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佐渡

 ヘッドライトの中で、それは逃げると思った。だが逃げなかった。開いた口から舌が垂れ下がり、見開いた目は、じっとこちらを見つめている。「わーっ」と叫びながら、私はあわててハンドルを左に切った。「どうしたの」。助手席の女性が驚いて声をかけた。

 佐渡へは何度も行った。最初は冬だった。まだ箱根のホテルに勤務していた頃、数日の休暇がもらえた。なぜか雪が見たくなった私は東京へ出て上越線に乗った。トンネルを抜けてからは車窓に雪景色を見ながら新潟駅に降り立った。万代橋まで歩いて駅まで引き返した。『新潟ブルース』が流行っていた。歌詞に「万代橋」や「新潟駅」が出てくる。駅前のバス乗り場に佐渡の案内板があった。「佐渡」へは新潟市から行くのか、と思った。私の中では佐渡は寺泊とだけ結びついていた。休暇の日数と所持金の額を計算して、佐渡行きを決めた。
 冬の日本海は荒れていた。持ち上がり落下し、右にゆれ左に傾く船の船室で船に乗ったことを後悔した。船室にじっとしていられず、甲板の舷側で波しぶきを浴びながら両津に着いた。1人だけいた客引きに連れられて行った旅館は他の客の気配もなく、ひっそりとしていた。宿の人にすすめられて尖閣湾までバスに乗った。映画『君の名は』でロケがあったという吊り橋を渡り、風と波の荒涼とした風景の中で「揚島」と書かれた木の標柱にしがみついた。人影はなかった。
 その夜は布団のなかで一晩中波の上にいるように身体が揺れた。翌日の船は荒天で欠航した。

 新潟の県北に住むようになってからも佐渡へはよく行った。何度目かの佐渡も夏の真っ盛りだった。冬の佐渡は最初で懲りていた。
 両津市(現在は合併して佐渡市)立間(たつま)に友人の生家があり、夏の数日を空き家になっているその生家で過ごすことになった。店の客たちに声をかけ、男女交えて7、8人の若者が車に分乗して佐渡に渡ることになった。だが、そのうちの1人が、仕事が終わらないと行けないということだった。彼女は食堂で働いていて、仕事が終わってから乗ることのできるカーフェリーは最終便だった。佐渡観光ベストシーズンの夏になるとカーフェリーは増便され、最終便は両津港到着が深夜近くになる。その時刻に両津港に迎えに来てくれるのなら、是非行きたいということだった。店の客でもあり、私はそれを引き受けた。立間には以前にも行ったことがあり、海岸線の道路を走ったこともあった。

 後から来る彼女1人を除いた私たちは、穏やかな真夏の日本海を快適に渡って両津港に入った。立間の友人が先導して彼の生家をめざした。両津の町を抜けてから、おやっと思った。友人の車は海岸線に向かわず、山間の道に入っていったのだ。しばらくして友人の車が停車し、これから峠越えをするという。最近、ようやく車が通れるようになった峠越えの道は、所要時間が海岸線の半分ですむのだと説明した。
 彼に従って車は山道を進んだ。人家はすでにない。鬱蒼と道路を覆うように伸びた樹木で、夏の昼間だというのに薄暗い。当時、乗っていたカー・クーラーのない年代物のフォルクス・ワーゲンに吹き込む風が寒いほどの冷気を帯びている。私は夜のことを思った。深夜にはこの道を後から来る女性を迎えに行かなければならない。しかも、1人でだ。
 薄気味の悪い道はカーブも多い。カーブを回るたびに変わる視野は未知の気味悪さをもたらす。ようやくにして峠の頂上に着いて、友人は車を止めた。眼下に日本海が広がった。うねって下る道が見え隠れしながら小さな集落につながっている。赤玉集落だ。立間は赤玉から海岸線を、さらに東に行った隣の集落になる。峠からは右手に道が伸びていた。池があるのだという。こんなところに池が・・・。
 峠を下る道はまだ舗装されていないところもあった。カーブの多い道だけに真新しいガードレールが随所に設置してある。

 立間に着いて、私たちはすぐに海に向かった。立間は観光客もなく、地元の人たちも生業としての漁はほとんどしていない。海はサザエや鮑の宝庫だった。アワビは海になれた立間生まれの友人が、サザエは私が獲った。ヤスで魚を突くのも佐渡の海の大きな楽しみだ。この地では「弓ヤス」という独特のヤスを使う。
 夜の宴会はそうした海の幸で盛り上がったが、私は酒も飲まずに最終フェリーでの彼女の出迎えに備えていた。しかし、あの気味の悪い峠越えの道を思うと気はすすまない。酒を飲んで上機嫌になっている若者たちに、両津港まで一緒に行かないかと声をかけても取り合ってくれない。立間の友人までもが、確かにあの道は気味が悪い、特に夜は、などと不安を煽る。さらに、頂上の池には因縁めいた言い伝えがあってなどと悪ふざけもいう。
 私は意を決して、深夜を待たずに早い時刻に両津港へ向かうことにした。遅くなればなるほど、気味悪さは増す。両津港で時間をつぶしても、帰りは彼女が同乗する。2人なら心強い。

