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一枚の絵

数日前から油絵に取り組んでいます。
きっかけは高校時代に描いた一枚の油絵です。

高校に入学して、僕は柔道部と美術部に入部しました。柔道部はよほどの理由がなければ練習をサボることができませんが、美術部は気が向いたときに部室に行って、好きな絵を描いていればいい。厳しさと自由さ。柔道の練習が終わると、汗まみれのまま美術部の部屋で、帰りの汽車時間まで絵を描いて過ごす。
それが、僕の高校生活のパターンでした。
美術部に入部すると、顧問の教師は「金はいつでもいいぞ」と、油絵の画材一式を提供してくれました。それまでは、クレヨンや水彩絵の具でしか描いたことのなかった僕は、初めての油絵の具やその独特の匂いに興奮しました。部室に放置してあった古いキャンバスとともに家に持ち帰ると、さっそく描き始めました。
油絵の具の扱いも知らなければ、テクニックもない僕が、なんとか描き上げたのは、10号のキャンバスいっぱいの「顔」でした。プルシャン・ブルーとクローム・イエローを多用した暗く陰鬱な顔の絵を、僕の母は「気持ちの悪い絵」と評しました。そして、絵は誰にも見られることなく家の隅で裏返しに置かれたままでした。

翌年の夏、その地域一帯が大洪水に襲われました。僕の家も柱と屋根を残して、ほとんどが水に流されました。絵も流されたものと思って忘れていました。

6年前に母が静かに旅立ちました。死後、母の遺品の中にその絵がありました。母は長く住んだ島根の家を去って、大阪の長男と暮らしたときも、長女夫婦と同居したときも、その絵を持っていてくれたのでした。
その後、絵は鼻と唇の部分の絵の具が剥がれ落ちたまま、僕の家の物置で大きな眼を見開いたまま眠っていました。

1ヶ月ほど前に、ひょんなことから10号の立派な額縁が手に入り、思い立ってその絵を入れてみました。絵が生き返ったと思いました。日々眺めているうちに、暗く陰鬱なその絵は、ピカソの「青の時代」になぞらえれば、僕にとっての「青の時代」の記念碑だと思えるようになりました。
迷った末に、画材を買い求めて、剥がれ落ちた部分を修復することにしました。しかし、変色した古い部分と新しい絵の具との融合がうまくいきません。試行錯誤を繰り返し明け方までキャンバスに向かったり、酔ったあげくに、元の顔が見えなくなるほどに絵の具を塗りたくったりしました。酔いがさめてから、あわてて拭き取りましたが・・・。

修復が一段落してから、新しい絵に取り掛かりました。絵の具がもったいないと思ったのと、修復をしている間に絵を描くことの充実感がよみがえってきたからです。
新しい絵はインド西部ラジャスターン州の風景に、その地方特有の派手な民族衣装をまとった女性たちを配したものです。題材がそうであるとしても、陽光が広がる明澄な絵になっていくことに驚いています。僕の「青の時代」の絵はキャンバスの裏に「1964年5月4日 油絵第一作」と記してあります。45年を経て描き始めた絵との違いは何なのか。45年の時の経過は、僕をどのように変化、変質させたのか。僕自身が確かな説明ができません。

「青の時代」の絵は、どの角度から見ても、暗い大きな眼で鋭くこちらを見つめています。
そして、新しい絵は限りなく明るい絵になっていきます。
今、店の一角がアトリエになっています。

あっ!あのときの画材の代金、まだ払っていません・・・。
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by yoyotei | 2009-12-23 16:05 | あれこれ  

昨日、今日

新潟でも12月としては20数年ぶりの大雪だとか。店は定休の日曜日、ダラダラとビールを飲みながら犬の「ナメロウ」と過ごしていると、郷里・島根の同窓生から電話がありました。在郷者だけで忘年会をしているということで、何人かの酔っ払いが電話に出てくれました。
来年10月には広島での同窓会です。

