしたが、こちらは時の流れを痛感するほかなかった。<大祭>などという大規模なものではないが、祭衣装の幼児に付き添う若い母親。巧みな横笛で囃子を導く村人。見守る村人たち。<しゃぎり>が島根県石見地方のどの辺りでおこなわれているかは知らないが、離れて暮らすものにとっては、存続されていることに感謝の念がこみ上げてくる。軽トラックに鎮座する御輿(みこし)には思わず笑った。
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 年末年始をインドで過ごしたとマサエさんから連絡をもらった。マサエさんとは10年ほど前にニューデリーのカフェで出会ったことをきっかけに、村上にも何度か来るなど、付き合いが続いている。世界一周の女ひとり旅をやりとげるなど、バックパッカーの達人だ。そのマサエさんもやはり<インド通い>がやめられない。
 最初に出会ったサダルストリートの<ゴールデンカフェ>は健在。種々の商店がひしめき、牛がたむろする賑わう界隈もそのままだったという。聖地ヴァラナシ(ベナレス)では早朝から、巡礼者や観光客が行き交う通りを清掃する集団(クリーン部隊)がいたことが目に付いた変化だったという。<汚い>のもインド好きには魅力のひとつだったが・・・・。
(画像は1993年祭りパレードの一コマ・ニューデリー)
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(1997年バラナシ・ポンデチェリーのゲストハウス、列車内など)
26年前の秋、旅に出た。行き先はインド。どのような磁力に引き寄せられたのか、43歳のやや遅めのバックパッカーデビューだった。帰国後、その体験を本としてまとめ、書名を『朝焼けのガンガー』とした。著述にあたって『インド入門』(東京大学出版会1977)を参照した。著・編者は辛島昇東京大学教授(当時)。旅の印象だけにとどまっていたインドが、この本によって多面的なアプローチの対象として立ち上がる端緒となった貴重な一冊だった。
 10年後、放送大学(文部科学省設置の通信制大学)の入学案内に辛島教授の名前を見つけた。講義は「南アジアの歴史と文化」。アンテナを掲げ、インドとあればさまざまなものに触手を伸ばしていた当時の私は飛びつくようにして入学した。
 衛星放送のテレビやラジオ、インターネットを通じて学ぶ放送大学だが、画面からも伝わる辛島教授の風貌と人柄、講義の内容に強くひきつけられた。新しい講義「南アジアの文化を学ぶ」も受講し、夫人辛島貴子氏の著書「私たちのインド」も、インド社会で暮らす日本人の戸惑いや発見に、旅だけでは得られないインドを知る手がかりになった。インドへの旅を続ける中で、満を持して臨んだ単位認定試験は、しかし厳しいものだった。「教養学部・人間の探求」を専攻して6年間在籍、所定の単位を修得して卒業したのが2006年(平成18)、59歳だった。
 その辛島昇東京大学名誉教授・大正大学名誉教授が、2015年11月26日に逝去されていたことを「日印協会」のホームページで知った。死因は急性骨髄性白血病、享年82歳。喪主は妻の貴子さんとあった。
『インド入門』が手元にないので記憶に頼るが、その<あとがき>に大意「1960年代から若者を中心にインドへの関心が高まっている。そうした人たちによる著書も多い。しかし、大部分ははインドといういわば<書割(かきわり)>の中の自分に照明を当てたものに過ぎない」とあった。それには大いに触発されたが、同時に反発も感じた。実際に、私自身がインドの中で自分に向き合うことが大きな比重を占めていたからだ。
 それもあって<自分史>という言葉をつくりだしたといわれる、日本近代史・民衆思想史を専門とする歴史家色川大吉(1925~)の「物質文明の中で行き先を見失ってしまったらリュックを背負ってインドへ出かけなさい。そこには忘れていた生命の輝きがあり、生きることの厳しさがある」といった主張に強い共感を抱いた。請われてインドの話をするときには、きまって色川大吉氏を持ち出し、こうした言葉を紹介するのが常だった。