「早めに行くよ」と、私は立間を出発した。赤玉までは海岸線を走る。このまま海沿いを走っても両津には着く。時間的にも充分間に合う。しかし、暗い道は海岸線も同じだった。私は赤玉を過ぎて峠の道にハンドルを切った。登りはまだ背後に赤玉集落のわずかな灯が見えていた。だが、未舗装部分の荒れた道を大きく曲がると、その集落の灯も消えた。峠の池への分かれ道は闇の中に消えていた。こんなところで、なにかあったら、パニックになるかもしれない。私は、もう半分は来たと自分に言い聞かせながら、鬱蒼とした林の道を下って行った。すれちがう車は1台もなかった。
 両津港は明るく賑わっていた。数件の食堂も開いていた。私はぶらぶら歩いたり、ベンチに坐って時間をつぶした。
 最終フェリーから彼女が姿を見せたときには、もう峠越えの気味悪さは消えていた。
 しかし、助手席に彼女を乗せて両津の町を離れ、鬱蒼とした林の道に入ると、やはり気味悪さが戻ってきた。それは彼女も同じのようであった。
 彼女がつぶやいた。
「気持ちの悪いところだね。よく1人で来れたね」
 それが呼び水になった。船の中で読んでいた女性週刊誌に怪談特集が載っていたと、彼女が話し始めた。
「ある人が投身自殺の名所といわれている所へ行ったんだって。少し先の岩壁の上を見ると人が立っていて、妙な予感がしたものだから、思わずカメラを向けたの」
 私は押し黙ったまま車を走らせた。
「カメラのファインダーの中で、岩壁に立っていた人が海に向かって身を投げたの」
 車は峠に向かって登って行く。
「その人は反射的にシャッターを切ったの」
 話の結末はなんとなく予想できた。
「写真屋さんにプリントに出し、数日たって受け取りに行ったんだけど、あの身投げの写真がなかったんだって」
 私の予想通りだった。だが、彼女の話にはその後があった。
「岩壁の写真は写っていませんでしたかと聞くと、写真屋さんは少し口ごもって・・・」
 もうすぐ峠だ。
「写っていましたが、お渡ししていいのかどうか。ここにありますがご覧になりますか」
 ヘッドライトに峠の池に向かう道が浮かび上がった。
 彼女は話し続けた。
「写真に何が写ってたと思う?」
「さあ」
 私は不機嫌になっていた。よりによってこんな話を、こんなときにしなくてもいいではないか。
 彼女は、私の不機嫌には気づかないで先を続けた。
「岩壁から離れて海に落ちていく人が写っていて、その海からおいでおいでをするように無数の人間の手が伸びていたんだって」
 
 車は峠を越えた。はるか先に夜の日本海が月明かりに暗く銀色に輝いている。その海から無数の人間の手が突き出している光景を想像して私はブルッとした。道は日本海に続く闇に飛び込むように下り、山肌を折れるように左に曲がっている。ヘッドライトがガードレールを白く光らせたとき、ガードレールの下に犬の顔が見えた。犬は白と黒の斑(ぶち)で、大きく見開いた目がヘッドライトに光り、こちらを睨みつけている。口から舌を長く垂らし、ハアハアと大きく息をしている。「逃げろ!逃げろ!」と心で呼びかけながら、私はガードレールに接近した。

 それは逃げなかったのだ。ガードレールに激突する寸前で私は叫びながら左に急ハンドルを切ったのだった。
「どうしたの?」と驚く彼女に、私は「犬がいたんだ」と答えた。
「野良犬?」「野良犬ではないと思うよ。白黒の斑だった」「そんな犬がこんな山の中にいるの?」「うーん、すぐ下に家があるからね」
 だが、赤玉集落はすぐ下ではなかった。峠を越えたばかりで、下っても下っても赤玉には距離があった。

「狢(むじな)が化けて出たんだよ」
 立間の友人はそう言って笑った。私は何かを見間違えたのだろうとも思った。それにしてもリアルで、「ハアハア」という息づかいまで聞こえたようだった。

 二日後の昼過ぎ、私たちは立間を後にして、峠越えの道に入った。あの「犬」を見たカーブで、私たちは車を止めて降りた。昼の明るさで見るその場所はガードレールが道の端ぎりぎりに設置してあり、その向こうは垂直の崖になっていた。犬がガードレールの下から顔をのぞかせるには、両の前脚を崖っぷちにわずかにかけ、懸垂をするように腕を曲げて体を持ち上げるしかない。
「犬ではとても無理でしょう」
 みんなの一致した見解だった。いったい私が見たのは何だったのか。

