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突然の電話から


 突然かかってきた一本の電話。
「マサトモだが・・・」
「・・・マアトモちゃん?」
「おお、そうだよ。シンちゃん、あんたのことを50年も探したよ」

 私は山陰の港町で生まれた。物心ついたころには、すでに遊び相手はいつもマアトモちゃんだった。ずいぶん年上だと思っていたが、今回の電話で一歳上でしかなかったこともわかった。
 マアトモちゃんの家は漁師だった。2軒ほど隔てた隣の彼の家には、いかにも海で鍛えたような祖父がいたが、マアトモちゃんの父の記憶はない。三叉路の角にあった私の家の前は、いつも子どもたちの遊び場になっていた。釘刺し、ビー玉は男の子、ゴム飛びは女の子。紙芝居に近所の子どもたちが集まるのも私の家の前だった。
 私の家の東側には路地を隔てて白壁の高い塀をめぐらした大きい屋敷があった。白い口ひげをピンと尖らし、和服を着流した人がその家の主人で、「軍人さん」だということだった。見かけることはまれだったが、「おぞい(恐い)おっさん」ということになっていた。塀の上からは棕櫚の木がいつも緑を広げていたし、秋には石榴の割れた実がなった。
 西側は寺へ続いていた。寺の坂も墓地も子どもたちの遊び場だったが、墓地を抜けた小高い丘はスピードを体験する格好の場所だった。尻の下に敷いたのは何だったのか、丘の斜面の草の上を滑り降りるのである。滑り降りた下は山陰本線の線路だった。線路を下りに少し行くとトンネルがある。暗いトンネルを抜けるのは少年たちのひとつの肝試しだった。トンネルの中で汽車が来たらどうするか、ドキドキしながらその対策を話しあった。汽車の通過時間の観念はなかった。汽車はいつ来るのかわからなかった。もっともらしく線路に耳を当てて「まだ来ん!」と駆け出すのだった。遠い先に小さく白く開いた出口を目指して枕木の上を走る。少年の狭い足幅は枕木の間隔と合わない。平たい枕木は薄いゴムぞうりの底にやさしいが、尖った割り石は足裏をいじめる。それでも汽車に追われるかのように少年たちは走った。恐怖心を吹き飛ばすかのように「オオ~ッ」と叫ぶ。それはトンネルの中で大きく反響して、しばしトンネルの勝利者にしてくれる。
 トンネルを抜けると、そこは普段遊びなれているところとは風景が違っていた。わずかばかりの冒険者の征服感と、異国へ乗り込んだ異邦人の不安。私たちはすぐさま引き返すのが常だった。
 そうした遊びの場面にいつもマアトモちゃんがいた。

 父はすでに他界し、母は朝早くから夜遅くまで働きに出ていた。11歳上の兄は社会に出ていたし、姉は7歳上で一緒に遊んだ記憶はほとんどない。祖母が家を守っていたが、口うるささに反抗ばかりしていた。「お前はお父ちゃんがおらんのだけえの。よその子とはちがう」というのが祖母の口癖だった。
 そんな私がはじめて口にした呼び名が「マアトモちゃん」だった、ような気がする。幼児期から少年期、いつも口をついて出てくるのは「マアトモちゃん」だった。
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 家の前の広場の向こうには広い道路があって、道路を渡ってまっすぐ行くと海に出た。海も少年たちには日常の遊び場だった。防波堤に囲まれた船着場には数隻の漁船が停泊していた。漁師だったマアトモちゃんの家には伝馬船があった。家の許可があったのかどうか、マアトモちゃんと私は伝馬船の舫(もやい)を解いて櫓(ろ)を漕いだ。櫓漕ぎの師匠はマアトモちゃんだった。初めは防波堤の中を回るだけだったが、私たちはいつの頃からか防波堤の外、「大人の海」へ漕ぎ出すことを夢見ていた。

