<   2011年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

 

墓地散策

 陽気がよくなってきたので犬と連れ立って散歩に出る。犬は7歳ぐらいになるオスのシーズーで名前は「なめろう」という。このブログではおなじみの私の愛犬である。陽気がよくなくても、朝の放尿排便にはいっしょに外に出るのだが、今のような時季にはそれだけが目的ではないから散歩ということになる。
 ほんとうはいけないことだが、なめろうにはリードをつけない。したがって車がひんぱんに走る大通りへは向かわないで、反対方向のお寺へ進み墓地に足を踏み入れる。私の家がお寺の参道に面していることはここでも書いたことがある。もっとも、なめろうは通りの方へは家の敷地から7、8メートルほどのところで足が止まって、そこから先へは行かない。自転車や郵便配達のオートバイが家の前を通るとダッシュして追いかけることがあるが、そのときですらほぼ同じあたりで追いかけるのをやめる。そこから追い出しさえすればなめろうにとってはひとまず自分の領地を守ったことになるのだろう。どこか意気揚々といった様子で引き上げてくる。かつて何度かリードをつけて連れ出したこともあるが、やはり同じ地点から歩くのを拒み「伏せ」の姿勢になる。そのあたりが自分のテリトリーの境界、そこから先は異界であって自分の力量のおよぶところではないと心得ているようでもある。
c0223879_2137041.jpg

 そこへいくと、山の斜面に広がる墓地では我がもの顔でどんどんと先にすすむ。そして、立ち並ぶ墓石に隠れてしまう。初めの頃はなめろうに誘導されるように墓石の間を縫って追いかけていたが、近頃は姿が見えなくなっても平気だ。しばらくほおっておいてから「なめっ、なめっ」と呼ぶと、どこからともなく姿を現してキョトンと私を見上げる。
 そんなふうに、なめろうを墓地で遊ばせながら、私はちょとした墓石観察をしてみる。お盆や彼岸の時季以外は墓参者の姿はないから不審に思われることはないし、お寺はご近所さんである。
 まず墓石の正面にはどんな風に刻印されてあるか。正確に数えたわけではないが、いちばん多いと思われるのは「先祖代々之墓」だろうか。つづいて「○○家之墓」も多い。比較的に墓石が新しいものではただ「○○家」というのもけっこう目につく。わざわざ「墓」と断らなくても、というささやかな主張を感じる。それはそうだ。こんなところに石塔を建てて墓以外になにがあるだろう。「○○家之墓」は、いってみれば家の表札に「○○家之家」と掲げるようなものだ。もっとも犬小屋に「ポチの家」と書くことは昔からあった。ちなみになめろうは、私が見るかぎり墓石にむかって放尿したことはない。なめろうですら墓だとわかるのだろうか。わかるはずないとはいえ、えらいものだ。
「先祖累代之墓」というのもある。「代々」と「累代(るいだい)」とはちがうのか。「広辞苑」にあたってみた。【累代】「代をかさねること。累世。代々」【代々】「新旧相次ぐこと。世々。歴代」とあった。同じようでもあるし、ちょっとちがうようでもある。
 近年の流行なのか、洋風横長型も目につく。正面に「和」とか「清」とか大きく一字だけ刻印されて、その右下にちょっと控えめに「○○家」とある。「和」が比較的に多いが、これは墓に入った霊たちが仲良くするようにという建立者の願いだろうか。まさか、霊の方からの生きている者たちへの、遺産相続などで争いはしないようにというメッセージでもあるまい。まあ、○○家においては和を家訓としていますとのアピールと思えばそれなりの納得はいくが、墓石に家訓を刻まなくてもとの思いも残る。
「感謝」というのもあるが、これは建立者から先祖へということだろう。この洋風横長型は建立年月日と建立者の名前が真裏に彫られてあって、四角柱の伝統的和風墓石では同様のことが左横に刻印されてある。
 小さめで「○○信士」「○○信女」と、戒名が正面に仲良く並んだ墓があった。夫婦だったのだろうか。同時に亡くなったというのは考えにくいから、成長した子どもたちが、親亡き後に建立したのだろう。少数派だが「○○家之霊位」というのもある。また、これもさほど大きくはないが、正面に十字を掘り込んだものがあった。右横には「私はよみがえりであり命である ヨハネ」という聖書の一文らしいものが読み取れた。クリスチャンも仏教徒とも同じ墓地に眠っているのだ。
 他を圧して背の高い墓石には「故陸軍歩兵上等兵勳八等○○○○之墓」とあり、横の面には「明治37年○月○日 於清国○○高地戦死」と刻してあった。兵隊の身分のままで墓に納まるということは名誉の戦死であって、誇らしいことだったのだろう。これも時代ではある。墓石をながめていたら、この上等兵はあの世への入り口で「自分は帝国陸軍○○連隊・・・・であります!」と敬礼したのかも知れないと思ってしまった。

