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形見のトランク

23年前のことです。
 行きつけの喫茶店の2階で絵の個展が開かれていました。覗いてみると、会場には油絵、水彩など数10点が並べてありましたが、人影はなく、口ひげをたくわえた男性が所在なげに座っていました。彼が絵を描いた本人だということはすぐにわかりました。
 絵はスペインをテーマにしたものが多く、フラメンコダンサーを描いたものが目に付きました。手馴れたタッチは画歴の長さをうかがわせるものでした。絵には価格が表示してありましたが、衝動的に買えるような金額ではありません。しかし、一枚の絵とその価格に、これならと思えるものがありました。荒いタッチの画紙に、迷いのない筆使いで描かれたフラメンコダンサーの水彩画でした。
「今、全額の所持金はありませんが、明日の支払いでもかまいませんか?」
 僕は、ヒゲの男性に声をかけました。
「もちろんかまいません。市内の方ですか?」
「ええ」と答えて手付金を払い、出された紙に住所と名前を書き入れました。
「いかがですか?」
 彼は長机の下からワインとグラスを取り出しました。ワインは半分ほど空いていて、それは彼が客待ちをしながら飲んでいるようでした。部屋の隅から彼が持ってきた椅子に腰を下ろしてワインをいただくことになりました。たちまちワインは空になりました。
 彼は「1分だけ留守番を・・・」と言い残すと、階下の隣にある酒屋から新しくワインを買ってきました。
 彼はこの町に大学時代の同期生がいること、その縁で個展を開いたこと、長くスペインに滞在していたことなどを語りました。同期生というのは僕も知っている中学校の音楽教師でした。昼間から飲むワインは話を盛り上げました。
 その夜、彼は僕の店に来てくれました。一人の女性が彼に寄り添っていました。
 助手をしてもらっていると紹介されましたが、それ以上に親密な関係であることがうかがい知れました。目鼻立ちのはっきりとした女性の顔は、僕が買ったフラメンコダンサーの顔に酷似していたのです。

 数ヵ月後、画家の同期生である音楽教師が、ある話を持ってきました。
 近日、キューバのバンドがソ連経由で新潟に入港する、バンドは日本とキューバの友好団体の招きによるものだが、日本国内での演奏ツアーの初日をこの町で開催したい、協力してもらえないかというものでした。そして、この話はあの画家からの依頼だということでした。

 「ロス・ノベルス・キューバ」の演奏会は、市内小学校の体育館でおこなわれました。キューバのバンドというめずらしさもあって演奏会は成功裏に終わりました。打ち上げは僕の店で、バンドのメンバーが持参したキューバ産のラム「ハバナクラブ」と、ミニ演奏会で盛り上がりました。画家と助手の女性も一緒でした。

 時はそれから5年も流れたでしょうか。ある冬の夜、一人の女性が僕の店を訪れました。画家と一緒にいたあの助手でした。
 女性は店の壁にかけてあるフラメンコダンサーの絵を凝視していました。そして、ぽつりと言いました。
「彼、亡くなったんです・・・」

 翌朝、僕は所用で電車に乗りました。驚いたことに昨夜の女性も同じ電車に乗り合わせました。ごく自然に向かい合わせに座って、彼女の話を聞くことになりました。
 画家には妻もいたが、不仲で別居状態が長く続いていたこと。癌を患った彼を、臨終まで世話をしたのは自分だったこと。そして、今は彼が描いた絵を観て回る旅を続けていることなどを、問わず語りに話しました。
「私は彼の絵を一枚も持っていないんです」
 彼女の話は、画家の死後の始末にからんで、不仲であっても正式な離婚をしていなかった妻よりも、自分の立場の弱さを打ちあけるものでした。
 彼女の足元には、ライトブラウンのトランクがありました。使い古されたトランクは、女性が持ち歩くには不似合いな無骨なものでした。それは画家が若い頃、スペインで手に入れて、死ぬまで愛用していたものだと彼女は話しました。
「結局、彼が私に残してくれたのはこのトランクだけなんです」
 その言葉を最後に聞いて、僕は目的地の駅で電車を降りました。彼女は数点の絵が残っているという、画家の生まれ故郷の町まで電車に乗り続けるということでした。

 フラメンコダンサーの絵は、今も僕の店の壁で、眉間にしわを寄せて鋭いまなざしを向けています。


 
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by yoyotei | 2010-04-24 12:24  

