<   2010年 01月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 

15年の眠り

 昨年11月、一人の女性がひっそりと息を引き取った。享年46歳。15年間も意識のない植物状態で眠り続けた果ての静かな、しかし痛ましい死であった。

 時代が昭和から平成に変わったころ、オートバイで旅をすることの好きな青年と、美容師の女性が連れ立って店に来るようになった。磊落な青年と上品なかわいらしさを持った彼女は、私の店での短いデートを重ねて結婚した。青年にとっては「おまえにはもったいない」と、友人たちにうらやましがられる結婚だった。

 やがて彼女は妊娠した。出産を迎えるころ、彼は仕事で茨城にいた。陣痛が始まって入院した時には、彼女の母と姉が付き添った。陣痛は次第に激しくなったが、なかなか出産にはいたらない。長時間痛みに耐え続ける彼女に、普通ではないことを感じた母と姉は担当医に帝王切開を懇願した。しかし、それは聞き入れられず、最終的に吸引で胎児が取り出されたときには、入院から38時間が経過していた。

 子どもの誕生という嬉しい報告を待っていた彼に、一転して妻の危機的状況が伝えられた。急いで帰郷した彼が目にしたもの、それはあまりにも悲惨な現実だった。
 羊水が血管に流入することによって、母子ともに脳の全面的な機能停止を引き起こしていたのだった。
 生まれた子どもは男児だった。しかし、わずか50日を生きただけで天に召された。母の腕に抱かれたことはあったのか。母はわが子に乳首を含ませたことがあったのか。
 その母は、わが子の誕生も死も知ることなく、以来15年もの間、眠り続けたのだった。
 この出産時の不幸は裁判となり、10年を経て病院側の過失が確定した。

 青年は、今でも時おり店に顔を見せては、北海道バイクツーリングの話などをしてくれる。だが、彼ももはや青年ではない。彼女の親たちからの求めに応じて、離婚手続きは早くに終わっているが、いまだに独身だ。

 昨年の暮れ、久しぶりに店に来た彼から、彼女の死を知らされた。彼の携帯電話には、新婚旅行先で映した写真が今も保存されてある。寄り添う笑顔の二人に、待ち受けていた不幸などだれが想像しただろう。

 彼には今、ひとつの望みがあるという。自分の家の墓に眠る小さな子どもの遺骨と、その母の遺骨を一緒に埋葬してやりたいのだ。
 天に昇った母と子が抱き合い、手を取り合う姿を、彼は無念さと怒り、癒えない悲しみの先に思い描いている。           『にんげん曼荼羅』(2008年1月)


 今朝のNHKニュースで、植物状態になった女性が成人式に出席したことを取り上げていました。指先でわずかに気持ちを伝えられるようです。「がんばれ、がんばれ」と、心の中でエールを送りながら涙が流れました。
 
 「15年の眠り」の彼は、最近ゴルフに熱中しているそうです。先日店に来た彼の友人が話してくれました。 
 裁判で係争中のころ、彼も担当医も僕の店に来ていました。顔を合わせることはありませんでしたが・・・。  担当医は、僕にオリーブ油のおいしさを教えてくれた人でした。
 小さい街の小さな飲み屋にも、かけがえのない重い人生の断片が見え隠れします。 
[PR]

by yoyotei | 2010-01-26 08:45  

 出会いは新潟から東京へ向かう特急「佐渡」の車内だった。
 向かい合った座席に偶然、彼女と彼は座った。彼女は友人と佐渡への旅行の帰り、彼は村上へ帰郷して東京へUターンするところだった。新幹線はまだ開通していない。昭和四十九年の夏だった。
 長い時間、向かい合って座った若者たちに会話が生まれない方が、むしろ不自然だっただろう。
 東京生まれ東京育ちの彼女と、村上生まれ村上育ちの彼。列車を降りてからの二人は、それからは偶然ではない出会いを重ねた。やがて二人は共通の切符で同じ列車に乗る旅に出発した。