 そのときを最後に佐渡へは足を運んでいない。別にあの道が怖いからではなく、機会がないだけなのだが・・・。 
 

  
                                                   
 
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by yoyotei | 2010-08-19 10:52 | Comments(2)  

「プレミアムパーティー」を終えて

「ようこそのご来店ありがとうございます(拍手)。昨年の夏、帰郷した娘たちが突然、パーティーをしようよと言い出しました。長く続く不況で店の客足も下降気味。元気をなくしていた父を励ましてやろうとの、ありがたい娘心でありました。当日のご案内にもかかわらず30名ものご来店をいただき、またあれこれとお祝いの品々まで頂戴しました。これに味を占めまして(笑い声)、今年は早々とパーティー開催を決め、昨年は一日だけだったものをなんと今回は3日間の開催とおおいに欲張ったわけであります(爆笑)。そうした魂胆を知っておられたのかどうか、こんなに大勢様にご来店いただき、まことにありがとうございます(爆笑)。
 感謝の気持ちを表すために、私は娘たちにいくつかの提案をいたしました。大抽選会をおこない、特賞の方には「豪華ハワイ旅行」をプレゼントしてはどうか、というものでした(大歓声と大拍手)。・・・娘の1人に張り倒されました(爆笑))。そんな余裕がどこにあるんだ!というわけであります。それでは今夜いらしてくださった方全員に、ウイスキーを1本づつおみやげにお持ち帰りいただこうと提案いたしました(歓声と中ぐらいの拍手)。・・・もう1人の娘におもいきり股間を蹴り上げられました(爆笑)。なにええ格好してるんだ!とのことだそうです。それではということで、料金を少し下げたらと恐る恐る申し出てみました(笑い声)。案の定、いちばん目方の重い娘からボディ・プレスを喰らい(爆笑)その上、少しでも儲けて孫に小遣いでもやろうとは思わんのかいと、大きな尻で背中をぐりぐりやられました。(大笑い)
 そんなように、私の提案は娘たちにはことごとく不採用になったわけですが、みなさんには死ぬほど飲んでもらおうと、それこそ命がけで申し出たところ、これだけはすんなりと同意をいただきました。そういうわけで、どうかみなさん、今夜は時間の許すかぎりゆっくり飲んで語っていただきたいと願うところでございます。お隣に見知らぬ顔がありましたら、さりげなく足元をごらんになってください。お盆であります。もし足元がボーッとかすんでおりましたら、あちらの方面からの一時帰省の方です。いろいろとお話をお聞きになるのもよいかと思います。私たちもかならず行くところであります。(大笑い)・・・」

「プレミアムパーティー」は、こんな私のあいさつを織り込みながら、3日間を盛況のうちに終えることができた。さほどのもてなしができたわけではないが、「毎月やった方がいいよ」といった積極的なコメントもいただいて本当に嬉しい3日間だった。最終日には子連れのファミリーや、同窓会の流れまで乱入(?)して予想外の賑わいとなった。その日は孫娘2人もかいがいしく手伝ってくれた。中学1年生の孫娘が「じい、よかったね」と言ってくれたのも、通称「カールママ」(このブログ<犬のボトル>参照)も「マスターよかったね」と我がことのように喜んでくださったことも嬉しさの極みだった。
 娘たちはともかく、長女の夫までも貴重な夏休みをこのパーティーのために費やしてくれた。ありがたいことであった。
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 パーティーを終えてひとり静かな感慨にふけった。私は居酒屋の亭主だが、必ずしも接客業に向いているとは思っていない。客とは真剣に議論するし、ときには激論になることもある。この商売のタブーといわれる宗教や政治の話も避けることはしない。客には人として人間として対応することを心がけてきたつもりだ。
 日にちを間違えて、パーティー前日に来て、我が家に泊まっていったある人が、10数年前に私が言ったことを思い出させてくれた。それは、アンブローズ・ビアスの「悪魔の辞典」の1項目、バーテンダーの定義だ。いま原典にあたる余裕がないが、それには「バーテンダーとは、死にたいと思った人が最後に相談する相手」といった記述があった。バーテンダーは飲み屋の親父でも同じことだ。もとより私はカウンセラーでも精神科医でもないし、人生の達人でもない。だが、話相手になろうという思いはある。飲んで心をほぐして語り合う。それだけでも人は救われることがあるし、何かが見えてくることもある。