 昨年の10月18日、沖縄県北部の国頭郡東村(ひがしそん)高江の米軍北部訓練場のヘリコプター着陸帯(ヘリパッド)の建設工事を止めようと体を張っている市民に対し、大阪県警の機動隊員が「触るなくそ、どこつかんどんじゃボケ、土人が」と言い放った。この差別発言が報じられたときに受けた衝撃は、ほとんど死語だと思っていた「土人」という言葉が、20代の機動隊員から発せられたことだ。いったい彼はどこでこのような言葉と差別意識を教え込まれたのか。
 月刊誌『世界』(岩波書店)のリレーコラム「沖縄(シマ)という窓」で、執筆者のひとり松元松剛(まつもと・つよし=琉球新報)は、この「土人」発言を取り上げた(2017年1月号)。そのなかで「命令に従い義務を遂行していたのが分かった。ご苦労様」とツイッターに書き込んだ松井一郎大阪府知事、「差別と断じることはできない」と主張した鶴保沖縄担当相の延長上で、安倍内閣が「差別とは断じられない」とする答弁書を閣議決定したことについて、「圧倒的な力を持つ権力の側が市民を組み敷くために派遣した機動隊員が公務中に吐いた暴言をたしなめようともしない鶴保氏や松井氏の認識は、言葉に宿る差別意識を意図的にぼかし、結果的に沖縄県民への偏見を助長している」と述べた。
 そして「沖縄人の尊厳を否定する構造的差別の地下水脈、活断層は動いている。土人発言とその後も続く騒動は、鋭利な物で傷口を突かれるような痛みを沖縄社会に与えている」と松元氏はコラムを結んだ。

 ある新年の集まりで挨拶を求められた私は、昨年起きた<いやな事件>の一つとしてこの「発言」を取り上げ、芝居の<せりふ>のように発してみた。おぞましいほどの相手を見下すような差別的罵倒に、会場がしばし凍りついた。
 <いやな事件>の二つ目は相模原事件。相模原市の障害者施設で入所者が刃物で刺され、19人が殺された事件だ。容疑者が「ヒトラーの思想が降りてきた」と話したと報じられ、<優生思想>がよみがえったかと神経を逆なでされた。
 三つ目は電通社員の過労自殺。いずれの事件も、人間が時間をかけて練り上げ積み上げ、切り開いてきた<尊厳あるもの>としての人間存在が否定され、文明の歯車が逆に回ったかのように思われた。
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 長い馴染みの左からヒロアキ、マサヒコ、マサヒトの各氏。右はカールママ。マサヒトさんから「自分が読むのにふさわしい本を選んでよ」と言われたりして、カールママも交えて読書談義になった。
 
 近年スマホの普及にともなってSNS(ソーシャル・ネットワーキング・システム)が急速に広まっている。2008年に日本語版サービスが始まった簡易投稿サイト「ツイッター」は140文字以内「つぶやき」を書き込める。また、LINEでは仲間内で対話型のコミュニケーションが可能だ。いずれも瞬時に短いメッセージを発信できる利点があるが、長文のやりとりには適さない。
 昨年12月に公表された国際学力調査の結果では、「日本の15歳の読解力が4位から8位に低下。文部科学省は原因の一つとしてスマホの普及に伴う長文を読む機会の減少を挙げた。
 内閣府の15年度の調査では、平日にスマホで2時間以上ネットを利用する高校生の66,8%。全国学校図書館協議会(東京)によると、高校生の1ヶ月の平均冊数も16年は1,4冊と読書量が減少している。

