<   2011年 10月 ( 11 )   > この月の画像一覧

 

酒場ジャック

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 ドクターや研修医たち。院長も一緒だったが先に帰宅した。眼鏡の女医さんは以前にもこのブログに登場してもらった耳鼻科医師のHirokoさん(2011年6月「金曜日の夜」)。まるで女子高生といった感じの彼女が、この夜はじめて年齢を打ち明けた。「うっそー!まじで?」。実年齢と見た目の印象のギャップをどう整理すればいいのか。外国へ行ったら小学生くらいに見られると思う。
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 この夜は、幸子さん(2010年1月ブログ「絆」に登場)が新しいパートナーを伴なって来店した。また、今年7月に事故で亡くなった吉川さん(「暗転!村上大祭」2011年7月)の奥さんも来られた。そこそこに忙しく、洗い物もたまっていたが、このドクターご一行が片付け、洗い物を完璧に成し遂げてくれた。右端でその洗い物に精出しているのは産婦人科のYumiちゃん。彼女とはインドつながりで、ベトナムへも同行した旅の相棒だ。「今度いつ行くの?どこへ行くの?」と言うのが、私への口癖だ。

 店を乗っ取られた状態のこの夜の私は、どうしていたのだろう。このようにして、いつのまにか誰かの店になってしまうのだろうか。
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by yoyotei | 2011-10-31 20:04 | Comments(2)  

秋の山

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 岡田知弘氏の講演翌日はブナ伐採跡地に、私たち「三面川の原生林を守る会」が植えたブナの苗木の状態観察と下草刈りに山に入った。新潟市からも10数人が駆けつけた。
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 前夜の酒が抜け切らない私は、火を焚いて味噌汁づくりを担当した。下草刈りを終えると大半の人たちははキノコ採りに散らばっていった。
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「鈴が滝」だ。いつもの年だと、この周辺はみごとな紅葉になる絶好のビューポイントだが、今秋はまったくさえない。気温の状態が紅葉を促すようになっていないらしい。黄色はあるが赤がほとんどないから、鮮やかな紅葉にはほど遠いのだ。
 11月3日には別の「会」で「紅葉ハイキング」へ行くことになっている。紅葉はすすむだろうか。 
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 稜線の木立は冬の気配だ。今年も後2ヶ月となった。
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by yoyotei | 2011-10-31 19:50 | Comments(0)  

岡田知弘氏講演

「私たちが住んでいるこの地域で子どもたちは健やかに育っているだろうか」「お年よりは安心して暮らせているだろうか」「若い人たちは将来に希望をもって働いているだろうか」
 こうした問いかけをして、今年7月に「村上・岩船自治体研究会」を立ち上げました。具体的には、地域の経済、医療や福祉、市や村の財政や施策などの現状を資料的に把握し、課題を探り、対策を考えてみよう、いわば、かつての受験用の参考書にありましたように、私たちの住んでいるこの地域の「傾向と対策」について探っていこうとするものです。
 その、底流に流れている思いは、「一人ひとりが生き生きとして暮らしているか」という「問い」でもあります。 
 講師としておいでいただいた岡田先生につきましては、この後、くわしく紹介がありますが、今日の日中には、新潟市での講演もあり、お疲れのところを村上にまで足を運んでいただきました。ありがとうございます。
 先生の著書の中に、「地域づくりは、地域を知り、学ぶことからはじまる」とあります。また「地域の<宝物>を探し、つなぎあう取り組み」など、各地の実践的な取り組みを紹介されながら、「地域再生」への道筋を提示されています。そこにあるのは単に経済の再生だけにとどまらず、「一人ひとりが輝く地域づくり」ということが究極の目標だと、先生の著書から私なりに読み取らせていただきました。