 石川啄木の『一握の砂』に「こころざし得ぬ人人のあつまりて酒飲む場所が我が家なりしかな」という短歌がある。もちろん「こころざしを得た人人」とは、共に喜び合おう。ただ「こころざし得ぬ人」が、より多いのがこの世の現実だ。あらためて「夭夭亭」を、喜びや失意や挫折、迷妄を語る場所として存続しなければと決意している。
 人生の旅はまだまだ続くかもしれないし、突如として明日終わるかもしれない。いずれにしろ旅は道半ばだ。これまで多くの客が私の旅の道標だった。私が客の旅の道標になることはあるだろうか。少しでもそのようになれたら本望だ。

 ある日本人のオートバイライダーが、オーストラリア大陸を横断していた。向こうから白髪をなびかせた老ライダーが走ってきた。2人はバイクを停めてしばし語り合う。別れ際に日本人ライダーがいう。「まるで少年のようですね」。老ライダーが笑いながらこたえた。
「ああ、少年になるまでに80年かかったよ」
 私の大好きな話だ。いい年をとりたいものだ。
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by yoyotei | 2010-08-19 09:18 | Comments(2)  

長崎、そして・・・

 高校の卒業を数日後に控えた早春、仲のいい4人は卒業記念旅行と洒落込んだ。44年も前のことだ。行先は漠然と北九州一周とした。九州横断道路が開通して間もない頃だったと記憶する。旅の足はなんと乗用車であった。その「三菱ミニカ」の軽乗用車を、運転免許を持っていたIが所有していたのか、誰かに借りてきたのかは定かではない。それにしても、この時代に地方の高校生が車の免許を持っていたことの方が異例だ。しかし、それだけではない。Iは時おりオート三輪車トラックで通学していた。もちろん学校には内緒であったが、「車での通学は禁ずる」というような生徒規則はない。禁ずるまでもなく、そういう生徒がいるなどとは学校も想像していなかったはずだ。
 三輪トラックは彼の商売用であった。
 中国山地の広島との県境近くに生まれたIとは高校に入学して知り合った。叔父の家に下宿して汽車で通学していた彼と、同じ列車に乗る私とはすぐに親しい友人になった。彼の口癖は「10代で家を建てる」というものだった。彼の家の事情は知らなかったが、小学校のときに学級費を払うために学校へ米を持っていったことがあると聞いたことがある。昭和30年代の山間部ではそうしたこともあったのだろう。学校側が米を受け取ったのかどうか。それにしても「10代で家を・・・」という目標は、私には驚きだった。
 
 3年生になると彼はすでにして商売人だった。当時、徐々に普及し始めたテレビや冷蔵庫などの販売を始めたのだ。高校生が店舗を構えて本業にするわけではないから、注文を受けてから仕入れに行くという、無駄のない商売だった。分厚く膨らんだ通学カバンには電化製品のパンフレットや発注伝票などの商売用品が詰め込まれていて、教科書などはそのなかに埋もれていた。学業はそっちのけであった。
 仕入れに付き合わされたことも何回かあった。放課後、彼の運転する三輪トラックで広島県の問屋まで行き、商品を積み込むとトンボ返りで、真夜中の山道を帰ってくる。ハンドルをさばく彼の横で、「なんて大人なんだ・・・」と思わないわけにはいかなかった。
 ときには、彼の大盤振る舞いにあずかることもあった。高校のある町に1軒だけあった焼肉屋でビールを飲み焼肉をむさぼったときには、襖障子で目隠しされた小座敷から出るに出られなくなったこともある。カウンター席に高校の教師たちが陣取ってしまったからだ。
 成績不良で卒業が危うくなり、彼の父は酒を持参して担任に泣きついたという。彼の卒業が決まってから、私たちは旅に出たのだった。

 旅立ちの前にクラスの女子生徒たちにお願いをした。長崎の原爆病院に立ち寄るから千羽鶴を折ってほしいというものだった。日ごろの私たちを知る女子生徒たちは目を丸くしたが、千羽鶴はすぐにできあがった。間じかに迫った卒業を前に、私たちには殊勝な気持ちが少しばかり湧いてきていた。

 岬を大きく回ると、突然、長崎の町の灯が見えた。宵闇に町の灯は丘に向かって広がっていた。賑わう夜の長崎をめぐりながら車の置き場所を探した。その夜の寝場所でもある。格好の広場が見つかったのは深夜になってからだった。小さな車内で坐ったまま眠るのが、この旅のいつもの夜の過ごし方だった。
 翌朝、光の中に見上げるような像があった。みんなが声を上げた。台座に坐った巨大な像は、右手を高く天に掲げ、そのひとさし指は天を貫くように屹立している。左手はなだめるように諭すように水平に伸ばしている。平和祈念像だった。車を止めた広場は平和公園だったのだ。私たちは千羽鶴を持って祈念像と共に写真を撮った。その後、原爆病院に行ったが、病院の玄関を入ることにはためらいがあった。素直に善意をあらわすことに照れくささがあった。私たちは、たまたま通りかかった白衣の女性に、黙ったまま千羽鶴を押し付けるようにして、その場を逃げるように立ち去った。千羽鶴に下げた白いテープには、「早く良くなってください。島根県立○○高校卒業生一同」と書いた。
 旅は何日間だったのか。別府、雲仙、阿蘇、新緑にはまだ遠い枯れ色の中の九州横断道をひた走り、大村湾をカーフェリーにも乗って渡った。当然ながら、Iがひとりで運転を続けた。