 結婚十二年目にして待望の子どもに恵まれた。だが、喜びもつかの間、娘の誕生から四ヵ月後、父となった彼をベーチェット病が襲った。難病との闘いは四年近く続いたが、苦闘の末ついに力尽きた彼は天に昇った。四十歳の若さだった。

 彼女・幸子さんが、夫の幼馴染の女性と私の店に顔を見せたのは、病と闘っている夫に代わって、娘とともに夫の両親の元へ里帰りをした夏だった。やがて夏だけではなく、冬の二月にも村上に来るようになった。それは夫の命日の墓参だった。

 この夏の終わりにも、幸子さんが店に顔を見せてくれた。村上で一人暮らしをしている八十三歳になる夫の父の健康状態が、ここのところおもわしくないらしい。連れ合いだった義母は七年前に他界した。
 幸子さんは娘を伴っていた。娘・理恵さんは二十歳になっていた。
「理恵、村上で就職したら?」
 就職浪人中だという娘に、幸子さんは本気とも冗談ともつかない口調で言った。理恵さんはまともに取り合わなかったが、そこには幸子さんと村上を結んでいるものの重さがあるように思われた。

 はじめて夫の実家を訪ねたときのエピソードを幸子さんが話してくれた。
 都会育ちで朝食にはトーストを食べると息子から聞いた両親は、幸子さんのために焼き網で焼いたパンを出してくれたというものだった。トースターがそれほど普及していない時代である。地方で暮らす両親の心遣い。戸惑いながらもそれを受け止める幸子さん。小さな心遣いの温かさが時間をさかのぼって感じられる。

 夫との出会いから生まれた心遣いのやり取りと積み重ね。一人息子を失った老いた親と、夫を父を失った母と娘。それぞれへのいたわりが、それぞれをつなぐ「絆」になっている。それはまた幸子さんと村上をつなぐ絆でもある。

 今年は夫の十七回忌になるという。義父の健康を気遣いながらの、幸子さんの村上への「里帰り」と墓参は続いている。「絆」を乗せた列車は走り続けているのだ。
 同乗者に理恵さんもいる。


1月17日は阪神・淡路大震災から15年目でした。
不幸な出来事から生まれた助け合いやいたわりあい。絶望からの再生。TVで放映される追悼イベントの中にに「絆」という字句がありました。

映画『砂の器』(監督・野村芳太郎/脚本・橋本忍/原作・松本清張)のなかで、殺されることになる三木巡査が、出自を隠して社会的名声を獲得した主人公に言う言葉があります。
「ヒデオ、あれだけの思いをして生きてきた父子だねえか」
観た人も多いと思います。映画の中の交響曲『宿命』(作曲・芥川也寸志)もストーリーと交錯して感動的です。断ち切りたくても断てない「絆」、そして宿命。やりきれない映画です。

「人生の並木道」の2番の歌詞。
「遠い寂しい日暮れの道で 泣いて叱った兄さんの 涙の声を忘れたか」
これを歌うとき涙ぐみそうになります。

暗い越後の冬、少しセンチになりました。
来月2月、幸子さん店に寄ってくれるかなあ。
[PR]