 今夜の講演会は「村上・岩船自治体研究会」のはじめての事業ということでもあります。また、「村上市民ネットワーク」との共催事業でもあります。これからの私たちの活動の道しるべになるお話が聞けると期待しておりますし、そうした中から、私たちの地域のこれからをみなさんといっしょに考えるきっかけにもなるのではないかとも思っています。
 本日の講演会にご参加くださったお礼を申し上げてご挨拶といたします。ありがとうございます。
「暮らしと地域を考える講演会」(2011年10月29日)での私の冒頭の挨拶だ。
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 岡田知弘氏(京都大学大学院教授)の講演は、90分の時間では足りないほどの充実した内容の話だった。それを要約することは私にはできない。ただ、岡田氏が用意したレジュメからいくつかの項目を抜き出せば話のテーマと向かうべき方向の提示は見えると思う。
1 なぜ、いま、地域づくりが必要なのか。2 地域が「活性化」する、「豊か」になるとはどういうことか。3 一人ひとりの住民の生活を向上させる地域再生に向けた戦略。4 地域づくりは楽しいもの。
 講演の最後に「未来が其の胸中に在る者之を青年と云ふ 過去が其の胸中に在る者之を老年と云ふ」(『無天雑録』植木枝盛)との言葉が紹介された。過去の出来事に思いがさかのぼって行くことが多い、最近の自分を振りかえざるを得なかった。
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 講演後は岡田氏を囲んで飲み会となった。
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by yoyotei | 2011-10-31 19:33 | Comments(0)  

夫婦百態

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『「広がりのある公」をつくろう』をメッセージに、NPO法人「都岐沙羅パートナーセンター」を運営する中心的人物のOtakiさん夫妻。かつては地域通貨やインド話の講演などで接触・連携があった。ホームページを開いてみたら「協働のまちづくりを考える」という新しいアクション・ワードが載っていた。私が代表をしている立ち上げたばかりの「村上・岩船自治体研究会」と接点がありそうな気もする。
 奥さんの気さくな人柄がいい。どこか少女っぽいところもいい。
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 きれいな方なので動揺していたら周りからひやかされた。お隣がご主人だと聞いて「むむっ」となった。もし「なんと不条理な」などと言ったら「どういう意味ですか」とご主人に怒られるだろうな。
 Otakiさんたちと同じく地域発信の活動に関わっておられるようだ。
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 Murayama夫妻である。ご主人は総合病院の院長。奥さんが「都岐沙羅パートナーセンター」の、これも初期からの主要スタッフだ。料理上手で有名だが、なにしろこの笑顔だ。周囲をなごやかに明るくさせる「おひさま」だ。
 このスナップの仲良しぶりは酒のせいだけではない。
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 結婚前後、よく遊んだものだ。信濃川だったか阿賀野川だったか「いかだ下り」をしたこともあるYamagaiさん、それと奥さんだ。ここのところ、奥さんと近所で顔をあわせることが多く、「会うときには会うんだね」と言っていたら夫婦で店にやってきた。夫婦での来店は何年ぶりだろう。
 この夜は社交的な面も見せた奥さんだった。高校の弓道部で出会ったと聞いていたと思うが、記憶ちがいではあるまい。いい夫婦になった。
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 店に入ってこられるなり私の手を握られた。顔の表情が崩れて涙がほとばしり出た。7月の村上大祭で事故死された吉川さんの奥様だった(ブログ「暗転!村上大祭」2011年7月)。彼女の来店は初めてであり、葬儀での面識は私の記憶にもなかった。亡くなった夫が好んで足を運んだ店。彼が好きだったその店に来た。夫の死を取り上げた私のブログも読んでいた。言葉を次いでは、涙声になった。

 中央は亡くなった吉川さんの妹を妻にしているKosakaさんだ。彼とは長い付き合いになった。スキーにもよく行った。あれは白馬だったか赤倉だったか。スキー仲間二組のプレ結婚式を画策して実行した。雪が降りしきる深夜、ブルトーザーを動かして「ウエディングベル」への道を除雪してくれたペンションの主人。Kosakaさんの温かいサプライズ企画はすばらしい。遊び心を形に作り上げていく才能の持ち主だ。他人をけっして批判しない人柄でもある。

 吉川夫人は秋田出身と聞いた。夫の死後、彼女は二人の生活の場であった御殿場を引き払って、夫の故郷であり、悲しい終焉の地となった村上に居を移した。夫婦の形は一様ではない。

 左はおなじみのMurayama氏。彼は「愛語」が好きだと私に語ったことがある。「愛語」とは、自らが仏や菩薩となって相手にかける言葉をいう。慈愛に満ちた言葉のやりとりで人間関係や夫婦関係を築くことができたらこんないいことはなない。 
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by yoyotei | 2011-10-31 19:25 | Comments(0)  