 読書といえば、私自身はドライアイによる視力低下で読書には難儀をしている。勤務先ホテルの地下にある機械室は外光が遮断されているので幾分かは字を見易い。しかし、そこで長時間、本は読むことはできない。日に何度も点眼する治療薬の効果にも疑問が生じてきている。 
 それもあってかDVDで往年の名画といわれるものを精力的に見ている。先日はサマセット・モーム(1874ー1965)原作、タイロン・パワー主演の映画「剃刀の刃」(1946年)を見た。世俗的な価値観に馴染めない主人公がインドへ行き、聖人から教えを受ける。聖人は「賢者とは自分の内面に存在する神の声を聞き従う者のことだ。内なる声が平静や寛容、慈悲や無私の精神を培い永遠の平安をもたらす」と諭し、神(自然)と一体になるための修行を促す。ある朝、主人公は大地の脈動を感じ、朝靄の中で木々の間から差し込む光が自分の体内に入る体験をする。その体験を持った上で、聖者に世俗の中で生きることをすすめられた主人公は・・・・・。
 
 ところで、作家の格言にはアイロニー(皮肉・風刺)が含まれているものが多いが、モームは「読書は人を聡明にしない。ただ教養ある者にするだけだ」といっている。もちろん、スマホもSNSもない、読書をすることが当たり前の時代の格言だ。

 世界を混乱させているトランプ大統領。モームだったら何と皮肉るだろう。そして、彼にインド行きをすすめたら、ツイッターでなんと応えるだろう。「老年の最大の報酬は精神の自由だ」と、これもモームの言葉だが、老人にはしばしば<頑迷>という報酬がもたらされることもある。

 私自身は、いまだいわゆるガラ系の使用者だが、近いうちにスマホにしようと思っている。



 
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# by yoyotei | 2017-02-02 07:39 | Comments(3)  

新年明けましておめでとうございます。

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 新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。このブロブ、タイトルはダイアリーなのにマンスリーのアップが定着してしまいました。当分はこれで続けたいと思います。年賀状を下さった方々、ありがとうございます。本日4日から夭夭亭を開店します。
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# by yoyotei | 2017-01-04 08:29 | Comments(0)  

おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう

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「Live as long as you may, the first twenty years are the longest half of 
your life」 
 イギリスの詩人ロバート・サウジーの「The Doctor」一節。『心に残る言葉』(小野寺健・著/河出書房新社・1992)からの引用だ。
 11月に広島で行われた高校の同窓会。早くに会場ホテルに着いた私は、続いて姿を見せた詳子ちゃんと「平和公園」へ出かけた。そのことは前回のブログに書いた。すると、同窓生のニッシー君から「たったそれだけ?」という感想が寄せられた。もちろんそれだけのことではなかった。
 たまたま同窓会の前夜はバレエの発表会があり、またその前夜は舞台稽古と店での「投げ銭ライブ」。さらにその前には舞台美術担当として持ち道具や大道具の点検と搬入などもあった。ひとつづつこなしていくことに、まさに忙殺された。同窓会は私にとってそれらを終えた後の<打ち上げ>でもあった。だからといって、同窓会の印象が希薄だったわけでは決してない。長年にわたって同窓会事務局を担当しているクニさんから、送っていた当日のSDカードが戻ってきたのであらためて振り返ってみる。クニさんは直前になって母親が倒れ、欠席となった。母親はその後いくらかの回復をみせていると聞いた。
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 冒頭の英詩は以下のように日本語訳がなされてある。
「いくら長生きしても、最初の20年こそ人生のいちばん長い半分だ」
 今年、古希を迎えた私たち同窓生。まさに、この最初の20年に相当する時代に人生の大部分が凝縮されていたのは確かだ。だからこそ、いささかの羞恥を覚えながらも懐かしさに相集う。そして、その後のいくらかの成長を見せようとしても底が見えてしまう滑稽さもある。風貌は時間とともに変化をするが、瞳の奥にはあの時代の輝きを残している。無謀なな夢。自信と不安。脆弱な自尊心。異性への憧れと劣等感、自己嫌悪。人生の道標を見ずに知らずに、己だけを頼みにしていた不遜。そして蹉跌の第一歩はこの時期に経験した。
 とまあ、それらは私であって、着実に一段一段、人生の階段を上っていった同窓生もいただろう。それにしたって、その人にとっては波乱に満ちたものだったにちがいない。同窓生ひとり一人に「よくがんばったなあ」と声をかけたい思いだ。
「二十歳くらいまでに知ったこと、経験したことが土台になって、あとはそれを拡大、延長していくのが、あらかたの人間の人生なのではないだろうか。この感受性のつよい時期に、ほんとうにすぐれた人に出会い、美しいものに打たれ、高い理念に燃え、激しい愛情を経験するかどうかーそういうことが、その後の人生を左右する」と著者は詩の一節に解説を加える。半世紀前にこの文章に接していたらと思う。
「人生に手おくれということはない」(同書)といってもなあ。
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 平和公園に行った折、原爆資料館のエレベーターに車椅子の女子高生と同乗した。スポーツをしていて怪我をしたが、修学旅行へは車椅子と松葉杖で参加したという。
 資料館を出て「原爆の子の像」へ歩を進めると、高校生たちが像を囲んで合唱をしていた。鎮魂と平和の歌声に私は強く心をうたれた。集団の端にエレベーターで遭遇した車椅子の女子高生もいた。引率教師に尋ねた学校名はつくば市の並木中等教育学校。帰宅してから、その時の感動を認(したた)め、写真とともに学校宛に投函した。
 そうして先日、車椅子の生徒から手紙が届いた。
「広島へ行った際、原爆被害の実相を初めて目にしました。戦争、また原爆の理不尽さを知りました。無差別で残酷な原爆にとても心を痛め、二度とこのようなことは起きてはいけないと思いました。そのためには私たち若い世代が語り継ぐ必要があると感じました。お手紙をくださったこと本当に嬉しかったです」
 感じたことを言葉にし文にし、手紙にする。大事なことが人生の1ページに刻まれた。彼女にも私にも・・・・・。託されたことを引き受けて、思いを言葉をつないで、私たちは生きていく。
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 内山アキラさん(左)も横山ノリオさん(右)も、私と同じく古希を迎えた同時代人である。内山さんは世界的な写真家として活躍を続け(2015年2月ブログ「物語は始まり、物語は終らない」)、横山さんは妻を帰らぬ旅に送り出して、この日はふた七日目だった。結婚以来、頭髪は妻が切ってくれていたという横山さん。「妻以外の人に切ってもらうってのはどうもね」。長く伸びた白髪交じりの髪を掻き上げながら、横山さんはさびしく笑った。
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「明日から死ぬほど忙しくなります」というのは村上郵便局に勤務する仕事仲間たち。左からカツオ、トシカズ、エリ、マサカツさん。トシカズさんとは車関係の仕事をしているころからの長い付き合いだ。
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 こちらは新潟県林業事務所の職員たち。ナツホさん、エミコさんと二人の女子だけが名前を明かしてくれた。
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 左からサトシ、ケイ、サオリ、ユウイチさん。新潟市から50分もかけての初来店。以前に休業日に来たことがあってリベンジの再訪となった。ありがたいことだ。情報誌の紹介記事を見たことがきっかけだと聞いた。その記事の掲載は1年以上も前だと思う。みなさん、今度は飲みましょう!あっ、当分は日・月を定休日にしているからね。
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 この夜は「村上9条の会」の役員会もあった。彼らも新潟からの4人と、こちらも初めて来店した平田医師(左端)も加わって画像に収まった。酒場が<出会いの場>でもあることを喜びとしている亭主冥利の一枚だ。
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 瀬賀医師と平田医師は高校・大学の先輩と後輩である。
平田医師は村上市に隣接する関川村の平田大六村長の息子。平田村長からは、かつてブナ林伐採阻止の住民運動や市町村合併問題でも指導や協力をもらった。11月のバレエ発表会では村長の孫娘とも共演した。岩船郡関川村。藁で作られた巨大な蛇がギネスにも登録され村人を繋ぐ「大したもん蛇まつり」。人口5700人の「小さくても輝く村」だ。
 目標は総合診療の充実だという平田医師。穏やかな笑顔が誠実な人柄を表している。在宅診療で忙しく往診に飛び回っている瀬賀医師とともに地域の重要な存在となっている。
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 市内で開業している医師をはさんでいる二人のピコ太郎は製薬メーカーの社員。今年の暮れはあちらこちらの忘年会でピコ太郎が出現したことだろう。衣装は一式5000円前後と聞いた。
 11月の「バレエ発表会」でオオカミに扮した私も長いマフラーで密かにピコ太郎を真似た。そして、舞台の袖で青年部の女子から教わった<恋ダンス>のフリを少しだけ本番で取り入れた。
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 クリスマス近くになると村上高校時代の恩師を囲んでワイングラスを傾ける集いが持たれる。何年も続くこの女子だけのパーティーへ、今年は瀬賀医師が加わった。恩師は彼の恩師でもある。
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 日々出来(しゅったい)する大小さまざまな出来事。穏やかであれと願っても浮世(うきよ)は<憂き世>でもある。スガイさんフナヤマさん、ヤスザワさん・・・・。それでも、みんなどうやら今年も乗り切ったぜ! 
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 手作りして庭のヒマラヤスギに取り付けた巣箱にスズメの姿を見つけたのは2015年6月だった。しかし、今年はその姿を見ることはなかった。それどころか、先日の風で巣箱が落下した。取り付けていた紐が穴から抜けたようだった。中を覗いて驚いたのは産卵、抱卵、羽化、巣立ちまでのために親スズメがつくった巣箱のベッドの厚さだった。天気のいい日に同じところに設置しなおすことにするが、中のベッドはそのままでいいのだろうか。それとも次の住人のために古いベッドは取り除くほうがいいのだろうか。迷いながら年を越すことになる。来年は酉(鳥)年である。
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 ユウキさん(左)が恩師の桑名先生に連れられて来店したのが20年前。それ以来の来店に同級生のトモコさん(右)を同伴した。二人と少し話して、ギターを取って1曲歌い、「いいお年を」と言い交わして送り出し、静かに店を終えた。夭夭亭年内最後の来客となったユウキさんトモコさん、あらためていいお年をお迎えください。巳年生まれで蛇好きのトモコさん、帰郷の折にはまたね。
 