 実をいうと墓石を観察したのにはきっかけがあった。俳人尾崎放哉の「墓のうらに廻る」という、代表作のひとつとされる句の鑑賞をめぐる本に遭遇したことである。『海へ放つ 尾崎放哉句伝』(小玉石水著 春秋社 1994)がそれだ。
 尾崎放哉(1885~1926)は鳥取県に生まれ、一高、東大法学部を卒業して日本通信社に就職するが、役人の権威主義に腹を立て一ヶ月で退職。その後生命保険会社などに就職、そこでも会社不適合で離職。晩年は寺男をしながら、短律・自由律俳句に独自の句境を生んだ。代表作とされる句には「墓のうらに廻る」のほかに次のような句がある。
 たった一人になり切って夕空
 入れものが無い両手で受ける
 咳をしても一人
 春の山のうしろから烟が出だした
 
 その本でさまざまな鑑賞を読みながら、句の奥にある作者の気持ちを読み取ろうとする鑑賞者の洞察力に、私はウーンとなかば呻いてしまった。
「墓石の裏に回るという行為のみを表に出して、そういう行為をする人の心理が現されている。墓地に入ったとき、ふとある墓の前に立ちどまる。そして、次の瞬間、別にこれといった目的意識なしにその墓石の裏に回るという心理が働くのである」
「人は墓地などに詣ったとき、何ということなしに墓のうらに回ってみたりするものである。碑だったら、なにか由来など記してあるが、墓のうらには、殆ど何もないだろう。それでもともかく何かあるとまわってみたりする人間の好奇心というものは妙なものであると、放哉は軽く揶揄しているのかもしれない」
 なるほど、そういわれれば私も墓の周りを回っている。
「墓地では誰でもよく経験する行為だが、この句の場合、暗いイメージが漂っている。うらへ回ればそれきり帰ってこないような、死のイメージである」といった鑑賞もある。
 なめろうとの散歩だからか、暗いとか死とかのイメージはさほどないが、私の場合は墓石やそこに刻まれたものから、死者のなにかしらを窺い知ろうとしている自分に気づく。  
 
「放哉はおそらく、生涯この世の営みに心をとられ、そこから目をそらすことができなかった人だ。しかも、そういう己を自嘲しながら、なお世捨て人になりきれず、俗にも徹しきれず、中途半端な生を苦しくも酒に紛らわしつつ、泥まみれの生をのたうちまわった人である」(前出書)
 放哉ほどではないにしても、私からして中途半端な自分に嫌気がさすことはままある。酒に逃げ込み、酒に紛らわしながらどうにか大きな破綻からかろうじて逃れているといったところなのだ。まあ、ここで放哉と自分を引き比べてみても仕方がない。もとはといえば愛犬なめろうとの墓地での散歩と、放哉の句「墓のうらへ廻る」との連想から書き始めたこの一文なのだ。
 そこでこの際、無聊にまかせて『尾崎放哉全句集』(伊藤完吾・小玉石水編 春秋社 1993)により、全1314句から「犬」を詠んだ句を拾い出してみた。

  のら犬の背の毛の秋風にたつさへ
  犬をかかへたわが肌には毛がない
  濠端犬つれて行く雪空となる
  霜がびっしり下りて居る朝犬を叱る
  犬よちぎれる程尾をふってくれる
  朝早い道のいぬころ
  いつしかついて来た犬と浜辺に居る
  迷って来たまんまの犬で居る
  山の匂いかぎ行く犬の如く
  犬がのびあがる砂山のさきの海
  堤の上ふと顔出せし犬ありけり
  犬が吠ゆる水打ぎわの月光
  犬が覗いて行く垣根にて何事もない昼
  稲妻や犬しきりなく椽の下
  いぬころの道忘れたる冬田かな
  山茶花やいぬころ死んで庭淋し 