 その時から2年にもならない頃、Iの訃報を受け取った。私は大阪の学校を中途で止めて上京し、不安定な生活を続けている頃だった。わずかな金を握り締めて彼の郷里へ向かった。何本も列車を乗り換え、最後の駅からはバスに乗って彼の郷里に着いた。葬儀が終わって数日が経っていた。Iの父親は山路をたどって、私を林に導いた。わずかな空き地に、真新しい土が小さく盛られてあった。父親は枯れ枝を拾うと、その土の上に線を描きながらつぶやいた。
「ここに頭が・・・」。つぶやきは、すぐに涙声になった。彼の郷里では当時まだ土葬だった。
 その夜、彼の遺影が置かれてあるという親戚の家に泊まることになった。帰りのバスはなかった。酒を振舞われながら突然の死の様子を聞いた。就寝中の心臓発作だったという。少し酔って仏壇の写真に向かったとき、私は泣き崩れた。

 わずか20歳で夭折したIの「10代で家を・・・」の夢は実現半ばだったようだ。クラスメイトを笑わせてばかりいて、楽天的に見えた彼だったが、人にも私にも言えない何かがあったのではなかったか。彼は母の話をしなかった。彼の遺影が掲げてあったのは彼の実家ではなかった。彼には家がなかったのか。彼はちょっとした苛立ちや怒りをぶちまけるとき、決まって口にする言葉があった。それは「家に火をつけてやる!」だった。

 弔問の翌朝、親戚の人に、私は一枚の紙幣を差し出した。
「これ、Iの香典に・・・」
 そして、泣きたいような恥ずかしさで続けた。
「でも、半分だけ返してください。それがないと帰れません」
  
 今日8月9日は長崎に原爆が投下された日だ。祈念式典を伝えるテレビには、あの「平和祈念像」が映し出されていた。あの像の前で眠り、あの像の台座によじ登り、友人たちと写真を撮った。そうしたさまざまなことが思い出された。思い出の中心にIがいる。
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by yoyotei | 2010-08-09 22:10 | Comments(4)  

居酒屋味酒覧から

 このブログを始めて、およそ10ヶ月になろうとしている。ブログのタイトル「夭夭亭」の店名の由来は以前に紹介したことがあるが、店そのものの宣伝らしきことはしないできた。期待を抱いて来店され、失望を与えてしまうことを極度におそれる私自身の性格にもよるし、店は私が創造した作品のようなものでもあり、自画自賛になることを避けてきたことにもよる。だが、今月は「プレミアムパーテイー」もあることだし、おもいきって「夭夭亭」なる店を紹介しようと決断した。それでも、やはり自己紹介はおもはゆい。ここは他人の目、第三者の客観的印象にゆだねるのが、私自身も気が楽だ。そこで取り上げるのは『太田和彦の居酒屋味酒覧(みしゅらん)精選173』(新潮社 2008年)だ。

「静かな町、村上にもう一軒すてきな店がある。通りのはずれに意表をついたように建つスペイン風の館「夭夭亭」は村上に30年以上も続く欧風居酒屋だ。中は広く、天井は高い吹き抜けで二階席もあり、ミニコンサートもできるそうだ。レストラン顔負けの本格オープンキッチンで作る「キーマカレー」や「バトーラ」という揚げたナンはやめられないうまさ。テキーラはレモンをかじる本格派。ブラジル酒ピンガやワイン、地酒もある。インドを中心に世界を放浪しているという自由人マスターは、笑い顔のいい明朗な好漢で、カウンターに坐った私は二分で友達になった。欧風に南米やインドのテイストがまじった雰囲気は、気持ちをおおらかなコスモポリタンにさせ、バカ話がはずむ。夜おそくまでやっているので、ぜひお訪ねを。ただしマスターの放浪休暇あり」

 著者の太田和彦氏は日本各地の酒場訪ね歩きをライフワークにし、多くの著作がある。上記の著書はその集大成とある。著書に取り上げられる以前にはCSテレビ・旅チャンネル「全国居酒屋紀行」で放映されたが私は見ていない。それらはDVD『太田和彦のニッポン居酒屋紀行』(全5巻)になっているそうだが、これも私は見ていない。