生き先案内人

 高校教師と僧侶の二足のわらじだった人が高校を退職して、社会福祉法人が運営する「新潟いのちの電話」のボランティアをはじめました。
「新潟いのちの電話」は、不安や孤独に悩んでいる人に365日、24時間体制で電話相談に応じるというもので、特に自殺防止を目的にしているようです。170人の相談員が年間約23,000件もの相談を受け付けているそうです。
 昨年、全国の自殺者は交通事故死の4倍以上の32,155人、自殺未遂はその20倍もあるといわれています。しかもOECD加盟国中、日本はロシアについで2番目に自殺死亡率が高く、アメリカの2倍、イギリスの3倍です。
 その僧侶は1年間の研修を始めたばかりですが、「今、薬を飲んだ」「首をつる縄を用意した」「ビルの屋上にいる」など、瀬戸際の相談もあるらしいと深刻な表情を見せていました。
 
 新年になると、ある曹洞宗のお寺から通信が届きます。その僧侶はたまたま僕の故郷の隣県の出身ということで、ひところ時々店に来ていました。活動的な僧侶で、お寺を会場に「まなび塾」を主宰して講演会などを開催しています。毎年の通信にはそうした活動の報告などが掲載されています。一男一女の二人のお子さんも僧侶になるべく修行をしているという、仏道一筋の一家でもあります。
 先日、その「まなび塾」から特別講演会の案内がありました。講師が「新潟いのちの電話」
の理事長とあります。演題は「良寛に学ぶ」です。
 良寛の父は60歳で自殺していると、かつて理事長が自殺を考えるフォーラムで述べていました。良寛の辞世の句は「散る桜 残る桜も 散る桜」といわれています。太平洋戦争では神風特攻隊が、その句に自分たちの心情をなぞらえましたが、「いずれ死ぬものを何故に死に急ぐか」と解釈することもできます。
 しかし、自殺を考える人に対して、叱りつけたり、アドバイスをしたり、激励したり、むやみに批判するのは厳禁だそうです。まして、良寛の句を引いて「どうせいつかは死ぬんだから・・・」などはもってのほかでしょう。相談者の話を「聴いて,聴いて、聴いて」が鉄則だと二足のわらじを一足にした僧侶が言っていました。
 葬式仏教などと揶揄されて、死んでからのあの世への導きだけを儀式的におこなうかのように感じる現代仏教ですが、そうした「死に先案内人」ではなく、自殺を思いとどまらせる「生き先案内人」として、絶望の淵にいる人たちに寄り添う僧侶もいるのですね。

 自殺防止に取り組んでいる講師の話を聴いてみたいと思います。
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by yoyotei | 2010-04-21 19:52  

プールサイドのカフカ

 村上春樹の「1Q84」BOOK3が発売されたということで話題になっているようです。長く続く出版不況のなかで、早朝から列をなして書店に並ぶ人たちの姿をテレビが報道していました。ある種の社会現象になっているようですが、村上春樹の何が彼らを惹きつけているのでしょうか。
 彼の小説を、僕は「1Q84]どころか、「ノルウエイの森」しか読んでいませんので、書評のようなものはいえるわけもありません。「ノルウエイの森」で感じたことは、登場人物に対する著者のやさしいまなざしでした。デリケートで傷つきやすい人たち。そんな自分を支えるものを探すかのような、人との出会いや、そこで織り紡がれる関係。登場人物を読者の多くが、等身大の自分に重ねるのかなと思ったものです。
 
 村上春樹には「海辺のカフカ」という小説がありますが、これも読んではいません。でも、僕には「プールサイドのカフカ」とでもいうような、ちょっとした場面が遠い過去にありました。それは、僕が若い頃の一時期、箱根のあるホテルで働いていた時のことです。
 黒い上下の服に蝶ネクタイをして、食事や飲み物を客に運ぶのが当時の僕の仕事でした。服装はそうであっても、洗練さとは対極にあるような、地方出身者特有の垢抜けない、朴訥な、それが仕事であっても、笑顔すらつくろうこともできない僕でした。上司はそんな僕に「君は、君の行為をお客が喜んでくれることを、君自身の喜びとすることができないか?」と諭しました。わかるようでわからない。むしろわかりたくない。「世間という海を上手に泳ぎ切るというような生き方を、僕はしたくないのです・・・」。生涯に一度しか書かなかった故郷の母に書いた手紙の一節を今も覚えています。そんな頃のことです。