 マアトモちゃんからの突然の電話は、いきなり私を50年前に引き戻した。
 小学校の6年生の夏、私は母と弟の3人で、生まれた海辺の町を離れた。マアトモちゃんが学校から帰って来たときに、私はもういなかった。別れの言葉を交わすことはなかった。
「生きている間に会いたい」
 マアトモちゃんは言った。顔はどうしても思い出せないが、その声は張りがあって図太くて、いつも私の兄貴分だった少年時代のマアトモちゃんの面影につながるものだった。
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by yoyotei | 2010-06-14 11:09  

人骨笛


  サッカーワールドカップの南アフリカ大会が開幕した。サッカーに特別の興味はないが、優勝チームには3千万ドル、27億円以上が贈られると聞けば「ヘ~」と思ってしまう。巨大なビジネスマネーが動いており、メディアがことさらに興奮を煽るのもそれがあってのことか・・・。
 今大会での応援グッズとして「ブブゼラ」というアフリカの民族楽器が使われている。長いラッパのような管楽器だ。本来の素材が何であるのかは知らないが応援用はプラスチックでつくられているようだ。吹き方はトランペットなどと同じように、唇を閉じて吹き口にあて、唇を震わせるように息を吹き込む。「ブブブブッー」と驚くような大きな音が出る。テレビ画面からの知識だが・・・。

 同じ吹き方をする管楽器は数多いが、それらの中にチベットの民族楽器「カンリン(人骨笛)」がある。人間の大腿骨をそのまま笛にしたものだ。私は、それをネパールのチベット人の土産店で入手した。
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  チベットでは死者は火葬や風葬にして葬られる。風葬とは死者を高原や山の頂に放置するもので、雨風にさらされ禽獣に喰われて骨になる。その大腿骨がカンリンになると思われる。髄の部分が空洞になって筒状となるのだ。
 チベットの葬礼では、野辺の送りに数人がカンリンを死者に向かって吹き鳴らす。チベットではすべての人間が善なるものと悪なるものを併せ持っていると考えられている。善なる人として生きた人には悪なるものが骨の中に残り、生前、悪人だった人は善なるものが骨の中に残るというのだ。カンリンは悪人の骨だけでつくられるという。死者に向かってカンリンを吹き鳴らすことは、骨に残っている善なるものを吹きかける行為なのである。カンリンは儀礼用の楽器のようだ。

 夭折の詩人中原中也に「骨」という詩がある。

  ホラホラ、これが僕の骨だ、
  生きてゐた時の苦労にみちた
  あのけがらはしい肉を破って、
  しらじらと雨に洗われ、
  ヌックと出た、骨の尖(さき)。
   (略)
  生きてゐた時に、
  これが食堂の雑踏の中に、
  坐ってゐたこともある
  みつばのおしたしを食ったこともある、
  と思へばなんとも可笑(おか)しい。
    (略)
  ホラホラ、これが僕の骨・・・
  見てゐるのは僕?可笑しなことだ。
  霊魂はあとに残って、
  また骨の処にやって来て、
  見てゐるのかしら?

 私は悪なる人の骨に善なるものが残るという考え方が好きだ。持って生まれてきた善なるものを、生きてこの世に現すことができない不幸、悲しさ、怨念。カンリンの、空気を震わせる音は、その憾(うら)みのように聞こえる。

  われ死なば焼くな埋(うず)むな野に棄てて痩せたる犬の腹をこやせよ 
              (地獄太夫 19歳没 菅原洞禅『和漢古今禅門佳子話』) 
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by yoyotei | 2010-06-12 19:35  

