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アフリカ絵画

世界一周をしてきたマヘンドラさんから、アフリカ・マラウイの絵をいただきました。(1枚目)
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 一見して、アフリカの岩壁画を連想しました。
 2枚目は紀元前3,500年から前1、500頃の北アフリカの岩壁画です。
 3,4枚目は南アフリカの、北はタンザニアからザンビアやローデシアを経て、南はケープ・タウンまで、西は南西アフリカから東はインド洋まで分布する岩壁画で、多くはブッシュマンといわれる人たちによって描かれたとされています。しかも、これらの岩壁画は紀元前4,000年頃から比較的近代に至るまで、非常に長い間継続して描かれたと考えられています。
 絵の主題は狩猟、舞踊、戦闘、埋葬、雨乞い、音楽の演奏などさまざまです。
 マヘンドラさんからもらった、マラウイの一枚は戦闘を舞踊化したものでしょうか。浮き立つような高揚感がリズミカルに描かれています。岩壁画時代からの伝統なのか、岩壁画をヒントに現代風にアレンジしたものなのか、布にアクリルで描かれていて、彩色も鮮やかです。

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 画像が取り込めるようになると、こんな比較もできて興味が湧いてきます。

 ブッシュマンといえばかつて映画『ブッシュマン』がありました。飛行機から落とされたコーラの瓶を拾ったブッシュマンたちが、見たこともない忌まわしいものとして捨てに行くという、現代文明をユーモラスに批判したものでした。
 アフリカにはブッシュマンたちによって、描かれた岩壁画が10万点を超えるほど現存しているそうです。しかし、かれらは他のアフリカ人やヨーロッパ人によって、完全に不毛なカラハリ砂漠に追いやられて絶滅の危機にあるようです。アフリカ最古の民族といわれるブッシュマンはどうなるのでしょう。
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by yoyotei | 2010-05-22 20:27  

ふたつの講演から

 好天に恵まれた日曜日、知人二人を誘って市内の曹洞宗の寺へ行ってきました。以前このブログで書いた「まなび塾」主催の特別講演会が開催されたからです。講師は「新潟いのちの電話」理事長・眞壁伍郎氏(新潟大学名誉教授)、演題は「ことばはをしみをしみ-良寛に学ぶ-」です。
会場の本堂はいっぱいの聴衆で埋まりました。住職の話では葬式でも檀家の集まりでもこれほど多くはないということでした。
 講演は、自身の母が良寛に深く私淑していたこと。良寛は38歳のときに父を入水自殺で、また41歳の時には弟までも自殺で失った、いわゆる自死遺族だったこと。諸国遍歴の後、故郷越後の出雲崎に帰った良寛は、子どもたちと交流し、それを多くの歌にしましたが、その背景にあったのは、農村の貧窮のなかで、幼くして奉公に出され、遊女として売られていく子どもたちの姿だったということでした。副題の「をしみをしみ」は良寛の「戒語」にあるもので、「惜しみ」ではなく「愛しみ」であることなど、新潟に40年も住みながらよく知らなかった良寛について教えられることの多い講演でした。

 前日には新潟市で、神戸大学の二宮厚美教授の「憲法9条・25条かがやく国づくりをどうすすめるか」という話を聴きました。25条は人間らしく生きる権利を保障するものです。将来の生活に対する意識を調査したところ、「非常に安心」「やや安心」とこたえた日本人は14%で、先進23カ国中最下位だったそうです。86%の人が将来に不安を抱いているという現実はどこからくるのでしょう。雇用の不安定や長期不況も大きな要因でしょうが、自己責任論の蔓延も無関係ではないでしょう。憲法によって私たちは守られているという、国民意識こそがあたりまえの国でなければならない。そうした思いを強く持ちました。
 この国では生存権が憲法で保障されているにもかかわらず、自殺者が12年連続で年間3万人を超える現実。しかも、失業や生活苦による中高年の自殺が増えているのです。世界第2位の経済国でありながらです。

 眞壁伍郎さんは新潟県の自殺率があまりに高いことから、1984年に「新潟いのちの電話」を開局しました。ずいぶん前に『県民性』(岩波新書)で自殺率が最も高い県として、新潟県と島根県があげられていました。長く両県が1位2位を争っていたそうです。島根県に生まれ、新潟県に住む僕としては、複雑な思いにとらわれたことでした。
 5月13日の警察庁の発表では、新潟県の自殺率は10万人あたり32.6人で全国8位です。
今手元にないのであいまいな記憶をたどると『県民性』では、自殺率の高い新潟県と島根県に共通する県民性は、「勤勉」「まじめ」「閉鎖性」などでした。経済的な後進性もあったかもしれません。

 ふたつの貴重な講演を聴いて、感じたことがあります。
 社会の仕組みを人間が生きやすいように変えなければならない。
 自分の「生」を肯定する意識を育てなければならない。