 ある日、プールサイドへ飲み物を持って行くように命じられました。銀盆(ぎんぼん)と称していたステンレスのトレイを左手に掲げてプールへ行きました。夏の頃ですから黒い上着は着ていなかったかもしれません。プールでは一人だけ女性が泳いでいました。日よけの傘が開いたプールサイドのテーブルがその人の席だということはすぐにわかりました。僕はそこに飲み物を置きました。そのとき目にとまったのは、読みかけのページを開いてテーブルに伏せてあった一冊の文庫本でした。「変身」のタイトル。変身?著者カフカ。タイトルも著者名も初めて目にするものでした。なによりも「変身」というタイトルが気になりました。身を変える?奇妙とも思えるタイトル。いったいどんな小説なのだろう。
 そのとき、飲み物の注文主がプールから上がってきました。その姿の洗練された美しさに、僕はたじろぎました。鮮やかな花柄のワンピースの水着。ほどよくくびれた腰に、スラッと伸びた下肢。椅子にかけてあったタオルで濡れた髪をぬぐうその顔は、夏の日に焼かれて小麦色に輝いていました。年齢は20歳前後でしょうか。かすかに少女らしさを残しながら、それでも大人の領域に入りかけているといった風情の人でした。
「お飲み物をお持ちしました」
「ありがとうございます」
 その声と、口調の品の良さは僕にとってはまったく異質の世界のものでした。
 夏、箱根の芦ノ湖畔のホテル。一人で来たのか、家族も一緒なのか。いずれにしても夏の日をホテルのプールで過ごすような生活も僕には別世界のものです。
「この小説、おもしろいですか」
 僕はおもいきって声をかけました。
「まだ読み始めたばかりで・・・」
 軽く小首をかしげたようなしぐさでの返答に、もう言葉を継ぐことはできませんでした。一礼をしてプールサイドを後にしましたが、タイトルの「変身」とその女性の際立ったたたずまいは、その後長く心に残りました。
 「変身」を買い求めて読んだのはいうまでもありません。
 経理部門にまわされ、そろばんの練習をさせられるようになって、僕はほどなくそのホテルを辞めました。

「ある朝、目覚めたグレゴール・ザムザは自分が一匹の甲虫に変身していることに気づいた」
 そのように始まる「変身」は、しばらく僕の読書傾向を変えました。阿部公房や倉橋由美子など、カフカの影響を受けたといわれる作品も手にとりましたが、そこへいたる原点は「プールサイドのカフカ」でした。

 ところで、村上春樹さんとは何度か会っています。といっても話をしたわけではないので、何度か見かけているというのが正確です。
 村上春樹さんが外国に行ってもランニングを欠かさないことは、彼のエッセイなどにも書いてありますが、数年前から彼はトライアスロンにも挑戦しています。
 実は私の町では20年も前からトライアスロン大会を開催しています。市町村合併をする前には「村上国際トライアスロン大会」という名称でした(現在は「村上・笹川流れ国際トライアスロン大会」)。彼のトライアスロン・デヴューはこの「村上国際」でした。
 僕はこの大会で初期のころから、実況放送を担当していて、放送席から彼の姿を見ていました。ノーベル文学賞の候補になったと伝えられたときの大会では、村上春樹さんから「レースナンバーだけで、名前はコールしないで下さい」と申し入れがありました。僕の実況スタイルは、エリート選手の場合は無線で入ってくるレースの模様を記録重視で実況しますが、村上春樹さんのように一般参加選手の場合は、事前に提出してもらったアンケートをもとに、選手個々のエピソードや職業、ゴール地点で家族が待っているなどの個人データーをできるだけ紹介するというものです。選手に配布される名簿には村上春樹とありますが、どれだけの人が作家の村上春樹だと気がついているのか。スポーツマンシップなのか、ワッと彼を取り囲むようなことはありません。
 村上春樹さんは小柄な方ですが、懸命にゴールゲートを目指す姿が印象的です。デヴュー戦は最初のスイムでリタイアしましたが(このときの様子も彼のエッセイにあったと記憶しています)、その後は完走を続けています。
 
 カフカの晩年のエピソード、として次のような話が伝えられています。
 ベルリンにいた頃、ある日、公園を散歩していたカフカは、人形をなくして泣いている少女に出会いました。カフカは少女を慰めるために「君のお人形はね、ちょっと旅行に出かけただけなんだよ」と話し、翌日から少女のために毎日「人形が旅先から送ってきた」手紙を書きました。この人形通信はカフカがベルリンを去るまで何週間も続けられ、ベルリンを去るときには、その少女に一つの人形を手渡し、それが「長い旅の間に多少の変貌を遂げた」かつての人形のなのだと説明したそうです。
 小説を書く人は、こんな素敵なことができるのですね。
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by yoyotei | 2010-04-19 23:28  