by yoyotei | 2010-01-22 12:50  

スリの手口

 ベトナムでスリの被害に遭った。
 その日、ホーチミン市の繁華街にある市場で買い物をした。どの国でも市場は土地の人々の生活文化を陳列した博物館の趣があって好きだ。市場といってもここは大きな建物の中にある。建物は、かつて宗主国だったフランス風の外観をしている。だが、中に入ると活気に満ちた喧騒と、東南アジア特有の色彩にあふれていた。市場を出たときには、ベトナム料理の食材や、ホテルで食べようと買った果物などで両手がふさがっていた。市場の周辺にはさまざまな商店が軒を並べ、行き交う人々の中には外国人旅行者も少なくない。
 通りを渡ろうと足を止めたとき、十歳前後の少年三人が立ちふさがった。彼らは絵葉書を挟んだファイルを両側から目の前に突きつけて、なにやら語りかけてきた。言葉は分からないが絵葉書を買ってくれと言っていることはすぐに理解できた。「いらない、いらない」と首を振って拒むと、彼らは意外なほどあっさりと立ち去った。その間十数秒。それだけのことだった。
 ホテルの部屋に帰り、腰に巻いていたウエストバッグをはずした。バッグのファスナーが開いていた。自分が閉め忘れたのだと思った。
 翌日、帰国した。自宅で荷物を解き、現像に出そうと撮り終わっていた使い捨てカメラを探したが、どこにもなかった。記憶をたどって絵葉書売りの少年たちに行き着いた。呆然として、その後すぐに感心した。鮮やかなものだ。絵葉書のファイルでウエストバッグへの私の視線をさえぎり、ファスナーを開いたのだった。バッグの中にはカメラのほかに手探りでは財布とも感じられる安物の小物入れも入れていたが、それもなくなっていた。どちらにしても少年たちの稼ぎになるようなものではない。してやったりと得意になって引き上げた後、「なんだ、こんな物」と落胆した彼らの表情を想像した。

 インドではビデオカメラと、使い捨てではない本物のカメラを盗まれたことがある。こちらも手口は鮮やかだったが、感心するどころか猛烈に腹が立った。
 顛末はこうである。
 ムンバイから南のゴアに向かう夜行バスに乗った。予約しておいた座席になぜか一人の若いインド人が座っていた。予約券を見せて席を立つよう要求したが言葉が通じないのかどうなのか、容易に応じない。数人の客が座席番号と私の予約券を見比べて男をうながし、ようやく男が席を立った。私はショルダーバッグとリュックを座席におろし、周囲に安堵の笑顔を向けた。
 バスが走り出して数分後、ショルダーバッグが消えていることに気づいた。私は前後を忘れて大声を上げ、バス中を探した。乗客の足元や座席の下までかがみこんで探し回った。何人かの乗客もいっしょになって探してくれたがどこにもなかった。
 ショルダーバッグは、あの若いインド人とともにバスを降りて行ったか、バスの窓から仲間の手に渡されたのだろう。バッグにはカメラとビデオカメラ、旅の日記が入っていた。
 インドの闇を突っ走る夜行バスの中で、まどろむたびにショルダーバッグが現れては消えた。

 この次、ベトナムへ行くときには、ウエストバッグの中の物に長めの紐でも付けてみようかと思う。「おい、おい」と紐をたぐり寄せて、あっけにとられる少年の顔を見てやりたい。そして、ニヤッと笑って頭でも撫でてやろうかとも・・・。


 双子姉妹の一人ユミさんが、日曜日に一人でインドへ旅立ちました。
 出発前、店に顔を見せてくれました。さまざまなトラブルが待ち受けているインド。適切なアドバイスはできませんでしたが、「自分のことは自分でする。近づいて来るインド人を頼らない」「できるだけ単独行動はしない」
など、基本的なことを伝授しました。
 今頃は西部ラジャスターンで、駱駝に乗っているかもしれません。
 元気で大きなトラブルもなく、無事な帰国を祈っています。旅の話を肴にまた飲みましょう。

「スリの手口は」僕の体験したことです。
 何年か前に、列車の中で盗難にあった日本人バックパッカーが、犯人を追いかけて走る列車から飛び降りた話がありました。それも若い女性です。幸い怪我はなかったそうですが・・・。