長唄を聞く

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「ピユー」
 空気を切り裂いたのは能管だった。髪をひっ詰めにした細面の顔には無骨に見えた黒漆の能管に、その女性は微動もしないで強い息を吹き込んだのだった。おもわず背筋が伸びた。
「村上 長唄の会」は「NPO三味線音楽普及の会」の人たちによって、老舗料亭・吉源で開催された。当地での開催に尽力した吉住小登知香さんことChikakoさんの招待を受けて、長唄をまじかに聞く機会を得た。なじみがないから、ほとんど唄の意味がわからない。意味はわからないが、厳しい稽古によって磨き上げられた芸の巧みさ、奥の深さといったものは感じ取ることができた。演目は「京鹿の子娘道成寺」「神田祭」。二人の外国人が来ていたが、「どうだ!」と日本の伝統芸能のすばらしさを誇りたい気持ちになった。
 Chikakoさんはリュウマチ治療を専門とする医師だ。若いころから三味線を習っていたことは聞いていたが、今回はじめて見事な撥さばきの披露に及んだ。アメリカ留学の体験を持ち、英語にも堪能でありながら、日本の伝統芸能を身につけるという、きわめて豊かな人生を送っている。

 この日は、ふるさと島根で高校の同窓会があった。今回は出席がかなわなかったが、「同窓会ブログ」にはアトラクションで演じられた「石見神楽」の画像があった。演目は「紅葉狩(もみじがり)」。
 中納言平維茂は、家臣を引き連れ三河遠江へと紅葉狩り向かう。道中、彩なす錦に心を奪われ、信州戸隠山へと迷い込み、その山中で紅葉狩りに興じる美しい女たちに出会う。勧められるまま維茂は酒宴に同席するが、この女たちこそ、その昔、維茂に都を追われた恨みを晴らそうと、戸隠山に潜んでいた鬼女たちだった。正体を現した鬼女たちは、酒に酔い伏した維茂に襲いかかるが、八幡大菩薩がその危機を救い、維茂に神剣を授ける。眠りから覚めた維茂は、授かった神剣で鬼女を成敗する、というのが「紅葉狩」のストーリーだ。(「いにしえの舞 共演会」平成18年12月3日のプログラムから)
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これは能の原作を神楽にしたもので、私はこの神楽「紅葉狩」を小学校の4、5年生の頃に初めて見た。神楽団に所属していたかなり年長の従兄弟が維茂を舞ったが、その夜の「紅葉狩」を鮮明に覚えているのは、女たちが鬼に変身したところで度肝を抜かれたからだ。そのときの神楽では、幕の陰に隠れた女が一瞬にして鬼の面をつけて現れた。その鬼面が1メートルもあろうかと思うほど巨大なものだったのだ。神楽は何度も見ていたが、それほど大きな鬼面は初めてだった。鬼はあたりを睥睨して「見~た~か~」と地の底から響くように叫んだ。鬼面の大きさに驚嘆し、その叫びに恐怖を覚えた。
「石見神楽」はほとんどの演目が悪鬼退治だ。悪鬼でなければ「ヤマタのオロチ」のように、人間に危害を加える大蛇だったりする。そして、子どもたちに人気があるのは、いつでも退治される鬼だ。これでもかと、おぞましく作られた鬼の面のなんと魅力的なことか。勧善懲悪などなんのそので、退治されるとき、這いつくばって断末魔の痙攣をする鬼に、私はかすかな憐憫を感じたりもした。
 従兄弟の維茂は直面(ひためん)になったとき、男ぶりがいいなと感じただけだった。
 
 当時、小学校の図工の時間で、この面を作ったことがあった。粘土で面の形を作り、その上に水で濡らした和紙を貼り付けていく。乾いたら粘土の型からはずし、胡粉を塗って表面を滑らかにした後に、色を付けていく。髪や眉などは棕櫚の木の皮をほどいて使ったように記憶している。
 私は、今でもこの鬼の面を作りたい誘惑にかられる。それも顔の2,3倍はある大きな面だ。
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by yoyotei | 2011-10-25 00:08 | Comments(0)  