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by yoyotei | 2010-05-17 20:26  

和気史郎に学ぶ

 先月中旬、ある人が一冊の画集を貸してくれました。絵を趣味にしている人で、数年前には市が主催する美術展で最高賞を受賞したことのある実力者です。以前にも画集を交換したことがあり、話をしても穏やかな紳士といった、なかなか当地では出会わないタイプの人です。彼の描く精緻な風景画は、几帳面な人柄がそのまま絵に滲み出ています。

 その人が貸してくれた画集は、和気史郎(1925-1988)のもので、限定1.000部という高価な画集です。昨年12月のブログ「一枚の絵」に取り上げた、僕の絵を見た彼が参考になればとの、ありがたい厚意からのものです。もしかしたら、僕の絵(下の絵)に見える陰鬱な自我に通低するものを、和気史郎の絵に彼はすでに見ていたのかも知れません。
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しかも、昨年暮れから描いている、インド・ラジャスターンの絵については「技巧に懲りすぎている」との批判まで頂戴しました。納得のいく適切な指摘でした。なにしろ、図書館から絵画技法の本を何冊も借りて、初歩から技法を独習しながらの習作です。いまだに画面が変化し続けている未完の習作です。(下の3点)
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 和気史郎。彼の晩年の作品に能面をテーマにしたものが数多くあります。和気史郎を知らなかった僕もそうした絵は目にしたことがありました。非現実的でありながら現実を厳しく凝視した者でなければ描けない世界。彼にとって絵の具は単なる画材としてではなく、怨念や自家撞着を塗り込め塗り重ねていくための、自己の内面からのほとばしりのようです。しかし、それは1960、70年代に流行したアクションペインティングのように、偶然性に寄りかかるものではありません。対象の的確な写実、それを超えて対象の持つ内奥に自己の想念を投影していくという、絵を描くことの本来的な意味をあらためて教えてくれるものです。
 和気史郎の青春は戦争の時代でした。人の命が赤い紙切れ一枚で否応なく死へと送り込まれた時代でした。和気史郎と同時代を生きてきたという瀬戸内寂聴は、「地獄を見た者にしか聖なるものは顕われてくれない。和気の絵の非現実性は、和気の憧れている浄土の光と色ではないか」といっています。(『和気史郎画集』から)
 40年ぶりに絵筆を握った僕には、ぶん殴られたような衝撃を与えられた画集でした。

 先日、ブログ「水底の歌」を書くために、図書館から『梅原猛著作集』を借りてきました。挟み込まれていた「月報」を見て驚きました。月報の表紙に和気史郎の絵が掲載されていたのです。それは能楽の「弱法師(よろぼうし)」を題材にしたものです。描かれている深く暗い闇の底に瞑目した能面はまさに和気史郎の世界ですが、同時に柿本人麿が水底に横たわっているような情景に重なるものです。
    柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌
 鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らにと妹(いも)が待ちつつあらむ
   柿本麻臣人麿の死(みまかり)し時、妻依羅娘子(よさみのおとめ)の作る歌二首 
 今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に交じりてありといはずやも
 直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
   丹比真人(たぢひのまひと)柿本朝臣人麿の意(こころに)に擬(なずら)へて報(こた)ふ   る歌一首
 荒波に寄りくる玉を枕に置きわれはここにありと誰か告げなむ
                             (万葉集から)
 やっと画像を取り込むことができました。連休に帰省した長女の指導によるものです。まだまだ不十分ですが、これからも徐々に進化していくつもりです。顔の画像は額縁のガラス越しなので少しテカッテいますが・・・。和気史郎の絵は機会があったら画集を開いてみてください。
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by yoyotei | 2010-05-13 06:46  

水底の歌

 83歳で現役のライフセーバーという、当地では著名な人の講演を聴きました。
 水没死した遺体を引き上げた経験を語るなかで、夜中に霊が訪れた際に唱える歌があるといいます。「人麻呂やまこと明石の浦ならば我にも告げよ人麻呂の塚」というのがそれです。すぐに『水底の歌-柿本人麿論-』(梅原猛・著 1973 新潮社)を想起しました。