 昨日は暖かかったのに、今日は朝から雨。午後からは雪に変わりもくもくと降り続けています。
 砂漠で駱駝、インドにいるユミさんがうらやましくなります。
[PR]

by yoyotei | 2010-01-21 14:22  

野垂れて死ぬ

「私の思春期は母の厳しい締めつけに、怒りと悲しみで粉々になりそうだった。登校拒否、家庭内暴力、神経症、学校に行けば問題児、社会に出れば変人と言われた。(中略)母を殺すか、私が死ぬか、どちらかしかないと思いつめた中学生だった私の重い十字架はいったい何だったのか」
      (『写真家はインドをめざす』日比野宏ほか共著 青弓社 1997)

 著書に、そうのように書いた写真家・栗脇直子は、「サドゥ」を撮ることを決めてインドへ旅立った。
「何故、サドゥは家を捨て、家族との絆を断ち切って修行僧の道に進んだのか」
 自己と他者との相克にのたうちまわった、思春期以来の自己解放へのカギとなるかもしれないとの期待が、栗脇にはあった。

 サドゥとは、インドにおいて出家した乞食遊行(こつじきゆぎょう)の修行者をいう。ぼろを身にまとい、乞食のための鉢を持ち、時として杖を携える。髪や髭は伸ばし放題で、灰や泥を身体に塗るといったイメージだ。もともとサドゥーという言葉は、<正しい><善い>、あるいは<正しい人><善い人>を意味した。ブッダが弟子の見解をほめるときの感嘆詞として用いており、しばしば「善哉」と漢訳されている。
 中世になって、さまざまな宗教者を意味するようになり、現代では、前記のイメージの修行者、苦行者、ヨーガ行者などを包括的に指す言葉になっている。インドの人々は、サドゥに敬意をこめて、「ババ」あるいは「ババ・ジー」と呼ぶ。

 栗原は、ガンジス河源流域の聖地でサドゥたちと出会い、共に旅を続けてきた一人のサドゥの死に遭遇する。
 そのサドゥは、栗原のちょっとした思い違いから、ヒマラヤ山麓の厳しい寒さの中で孤独な野垂れ死にをしたのだった。警察の取調べを受け、罪を問われたわけではなかったが、死の原因が自分にもあったとされて、衝撃と混乱に泣き崩れた。
 そんな栗脇に、他のサドゥや村人が言った。
「泣いてはいけない。死は悲しむことではない。彼は人生のゴールに辿り着いたのだ。サドゥにとって聖地で死ぬことほど幸福なことはない。悲しんで彼の死を冒涜してはいけない」

 3年前、私の店を訪れた栗脇と酒を酌み交わした。
「私には野垂れ死にしたいという願望があったのね。でも、まさしくその死に出会って思ったのは、野垂れ死ぬことに意味があるんじゃあなくて、野たれて死ぬ覚悟を持ってシンプルに生きることに意味があるってことだったんです」
 そう語った栗脇は、サドゥたちと再会するために、12年に一度アラハバード開催される、ガンジス河最大の祭クンブメーラーに行く予定をうちあけた。
 クンブメーラーは約一ヶ月間おこなわれる。その間に沐浴すると最大の功徳があり、魂が救済されるというので、インド全土から2千万人以上もの巡礼者と数十万人のサドゥたちが集まるという。
 初めてのインド行きに際して栗原は、「半年たって音沙汰もなかったら、探し出してひっぱたいても何してもかまわないから、私を日本に連れ戻してほしい」と、本気で友人に頼んで出発したという。
そして、2001年のクンブメーラーに行くといったきり音沙汰がない。野垂れ死に?それもいいか・・・。

*これは10年も前のことです。栗脇直子さんは2001年2月から開催されたクンブメーラーへ行ったはずです。おそらく今は日本で元気に生きていると思います。
 
[PR]

by yoyotei | 2010-01-14 09:00 | インド  

酒賛歌

 一年に一度だけ毛筆を執ります。店のドアに貼り付ける新年のあいさつです。もとより書を習ったこともなければ、悪筆は自認しています。にもかかわらず数年来、唯一の僕の新年行事になっています。
 今年は元旦早々、筆に墨を含ませました。「頌春」と大書し、晩唐の詩人李商隠から一節を添えました。