 勤務するホテルのオーナーが、年明けから中国人に替わる。そのホテルの年末31日、厨房の手伝いを頼まれた。手伝いは元旦、2日と続く・・・・。

「O!what a beautiful thing God made winter to be,by stripping the trees.and letting us see their shapes and forms」(from Dorothy Wordsworth’s Journal
 ドロシー・ワーズワース(1771~1855)は英国の大詩人ウイリアム・ワーズワースの1歳ちがいの妹。イングランド湖水地方で兄とともに暮らした。
「おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう。木々を裸にし、その姿形を見せてくださって」と、 冒頭の英詩同様に日本語訳をする著者は以下のように解説を加える。(『心に残る言葉』「小野寺健・著/河出書房新社・1992)」「(葉も花も)すべてをむしりとられてなお、毅然として立っている裸木に感動するドロシーには、東洋的な心さえうかがえる」。そして、「簡素なものに美を見て感動できるのは、豊かな心の持ち主である」と結ぶ。<富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るのより難しい>というのは英国の教訓であるらしい。

 新春を迎えても、季節は冬である。むしろ、これからが冬本番だ。カナダから届いた白ワイン-summerhillを飲みながらPSに向かっている今は元旦の午前2時。しかし「明けましておめでとう」は寝て起きてからにしよう。みなさまにとって新しい年が穏やかでありますように。
<冬来たりなば春遠からじ>というフレーズが私は好きだ。冬を越さずに春を迎えるのも駱駝が針の穴を通るより難しい。
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# by yoyotei | 2016-12-31 11:59 | Comments(0)