路上のカフェ

  ホーチミン(ベトナム)を訪れたのは何年前だろうか。同行者は二人で、一人は私との海外の旅が三度目になる長年の友人。もう一人は産婦人科の女医。彼女は学生時代にインドへ行ったことがあるという、私とはインドつながり。彼女はベトナムは二度目となった。
 宿泊した宿は「サイゴン・ホテル」。一部屋に三人で泊まるという、私が主導の相変わらずの貧乏旅行だ。
 一日中、歩き回った後、ホテルの部屋で酒盛りとなった。長年の友人は私と同世代だけに、やはりベトナム戦争が話題になる。戦争終結から30年も経つと、市内を漫然と歩き回るだけでは戦争の痕跡は見えない。ただ、宿泊しているホテル名の「サイゴン」が歴史の証言者のように思えるだけだ。
 部屋の窓から見下ろすと、ホテル前のドン・ユイ通りは夜も更けて人影もまばらになった。だが、道路脇のわずかな明かりの下に小さな人のかたまりができていた。それは深夜過ぎまで続き、なにやら話し声のようなざわめきが聞こえていた。
 翌朝、眠り込んでいる二人を残して外に出た。どこへ行っても私は早朝の街の顔が好きだ。昼間の喧騒が始動する前の、空気をかき乱していない静寂が好きなのだ。
 通りにはまだほとんど人影はなかったが、昨夜、人のかたまりがあった場所では一人の中年女性が屋台店の準備を始めていた。立ち止まって眺めていると、「コーヒーでも・・・」と声をかけられた。「今お金は持ってないんだ。あの部屋に泊まってるんだが、後でもいいかな」
 私は向かいのホテルの部屋を指さした。
「いいですよ」と彼女はイスを置いてくれた。風呂場で使うような小さなプラスチックの腰掛だ。コンデンス・ミルクの入った甘いアイスコーヒーを飲みながら、昨夜のことをたずねてみる。夜になるとその場所は路上のカフェになるのだという。

 その夜、同行者二人を誘ってそのカフェに出向いた。氷の入ったグラスに缶ビールを注いで飲むというのがベトナムの流儀であるらしい。
 しばらく飲んでいると、三人のグループがやってきて、自然と一緒に飲むことになった。薄明かりで顔は判然としないが、グループは日本人の女性二人に、ベトナム人の若い男性だ。女性の一人は長い髪をソバージュにしている。彼女がグループの中心人物、写真家の外山ひとみだった。とはいっても、そのときには彼女のことはまったく知らなかった。知ったのは帰国してしばらくたってからだ。もう一人の若い女性は彼女の助手、ベトナム人男性は日本とベトナムの友好団体の職員だという。日本語が堪能だった。
 外山ひとみは私たちと同じホテルに泊まっていた。ホーチミンでは「サイゴン・ホテル」を定宿にしているという。ホテルの真ん前という気楽さもあって飲みながらの語り合いは深夜過ぎまで続いた。
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 1975年の解放以前はホーチミンはサイゴンといった。
 19世紀後半、フランスは清仏戦争でベトナムの宗主国であった中国を撃破して、仏領インドシナ連邦を形成した。ベトナムにカンボジアとラオスの一部を加えた地域だ。フランスがベトナムの文化や伝統を奪い圧政を敷くなかで、それに対抗する農民や労働者が活発な民族運動に立ち上がる。その中心人物がホー・チ・ミンであった。彼は1930年ベトナム共産党を結成して独立運動を展開する。
 1939年、第2次世界大戦勃発。翌年フランスがドイツに降伏したため、ドイツと同盟関係にあった日本は仏領インドシナに進駐して軍事管理下に置いた。私の父は召集されてこの地を踏んでいる。
 1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾すると、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言したが、旧支配国フランスはそれを認めなかった。8年間におよぶ第一次インドシナ戦争、フランスによる強硬な南北分割。南の国家であるベトナム共和国はアメリカを後ろ盾にファシズム的な支配体制を強める。これに対して、弾圧された農民や仏教徒らは対抗姿勢を打ち出し、1960年に南ベトナム解放民族戦線を誕生させる。ベトナム戦争の始まりだった。
 世界が冷戦の真っ只中にあった当時、アメリカは有名な「ドミノ理論」(南ベトナムを東南アジアの共産化阻止の砦とする)を展開してベトナム介入を正当化した。ケネディ暗殺の後を引き継いだジョンソン・アメリカ大統領は、1964年8月に「トンキン湾事件」をでっち上げて、ベトナム戦争に全面的に介入する。
 1968年、解放戦線はサイゴンをはじめてとするゲリラ戦を仕掛けて徹底抗戦に打って出る。