夕方になったら、またも友人からの電話。
「飲んでるんだが出てこないか」、というもの。
その友人とは、彼が県に在職中から、社会的な活動を共にしてきた人です。
ブナの原生林伐採中止の運動をはじめとして、市町村合併に対する問題提起など。
現在は定年退職をした彼と共に、「市民ネットワーク」を立ち上げ、税金の使途の公正、透明化などの諸問題に取り組んでいます。
生活困窮者に対する支援も彼の活動の一環です。

呼ばれて行った先は、彼が対応した相談者のアパートでした。集会の後、相談者の部屋で3人の飲み会になっていたのです。生活状態も含めて知っている人たちです。急遽、鍋物をつくり、鍋ごと雪の中を出かけました。
ひとしきり飲んで、アパートの住人が酔って寝込んだのを機に、カラオケ店へ3人で繰り出しました。歌うのは古い歌ばかり。閉店まで歌い続けて雪の中をそれぞれ歩いて帰宅。

帰宅すると、新潟市に住んでいる次女の娘(孫です)が、一人でDVDを見ていました。母親(娘)が友人と韓国へ行ったのでその間、我が家で預かったのです。妻は自室で寝ていました。
孫とぼそぼそ話しながら、ソファーで寝袋にもぐりこんで就寝。もちろん孫は妻の部屋に送り込みました。
ここのところ寝袋で寝るのが日常化しています。自室には暖房がないので、寒くなるとついつい居間で寝袋の世話になります。

今日も気温が上がらず、吹雪模様の天候です。家の前の除雪をしなければ車の出し入れも困難になってきました。店も客足はさっぱり。孫も来ていることだし早めに店を閉めて帰宅しようかなと思っています。

明日は高齢のご婦人方の予約が入っています。予約の中には「湯の町エレジー」など、懐メロの弾き語りまであります。ああ!
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by yoyotei | 2009-12-21 22:08 | あれこれ  

犬のボトル

久しぶりにカールが店に来てくれました。カールはトイプードルです。
「カールがここに引っ張ってくるのよ」
飼い主さんはそう言うことがよくありました。でも、その夜は飼い主さんの仲間たちと一緒でした。
そこで、僕のエッセー『にんげん曼荼羅』から、カールも登場した「犬のボトル」です。

   にんげん曼荼羅(2006年1月)
                        犬のボトル

店の棚に犬の名前のキープボトルが二本ある。犬がやってきてボトルをキープするはずもないから、もちろん飼い主が愛犬の名前を書いているのだ。一本は「カール」、もう一本は「ロコ」と記されてある。

カールは店に来るようになって二年近くになる。濃いグレーの毛をいつもきれいにカットされ、耳に小さな花飾りをつけた姿は、どう見てもおしゃまでエレガントなパリジェンヌだ。黒曜石のような黒いぬれた瞳で見つめられると思わず抱きしめたくなるが、カールは人間だと30歳近いオス犬である。
カールのご主人はウイスキーをボトルキープしている数少ない女性客の一人だ。カウンターで水割りを飲むご主人の隣にちょこんと座り、チーズやフランスパンをもらって夜の時間を人間たちと共有する。
夜が更けて、人間たちの会話が弾んでくると、カールは椅子の背もたれに顔を預けて目をしょぼつかせる。それでもご主人の「カール、帰ろうか」の声に、シャキッと立ち上がり、小さな尻尾を振る。
体高25センチのカールが、ゆらゆら揺れるご主人を、軽やかな足取りで導いて帰路につく。首輪に取り付けられた小さなライトが点滅しながら闇の中を遠ざかる。
「カールおやすみ。ちゃんと連れて帰るんだよ」
今年の村上大祭で、藍染の法被を着たトイプードルがいたら、それがカールだ。