   縦使花兼有月 可堪無酒又無人 というよく知られた詩です。
  「縦使(たと)え花有り兼ねて月有らしむるも 堪う可けんや 酒無く又人無きに」

 一週間ほど掲げていましたが、来店の客に目をとめてもらえたかどうか・・・。
「(田舎では、春、様々な花が咲き、夜の月もひときわ澄明で美しい)しかしながら、たとい花があり月が輝いても、共に酒を飲みつつ鑑賞する友がいてこそ、心もほぐれはするが、その酒もなく友も居らず、どうして春の風情に堪えようか」  (注釈・高橋和巳『中国詩人選集15』岩波書店)

 繊細で、ときに退廃的な色彩が濃いとされる李商隠です。この詩には、母の喪によって故郷に帰り、蟄居していたという背景があります。寂寥感が漂いますが、酒場の主人としては、「花より団子」的解釈で、「酒があっていっしょに飲む相手や仲間がいれば最高!」と、きわめて享楽的に新年のあいさつとして使いました。

 酒や飲酒を賛美する詩は古今東西、数多くあるようです。
 なかでも、十一世紀ペルシャの詩人オマル・ハイヤームの『ルバイヤート(四行詩)』は、僕のような商売にはうってつけの飲酒賛歌です。

  墓の中から酒の香が立ちのぼるほど、
  そして墓場へやって来る酒のみがあっても
  その香に酔い痴れて倒れるほど、
  ああ、そんなにも酒を飲みたいもの!

 詩人としてのみならず、哲学、数学、天文学など、多方面にその才能を発揮したハイヤームは、そもそも異民族であったアラビア人の宗教であるイスラム教に対して強い反感を持っていました。唯物論、無神論を根底にした哲学者であった彼は、イスラム教の禁酒に対しても強烈に反抗し酒を讃えたのでした。

  魂よ、謎を解くことはお前には出来ない。
  さかしい知者の立場になることは出来ない。
  せめては酒と盃でこの世に楽土をひらこう。
  あの世でお前が楽土に行けるとはきまっていない。

  酒を飲め、土の下には友もなく、また連れもない、
  眠るばかりで、そこに一滴の酒もない
  気をつけて、気をつけて、この秘密 人には言うな・・・
   チューリップひとたび萎(しぼ)めば開かない。

 人間存在への懐疑、そして厭世的ですが、酒が重要な楽観的アイテムとなっています。
 つぎは僕の好きな二つの詩です。

  われは酒店に一人の翁(おきな)を見た。
  先客の噂をたずねたら彼は言った・・・
   酒を飲め、みんな行ったきりで、
   一人として帰っては来なかった

  恋するものと酒飲みは地獄に行くと言う、
  根も葉もない戯言(たわごと)にしかすぎぬ。
  恋する者や酒飲みが地獄に落ちたら、
  天国は人影もなくさびれよう!

*『ルバイヤート』(オマル・ハイヤーム 小川亮作・訳 岩波文庫 1986)
 「ルバイヤート」は英訳本(イギリス詩人フィッツジェラルド)からの重訳で、明治41年に蒲原有明が日本に紹介したのが最初だそうです。原典(ペルシャ語)からの日本語訳はこの小川亮作が最初とされています。彼は新潟県の村上市周辺の出身だということが近年判明しました。
 昭和22年8月20日に脱稿されています。僕が生まれる9日前でした。関係ありませんね(笑)
[PR]

by yoyotei | 2010-01-12 13:35 |  

出会いさまざま

昨年11月に結婚されて、僕の店で友人や職場の仲間たちによるお祝いのパーティをしてくださったHiroyuki&Ikumiさんカップル。お2人で迎えた初めての正月はいかがでしたか?