 このなかから「犬よちぎれる程尾を振ってくれる」を私なりに鑑賞してみる。むろん俳句はつくったこともないまったくの素人である。
「犬がちぎれるほど尾を振るというのは、飼い犬であればしごくあたりまえのことだ。だが、この句で放哉は、犬よと声には出さないが呼びかけている。呼びかけるというより、ああ犬よというような感嘆がある。さらに尾を振ってくれる、それもちぎれるほどである。すぐれた句の条件が、景を詠って景に終わらず、情を詠って情に終わらず、というならこの句は犬の情を詠って自己の情を引き出している。自分のような者に対して差別も区別もなく尾を振ってくれる、ああ犬よ、といったところだろうか」
 放哉の略年譜から晩年をみる。
大正12年(1923)38歳  保険会社の支配人として京城(現ソウル)に赴任するが、禁酒の    誓約が守れずに解雇。この頃より湿性肋膜炎を病む。生活の当てを求めて満州に渡るが病状悪   化、内地へ引揚げる。やがて妻と別居し宗教組織・京都一燈園に入る。
  13年(1924)39歳 一燈園の縁で京都常称院の寺男となるが、酒による失敗で兵庫須磨    寺の堂寺へ移る。
  14年(1925)40歳 福井常高寺、京都龍岸寺を転々とし、小豆島土庄南郷庵の庵主とな    る。これより独居無言、読経と詠句三昧に入る。
  15年(1926)41歳 4月7日、島の老爺に看取られながら瞑目。
「犬よちぎれる程尾をふってくれる」は酒による失敗で兵庫須磨寺へ移った頃の句だ。酒による失敗は私にも大小さまざまある。激しい自己嫌悪と、衆人蔑視の意識に苛まれるなかで、ちぎれるほどに尾をふってくれる犬・・・。 
c0223879_7513621.jpg

 これらも墓である。「うらに廻る」どころか「周りを廻る」しかない。墓は大の字になって遠い空を見上げている。
 
[PR]

by yoyotei | 2011-04-27 21:38  

自分らしく生きよう!

 昨年あたりから来店してくれる、県の森林研究所の職員たちである。この夜は男ばかり4人で飲みに来た。およそ2ヶ月ぶりか。
私「男ばかりなの?」
職員A「マスターすみません」
私「べつに謝る必要はないけど・・・」
 そして、いつものようにこの有様である。
c0223879_14542193.jpg

c0223879_20533867.jpg

 翌日、また来た。
「マスター女性を連れて来ました」
 なにか、私のために調達したようではないか。嫌いではないからいいけど。
 この歩く人・佐藤由弘さんと笑顔で話している人がその女性だ。職場の同僚でYokoちゃんと呼ばれている。
c0223879_20553357.jpg

 Yokoちゃんは和歌山出身。それがなんと当地村上市の男性と結婚したのである。あっぱれYokotaさんというべきか。
 この日、佐藤由弘さんは奥さんの退職祝いであったそうだ。それが終わってからの来店でYokoちゃんと遭遇した。それにしても由弘さんのこの笑顔・・・。たまりません。

c0223879_20582127.jpg

 いわふね青年会議所のメンバーである。2011年のスローガンは「自分らしく生きよう!」。いいスローガンだ。このたびの大震災では、きわめて迅速に義捐金募集を開始。すぐれた機動力を発揮した。魅力的なイケメンたちを見て欲しい。
c0223879_2184112.jpg

c0223879_2193039.jpg
c0223879_1451749.jpg

 サンシンに挑戦しているこの人が、理事長・阿部義秋さん。
c0223879_1471447.jpg

 紅一点は「笑顔の架橋委員会」副委員長の大澤美恵子さん。ナン(バトーラ)を右手だけでちぎる技はみごとだ。食べっぷりも・・・。こんなにうまそうに頬張る女性はめずらしい。保険会社の営業主任というキャリアウーマンなのだ。
c0223879_14114270.jpg
c0223879_16591163.jpg
c0223879_14132320.jpg
c0223879_16453541.jpg