ロコは飼い主のSさんと夜の散歩の途中、早い時間に何度か立ち寄っていた。盲導犬として、その高い能力や優しい気質が知られているラブラドール・レトリーバーという犬種だが、訓練を受けていない若いロコは少々落ち着きがなかった。それだけにSさんは、いつもドアを細めに開けて「いい?」と私の了解を待って店内に入れた。
Sさんが飲んでいる間、ロコは床に伏せって待つのだが、すぐに立ち上がって散歩の続きを催促する。
「わかった。わかった」
Sさんは落ち着く間もなく、ロコの引き綱に引かれて店を出て行く。

その後、Sさんは商売がいきづまって、突然姿を消した。ロコが一緒だったかどうかはわからない。
あれから3年になる。棚のボトル「ロコ」は、今も飼い主の帰りを待ち続けている。

                                                    
Sさんとロコの消息は今も詳しくわかりません。「ロコ」のボトルはさすがにもうありません。
カールはご主人の趣味である「ウオーキング」にいつも付き合わされています。何十キロでも平気で歩くそうです。
そのご主人は50歳を過ぎてからクラシックギターを始めました。数十万円もするギターを所有しておられます。弾かせてもらったことがありますが、音の良さに愕然としました。なにしろ僕のギターは、質流れ品で数千円のものです。
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by yoyotei | 2009-12-21 20:50  

旅日記

昨年インドへ同行した野歩さんから、その時の旅の日記をいただきました。彼はインドから帰国して3ヶ月後にはネパールへ旅立ちました。
少しもじっとしていない人です。旅日記のタイトルも「まずは出かけよう」です。

野歩さんの旅日記で思い出したことがあり、自室をひっくり返してようやく探し出しました。
「インド旅行記(1993.10.31~1993.11.7)」という手書きで50ページほどの記録です。当時、地方紙の支局長だった人の娘さんから届けられたものです。
書き出しは、いきなり「インドが好きと言うと、必ず何で?という、驚きの声が返ってくる。自分でもどうして好きなのか分からない。何が好きなのか分からない。ただなんとなく魅かれるのだ」と始まります。

彼女はその頃、大学の一年生だったと記憶しています。
「インド熱は高まる一方だったが、(家族から)反対され続け」、ようやく友達と一緒での団体ツアーならと旅立ったのでした。
初めての飛行機、初めての外国がインドというのは、ちょっとした驚きです。
一週間の旅とはいえ、鋭敏な感受性と観察眼。見るものや遭遇することに対しての批判も含んだ感想は新鮮です。
「私は今回の旅行で食べ物を絶対に残さないことにしようと思ってきた。満足に食べられない人がたくさんいるインドへ、金持ちの国日本から旅行へ来て、ご飯を残すなんて傲慢すぎると思ったからだ。戦後の貧しさを体験してきたはずの大人たちが、ここインドで貧しさを目の前にしながらも、辛いとわがままを言って、平気で残すのは悲しすぎる。私がインドの人たちみんなにご飯をたくさん食べさせてあげることはできないけれど、せめて残さず食べることぐらいはしなければいけないと思った」
「(ツアーメンバーの中に)手袋をしているおじさんが一人いて、乞食が触るからだと大声で話していた。けれど、乞食を汚いもの扱いをして、それを大声で言う心のほうが汚い。確かにきれいではないが手袋までするくらいなら(インドへ)来ないでほしい」
土産物を高く売りつけられた彼女は、胸のうちで嘆きます。
「観光客用の値段で売られるのは悔しかったし、インド人と対等に接したかったのに、日本人としか見られていないと思うとさびしかった」

帰国した彼女は、「インドへの憧れはまったく幻滅もせず、逆にパワーアップしてしまった。(中略)人生にはいくつか転機があるというけれど、この旅行は私にとってひとつの転機だとさえ思えた」と、旅を振り返っています。
さらに、「考えるのはインドのことばかり。日本にいれば清潔だし安全なのにどこか物足りないのだ。なぜか、この整った街並みや過ぎ行く人々を見ていると、無性にインドが恋しくなる」と慨嘆しています。
そして、「ああ、インドに帰りたい」と感嘆して、旅行記は終わっています。