 実は、先夜もこの本を持参のお客が来られた。東京から秋田方面への旅の途中で、当地の岩ガキを堪能された後での来店だった。深夜遅くまで飲みながら語らううちに、日本海に浮かぶ粟島へ渡ることにされたようだった。粟島は作家椎名誠氏が何度か訪れたこともある人口400人ほどの島で、今がベストシーズンだ。
 昨年は俳優の角野卓造さんが、やはりこの本で知ったと、テレビ番組の収録の合間に一人で来られた。角野さんは太田和彦さんとは親しい友人だという。東京生まれの大阪育ちで、東西文化の違いなどで話がはずんだ。同世代ということだけでなく、彼の人柄や話題の豊富さが酒を飲みながらの語らいを楽しく充実させる。今年も6月末に、来店されて往年のフォークソングなどを歌いあった。
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 角野さんは文学座の舞台俳優で、井上ひさしの『虐殺組曲』の舞台が一段落した合間をぬっての来店だった。この夜の同行は地酒「大洋盛」の社長と醸造部長。
 フォークソングといえば、1昨日の夜には4月にこのブログ「ギターを抱いた渡り鳥」で紹介した歌手楠木しんいちさんがフラッとやってきた。金沢市でのライブが終わり、足が私の店に向いてしまったということだった。近頃は20歳になる娘さんも同じステージに立つことがあるそうだ。午前3時まで飲んで語ってわが家にお泊り。翌日も夕方までビールを飲みながら、海に行ったりして語り合った。知的で繊細な語り口は私とは違うが、ヒゲといい頭の被り物といい風貌はよく似ている。
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 昨夜は東京都羽村市から二人の若者が・・・。そのうちの一人、進(しん)さんはカクテル屋『無々(ないない)』のマスター。お連れは店の常連さんで新潟県直江津の出身。驚いたことにマスター進さんは、私と同じ島根県の出身者、それも私の生誕地に近い大田市だという。嬉しい出会いに時間も忘れて午前2時。進さん、ハムラ君、「フィル・ミレンゲ(また会いましょう)!」。この次は、あのトランプ・マジックの種明かしをするね。

 今日も朝から暑い・・・。
 昨夜、瀬波温泉のホテルへ帰る羽村市からの二人にタクシーで自宅まで送ってもらったので、午前7時ころから店まで散歩がてら車を取りに行った。この時期、土の中から這い出したミミズが灼けたアスファルトの上で死んでいるのをやたらと目にする。今朝も店への道すがら、10匹前後の干からびかけた死骸を見た。前から気になっていたのだが、いったいどういう現象なのだろう。土が熱くなって逃げ出したものの、逃げ出した先がアスファルトの灼熱地獄、引き返す間もなく無念の悶死、ということなのだろうか。NHKラジオの「夏休み子供電話科学相談」に年齢を偽って訊いてみようかと思う。

 あっ、店の宣伝が今回のテーマだった。「2010プレミアムパーテイー」。開催を3日間に延長しました。12日(木)、13日(金)、14日(土)です。時あたかも盂蘭盆。13日の夜は店先で「迎え火」でも焚いてみようか。あちらからの客も大歓迎です。

夭夭亭が紹介されているサイト
Yahoo!グルメ~インドに超はまっている、団塊世代の超変わっているマスター経営の欧風居酒屋。~
トーキョー喫茶 夭夭亭-村上(新潟)

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by yoyotei | 2010-08-06 11:25 | Comments(3)  

暑い!

 天正10年(1582)4月、織田信長の勢によって、甲斐(山梨県)恵林寺(えりんじ)の僧たちは山門に追い上げられ火をかけられた。このとき快山禅師は法衣を着て扇子を持ち、端座して発した。「心頭を滅却すれば火もまた涼し」。これは、唐詩「夏日題悟空上人院詩」の一節「安禅不必須山水 滅得心中火自涼」が原典だと思われる。
 わが家が禅寺の参道に面していることは以前このブログでも書いたが、禅寺の本堂はともかくとして住職家族の住居にエアコンがあるのかどうか。
 隣家の元高校教師宅にはエアコンはないということだ。「扇風機は使っていますが・・・」と伺ったことはあるが、この夏の暑さもそれで乗り切っておられるようだ。