 レンギョウが咲いた。桜も見ごろ、木蓮も・・・。木々が芽吹き花が開き、景色の色が急速に変わる。それぞれ、みんな色も形もちがう。自分らしく生きよう!
[PR]

by yoyotei | 2011-04-23 20:43  

ブナと共に生きて

c0223879_20575198.jpg

  植えて20数年になるヒマラヤシーダが二階の屋根を超えるほどの高さになった。ほとんど枝打ちをしないものだからわずかばかりの庭は日陰が多くなっていた。この日、高いところが苦手な私に代わって友人2人が枝を切り落としてくれた。
 4本のヒマラヤシーダの枝打ちが終わると、あれも切るかこれも切るかということになった。樹齢25年になるナナカマド、窓を覆うゲッケイジュ、さらにこれも樹齢25年で近年は実をつけなくなったプルーン、虫がついていっこうに成長しないツゲ(もっともこれは妻が私にツゲずに切った)、スオウなどと、ほとんど手当たり次第に切りまくった。せっかく育ってくれたのに、ゴメンネという気持ちはあったが、庭は驚くほど明るくなった。伐採作業のあとはもちろん酒盛りであった。
c0223879_2112813.jpg

 そうして切ったおびただしい量の木々を、この焼却炉で燃やし続けた。焼却炉といっても側溝などに用いるU字溝に、古い土管を煙突代わりに置いただけのものだ。朝の6時にはこの炉に火を入れた。火を燃やす作業は実に楽しい。燃える火を眺めながらビールを飲み、私は「哲学者」になっていた。燃やし尽くすのに1週間以上かかったが、後半は妻も炉の前に1日中すわり続けていた。だが、この人が哲学者になったかどうかはわからない。
 たくさんの消し炭ができた。夏のBBQが楽しみだ。そのときはこの炉が焼き台になる。
c0223879_2151243.jpg

「村上釣友会」の新年度第一回の釣り例会は恒例の「フナ釣り」。だがこの3年ばかり釣果がおもわしくない。そこで今年は場所を替えて「石川排水機場」周辺とした。風は少し冷たいが、春の日差しは暖かい。空はあくまでも青く、土手には土筆(つくし)も・・・。
 会員たちはここぞという場所に期待をこめて釣り糸を垂らし、一心にウキを見つめ続けた。
c0223879_2174127.jpg

 だがウキはまったく動かなかった。場所を移動しながら規定の4時間、ウキを見つめ続けたものの、結局は参加者全員がボウズ。「まだ水温が低いのかな?」という分析もあったが・・・。期待はずれ、落胆のメンバーたちである。今月末の日曜日は同じメンバーで「海の堤防釣り」の例会だ。 
c0223879_219367.jpg

 その排水機の建物だ。流行り言葉でいうと「建屋(たてや)」ということになる。どこか外国の田舎にありそうな風情を感じた。もちろん、この建屋の内部に危険なものはない。
c0223879_21133274.jpg

 市内のある小学校のPTAご一行様である。総会の季節なのだ。PTAには私も長く関わっていたが、今でも「家庭・学校・地域の連携」といったことが課題になるのだろうか。「PTAとかけてなんと解く?破れたブラジャーと解く。そのココロは、時々乳(父)が出る」などと、面白くもない冗談を言い続けた教師もいたが、やはりオヤジの出番は切望されているのだろうか。
PTAは、また民主主義の学校ともいわれる。近年は「モンスター・ペアレント」などの存在も話題に上るが、PTAはけっして教師や学校に対して一方的な要求だけを突きつける組織ではない。
c0223879_21152398.jpg

 この人が私のブログにコメントを寄せてくれる「しんちゃん」だ。カメラを向けると必ず妙なポーズをきめる。ほんとうはとてもシャイな人なのだ。長くPTAの会長を務め、この日その任を終えた。車の整備会社を率いながら、空手の指導にも情熱を燃やす好漢だ。私の手ごわい論敵でもある。酒を飲みながらの論争はとどまるところを知らず、意見の一致をみることはまれだが、それでも、飽きもせずに同じパターンを繰り返す「しん&しんデュオ」なのだ。
c0223879_21184519.jpg