世界一周

 世界一周といえば、僕たちの世代は、現役を退いて平均以上の財産や蓄えを獲得した人が、豪華客船で優雅に旅をするというイメージがあります。でも、現代は20代の若者たちがバックパックを背負って出かけて行くのですね。以前にも、何人かの若者から世界一周をしたとか、その途中だと聞いたことがありますが、先日はじめてバックパッカーたちの世界一周の方法やその様子など、概要を聞くことができました。8年前にインドで出会った女性が、世界一周の旅を達成して、寝袋持参で僕の店に1週間ほど滞在したのです。
 どうやら5大陸、3大陸を回る6ヶ月や1年オープンの航空券を扱う旅行社があるようです。オープンとは帰国日を選択できる航空チケットのことです。そうしたチケットを使って大陸間を飛び、後は各大陸をその土地の交通手段で旅をするというものです。彼女の場合は約6ヶ月間で5大陸を巡り、航空チケットを含めて約150万円の経費だったそうです。20キロほどのバックパックが彼女の腰を痛めて予定より少し早い帰国を余儀なくされたようでしたが、それにしても女性一人でよくやります。
 8年前、まだ学生だった彼女は友人と二人、初めてのインドで「強烈な出迎え」を受けて旅を続ける意欲を失いそうになったそうです。そんなとき、偶然僕と出会ったのです。「日本の方ですか?」と声をかけられたのがきっかけです。まあ、彼女たちにとって僕は「地獄で仏」だったかも知れません・・・。気を取り直した彼女たちはインドの旅を続けました。
 その後は2度ばかり、僕の店に数日滞在することがありました。卒業した二人は、それぞれ別の旅行会社に就職しました。一人はその職場で伴侶を獲得、昨年めでたくゴールイン。しかし、一人は会社が倒産してしまいました。それでも旅に魅せられた彼女は、アルバイト生活をしながら、旅に出ることを続け、世界一周をやり遂げたのでした。
 これまでに彼女が巡ってきた国は約50ヶ国。雄大な自然の景色に涙ぐみ、貴重品の盗難で落ち込み、アフリカではエイズ孤児や、あまりの貧しさに言葉を失い・・・。旅の記録を読ませてもらいましたが、記録には書きつくせない感慨が重く深く、彼女の内面に蓄積されたことはまちがいありません。記録の最後に「本当にありがとう」の言葉が3回も繰り返されていました。
 僕は初めてのインドの記録を「インドでは、ありがとうはダンニャワードという。しかし、インドの人々はほとんどその言葉を言わない。言葉だけで終わりにするよりも、自分がしてもらってうれしかったことは、誰かにしてあげればいいのだ。だが僕は言う。ありがとうインド、ありがとうインドの人たち」と結びました。彼女の「ありがとう」は、友人や、ブログで励ましてくれた顔の見えない世界の仲間、そして両親への感謝でもあるのでしょう。もちろん、世界中で受けた感動や親切、深い思索に導いてくれたさまざまな刺激に対しても・・・。

昨年、日本人の海外出国者はピーク時の2000年から13.3%も減少したそうです。そうした中でも15歳から34歳までの青年層が出国者総数の全体の30%を占めています。さらにその30%のうち、女性が18%、男性は12%で、圧倒的に女性が多いのです。60歳以上の出国者は総数の20%を閉めています。日本から海外に出る人は老人と若者(青年)、とりわけ若い女性の比重が大きいと寺島実郎氏は分析します。(『世界』2010年5月号 岩波書店)
35歳から59歳までの壮年期の男性が海外出国者に占める比重は27%で、この層が前年比16%も極端に減少。壮年期の男性は自分の関心と目的意識で海外に出る機会は少ないという状況が垣間見える、とこれも寺島氏です。
 世界を巡ってきたまだ20代の女性と60代の僕が、海外体験で語り合えることはうれしいかぎりです。とっくに先輩後輩は逆転しましたが・・・。
 
「人の一生は重き荷を背負って遠き道を行くがごとし」のように、人生は「旅」たとえられますが、「旅」を人生にすることはきわめて難しいと思います。しかし、「旅」を人生に生かすことはできます。旅に向かう意志、旅における判断、決断、挫折、リカバー、そして達成感。なによりも世界に広がった視野。
 彼女には、旅の体験から新しい人生を切り開き、体験を人生という旅に生かして欲しいと思います。

そういえば一人でインド・ラジャスターンへ行ってきたyukaさん。ちょっと前に両親と旅の報告に来てくれました。なんとお母さんは、若い頃に僕の店に来たことがあったそうです。心配しながら一人旅に送り出してくれた両親の話にyukaさんは涙ぐんでいました。こちらも娘を持つ身です。ちょっとウルッとしました。あっ、インドのお土産もいただいたりしました。また次の旅の計画が浮上してきたのでしょうか。yukaさん姉妹より少し年上の彼女は、そろそろ結婚が視野に入ってきたそうですよ。