 その頃、私は静岡県の熱海市にいた。箱根のホテル勤務をやめて、小さな飲食店で働き始めたのだ。店は毎夜、ベトナムからのアメリカ軍の帰休兵で賑わった。横須賀に入港した若い兵士たちが、死の恐怖からの束の間の解放を酒と女で紛らわせていた。兵士たちの飲み方は乱暴だったが、年上の女たちはそれ以上に乱暴に兵士たちの持ち金を吐き出させていた。
 ベトナムにおける残虐な無差別攻撃は日本でも報じられていた。民間人の大量虐殺、生きたまま眼をえぐる拷問、吊るしぜめ。乳房を抉り取り腹を切り裂いて内臓を取り出された女性の写真も私は見ていた。それらの写真は、1964年(昭和42)1月25日発行の『歴史の告発書』(ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査日本委員会・編 労働旬報社発行)などに掲載されていたのだ。
 しかし、店に来る私と同年代の若いアメリカ兵と、戦場での残虐行為は結びつかなかった。休暇が終わると彼らは再度ベトナムへ向かう。「怖い・・・」と顔をゆがめて涙を浮かべた一人の兵士に、私は神社のお守りを持たせたこともあった。

 その後、世界的な批判の高まりのなかで、アメリカはベトナムからの撤退に向かう。そして、アメリカの後ろ盾をなくしたベトナム共和国は無力になり、1975年4月サイゴンが陥落。ベトナム戦争は終結した。
 翌1976年ベトナム社会主義共和国が成立すると、南ベトナムの首都だったサイゴンがホー・チ・ミンに因んでホーチミン市と改称された。

 路上のカフェで、外山ひとみはバイクのスーパーカブでベトナムを縦断したことを語った。別れ際には東京・新宿で開催する写真展での再会を約束した。それは果たせなかったが、ある時、週刊誌のグラビアで彼女の写真を見た。刑務所を取材したものだった。

 先月、新聞に外山ひとみの新著「ニッポンの刑務所」(講談社現代新書)の紹介記事が載った。10年以上にわたって、国内各地の刑務所・少年院を訪れ、職員や受刑者ら現場の声と姿をまとめた一冊とある。「起床から就寝まで可能な限り取材した。私ほどしつこく取材する人はそうはいない。ディープなんです」と、外山ひとみは記者にこたえている。(新潟日報/2010年5月14日付)

「サイゴン、深夜の路上カフェでビールを飲んでいた」。外山ひとみの著書『ヴェトナム台風』を紹介するネットのページに、そんなフレーズがあった。「同じ空気を吸って、同じ目線からヴェトナムの人たちと出会いたい!それには庶民の足であるバイクが一番。カブに乗って南から北まで行こう。バイクでヴェトナムを縦断しよう」とも。
 深夜の路上カフェは、まさに私たちが出会って飲んだ「サイゴン・ホテル」前の路上に違いない。彼女がバイクの旅を終えた一年後の頃だ。

 今、外山ひとみは「刑務所の写真展」を全国各地で開催している。
 精力的な活動している彼女に、「シン・ナン・コック!(乾杯)」
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by yoyotei | 2010-06-09 19:42  

パラソルの下で

 新聞の天気欄を見ると一週間先まで晴れマークだ。気温は最低最高とも日ごとに1度ずつ上昇の予報。天候不順が続いていただけに気分も晴れやかになろうというものだ。庭先にパラソルを広げて、本を読みパソコンに向かう。傍らでは犬が椅子に寝そべっている。樹木はたっぷりの陽光を浴びて若葉を輝かせ、孔雀サボテンは真紅のつぼみが今にもはじけそうだ。ラジオが鳩山首相の辞任を伝えた。顔や上半身を新しくつくろってみても、下半身が前政権と同じような構造では「腰砕け」にもなるだろう。冷えたビールでも呷って昼寝でもするか・・・。