『水底の歌』は副題にもあるように、それまで通説であった柿本人麿(人麻呂)の生涯に異論をとなえるもので、当時大きな話題になりました。でも、僕が夢中になってその著書を読んだのには特別の理由がありました。
 万葉集中第一級の叙情歌人といわれる柿本人麿は、持統・文武両朝に使えた宮廷詩人とも吟遊詩人ともいわれ、後世山部赤人と共に歌聖と呼ばれました。氏姓・生没共に不明。藤原京の末期に下級官吏として石見で没したと推察されるというのが通説でした。『水底の歌』はその通説の根拠を明らかにした上で、人麿の生涯の根本的な見直しをおこなうというものでした。特別の理由とは、人麿の終焉の地の考察が、僕が生まれ育った周辺で展開されていたことでした。読み進むうちに、おぼろげな記憶と万葉の時代が交錯しました。
 人麿の死の場所は、古来から石見国の高津川(現在の島根県益田市)の川口にあった鴨島(かもしま)であったとされていました。人麿の死後、その地に神社が建てられましたが、後に大津波によって水没しました。しかし、人麿を厚くうやまった津和野藩は再び神社が津波に襲われるのを恐れて現在の高津城跡に移したといわれます。僕はその柿本神社を訪れたことがあります。長い石段を登ったことぐらいしか覚えていませんが・・・。
 江戸時代の末まではこの伝承が生きていましたが、浜田藩の儒者・藤井宗雄が疑問をとなえました。人麿が国府の役人として石見国に来たのなら、国府から遠く離れた高津の地、しかもその沖合いの鴨島に葬られたのはおかしいという疑問です。藤井宗雄は、当時の石見の国府が浜田市国府町にあったらしく、国府からあまり遠くには動かないとして、浜田にある亀山にその地を想定しました。
 僕は浜田市に生まれて小学校6年生までを過ごしました。国府へは遠足で行き、そこにある国分寺を見学したこともあります。亀山には後に城が築かれ、その城跡には何度か足を運びました。もちろん、当時人麿との関連など知る由もありません。

 昭和12年(1937)、歌人・斎藤茂吉は島根県の江ノ川(ごうのがわ)上流の湯抱(ゆがかえ)にある鴨山を人麿の終焉地と推定します。万葉集の人麿の死に関する歌の独自の解釈にもとづくものです。僕は中学・高校時代は江ノ川上流域でおくりました。湯抱は小さな温泉地で、高校の同窓生に温泉旅館の娘もいました。しかし、こうしたことも『水底の歌』を読むまではまったく知りませんでした。この地には「人麿がつひのいのち乎終はりたる鴨山をしも此処と定めむ」という歌碑が立っているらしいのですが、これも見てはいません。湯抱には人麿に関する伝説も、人麿をまつる神社もありません。
『水底の歌』を読みながら、中学や高校で人麿に関しての、このようないきさつを教えてくれていたら、古代史や万葉集などへの興味も湧いただろうにと悔しく思ったものです。 

『水底の歌』で梅原猛氏は、人麿の流罪水死刑説を主張しています。江戸時代の国学者、契沖・賀茂真淵によって形成された人麿に関する常識をくつがえし、湯抱を終焉の地とした斎藤茂吉の「鴨山考」も厳しく批判しています。そして、古来からの万寿3年(1026)津波で水没した高津鴨島説を支持し、人麿は和銅元年頃、石見国に流され、高津の沖合いで殺されて鴨島に葬られたという仮説を立てました。1977年にはその仮説の証明のため10日間にわたって海底調査をおこないました。短期間の調査で決定的な成果は得られなかったそうですが、単に机上の学問に終始することなく、真摯で幅広い真理探究の学問への姿勢は、日本における水中考古学の第一歩とされています。<参考『万葉を考える-梅原猛著作集13』集英社 1982>
『水底の歌』を僕に勧めたのは、当時、国文学を専門にしていた高校教師で、僕が島根県生まれであることを知っていたからでした。万葉集についての造詣もその人から教わりました。ドライブ旅行を趣味にしていたその人は、江ノ川沿いの僕の出身高校をたずねて来たと、僕を驚かせたこともありました。すでに鬼籍に入って10年になります。

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

 人麿の代表作とされる(異説もある)この歌は、流人の歌とされています。明石(兵庫県)には柿本神社があって、初めは水難の神として人麿がまつられました。後に「ひ(火)・とまる(止まる)」の連想から火難の、「ひと・うまる(人・産まる)」の連想から安産の神とされました。
「ほのぼのと」の歌は中世にさまざまな神秘的解釈がおこなわれたようで、明石すなわち明るいところから、島隠れ、すなわち暗いところへと、死霊の乗り物である舟が移行するのを歌っているとの解釈があります。「南無阿弥陀仏」や、「南無妙法蓮華経」のように唱えるだけで、霊験あらたかであるという信仰があったのです。
 冒頭の「人麻呂やまこと明石の浦ならば」の歌も、誰の歌かはわかりませんが、霊に穏やかな成仏を願う呪文として唱えることがおこなわれているようです。

 83歳のライフセーバーは、この夏も、瀬波温泉海岸の海水浴場で、水難事故防止に取り組まれるでしょう。赤銅色に焼けたみごとな身体の彼は、僕には「生きている人麿さん」のように思われます。

 
  
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by yoyotei | 2010-05-08 08:39