Hiroyukiさんは以前、おじさんから見合いをすすめられたことがあったそうです。でも、まだ結婚する気のなかった彼は、相手に会うこともなく見合い話を断りました。それから10年程が経ちました。いつまでも結婚しない彼におじさんはまたもや見合いをすすめました。さすがにHiroyukiさんは素直に応じました。相手はもちろんIkumiさんでした。2人は迷うことなく結婚へのスタートをきりました。
それだけなら、よくある見合い結婚です。しかし、2人の場合はちょっと違っていました。
実は、10年前におじさんがすすめた見合いの相手もIkumiさんだったのです。おじさんは、よほどIkumiさんのことが気に入っていたのでしょう。
それにしても、この10年の間にIkumiさんが結婚していたらどうなっていたのでしょうか。
なにやら、2人は結婚するように運命づけられていたのではないかと思ってしまいました。

人と人の出会いはさまざまです。そして、不思議な因縁のようなものをも感じさせます。
Ikumiさんが結婚パーティに僕の店を選んでくださったのは、1昨年彼女の友人が同じように結婚パーティを僕の店で開いてくださり、その出席者の中にIkumiさんもいたということからのようです。
Ikumiさんの友人のパーティがあった後、出会いの不思議さにエッセイを書きました。またもや、『にんげん曼荼羅』からです。

『にんげん曼荼羅』(2008年7月)
                      出会い


6月末、あるカップルが新しい人生に向かってスタートした。
ホテルでの披露宴の後、友人や職場の仲間たちが私の店に集まってお祝いのパーティが開かれた。祝福の歓声の中で瞳を輝かせる2人を見ていて、人と人の出会いの不思議さに深い感慨をおぼえた。

あの日、4年前の1月2日、彼と彼女のそれぞれの仲間たちが酒場に繰り出さなかったら・・・。どちらかのグループが別の店に行っていたら・・・。2階席にいた彼のグループの一人が、1階席にいた彼女のグループの中の知り合いに、「一緒に飲みませんか」と声をかけなかったら・・・。
おそらく、2人の結婚はなかった。

忘れられない出会いが私の店であった。
それは店にかかってきた一本の電話から始まった。
「マスター、明日の新潟アルビのチケットが2枚あるんだけど、だれか行く人いないかしら。私行けなくなっちゃって」
電話は10数年来の常連Kさんだった。
「だれかに当たってみようか」
そう言って電話を切ったが、いきなり仕事を休んでサッカーの観戦に出かけるような人物は思い浮かばない。

やがてカウンターに農業の研修をしている2人の男性が座った。しばらくすると若い女性二人が空いていた彼らの隣に腰をかけた。女性たちは初めての来店で、もちろん農業青年たちとは面識もない。寡黙な彼らと、軽い緊張を見せている彼女たちとの間に会話が生まれる様子はなかった。

突然、店のドアが開いて、kさんが飛び込んできた。
「チケット持ってきたからだれかにあげて。無駄になってもしかたがないわ。車で来たから今日は飲めない」
Kさんは言い置くとサッと帰って行った。
私は客たちにチケットをかざした。
「だれか行かないか?」
だが、客たちはだれ一人として興味すら示さなかった。私は隣り合っている男性と女性にターゲットを絞った。
「君たち、2人で行ったらどうだ?仕事は休めないか」 
男性がようやく重い口を開いた。
「僕行ってもいいですが・・・」

あれから5年も過ぎただろうか。その男性と隣にいた女性は、翌日サッカーの観戦に出かけた。そして2人は今、2人の子どもの父と母である。

サッカーのチケットがキューピッドになって誕生したカップルの顔をKさんは知らない。
Kさんが出会いに恵まれずに、いまだに独身なのも皮肉なことである。


Kさんは昨年暮れ、10数年来恒例になっている忘年会に来てくれました。今年こそいい出会いがありますように・・・。

 
[PR]

by yoyotei | 2010-01-11 00:09