 
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by yoyotei | 2010-04-14 00:03  

ゴミ、そして酒

春休みに娘2人と孫4人が1週間ほど滞在していきました。かれらがいる間、ゴミの増えること。とくにペットボトルやビニールゴミが多いことには驚くばかりです。もっとも、僕と娘たちが飲むビールの空き缶もかなりの量ですが・・・。

 はじめてインドを旅したとき、列車の中でチャイを飲むと赤土の素焼きの器(クリ?)に入れてくれました。インド人は飲み終わると窓から投げ捨てていました。1991年の頃です。素焼きというか、ほとんど天日干しのような器ですから土に返ります。しかし、2年後に訪れたときには、器は薄いプラスチックのコップに変わっていました。でも、インドの人たちは素焼きの器と同じように、飲み終わると窓から投げ捨てていました。線路沿いは、そのような水に溶けない、土に返らないゴミが散乱しています。列車内で出たゴミを窓から投げ捨てる習慣は一昨年のインドでも同じでした。プラスチックを食べて死ぬ牛も報告されているようですし、インドでも地域によっては「ノー・プラスチック運動」がおこなわれています。
 
 おおっぴらに酒を飲むことははばかられるインドですが、経済発展の影響なのか飲酒事情も変わってきたようです。2002年のインドでは、列車の中で4人のインド人グループからウイスキーをすすめられたことがあります。僕もリュックから持参のウイスキーを取り出して、彼らがホテルでつくらせたという豪華な料理をつまみながら酒盛りをしました。以前、列車の中で酒を飲んだことを理由に怖ろしい体験をしたことがあっただけに、時代の変化を感じました。以前の恐怖体験は、いずれ書くこともあるでしょう。
 一昨年のニューデリーでは、酒屋の前の歩道に腰をおろして缶ビールを飲むことができるような環境になっていました。塩豆のようなつまみまで売りに来ます。10歳前後の少年が飲み終わるのを待っていました。空き缶を集めているのでした。

 インドの中でも特に異なった雰囲気を持つ町が、南インドはベンガル湾に面したポンディチェリーです。17世紀にオランダの支配を受けた後、フランスが商館を建設して、インド独立までの約250年間フランス領だった町です。この町を訪れたきっかけは酒が安いという情報を得たからでした。確認に行ってみることにしました。驚きました。コロニアル風の街並みに、酒屋があちこちにあるのです。インドの他の町では酒屋を探すのに苦労をしますが、この町では立ち飲み屋まであります。海岸にはカフェがあり、テラスでベンガル湾の風に吹かれながらビールやワインを飲むことができます。もちろん情報どおり酒が安いのです。連邦直轄領なので酒税が安いということのようです。ついつい長居をして、2年後にも再訪した町でもあります。
 この町ではフランス料理のレストランもありますが、特異なのはベトナム料理のレストランがあることです。これはベトナムがかつてフランスの植民地だったことの歴史的名残なのでしょう。日中行っても店の中が暗くて、海岸沿いの明るい洒落たカフェとの対照が印象に残っています。
 滞在中に親しくなった町の人が、なにかあると「オー、ララ」とフランス風の感嘆詞を口にしていました。立ち飲み酒場にはアル中らしい中年女性がいたり、酔っ払ってフランス語で歌いながら踊るオジサンがいたりと、インドらしくないインドです。
 インド飲酒事情の断片になりましたが、酒談義は今後、何度も取り上げることになることを予告しておきます。

 5月の連休には娘たち夫婦や孫たちが集結し、爆発的に我が家の人口密度が高くなります。それにともなってゴミの量も増大します。春休みの比ではないことでしょう。分別して出すのはいつの頃からか僕の役目になっています。
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by yoyotei | 2010-04-13 23:41  

ギターを抱いた渡り鳥

「1957年生まれ。1983~86年、ギターを抱いて渡り鳥となる・・・」
ニューアルバム「まほろば~思い出は月の光の向こう側~」のパンフレットには、プロフィールがこのように書いてありました。フォーク歌手の楠木(くすき)しんいちさんです。先日、突然僕の店に来てくれました。同行者は隣町のお二人。一人は真言宗の僧侶、もう一人は、自然保護に造詣が深く、僕が所属しているブナの森を守る市民グループ主催の「森のコンサート」に毎回参加してくださる方です。楠木しんいちさんと僕は初対面です。当日は釣りの愛好者たちの総会と懇親会で大賑わい。そんな中で楠木しんいちさんはギターを弾いて歌ってくれました。繊細なギターテクニックと優しい歌声。関東~新潟~石川県のライブツアーの途中だったようです。京都のライブハウスを中心に「あるときは街角で、河原で、祭で、アメリカで・・・」と、これもパンフレットの自己紹介です。
 