あれから16年。
今、彼女がどこでどのような人生を生きているかは分かりません。しかし、それ以後も続いたであろうインド体験が、彼女の人生を重厚なものにしていることは確かでしょう。

日本近代精神史が専門の色川大吉氏は、かつて次のように言っています。
「インドほど今の日本を反省するのによい国は世界にない。競争社会の中で孤独に陥り、疎外感に苦しみ、近代文明に毒され、飽食に浸りきって、喜びも希望も失った虚無的な日本の青年たちに、どうぞインドへ行って、巡礼になったつもりでインドを歩いてきて欲しい」

16年前、彼女がインドへ出発したその日、僕はインドとネパールの国境の村スノウリにいました。次女をともなっての二人旅でした。
ガンジス河畔の宿から国境の村まで一緒だった写真家・稲垣徳文氏が、そのとき撮影した写真が月刊誌『世界』(岩波書店 1995 1月号)に掲載されました。半年後には写真集『大陸浪人』((有)編集室ヴィスリー 1995)も出版。上海から中央アジア、インドやネパールを旅する日本人たちを撮影したものです。
写真集には旅人たちのコメントも掲載されています。いくつか紹介します。

「何か変わるかな。そんな思いで旅に出ました。でもどこに行っても結局は自分次第なんだと思いました。ただ、南インドへ向かう列車で見た、椰子の林から昇る朝日は忘れられません。あの瞬間、旅に出てよかったと思いました」(21歳 男性)

「インドで止まってしまいました。世界一周の予定がヨーロッパにさえも行けなかった。日本へ帰ってアメリカからもう一度スタートしようかと思っています」(25歳 男性)

「美大に落ちて、もうどうなってもいいやという気持ちでインドへ来たんです。でも、来てみると何だかそんなことどうでもいいことだったんだと思えるようになりました」(23歳 女性)

「内戦下でシャッターを切っていた頃、戦場帰りの少年に、将来なにになりたいかと尋ねたことがありました。明日死ぬかもしれないのに、そんなことわからない、それが答えでした。落ち込みましたね。その後、チベットに興味を持ち始めました。非暴力主義を掲げたチベット難民がとても仏教的に思えたのです。それから2年ですか。アフガニスタンの写真はすべて捨てました。もう僕には必要ありません。仏教自体を学びたいと思います」(27歳 男性)

「みんなが言うほど、ひどい国ではないと思います。ヒンディー語で話すと、また違った世界が見えてきます」(19歳 女性)
次のカップルはインドの安宿で出会い、カトマンズ(ネパール)の街で再会した新婚夫婦です。なんと21歳の年齢差。楽しい人たちでした。
「バックミラーのない車をよく見かけます。平気なんですかね。前しか見てないとしたら、前向きでスゴイ(笑)と思います」(43歳 男性  24歳 女性)

最後に、旅人ではありませんが佐々井秀嶺師のコメントも。師はインド内陸部のナーグプルで、不可触民といわれたアウトカーストの人々と仏教復興の運動をしている人です。
「ぼやんと歩いているようでも、旅人は何か見ているのと違うかな。ここに来る者は、何か求めてやって来おる」(60歳)

年齢は16年前のものです。
「旅の日記」から、過去へ引き戻されました。
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by yoyotei | 2009-12-18 23:47 | インド  

酒場の怪談

emiさんようこそ僕のブログへ
おとうさんが亡くなられたのが46歳だったと聞き、あらためて早すぎた旅立ちと、時の経過に深い思いにとらわれました。生きておられたらと思うのは僕の感傷でしょうか。
emiさんの許可をいただいたので、あの「酒場の怪談」をここに再掲します。

*このエッセイは、五年ほど前から当地のミニコミ紙に連載していた『にんげん曼荼羅』の中の一 篇です。
   若干、文章の手直しをしました。


   にんげん曼荼羅(07/7)
 