 事務局員として参加している「市民ネットワーク」の総会に今年は、この人吉川美貴さんに講演をお願いした。夫君と共に町おこしのリーダー的存在だ。「町屋の人形様巡り」「町屋の屏風まつり」「黒板塀プロジェクト」「町屋再生プロジェクト」など、次々と放つ「町おこし」のムーブメントは全国的に高い評価を得ている。
 講演も内容が濃く、うなずきながら拝聴しているうちに90分が過ぎた。地域の再生にはよそ者の発想が大切だということがよくいわれるが、神戸生まれの才媛が当地に嫁入りされたことから、目を見張るような町おこしの成果があらわれた。
 才媛といったが、夫君と共に全国の町おこし・地域おこしの実例約300ヶ所を実際に訪れ、検証分析したというから腰の据え方が本物だ。たまたまうまくいったというものではない。この日の演題は「先人のこころとと知恵に学ぶまちづくり」だった。「才色兼備」はこの人をいう言葉だ。
c0223879_20435233.jpg

 かつてのバレーボールチームのメンバーだ。店が混んで席がなければ新聞紙を床に敷いてでも飲んでいたあの時代。ギラギラと輝いていた青年たちも、それなりに歳を重ねた。10年20年たっても、こうして時々顔を見せてくれる。飲み屋冥利というものだ。
c0223879_2130022.jpg

 ミセスKawasakiさんとミスターMatumotoさんだ。Matumotoさんが7年前に妻をなくしていたことをこの夜はじめて知った。歳月と経験、煩悶と思索、希求と諦念。生きてきた人生が、それぞれの顔と表情をつくる。
 歩く人・佐藤由弘さんは、このMatumotoさんの叔父だった。
c0223879_21513696.jpg

 訃報が届いた。元新潟大学農学部教授丸山幸平先生が4月14日死去されたのだ。
 当地を流れる三面川の上流域で、国有林のブナ林が伐採されていることに、反対の市民運動を立ち上げた際、ブナの重要性やその生態系など、専門的分野から大いなる助力をいただいた。先生は、終戦後、スギなどの拡大造林が国策的におこなわれたころからブナに着目し、その研究に情熱を注ぎ続けてこられたのだった。国の担当者と対峙して意見を述べた際の迫力や説得力に、私はあこがれのヒーローをまのあたりにしたおもいだった。
 棺には愛用のハンチング帽がおさめられていたが、地下足袋はどうだったのか。山に入る時、先生はきまって地下足袋だった。眼光鋭く、見据えられたら身体が固まってしまうようであったが、時たま見せる笑顔の可愛さがたまらなかった。
 弔辞のなかで、あるエピソードが語られた。実習で森林に入ると、必ずといっていいほど学生たちに持参のマヨネーズをすすめたというものだ。「どうだうまいだろう」というのが口癖だったとも・・・。食文化研究者の奥さんの手づくりだったのだ。元祖マヨラーのちょっと照れた笑顔が浮かんでくる。
 写真の「新川通信」は大学退官後、事務局長として地域の町おこしに取り組んだ成果のひとつ。また町内の自治会長を務めるなど、死の直前まで書斎の人ではなかった。
 スケッチの腕は玄人はだしで個展も何度か・・・。年賀状にはきまってそのスケッチが印刷されてあった。今年はアビニヨンから50キロ離れた2千前の古代水道橋だった。さらに64ヶ国目となった海外旅行の報告も・・・。享年81歳。「頑固一徹だった」とは遺族のことばだが、私にとっては理想の人生のひとつだった。合掌。
c0223879_2020942.jpg
 
 わが庭のブナは新芽がまだ固い。
 土曜の夜、雨になった。明日は「お城山観桜会」があるのだが・・・。関係者にはうらめしい雨だ。
[PR]

by yoyotei | 2011-04-18 21:37  

魔法使いの青い玉

 フランスの寓話に、ある貧しい少年が魔法使いから一つの青い玉を授かったという話がある。その玉は耐え難い不幸に襲われた時に覗くと、世界のどこかで自分がいま経験するのと同じ不幸に耐えている見知らぬ人の姿が浮かんでくる。少年は玉に映るその姿に励まされて逆境に耐えていくという話だ。この寓話は、耐え難い不幸に襲われた時だけ映像が浮かんで来るところに意味がある。容易に耐えられるような不幸では青い玉はなにも見せてはくれない。
   