 音楽にはさまざまなジャンルがありますが、大音量でがなりたてるようなものを除けば、どんなものでも好きです。今年で早期退職をする小学校の先生からチェロを借りて練習を始めました。ギター・ウクレレ・三線(サンシン)と、弦楽器は手にしてきましたが、弦をこすって音を出す擦音(さつおん)楽器は初めてです。なにしろ大きい。よけいな力が入っているからでしょうか、ここのところ首筋から肩にかけてちょっと凝り気味です。
 チェロ所有者の先生はバイオリンを弾く人です。店には彼のバイオリンが一つ置いてあり、時々は僕のギターに合わせて弾いてくれます。もっとも、僕にはクラシック音楽の素養はありませんから、彼ができる曲を選ぶしかありません。ジャンルはおそろしく幅広くて、「船頭小唄」から「コーヒールンバ」「屋根の上のバイオリン弾き」など。メロディー譜にコードが付いていれば歌謡曲、タンゴ、ラテンからシャンソン、ハワイアンまで、なんとかこなせます。
 ところで、僕のチェロはなかなか音楽にはなりません。どこまで飽きずに練習できるか、根性が試されています。
 
「森のコンサート」はもう何回開催したでしょうか。ブナの森を伐採から守る運動が伐採計画撤回、生態系保存林の指定という、うれしい結果を受けて、ブナの森に親しむ活動の一環として始めたものです。村上市を流れる三面川(みおもてがわ)上流域のブナ林(猿田野営場)で行います。これまで、インドの民族楽器シタールの演奏を皮切りに、南米のフォルクローレ、アカペラ、津軽三味線、フルート、ギター、オカリナなどの演奏会をおこなってきました。僕もギターとウクレレで参加したことや、インドネシアの歌を歌ったこともあります。会場が市街地から車で1時間と遠いのですが、小鳥の声とせせらぎ、ブナの葉のそよぎが演奏に趣(おもむき)を添えてくれます。今年もまもなく開催へ向けて準備が始まります。森林浴と音楽浴。山菜たっぷりの味噌汁には参加者が舌鼓をうってくれます。

「ギターを抱いた渡り鳥」の楠木しんいちさん、今日はどこで歌っているのでしょうか。
 彼のニューアルバム「まほろば」から、「思い出は月の光の向こう側」の歌詞の一節です。
  
  明日の朝 僕は北へ旅立つ
  君はこの町に生きて アスファルトを旅する
  レールのない夢を ひとつ抱いてゆけるなら
  僕たちの旅は どこまでも
                 詩・曲 楠木しんいち
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by yoyotei | 2010-04-05 19:53  

国境の運び屋

  かつて、インド・ネパール国境、インド・パキスタンの国境を徒歩で越えたことがある。インドとネパー ルの国境はスノウリという小さな村だった。私が訪れた1993年には、国境といっても踏み切りの遮断機のような横棒が渡してあるだけだった。それも頭上にあがりっぱなしになっているので、旅行者は国境脇の小さな出入国管理事務所で簡単な手続きをすますと、だれもいない国境を普通に歩けば隣国なのだ。村人は自由に行き来をしていた。
 そのような牧歌的なインド・ネパール国境と違って、インド・パキスタン国境はいちじるしく趣を異にしていた。なにしろ、1947年のインド・パキスタン分離独立以来、北部カシミールの帰属をめぐって、3度にわたる印パ戦争など国境紛争が繰り返されてきている両国だ。
 その日の早朝、パンジャブ州最大の都市アムリトサルのバススタンドから国境の町アターリーに向かった。国境はアターリーのバス終点から歩いて30分もかかるらしいが、運転手は国境までバスを飛ばしてくれた。しかし、出入国管理事務所が開くまでにはかなりの時間があった。旅行者はおろか、人の姿も気配もない。近くには食堂のような建物があるが、そこもまだ閉まったままだ。10月の北インド。朝はかなり冷え込む。衣類を着こんで時間が経つのを待つしかない。辺りはまばらに潅木が立っているだけの荒涼とした原野が広がるだけだ。
 ようやく一台の車が到着した。降りてきたのはドイツ人の旅行者で、車で旅をしているという。
「インドはひどいね。交通ルールがまったくない!中東はガソリンが水より安いんだ」
 そんな話をして時間をつぶしているうちに食堂が開いた。熱いチャーイを飲みながらトーストをほおばっていると店の男がビールをすすめてきた。
「パキスタンでは酒は飲めないよ。ラストビールだ」
 イスラム教国のパキスタンでは酒が飲めないことはわかっていた。太陽が上がって気温も上昇してきた。ビールを頼んだ。インド特有の重い味のラストビールを飲んでいると、男は、今度はウイスキーを買って行かないかという。
「ウイスキーもあるのか?しかし酒は持ち込めないだろう」
「問題ない、税関はノーチェックだ」
 男はさらっと言ってのけた。
 酒飲みの血が騒いだ。パキスタンに何日滞在するかは決めていないが、まったく酒なしというのもさびしい。値段を聞くとちょっと高いが、ウイスキーを買うことにして金を渡した。男は金を握り締めると自転車に飛び乗って走り出した。ウイスキーは食堂にはなく、町の酒屋まで買いに行くのだった。金を持ち逃げ?との疑いもあったが、しばらくすると男はウイスキーを大事そうに抱えて帰ってきた。