                     酒場の怪談

 少女はゆっくりと店内を見まわすと、二階席に上がる奥の階段に視点を据えた。
 やがて小さくうなずくように階段を数え始めた。
 「下から九段目のところに男の人が座ってこっちを見てるよ」
 静かに少女は言った。
 鳥肌が立った。
 隣に座っている両親にも、もちろん私にもそんな姿は見えない。
 客は少女と両親の三人だけである。

 少女の祖父は三十数年前の村上では、めずらしく洒落た人だった。
 ブームが到来する前からワインに精通し、ヨーロッパからの輸入食品や洋酒をたしなむ人だった。
 私が店を持ったときには、高価なコニャックを持参して祝ってくれた。
 長身痩躯、穏やかな風貌、正義感を内に秘めた優しい語り口調が魅力だった。
 その彼が心の中に大きな苦悩を抱えていることなど想像すらしなかった。
 まして、若かった私が彼のまともな話し相手になれずはずもなかった。
 突如として、彼は自らこの世を去って行った。妻と二人の娘が残された。
  
 数年が経過して彼の長女は私の店の常連になった。
 長女との会話には、彼女の父が登場することが多かった。父への思慕の深さが感じられた。
 長女は結婚して一人の娘の母になっていた。
 娘は切れ長な目をした色白の少女に成長して、ときおり両親と一緒に来店するようになった。
 少女の母も、そうして亡くなった父親と私の店に来ていたのだった。 
 店の小さなアイドルになっていた頃、少女は奇妙な行動を見せるようになった。
 両親と並んで歩いていると、突然ひょいと身体をひねって何かを避けようとする。
 前から人が歩いてきてぶつかりそうだったから、というのである。
 両親にはなにも見えない。

 冒頭の話は、「この店にはだれかいる?」と、その頃の少女に聞いたときのことだ。
 鳥肌がおさまって、私は口を開いた。
 「その男ってどんな人?」
 声は少し震えていたかもしれない。
 少女はふたたび階段を見つめた。そして、言った。
 「だいじょうぶ、怖い人じゃあないよ。いい人だよ」

 子どもは、大人には見えないものや感じないことを鋭敏に察知するという。
 少女時代には特にありがちだとも聞く。
 私は、少女が見た人は彼女の祖父だったのではないかと思う。
 祖父は店の階段から、娘とその夫、可憐に育っている孫娘を見つめていたのだ。 
 穏やかに笑みを浮かべた表情が、少女に「いい人だよ」と言わせたのだ。
 
 生前の祖父を知らない少女。
 彼女がもう少し細かく観察していたら、その「いい人」はブランデーグラスを掌で温めていたはずで
 ある。
 

*このエッセイの中の少女はsayakaさん。その母がemiさんです。
  現在、村上市内で「石亀」というお店を親子で営業されています。
  「いい人」の夢を、娘と孫娘が実現させたのです。
  不況の中の師走、がんばろうね!
 
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by yoyotei | 2009-12-09 19:19 |  

イモトアヤコ眉

世間には珍しい名前はたくさんあるようですね。ずいぶん前にもらった名刺に「月出」という苗字が記されていました。飲み屋だからといって「つきだし」ではありません。「ひたち」と読むのだそうです。月の満ち欠けによって日にちの経過を数えた陰暦時代の命名なのでしょうか。たしか伊豆地方の方だったと記憶しています。


当地の隣村に「中束(なかまるけ)」という地名があります。由来はわかりませんが、その地には同じ字を書いて「中束(なかつか)」という苗字が何軒かあるようです。近辺では「束(たばねる)」ことを「まるける」といいます。「中束の中束」さんは、「なかまるけのなかつか」さんということになります。

しんちゃん 土曜日はありがとう。ひさしぶりに忙しい夜でしたね。
ブログの背景(スキンというそうですね)は、よしまさ君が変えてくれました。とても気に入っています。
ご期待に沿うよう、格調高いブログを目指します(笑)おたがいに高級志向の爽やか路線でいきましょう(大笑)