原発講演会

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 9月19日の「さようなら原発6万人集会」(於・東京明治公園)で作家の澤地久枝は「わが子の健康を案じ、住むべき場所、食べさせるものに悩んでいる母親たちがいっぱいいます」と現状を訴えた。
 10月16日に私たちが村上市でおこなった、-放射能の汚染からいのちを守るために-「原発問題と放射能の被害」と題する講演会は参加者目標の100人をかろうじて達成した。講師の立石雅昭氏(新潟大学名誉教授・理学博士・「原子力発電所の安全管理に関する技術委員会」委員・「地震、地質、地盤に関する小委員会」委員)は、専門の地質学的見地から原発の危険性を強調した。
 私がコーディネートを担当した第2部では、福島から自主避難している二人の女性から発言があった。「経済的な理由や家庭の事情で避難したくてもできない人たちが大勢いるのです。子どもたちや妊婦さんたちを守って下さい」と、ときおり声をつまらせながらの悲痛な訴えだった。
 小さい孫が福島で暮らしているという女性は、「外に出られない、長袖、マスク」で過ごしていた、この夏の孫たちの様子を語った。
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「6万人集会」には、福島から幟(のぼり)をもって数百人が参加した。「ハイロアクション福島原発40年」の武藤類子さんは、会場でのスピーチで「この事故によって、大きな荷物を背負わせることになってしまった、子どもたち、若い人たちに、このような現実を作ってしまった世代として、心から謝りたいと思います。ごめんなさい」とした上で、「私たちとつながってください。(中略)きょうは遠くニューヨークでスピーチをしている仲間もいます。思いつく限りの、あらゆることに取り組んでいます。私たちを助けてください。どうか福島を忘れないでください」と訴えた。

「ハイロアクション福島原発40年」は、『福島第一原発1号機が40年を迎えるのを機に、廃炉と廃炉後の地域社会を考え、行動しようと呼びかけます。1号機が運転を始めた3月26日からスタートし、1年間福島県内外各地で展開します。3月26日・27日のオープニングイベントを皮切りに、1年間、各地で趣旨に賛同する様々な企画の情報を発信し、来るべき「廃炉の時代」に向けて、希望ある「ポスト原発社会」のヴィジョンを多角的に描きます』(ホームペーから)。
 なんということだ。「ハイロアクションは原発事故の4ヶ月前に立ち上がっていたのだ。3、11をどんな思いで受け止めたことだろう。
 「助けてください」という渾身の叫びを、原発を推進してきた政治家、企業、学者たちは、聞く耳を、受け止める心を持っているのだろうか。
 
 村上の講演会では終了後、発言をした福島からの避難者を何人かの女性たちが取り囲んだ。私も「なんとか力になりたい」と声をかけずにはいられなかった。
 
*冒頭の写真の中に重大な誤りがあります。講師の名前、立石雅昭さんの名前の「昭」の字の旁(つくり)、刀の下が「口」でなければならないのに、なんと「日」になっています。これを書いたのは私ですが、どうしてこんなミスをするのでしょうね。立石さんは笑って許してくれましたが・・・。
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by yoyotei | 2011-10-21 19:19 | Comments(0)  