 そんなふうに書けば優雅に思われるかもしれないが、内情はそうでもない。長く続く不況は私の店も直撃し、客足の激減は明日を限りなく不安にさせる。どこもそうだよ、と慰められても、だからといって不安が去るわけではない。なんらかの手を講じなければと思っても、特に才覚があるでもないし、発奮するにはもう若くないなどと、煙草をくゆらせて考える風を装う。
「インドでは乞食までもが哲学者の顔をしている」という旅行者に対して、わけ知り顔の人は「馬鹿をいってはいけない。彼らは空腹で表情をつくる余裕もないだけだし、夢も希望も失ってただ呆然としているだけなのだ」と突き放す。自分もインドの哲学者の顔に近づいてきたかもしれない。
「私は依然として偶然をあてにして、幸運をよすがとして生きている」とは、「ペンのゆすり屋」とも「ジャーナリズムの祖」とも称されるピエトロ・アレティーノの言葉だが、私自身もそのようなものだ。依然として幸運が舞い込むことを期待している。
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 ヨーゼフ・ロート(1894~1939)に『聖なる酔っぱらいの伝説』という中編小説がある。                         (池内紀・訳 1989 白水社)
 セーヌ川の橋の下で暮らすアンドレアスは、気まぐれな紳士から200フランの金を貰い受ける。宿無しではあっても「誇り高い」アンドレアスは返済しなければ気がすまない。紳士は礼拝堂の聖女テレーズ像に返してくれればいいといって姿を消す。奇蹟の始まりだった。久しぶりに金を手にしたアンドレアスは酒場へ繰り出す。正真正銘の飲んだくれなのだ。次には数年ぶりに理髪店に行きヒゲを剃り、いつもとは違う上等の酒場へ行く。そこでの立ち居振る舞いは、かつて身に備えていたものだ。
 酒場で一人の紳士が声をかけてきた。引越しの手伝いをしてほしいという仕事の依頼だ。二日間の仕事で手伝い賃は200フラン。紳士が前金の100フランを取り出す財布を見て、アンドレアスも財布を手に入れようと思い立つ。いまや金を持っているし、さらにもっと手に入る見通しもある。
 財布を売る店の娘は、アンドレアスの身なりを見て、うるさい客が取替えに来て残していった新品ではない財布を取り出す。ろくに品定めをすることもなく、その中からひとつを買ったアンドレアスは無造作にポケットに入れた。その夜はモンマルトルの女たちがいる酒場で気前よく振る舞い、一人の女を選んで朝まで過ごした。
 引越しの手伝い仕事が終わると、紳士の妻は5フランのチップまでくれた。二日目には約束どおり残りの100フランが支払われた。その夜にもしたたかに飲み、懐のあたたかいアンドレアスは少々高いホテルに泊まった。
 翌日は日曜日のミサ。200フランを聖女テレーズに返さなければならない。礼拝堂に行くと、間が悪いことに最初のミサが終わったばかりで、次のミサまでには1時間もある。飲んだくれはここでも酒になる。それでも今日の務めを思い出すと礼拝堂に向かう。すると「アンドレアス!」自分を呼ぶ声がする。昔の女だった。その女のせいでアンドレアスは刑務所に行く羽目になったのだった。しかし、二人はすぐにアンドレアスが刑務所に行く前の状態に、つかの間だけ戻る。飲んで食べて、映画を見てダンスホールへ行き、また飲んで・・・。聖女テレーズに返す金はなくなってしまう。
 しかし奇蹟はなお起こり続ける。すっからかんになったアンドレアスが左側の内ポケットに手を入れると財布が入っていた。先だって買ったものだが、買っただけで忘れていた。開いてみるとなんと1000フラン札が一枚。余裕を取り戻したアンドレアスは、同郷出身で今やパリでは有名なサッカー選手になっている学校仲間を訪ねる。彼のはからいでの優雅なホテル暮らし。それでも誇り高いアンドレアスは日曜日になると聖女テレーズに200フランを返そうとするが、宿無し仲間の邪魔が入ったりで果たせない。そして飲む。素寒貧になる。奇蹟はまた起こる・・・。