 仏教の一派である禅宗は、インドの達磨が中国に伝え、栄西・道元・隠元らが日本に伝えた。そのインドの暑さはどんなものか。酷暑の時期(5月、6月、7月頃)に行ったことはないが、『上海の西、デリーの東』(素樹文生・著 新潮社 1996)によれば、著者は、釈迦が悟りを開いたブッダガヤで48度を経験したそうだ。日なたでは、と宿の屋上に温度計を出しておいたら、管が破裂してしまったという。日本でもこの夏、熱中症で命を落とす人があるが、インドでも数百人単位の人が暑さで命を失う。同書には「なにも死ぬのは人間だけではなくて、動物だって死ぬし、植物だって干からびて死ぬ。電線にとまった小鳥がボトボトと地面に落ちて死ぬ。犬も死ぬ。山羊も死ぬ」とある。
 この時期にインド西部のタール砂漠地帯を行く列車に乗った体験を聞いたことがある。冷房のない2等車では天井の扇風機が熱気をかき回している。それにもかかわらず窓を閉め切ったままだ。あまりの暑さに耐え切れなくなった、その日本人旅行者は意を決して窓を開けようとした。そばにいる乗客たちはなぜか、口をそろえて「やめろ、やめろ」と阻止する。しかし、暑さの中に密閉されて気が狂いそうになった日本人は制止を振り切って開けた。どうなったか。なんと、砂漠で灼かれた熱風が猛烈に吹き込んできたという。「・・・だろう?」というインド人たちのしたり顔の中で、彼はあわてて窓を閉めるしかなかったという。そうしたことはバスでも同様だそうだ。
 夜になるといくらかは涼しくなるが、それでも40度前後はある。「ベッドに敷いたままののシーツにバシャバシャとじかに水を撒いて、それからシャワーを浴びたあとの濡れた体のままゴロリと横になって、その気化熱の涼しさの中で眠る。そんなことをしても三時間ほどするとすっかり乾いてしまって、また暑くなり眼を覚ましてしまう。もう一度水を撒く。眠る。シーツが乾いて眼が覚める。それを二、三回繰り返すと夜明け頃になって少しばかり涼しくなり、やっと本当の眠りにつくことができるのである」(前書)

「夏の日の午後。むし暑さを含んだ空気は、少しの風さえも起こそうとせず、じっと立ちどまったままだった」。こんな書き出しで始まるショート小説「暑さ」(星新一著)は、最後のところで、鳥肌が立つような涼気をもたらす。
 おとなしそうな若い男が交番にあらわれ、巡査に声をかけた。「私をつかまえていただくわけにはいかないものでしょうか」。巡査は「なんだって?いったいなにをしたんだね」と問いかける。「いえ、まだなにもしていません」「なにもしていない人をつかまえるわけにはいきません」「いえ、いまにも自分がなにかしそうなのです」。男と巡査との間にこんな会話が交わされる。耐え難いむし暑さの中で、人がなにかとんでもないことをしそうな気持ちになることは、巡査にも理解できる。だが、やはり、なにかしそうだというだけではつかまえることはできない。そこで男は話し始めた。
「ちょうど1年前の、こんな暑い日。私は飼っていた猿を殺しました」。猿を殺したって罪にはならないと、やはり巡査はり取り合わない。現在なら「動物虐待」で罪に問われるだろうが、この小説が書かれた当時、それはなかった。男は続けた。
「私は子どもの頃から暑いのがいやで、頭がぼんやりし、とてもいらいらしてくるのです」
 特にそれがひどく、なにかをしなければならない衝動が強くなるという男は、ある夏の暑い日、ふと畳の上をはっているアリをみつけ、つぶしてみた。すると、それまでのいらいらが、嘘のように消え、その夏はすがすがしい気分で過ごせた。次の年の夏、いらいらが高じてきた男は前年のことを思い出してアリをつぶしてみた。だが、だめだった。ところが偶然カナブンをつぶすと、それからは前年と同じようにすがすがしく快適な気分で夏を過ごすことができた。なにやらコツのようなものがわかってきた男は、翌年の夏には近所の子どもからカブトムシをもらい、それをつぶすことで夏のいらいらを抑えることができた。
「おととしの夏は犬を殺しました。(これも今なら動物虐待だが・・・)その頃になると、すっかりなれてきて、次の年の準備をはじめるようになっていました。秋になると猿を飼ったのです」「とても殺す気にはなるまいと思いましたが、暑さが高まるにつれ、いらいらを押さえることはできませんでした。私は猿を絞め殺してしまったんです」
 そして、男はさらに巡査に頼み込む。「私を逮捕してください」。しかし、なにも事件をおこしていないと、巡査は男に帰宅をうながす。
 しかたなく、帰ろうとした男に巡査はなにげなく聞いた。
「家族はあるんだろう」
「ええ、昨年の秋に結婚して・・・」