 国境が開いた。私はリュックから取り出した寝袋にウイスキーを巻き込んでぶら下げた。ノーチェックだ、と男は言ったが、もし税関で所持品を調べられても寝袋の中までは気がつくまいと、さりげなさを装うことにしたのだ。
 木のベンチが並んだオフィスでの出国審査が始まった。服装からするとインド人らしい女性と中東あたりの男のカップルは、係官との長時間のやり取りの末に、別室に連行された。なにやら複雑な事情のようだ。ドイツ人の車は数人の係官にあちこちと調べられている。緊張して待つ。そして私の順番がきた。係官はパスポートを眺めながら聞いてきた。
「インドはどうだった?」
「オー、ベリーナイス!」
 私は笑顔をつくって応じた。トン!とスタンプが叩き押された。
 オフィスを出ると広い舗装道路がパキスタンに向かって伸びていた。準戦時体制にある両国は、国境に緩衝地帯が設置されている。道路脇には銃を持った警備兵が何十メートルかごとに立っている。そのつど警備兵はパスポートの提示を求める。
 どのくらい歩いたのか。さえぎるもののない太陽が容赦なく照りつける。汗をぬぐいながら何度もパスポートを提示する。
「ようこそパキスタンへ」と英語とウルドゥー語で書かれた派手なゲートが見えた。そこが緩衝地帯の中間点で本来の国境線なのだ。ゲートをくぐると警備兵の制服が変わった。ゲート脇の警備兵はインド側もパキスタン側も儀礼的な意味があるのか、やたらとカラフルだ。パキスタン側でも警備兵はインド側と同じように数十メートル毎に銃を持って立っていて、パスポートの提示を求める。
 道路はだれも歩いていない。戦争になればこの道路を戦車や装甲車が走るのだろう。なにを手間取っているのかドイツ人の車はいっこうに姿を見せない。