 東日本大震災では、耐え難い不幸に襲われた人々が、青い玉を覗くまでもなく、避難所などで苦難に耐えている。互いに励ましあい助け合っているのも青い玉の寓話とはちがう。青い玉は”苦しいのはおまえだけではない”という見知らぬ人の叱咤ともいえる励ましだが、被災者は同じ苦難に見舞われてしまった人たち同士なのだ。そして、そこには”苦しいのは自分だけではない”という、我慢を強いる構造もある。

 現代社会では多様なメディアが逆境に耐えて生きている人たちの存在を、ほとんど日常的に伝えてくれる。青い玉と違うのは、こちらが平穏で、不幸に遭遇してなどいないときに、とてつもない不幸な状況に置かれた人々が出現することだ。しかも、それらは自分には直接の関係がない。したがって、通常それらは一時的な感動や涙を呼び寄せた後に多くが忘れ去られる。いわゆる「対岸の火事」だ。

 だが、東日本大震災は、少なくとも今のところは「対岸の火事」にはなっていない。日本で起きた災害だから?それもあるだろう。あまりにも甚大で悲惨すぎる被害だから?それもあるだろう。重度の原発事故による見えない恐怖?それもある。過度な自粛による「二次被害」も・・・?
 それらも含めて、多くの人々が「他人事」とは感じていないようだ。体育館での集団非難生活も1ヶ月が過ぎた。すでに限界だろう。なんとかしてあげなければという思いで溜息が出る。
「寄り添う」「共感」「生きよう!」「ひとりではないよ」・・・。言葉にこれほど大きな力と重みがあることを、このような悲惨な状態でなければ実感できないのは残念だ。さまざまな奇跡が生まれ、人間のすばらしさが輝くのも、このような大災害という不幸のなかからというのも皮肉なことだ。
 
 ゴーストタウンと化した原発5km圏内の「双葉町」で徘徊するかつての飼い犬たち。牛も街中をうろついている。悲惨なのは小屋につながれたままの馬だという。飢えとストレスで異常をきたしているらしい。人間と共にしか生きられない動物たち。「おいて行かないでよ」「早く帰ってきてよ」。動物たちの哀願を誰よりも辛く受け止めているのは飼い主たちだ。

 かつて三陸海岸をドライブで訪れたことがある。松島から牡鹿半島に入り、金華山をながめてから更に北上して唐桑半島(宮城県気仙沼市唐桑町)を先端の御崎まで足を伸ばした。この一帯が大きな被害を受けた。記憶にある風景は一変した。

 被害を受けなかった私たちは偶然の幸運者でしかない。偶然の幸運者は不運だった被災者たちに教えられることばかりだ。助け合い支え合っての前向きさ、がまん強さ。泣くことさえままならない被災者の姿に、こちらが涙してしまう。

 大江健三郎が「ル・モンド紙」の質問に応えた談話を「私らは犠牲者に見つめられている」として『世界』(2011年5月号)が掲載した。質問「核エネルギーは地震や津波以上のカタストロフィーともなり、人類が作ったのです。日本は広島から何を学んだのでしょう」。大江「(略)日本は、広島から核エネルギーの生産性を学ぶ必要はありません。つまり地震や津波と同じ、あるいはそれ以上のカタストロフィーとして、日本人はそれを精神の歴史にきざむことをしなければなりません。広島の後で、おなじカタストロフィーを原子力発電所の事故で示すこと、それが広島へのもっともあきらかな裏切りです」 

 「広島への裏切り」。いま、福島原発事故は「フクシマ」と記されるようになった。「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」。あの歌を思い出す。「ふるさとの町やかれ 身よりの骨うめし焼土に・・・」。そして「三度(みたび)許すまじ原爆をわれらの街に」(「原爆を許すまじ」浅田石二・作詞)
 ゴーストタウンになった町を犬や牛が彷徨する。30年は住めないという政府の発言が、住民を絶望の底に突き落とす。