セロ弾きのシンさんと仲間たち

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 なんとも贅沢で豊潤な一夜だった。
 ギターをとって何気なく歌い始めると、あぶなげな演奏を支えるようにチェロが流れた。打ち合わせも何もない。鳥肌がたった。客ではない。私が、だ。居合わせた客から感動の拍手が沸いた。チェロは突如としてこの夜の主役に躍り出た。長い夜の始まりだった。
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 町屋一帯で開催中の「屏風まつり」に加えて、8日、9日は約7000本の竹灯籠が幻想的な夜を演出する「宵の竹灯籠まつり」がおこなわれた。宵闇に包まれた黒板塀の小路は竹灯籠にほのかに照れらされて、通りは静かでゆったりとした雑踏となる。寺の本堂など数箇所の会場では、ジャンルを問わない地元のミュージシャンの演奏が流れる。
 北新潟フィルハーモニーに所属するヴァイオリニスト1名とチェリスト1名は、その風情を楽しんだ後、常連のHirayamaさん(上)に連れられて来たのだった。
 もちろんHirayamaさんも北新潟フィルでヴァイオリンを担当している。私の店でも無理をいって、演歌からポピュラーミュージックまで演奏を強いられ、まるで「人間ミュージックボックス」のような扱いをされている。
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 この夜は昨年同様、小学校時代の先生を囲んでの「同窓会的飲酒会」ご一行や、「一周忌法要終了的一寸休息的飲酒」のSugawara家ご一行など、通常は定休日の日曜日なのに客であふれた。
「同窓会的飲酒会」の存続は、やはり先生が生徒たちに与えた影響力にあるのだろう。教師冥利だ。もっとも先生をダシにしてのストレス解消という側面もある。それでも先生は喜んでくれる。先生っていいなあ、と思う。
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 Sugawaraさん一家は左からYukoさん、Kazuhiroさん(カリスマ整備士)、幸恵さん(Yukie?Sachie?)、Hidekiさん(イケメンフットサル)。(カリスマとかイケメンとかは本人たちの自主申告です)
 Yukoさんは最近まで、学区内の小学校の特別支援学級で先生をされていた。二人の息子、幸恵さんはHidekiさんのお嫁さんという、実に仲良しなファミリーだ。Kazuoさんという一家の大黒柱は自宅ですでにご就寝だったようだが、こんなときオヤジはちょっと影が薄い。
 それにしてもSugawaraさんとも、Yukoさんのお姉さん夫婦Sasakiさんとも長い常連さんだ。私のつくるピザが子どもだったこの息子さんたちへのお土産だった、とYukoさんにいわれて隔世の感を強くした。あの頃は今と違って景気のいい時代だった。 
 幸恵さんは新潟市の、あの「猫山宮尾病院」に勤務だ。「あの」というのにはわけがある。「猫」が連想させるのだが、多くの人が動物病院だと思っているのだ。地名からの由来らしく、れっきとした人間の病院だ。バス停にも「猫山宮尾病院前」があって有名な病院なのだ。
 幸恵さんは「メディカスタッフ・プロモーション」という会社のテレビCMにも出ているということだ。気をつけて見よう。見たらVサイン送るからね。「イエイッ!って・・・」
 Yukoさんはチェロの演奏に感動しきりだった。よかったね。
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 右がセロ弾きのシンイチロウさん、中央がヴァイオリンと腹太鼓担当(本人がそう言ったのだ)のYumikoさん。彼女のコメントメモには「弾かせていただきました、枯~れ、す~す~き。楽しかったです」とあった。こんな将来あるお嬢さん(?)に聞いたこともなく、先行き真っ暗な「船頭小唄」を弾かせたのであった。
 左のHirayamaさんに言わせると、Shinichiroさんのチェロの腕前は只者でないらしい。評価の基準はちがうが、私も只者ではないと思う。私も含めて大酒を飲んで勝手なリクエストを繰り返す客たちに応え続けたのは並みの達人ではない。それだって只者ではないのだ。
 楽団の指揮者から下手呼ばわりされていた「セロ弾きのゴーシュ」(宮沢賢治)は、動物たちの要求に応えているうちに腕前を上げていた。こちらのセロ弾きのシンさん、酒飲みの要求に応えているうちに腕を下げなければいいが・・・。 
 二人で「流し」の旅に出たいと思ったが、なんといってもチェロは大きい。旅にはけっこう荷物になる。
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 楽器は演奏者によって生命が吹き込まれることをあらためて教えられた。チェロって弾かなければけっこう邪魔な大きな箱だ。インテリアにはなるが・・・。これが優れた演奏者にかかると、胴体以上のすごい存在を示す。無駄に大きくはないのだ。

 この夜、Jojiさん、Murataさんもチェロの演奏に大満足であった。午前3時をまわって、みんなが帰路についた。私は店の2階で寝袋の中に轟沈した。

 タバコをやめて1年が過ぎた。ズボンがきつくなったので、先日、買いに行った。ウエストが3センチ大きくなっていた。サイズが変わったのはほとんど半世紀ぶりだ。

 Mikaのお母さんが亡くなった。短かったが精一杯の人生だったようだ。Mika元気を出せ!お母さんは「永遠の人」になったんだよ。
  
  
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by yoyotei | 2011-10-12 05:59 | Comments(0)  