 パキスタンの入国管理事務所に着くと小さな部屋に誘導された。部屋には大きな机に制服を着た大柄でヒゲ面の男がドカッと座っていた。
「そこに座ってくれ」
 リュックと寝袋は後ろの木製ベンチに置いて、男の前の椅子に座った。パスポートを一瞥すると入国管理官はにこやかに語りかけてきた。
「私の友人が日本に住んでいる。日本はいい国らしいね」
 暇を持てあましているのか、男はどうでもいい話をだらだらと続ける。酒を違法に持ち込もうとしている私は、できるだけ友好的に応じる。
「ところで、この国には酒は持ち込めないが、あんたは持ってはいないだろうな」
 <とうとうきたな>
「もちろんだ!私は酒は飲めない」
 平然として嘘を言った。
「よろしい・・・」
 男はにこやかに雑談を再会した。
 しばらくすると、男はゆっくりと立ち上がって、私の後ろに回った。そして、やにわに寝袋を両手でガシッと掴んだ。
「これはなんだ!」
 万事休すだ。子どものいたずらがばれてしまったどころではない。酒は飲めないとしらを切った私は50近い中年男だ。恥ずかしさが全身を貫いた。しかし、と考えた。
<酒の持込を企んだくらいで逮捕拘禁ということはないだろう。せいぜい没収されるくらいだろう>
「すまなかった。しかし、数日後にはこの国境をまたインドに向かう。それまでここに預かっておいてくれないか?」
 私は、恥ずかしさを覆い隠すようにまくしたてた。しかし、係官は、預かることはできないと言う。 
<しかたがないか・・・。酒は没収されてもパキスタンへ入国できればそれでいい>
 そう考えたとき、一人の男が声をかけてきた。
「私はあなたを助けたい」
 その男は、私を入国管理事務所に招き入れた男で、その後も事務所の中でうろうろしていた。しかも、係官の制服ではなく、ワイシャツを膝まで長くしたようなイスラム教徒の普段着である。
<助ける?それほど自分は危機的状況にあるのか・・・>
 私は男の顔と、係官の顔を交互に見た。係官はなぜか私にうなずいて見せた。男が私を隣の部屋に導いた。人気のない、椅子も机もないガランとした部屋だ。どういう展開になるのか想像もつかない。
 立ったまま向かい合うと男が小声でささやいた。
「あのウイスキーはいくらで買ったんだ」
「は?」
<値段を聞いてどうするんだ>」
 わけがわからないまま、私は値段を言った。すると男は意外なことを口にした。
「その値段で私が買ってあげよう」
<いったいどういうことなんだ。没収されるか、入国を拒否されてインドへ返されるか、なんらかの制裁を課せられるのもしかたがない>
 そこまで、観念していたのに、「助ける」ということと、「ウイスキーを買ってやる」ということの関連がわからない。
 私はしばらく呆然とした。しかし、打つ手はない。パキスタンへのウイスキー持ち込みはできない。それを買うというなら、しかも値切るでもなく私の言い値で買うなら文句のつけようがない。私は腹を決めた。
「わかった、売ろう」
 男は係官のいる部屋へ行くと、すぐに金を持ってきた。
 あらためて入国係官の前に行くと、彼は何事もなかったかのようにパスポートにトンットンッと押印した。リュックの中身は調べもしなかった。そして私に笑顔を向けた。
「パキスタンを楽しんでくれ!」

 乗り合いの小型バスに押し込まれて、ラホールの町を目指しながら考えた。あの係官はリュックの中身は調べようともせず、迷うことなく寝袋を掴んだ。彼はそこにウイスキーが隠されていることを知っていたのだ。インドの食堂でウイスキーを寝袋に巻き込むのを見ていたのは、「問題ない、ノーチェックだ」と言ってウイスキーを買わせたあの男だ。もし、あの男がパキスタンの係官か、あのイスラム服の男に、「日本人が寝袋にウイスキーを隠してそちらに向かった」と連絡を入れたとしたら・・・。
 それにしても没収すればいいのではないか。安くはない金を払ってまで買い取るというのはどういうわけなのか。
 土ぼこりを巻き上げながら小型バスは悪路を飛び跳ねるように走り続ける。後部の女性専用席には顔を覆った女たちが身を寄せて座っている。
 だが、と私はさらに考えをめぐらせた。没収ということになれば、係官はなんらかの書類をつくらなければならない。没収の記録は残り、ウイスキーは廃棄などの公的処分ということになる。民間人の秘密裏の売買となれば、あの入国係官がなにも見なかったことにすれば事はすむ。飲酒を戒めているイスラム教国であっても密かに酒を飲む連中はいるのだろう。闇で取引されるウイスキーは高値になる。私の言い値で買っても充分な儲けになるに違いない。係官と男はグルなのだ。炎天の緩衝地帯を汗を拭きながら歩いた私は、ウイスキーの運び屋にされていたのだった。

 その夜、ラホールの裏町の屋台で羊肉のカレーを食べた。歩き疲れて空腹だった私は、屋台で出された水をおもわず飲んだ。その後、古い廃墟のようなYMCAの宿舎で一晩中、激しい下痢に襲われた。小さい裸電球の薄暗い共同トイレに何度もしゃがみこみながら、ラホールの美術館で観た、あばら骨の浮き出た「苦行するブッダ」の黒光りのする像を思い浮かべた。ヒゲ面の男たちだけが行き交う夜の繁華街。居酒屋風の店では、ジュースを飲みながら大声で語り合う男たち。どの男たちも無個性な同じイスラム服だ。黒い旗を掲げてデモ行進をする黒い服を着た男の集団・・・。パキスタンを歩き回る興味も、元気も失せた。インドへ帰ろうと決めた。
 翌日の昼、パキスタン国境の出国管理事務所に行くと、私からウイスキーを買ったあの男がいた。男は数十年来の知己のように近づいてきた。
「今度いつパキスタンへ来る?」
 私は黙っていた。来る気はなかった。男が続けた。
「今度来るときにはインドの週刊誌を買ってきてくれないか。金は払うよ」
   
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by yoyotei | 2010-04-03 14:45