 すべての日本人が耐え難くなって「魔法使いの青い玉」を覗き見ることがあるかもしれない。そこに浮かび上がるのはどこかの誰かではない。おそらくは私たち日本人なのだ。 

c0223879_23474159.jpg

[PR]

by yoyotei | 2011-04-14 23:31  

春なのだ

c0223879_18551237.jpg

  肉親を失い、家屋を失い、どこまでも続く瓦礫や残骸の中にいて、いったい人はどんな心境になるのだろうか。あまりにも甚大な悲しみに襲われると人は往々にして涙も出ないという。あまりにも大きな喪失感には、ただ呆然と立ち尽くすしかないだろう。
 目標を設定し、努力を重ねてきた、その行為と成果が、一瞬にして崩れ去ることのむなしさ。
 だが、生きてあるものは生きなければならない。悲しみ、虚しさ、失意、絶望のどん底にあっても人は空腹と喉の渇きを覚える。それは生きようとする命の渇仰(かつごう・かつぎょう)だ。やがて、また新たな目標を掲げて人は努力を始める。尊いことだと思う。

 3.11以来、自粛ムードが広がる中で、イベントや歓送迎会の中止が頻発している。私の店も例外ではない。旅館やホテルでも、数百人規模のキャンセルが相次いでいるという。そうでなくても長期不況で苦闘を続けてきている飲食業界では、この時期はせめてもの稼ぎ時だったのだが・・・。
 二次被害という声も聞こえる。東京でデザイン会社を経営するIijimaさんも、仕事にならないと、あきらめ顔を見せた。自粛をしてもだれも喜ばない。経済活動を活性化しなければ被災地を支援する力もしぼむ。
 被災地以外でも雇用不安が拡大しつつあるという。命があること、仕事があること、家族があること、明日があること。それを感謝しながら、被災地でなくても元気を出して頑張らなくてはならない。
c0223879_18572032.jpg

 そうした中で、仲間内の送別会がないわけでもなかった。この夜は市内の総合病院の職員が二次会になだれ込んだきた。外科のManaさん、泌尿器科のKomatuさんが転勤する。

 その病院の院長夫人が釜石で地震と津波に遭遇した。幸い被害はまぬがれて、二日後には無事に帰宅できたとのこと。凄まじい轟音と流されていく人々。地獄を見たらしい。
c0223879_19471046.jpg

 店の常連さんであり、3年前にはインドへ同行した佐藤由弘さんが、月間情報誌『mr partner(ミスター・パートナー)4月号』(発行所株式会社ミスター・パートナー)のトップグラビアに掲載された。4年前に英国南西端ランズ・エンドから最北端のジョン・オ・グローツまで徒歩で縦断した彼を取り上げたものだ。前々回のこのブログ「一日難再晨」で「村上野道クラブ」の主宰者Satoさんとして紹介した人だ。30数年をかけて「日本100名山」すべてを登攀するなど、彼の「登る・歩く」ことへの飽くなき挑戦は衰えない。
 この英国徒歩縦断の翌年にはインド、その翌年にはネパール、さらに翌年にはサンティアゴ巡礼の道(スペイン)を歩いてきた。その間にも信濃川を河口から源流まで歩いたり、私の郷里・島根も歩いたりしている。
 5月4日には42Kmを歩く「大栗田十里遠足」が計画されている。今回で40回目の節目なのだそうだ。なかなかのものである。最初から欠かさず参加している佐藤さんは今回で1,680Kmを歩くことになる。この人、これまでにいったいどれだけの距離を歩いたのだろうか。
c0223879_1951524.jpg

 気仙沼市の沖合い1・8Kmの海上で、漂流物に乗っていた犬が救出された。ペットの被害も気になっていただけに、こうしたニュースは嬉しい。
 先日、週刊誌で瓦礫の中をドロだらけになって歩く犬を見たばかりだった。あの惨状の中を、一心に嗅覚を研ぎ澄ませ、飼い主を捜し求めて歩く犬の表情には鬼気迫るものがあった。

 新潟県の非難所(中越地方)にはペットのスペースが用意されている。阪神・淡路大地震でペットを避難場所へ連れていけない被災者が、ペットと車の中で過ごさざるをえなかったことを教訓に、中越地震のときからペットへの配慮を始めたという。いうまでもないが、飼い主にとってペットは家族と同じだ。

 家の近くでフキノトウを収穫した。なんといっても天麩羅がいちばんだ。春なのだ
[PR]

by yoyotei | 2011-04-02 18:58