森は海の恋人

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 3連休の初日、10月8日は「魚の森づくり」のためのブナの植林に参加した。県や市の職員、漁協の組合員、私たち自然保護団体、「緑の少年団」の小学生などが市内中心部から車で約1時間の植林場所に集結した。
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 この日は、途中から予想外の雨に見舞われたために「緑の少年団」は避難した、大人たちだけで200本のブナを植えた。
「森は海の恋人」とは三陸海岸でカキとホタテ貝の養殖を営んでいる畠山重篤さんが唱えた言葉だ。山の広葉樹によってもたらされる植物性プランクトンが海の魚介類を育てることを、フランスのロワール川河口で知った畠山さんは漁業者でありながら、山に広葉樹を植えることを始めたのだった。現在はNPO法人「海は森の恋人」として広範な活動が展開されている。3,11東日本大震災では事務局が被災したが全国からの支援で再開しているようだ。
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 このブナの林の中で、何回も「森のコンサート」を開催した。一帯は山形県境にかけて広がる、世界遺産の白神山地に次ぐ規模の、国内でも有数のブナの自然林だ。1996年、私たちはこの周辺、三面川(みおもてがわ)源頭部のブナ林が伐採されていることに驚き、直ちに仲間と「ブナの森研究会」「三面川の原生林を守る会」を立ち上げた。大学人や研究者、国内各地で自然膳保護運動を展開している団体とも連携した。そして、国有林の伐採即時中止、伐採計画の撤回を求めての署名活動、シンポジウム、現地視察、林野庁・営林署(いずれも当時)への申し入れなどをおこなってきた。
 また、伐採業者や地元の伝統工芸木彫堆朱に伐採木が木地として使われているということから、そうした業者も含めた意見交換会もした。
 反響は大きかった。新聞・テレビ・雑誌など、メディアの取材も相次いだ。署名などは全国的な広がりを見せ、ついに国は伐採を断念、伐採計画の撤回という結果となった。その後、2003年に一帯は自然生態系保護地域に指定された。さらに、「森と自然を守る全国集会」開催、ブナ苗育成と植林、森の野外コンサート開催とさまざまな活動を展開してきた。そして、今年の総会で「会」の名称は残したままの活動の終結を決めた。
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 もう少しすると、山は装いを変える。紅葉したこの周辺の景観は筆舌に尽くしがたい。後日「紅葉狩り」
の予定もある。酒と景観に酔う前に絶景のシャッターをきって来よう。
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by yoyotei | 2011-10-09 15:07 | Comments(0)  

歯科医さん大変!

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このところ終末になるとほとんど毎週生ビールを飲みにやってくるMurataさん。仕事をしていても、サッカー(趣味の域を超えているようだ)をしていても、生ビールを飲むのを励みにしているそうだ。実際、彼ほどビールをうまそうに飲む人を私は知らない。この夜は妹を呼んで仲良し兄妹の酒盛りとなった。私が聞いてはいけないような両親の話も飛び出して、この夜は午前様になった。
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 隠明寺さん(メガネの人)と熊谷さん。隠明寺さんは山形市で、熊谷さんは盛岡市で歯科医院を開業している。二人からは歯科医師の過剰問題を聞いた。全国でコンビニが約4万軒、歯科医が約6万8千人ということで、その多さは新潟県が第1位で岩手県が第2位ということだった
 開業後3年目に約30%の新規歯科医院が経営危機、あるいは閉鎖しているという報告もある。一方で、歯科医師が多いと歯科医院を選べるから患者にとってはいいと思うが、問題はそれほど単純ではないようだ。私もこれからはひんぱんに歯医者の世話になる年代だ。自宅の町内組に長女の同期生が営む歯科医院があるが経営状態はどうなのだろう。
 飲み屋もきびしいが歯医者さんもきびしい。
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 二人の来店動機は『太田和彦の居酒屋味酒覧』を見てということだったが、すぐに私とも隣席にいたMurata兄妹とも打ち解けあった。白いカーディガンはMurata妹の友人えっちゃん(?)だったかな。
 ところで、隠明寺さんは「おんみょうじ」と読む。漢字変換すると「陰陽師」となった。隠明寺というのめずらしいのでネットで検索すると、新庄市の旧藩士に隠明寺氏があった。無関係ではないだろうと思う。
  
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by yoyotei | 2011-10-06 20:40 | Comments(8)  

あの時代

 

 4節からなる詩は次のように書き始められている。

  わたしたちが射竦められたこの地では
  乾いた空気のなかで乾いた時間が切り売りされ
  商人の行為が吐き出す言葉は行為の内側の内皮にへばりつくばかりで
  それは母親の根元へ戻ろうとする証だ
  ひとりひとりが染色体を死守するために
  男は女の 女は男の 肌を剥ぎとり
  錆びてすさんだ旅路へ向かう
   