 ヨーゼフ・ロートは、ロシアとの国境に近い東ガリシア(現在のウクライナ共和国)に生まれた。ユダヤ系オーストリア人。ウィーン大学に学び、第一次世界大戦に従軍した後、ジャーナリストとして活動する一方で、小説を次々と執筆した。政治的にはシオニズム思想を支持するが、多民族が共存していたかつてのオーストリア・ハンガリー帝国に郷愁を抱き続けた。ヒトラーの政権掌握後はフランスに亡命する。パリでのロートは毎日のように襲われる自殺衝動から逃れるため大量の飲酒を繰り返す。そして飲酒による急速な健康悪化のなか、ホテルの玄関をでたところで倒れた。流浪のユダヤ人の45歳の短い生涯だった。
 28歳のときウィーン生まれのユダヤ人女性フリーデリケと結婚したが、妻は精神異常の兆候を示し、ナチス政府の制定した「遺伝病防止法」によって精神病院で殺されている。ロートの死の翌年だった。

 愛すべきアンドレアスはどうなったか。それはここには書かないが、訳者・池内紀は作者ロートの原寸大の自画像だという。
次々と奇蹟のような幸運が訪れるなどということは現実にはない。だからこその願望、疲れた大人の寓話だが・・・。

 ボーッとしていたら「これ使わない?」と、妻がなにやらくれた。200フラン?奇蹟の始まり?
 それは商品券だった。まあいい。だが、私はアンドレアスのように誇り高くはないから返す気はない。
 
  
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by yoyotei | 2010-06-03 19:51  

この世のものとは

「この世のものとは思えない・・・」
83歳になる老学者は何度も口にした。確かに、その学校の在りようは「異界」にあるかのように、教育の理想のひとつを具現化していた。山形県の山奥にある「基督教独立学園高等学校」(以下「学園」)である。東京大学で教育学を研究してきた老学者、コペンハーゲン(デンマーク)の大学で教鞭を執る現役教授、退職高校教師などでその学校を訪れた一日。5月も末ながら小雨模様の肌寒さもなんのその、なにやらため息にも似た、ぬくもりのある感動を味わった。老学者の「この世のものとは思えない」との感慨につながるものは、私には「ため息」だったかもしれない。
 専門の学者の訪問だったからか、学校長をはじめ90歳近い女性教師からも懇切な応対にあずかった。その女性教師の「私は生徒によって今も変わり続けている。頂上が十合目だとしたらまだ私は二合目か三合目にいる」との謙虚さは、柔和な表情もあいまって学園での生徒との向き合い方を物語った。
 
 内村鑑三(1861年~1930年 無教会キリスト教の創始者)の「読むべきものは聖書、学ぶべきものは天然、為すべきことは労働」を信条に、奥地伝道を開始した1924年(大正13)、生徒2人から始まった1934年(昭和9)の開学、「基督教独立学園高等学校」として認可された1948年(昭和23)から今日までの歴史は、250ページ近い「年表」に詳しい。私は一気に読み終えた。「読む年表」と記されていたが、まさに苦難と喜びが織り込まれた歴史ドキュメントだ。