 40年以上も前に読んでブルッとした記憶があり本を探したが見つからない。図書館で探し出してくれたのが、『奇妙な味の小説』(吉行淳之介編 立風書房 1970)で、その中に収められていた。
 それにしても暑い。エアコンを効かせた部屋に犬と一緒に閉じこもっているから、なんとかしのげるが・・・。お隣さんは80歳代の老夫婦だが、頭が下がる。冒頭の「心頭を滅却すれば火もまた涼し」を平易に言い換えれば以下のようになる。
「無念無想の境地にいたれば、火さえも涼しく感じられるの意で、どのような困難、苦難に遭遇しても、それを超越した境地に入れば、少しも困難、苦難を感じないことをいう。
                              (『日本国語大辞典』 小学館)
 今朝、隣のご主人がステテコ姿でゴミを出しておられるのに遭遇した。「おはようございます」のあいさつに、「暑いですね」はない。心頭を滅却され、超越の境地におられるのかも知れないが、かの快山禅師は焼け死んだ。「ご自愛を・・・」と、隣から祈るしかないか。
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by yoyotei | 2010-08-04 11:00 | Comments(0)  

2010プレミアムパーテイー

 昨年の夏、3人の娘たちが帰省した折、「プレミアムパーテイー」を開催しました。当日になって案内をするといういささか乱暴なパーテイーでしたが、30人を超える人たちが集まってくれました。「今年もしようよ」という娘たちの応援を受けて、ちょっと早めに計画をしました。

 なにかが起こる!なにかが生まれる!<span style="line-height: 1.2;"> 
 開店36周年記念 プレミアムパーテイーのご案内
        時/8月12日(木)&13日(土)
       両日とも午後7時30分スタート  料金/3.600円(1日分)

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 *私が旅をしてきたアジアの国々の料理を味わっていただきたいというのが、今回のコンセプトです。飲みながら語り合ってきた人たちには同窓会、若い人たちには出会いの機会になればと願っています。飲んで食べて語って、ちょっと騒いで・・・。アジアンテイストで盛り上がりましょう!
 とまあ、こんな企画です。一晩では席を用意できないおそれがありますので(笑)、2日間にわたって開催します。
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by yoyotei | 2010-08-02 11:44 | Comments(2)  

釣り


 30年来の常連さんから55センチを超える黒鯛を釣ったという報告がありました。
 近年は黒鯛釣りをすることはほとんどなくなりましたが、かつては釣り上げる夢をみるほどに熱中したものです。警戒心の強い魚で、それだけに釣ったときの嬉しさは格別です。豪快な引きも黒鯛ならです。僕の記録は48センチが最高で、そのときは11枚も釣りました。同行した釣り仲間も9枚を釣り上げました。公務員をしていたその仲間は、朝起きると海の状態を観察し、今日は釣れそうだと判断すると、年休をとって僕を迎えに来たものでした。何度もチャレンジして空振りに終わった挙句の、二人で20枚の釣果は歴史に残る快挙でした。
 まだ車の免許を持っていなかった頃には、仕事に出かける妻に朝から釣り場まで送ってもらい、夕方仕事帰りの妻に迎えに来てもらうまで、釣れても釣れなくても一日中海にいるというのめり込み様でした。それでもなかなか釣れないのが黒鯛です。55センチを釣った常連さんの尋常でない喜びは当然ですし、よく理解できます。
 
 30年前に釣り仲間と「村上釣友会」を結成しました。毎月の例会があり、春のフナ釣りから始まり、磯の小物釣り、防波堤、ハゼ釣りなど、簡便で身近な釣りを楽しむ会です。7月の初めには「キス釣り」でしたが、僕はカレイが1匹釣れただけでした。悔しさもあって翌朝午前5時ごろから一人で別の釣り場に行きました。その時の釣果が下の写真です。その後もたびたびキス釣りにいそしんでいます。
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「釣友会」も長い間にはさまざまなことがありました。元旦から吹雪の中での初釣り、テントを張っての夜釣りや、釣り船での鯛釣り。
 すでに他界した仲間もいますし、コンスタントに上位の釣果を上げる仲間の一人は、今喉頭がんで入院中です。
 この間の日曜日は、これも例会の「キスを釣って食べる飲み会」を瀬波温泉の海水浴場でおこないました。魚が釣れた時の嬉しさや楽しさはあるものの、最近は釣り上げた魚の眼が恨めしそうに見えることがよくあります。「ばかなやつだな、不運なやつだなあ」と、心の中でつぶやきます。それでも食べるとキスはうまい。僕のモットーは「釣ったら食べてやる」です。仲間にはどんな小さいキスでも、ちゃんと開いて中骨を取って天ぷらにしてくれる器用な料理好きもいます。この日の例会でも、賑わう海水浴客を眺めながら、熱々の天ぷらを頬ばりました。酒を飲む会はいろいろありますが、笑いの絶えないおおらかな飲み会はそれほど多くはありません。僕には釣り仲間との飲み会がいちばんです。
 下の写真は3日前の釣果です。最大は26センチありました。塩焼きで食べましたが、大きいからといってうまくはありません。
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by yoyotei | 2010-08-02 10:14 | Comments(2)