 定期預金を解約するための印鑑が紛失した話は前々回に書いた。印鑑を探しながら家と店の中を探し回った。探し物をしていて思いがけない物を発見することはよくある。そのひとつが同人誌「同時代」であった。詩はこの同人誌に収められている。詩とともにあの時代が鮮明によみがえってきた。
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 東京の中央線東中野駅から歩いて10分足らずの高根町にそのアパートはあった。6畳一間にガスコンロと水道の蛇口がついた小さい流し台。高校の同窓生が借りていたその部屋に転がり込んだのは1960年代半ばの夏だった。
 同窓生はデザイン専門学校の学生だったが、私が同居した時には学校に通っている様子はなかった。私も大阪の同じような学校に入学したが、半年でやめて上京したのだった。
 部屋には同窓生の知人だという奇妙な人物たちが頻繁に出入りをしていた。2、3日でいなくなる者もいれば、何日間も住みつく者もいた。
 青森出身だという男は、ある日ボストンバッグにスペインの雑誌を大量に詰め込んで現れた。日本語は訛りの濃い津軽弁だったが、学習しているというスペイン語は流暢に聞こえた。年齢不詳で眉間や額に深い皺を刻んだ風貌は、もしかするとスペイン人の血が混じっていたかもしれない。
 端正な顔立ちに髪を七三に分けた男は、新宿歌舞伎町界隈の飲食店でボーイをしているということだった。時々、勤めている店からウイスキーをこっそり持ち帰って同居人たちに振舞った。スコッチの「オールドパー」を持ち帰った夜、彼はほとんど私たちの英雄だった。飲めば頭が痛くなるような粗悪な酒しか飲めない田舎出の若者にとって、「オールドパー」は初めて口にする舶来の酒だった。鼻孔を突き抜けていく芳醇な香りと、口中を満たしてゆく濃密な時の結晶は、別世界への扉を開くようだった。慈しむように、だが何度も口に運んでやがて「オールドパー」は空になった。酔いは急速に訪れたが、それはなんとも心地いい酔いだった。上質な酒は上質な酔いをもたらすということを、この夜、身をもって知った。。
 青山周辺に洒落たレストラン・バーが建ちはじめると、彼は経験を生かして開店準備に関わるようになった。レセプションで提供されて、食べ残された料理を持ち帰ることも何度かあった。丸のままのローストチキン、ローストビーフ、大きい海老もあった。封を切っていくらも飲まれていないワインを飲みながら、私たちは歓声を上げてそれらの料理をむさぼるのだった。
 ある朝、始発電車で帰ってきた彼が、寝ている私たちを起こした。いつも何かしら持ち帰る彼が今朝はなにを、と見守るなかで、ボストンバッグの中から彼が取り出したのは大量のパンだった。
「ほら、そこの通りの食料品店、あの前を通ったら店の出入り口の前に木箱が積み上げてあるですよ。それがこのパン」
 食パンや、数種類の菓子パンは部屋の隅に小山のように積み上げられた。そこから納品伝票が出てきた時には少なからず罪の意識がよぎった。
 彼はごていねいにも数本の牛乳も調達してきていた。
「ぼくの前を配達の自転車が行くんです。その後について、集めながら帰って来ました」
 おそらく彼は、私たちが驚き喜ぶのを見たかったのだろう。そんな彼だが家賃としての現金を差し出すことはなかった。家賃は同窓生と私がアルバイトで稼いで折半にしていた。
 
 法律事務所に書生のように住み込んで大学に通う、高校の1年先輩もアパートを訪ねて来る一人だった。空腹でたまらない時には、水をたらふく飲み、膨れ上がった腹に重い物を乗せて仰向けになるといいと教えたのも、寒い時には新聞紙を身体と衣類の間に挟むといいと教えたのもその先輩だった。両方とも実践してその効果を確認した。先輩がやってくるのは金の無心だが貸せる金を持っている者は一人もいなかった。