先々週でしたか、お客さんからの予約を忘れていました。その予約は「トムヤムクン(タイ風海老入りスープ)」を用意してほしい」というものでした。同日、別の予約もあったせいか、すっかり忘れていました。
4人で来店されてから、「え?そんな予約いただいてましたか」「もうマスター。電話したのに」という会話がありました。気心の知れた方たちでしたのでかんべんしてもらいましたが、その方はどうしても「トムヤムクン」が食べたかったのだそうです。
その方(女性)は、なんとあの「イモトアヤコの眉」をしていました。最近はパーティグッズであるんでしょうかね。
その眉(一次会の余興だったのでしょう)のままでクシーに乗って来て、僕の店でも最後までその眉でした。
特にひょうきんな感じの方ではないだけに、ことさらにこっけいでした。
予約はカレンダーの欄外に、まるでイモト眉のように、太く黒々と書いてありました。
予約を受けたとき、僕が相当に酔っていたのでした。それと見なければ「トムヤムクン」と」は読めない文字でした。
なかなか格式のある高級な店とはなりません。
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by yoyotei | 2009-12-07 22:11 | あれこれ  

杏さん

ある会社の窓口で、「杏」さんという方が応対してくれました。名札にはふりがなが付けられていましたが、なんと読むのかは最後に明かします。あまりにも珍しい姓なので思わず話しかけました。長野県の出身だそうですが、近くに同姓はないということでした。

帰宅して『難読姓氏辞典』に当たってみました。「杏」の姓はありましたが、「キョウ」と読むのだそうです。でも窓口の方は「キョウ」ではありません。

「杏」の字には長い間、ちょっとしたわだかまりがありました。
中国料理でrデザートに出される「杏仁豆腐」。スーパーの冷菓のコーナーに、それを見つけたとき、僕は自然に「キョウニン豆腐」だと思っていました。ところが、日常的に食べていたらしい娘たちは、「アンニン豆腐」と称していたのです。異議を唱えるほどではないものの気にはなっていたのです。

現在も健在かどうか知りませんが、江波杏子という女優がいました。彼女は「キョウコ」であって、「アンコ」ではありません。森鴎外にはたしか「杏奴(アンヌ)」という娘がいました。

『広辞苑』(昭和42年版)を引いてみました。
きょうにん[杏仁]杏子(あんず)の実の核中の肉。薬用にする。関連語として「杏仁水(きょうにんすい)」「杏仁油(きょうにんゆ)」があります。

つぎに「アンニン」です。
あんにん[杏仁](「杏(あん)は唐音)杏子(あんず)の実の核中の肉。薬用にする。きょうにん。

なんと、同じではありませんか。「アン」と読むのは唐音だったのです。簡便な「漢和辞典」によれば漢音では「コウ」、「キョウ」と読むのは呉音です。
さらに意味を探ると「あんず。からもも。イバラ科の果樹」とあります。
「からもも」、なるほど「唐桃」か。

そうです。「杏」さんは「からもも」さんだったのです。
なんとも珍しいお名前でした。

ところで、前回の店名の由来「夭夭亭」です。
詩経「桃夭」の「夭」は「若く美しいさま」という意味ですが、台湾の若い女性から「この字よくない」と言われたことがあります。たしかにこの字は「夭折」「夭逝」など、熟語からの変換でないと出てきません。どちらも「若死に」という意味です。
まあしかし、「夭」を音符とする字には「妖」「笑」「沃」などの字もあります。居酒屋にふさわしい「呑む」という字もあるのです。(もっとも本来「呑」の正字は「天」の下に口で、「夭」に口は誤字だそうです。今は「呑」が使われていますが)

いずれにしましても、「若くて美しい」のは僕ではありませんし、「妖しい」のも僕ではありません。
ましてや酒の「呑み」過ぎで、いまあの世に旅立ったとしても、62歳の僕を「夭逝」だとか「夭折」などという人はいないでしょう。
「笑って」送ってくれること、まちがいありません。

「からもも(唐桃)」さんと「桃夭」。桃つながりでした。
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by yoyotei | 2009-12-01 01:19 | あれこれ