「学校要覧」から<建学の理念>を紹介すると「神によって創られた人格」の尊重を自覚せしめ、天賦の個性を発展させ、神を畏れるキリスト教的独立人を養成する。上記の内村鑑三の信条のごとく、聖書と自然と労働をとおしての人間教育と、真理としてのキリスト教の伝道をめざす、とある。1学年25名を定員とした3学年75名の生徒が寮生活をしながら、36名の職員とともに労働・教育にあたる。携帯電話は禁止、一対一の男女交際も禁止、マンガ、雑誌の寮への持ち込みも禁止となっている。また、受験教育は一切しないというのもこの学校の大きな特徴だ。朝・夕・日曜の礼拝、牛・豚・鶏の世話、米や野菜作り、製パン、炊事など、学園共同体を支えるための労働作業も多くある。「憲法勉強会」など平和を学ぶさまざまな行事もある。
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「学園」訪問の折に、同行の教授から資料として「内村鑑三と鈴木弼美」なる一文を頂戴した。著者は前野正(山形大学・明治大学教授 1984年没)、学園で講師をつとめたこともある、学園創設者・鈴木弼美(すけよし)の支援者の一人だ。1955年(昭和30)に雑誌『聖約』に掲載されたものだ。
 そのなかに、同じ山形県の山間村落にあった「山びこ学校」が取り上げられている。「考える人間」を作ろうとした無着成恭(むちゃくせいきょう)の実験校だ。
『無着は弼美と同じく、迷信と貧しさから農村を救うためには「考える人間」を作らなければならないと考えた。しかし、その方法に於いて弼美と対蹠的であるは興味深い。彼は「生活綴方」なる児童文学運動をテコとして、児童たちが取囲まれている因習や貧困を手がかりとし、(略)現実を凝視することから「考える教育」を始めた。(略)社会科は村の「お光りさん」から説き初められた。国語科は自分の生活を綴ることからはじめられた。算数は村人の貧乏の原因を究明することからはじめられた。すべてが自分達の生活の中から、生活に即して、生活のためになされた。弼美にあっては未だ聞いたこともない基督教を真向からうたい、偏狭な山村の子弟に世界的視野を与え、かつて夢想だにしなかった新しい思想と文化に触れさせようとした。おのずから前者の即物的教育とは正反対に理念的たらざるを得ない。(略)無着は生徒の中に下って生徒と同じ地平で考え、弼美は生徒に手をさし延べて自己と同じ高さに引き上げようとする。革命家と警世家との相違であろうか。いずれをよしとし、悪しと決めるわけにはゆくまい。が与えられた思想より生れ出た思考が素朴であっても粗雑であっても強靭であることを忘れてはなるまい。「新しい村造り」にはその土地から生まれた農民の智慧こそ最も大きい力を持つものである』
 前野正も基督者であったから、「山びこ学校」を対蹠的に評価をしながら、『種を播こうではないか。御心であれば神は砂漠も花咲く園となし給う』と、弼美へエールをおくっている。

「山びこ学校」(上山市立山元小中学校・2006年小学校閉校・2009年中学校閉校)は前記のように、無着成恭の旧山元村立山元小中学校での6年間の生活綴り方運動によって世に知られた。後に「全国子ども電話相談」の回答者として、ラジオでの独特の語り口は今も私の記憶に新しい。
 この「山びこ学校」の初期の卒業生の一人と、私はブナの保存運動を通じて知り合った。蓬髪に長いヒゲをたくわえた彼を運動仲間は「仙人」と呼んでいる。多様な社会的知識と自然に対する畏敬、平和運動に携わる一方で詩を綴るという、多才で魅力的な人物である。
 曹洞宗の寺に生まれた無着は、1987年からは僧侶として教育についての発言を続けているらしい。無着とは現在も親交があるという「仙人」に、今度会ったら彼のもたらしたものについて聞きたいと思う。

「学園」の年表に知人の名前があった。歯科の学校医として長く学園に通い続けた人だった。私の住む町で開業していたが、すでに天に召されて久しい。生前、彼が語ったことがあった。「子どもは神からの預かりものです。大切に育てて神にお返ししなければなりません」。クリスチャンであった彼の言葉は重く心に響いた。育児放棄や虐待は、子どもを私物視する意識からも誘発される。

「この世のものとは思えない」と語った老学者に、後日電話で伺った。
 こんなむちゃくちゃな世の中に、あのような学校が存在していた、信じがたいというのが率直な真意と受け取れた。
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by yoyotei | 2010-06-02 11:47