 目白学園の女子高校生が数度たづねて来たことがあった。出会いは池袋の友人の部屋だった。その友人の部屋で、8月末の私の誕生日を、当時はめずらしかった小玉スイカで祝ってくれた。その後、彼女は東中野のアパートに来たり、新宿の「王城」という大きな喫茶店で待ち合わせをしたこともあった。ある日、「王城」で話し込んだ後、誘われて彼女の家に行った。家は森の中の「お屋敷」だった。東京のど真ん中にそんな森があることが信じられなかった。夜だったこともあってか森は深く、薄闇の中の建物はほとんど廃屋のようだった。暗く広い家の中を彼女に導かれて廊下を歩くと、何度も軋む音がした。家の中に人の気配はなく、どこにも灯りがついている様子すらない。すでに私は不気味さを感じていた。
 彼女が「ここ」と言ってドアを開け、部屋の灯りをつけたとき私は眩暈(めまい)をおぼえた。目を射るような明るさの中で、部屋はピンクや黄色、オレンジや赤といった暖色系の色彩にあふれていた。そこは壁も天井もベッドや調度らしきものもすべてが同様の色彩に統一されていた。
 歩けばきしむ、暗い森の中の古い屋敷。そこに突然あらわれた極彩色の空間。異次元世界のようなその部屋を眼前にして私は固まった。
 一瞬の硬直から解かれると、「どうぞ」と部屋に招き入れようとする彼女の誘いをはねつけて逃れるように、私は屋敷を出た。その屋敷がどこにあったのかもわからないまま、何かに追われているように、夜の街で帰路を探した。その後、彼女と会うことはなかった。
 


   わたしたちが人みしりのひどい夜の雑踏の底に耳をうずめている姿は
   かっての流浪の民の身振りに似ている
   太陽を背にして荒廃の色や匂いを冷えた脳裡にすりこませるのに似ている
   だがわたしたちは
   にがい果実を手にして 飢えた目のまま
   闇から闇へ流れてゆく定住の地のない鮮血の群から
   いつ 脱れることができるのだろう



 新しい年が明けて巷にはまだ正月の気分が漂っていた。その夜は4人の男たちが寒さの中で震えていた。コタツもストーブもない部屋を暖める工夫はすでに試していた。大きめの空き缶に釘で無数の穴を開ける。それをガスコンロにのせて火をつければガスストーブになるのではないか。鍋で湯をガンガン沸かせば、蒸気で部屋が暖まるのではないか。それらが暖房効果のないことは実証済みだったし、ガス料金を考えれば、まだ薄い布団でも身体に巻きつけてじっとしているほうがいい。
 夜の11時を回ったころ、部屋の戸が軽くノックされて「あのー」といったか細い声がその後に続いた。部屋の戸を開けると、そこに二人の女性が立っていた。廊下を挟んだ向かいの部屋に住んでいる姉妹だが、姿を見かけたことが数度あるだけで挨拶を交わしたこともない。
「あの、隣の部屋の様子が変なんです」
 姉妹のおそらく姉とおぼしい女性が、隣の部屋の戸に目線を泳がせた。
「隣の部屋に誰かかが入り込んだみたいなんです。窓ガラスを割って・・・。怖くて」
 声はほとんど震えている。私たちにも気味悪さが伝わってきた。姉妹の隣の部屋は私たちの部屋の斜め向かいだ。その部屋に不審者が入り込んだのである。おそらくは物取りだろう。男たちは無言で目と目を合わせ「行こう」ということになった。私たちの隣室には男子学生が住んでいて、時々友人たち押しかけて深夜までの議論の声もめずらしくなかったが、この夜は留守のようだった。私たちだけで対処することにした。恐怖心もあるが、こちらは男4人である。
 不審者が入り込んだ部屋には女性が一人で住んでいるという。私たちは玄関を出て外へ回った。アパートの周囲には目の高さほどの板塀が廻らされている。不審者はその板塀を乗り越えたらしい。いちばん背が高い津軽弁が塀に手をかけ身体を持ち上げて部屋の様子をうかがった。あたりも暗いが、部屋の中も真っ暗だった。姉妹が持ってきた懐中電灯を照らすと、確かにガラス窓の一部が壊されている。カーテンの隙間に懐中電灯を向けて津軽弁が声をかけた。
「おい、誰だ!」部屋の中には誰かの気配があるが応答はない。「七三分け」はどこからか棒切れを持ってきていた。小柄な私の同窓生は背伸びをしても部屋の様子は窺えない。私はといえば1年前までは柔道場の畳に立っていたが、部屋に入っていく度胸はない。
「なにをしてるんだ?出て来い!」と呼びかけるのが精一杯だった。

 意外というか、その不審者はあっさりと部屋から出てきた。緩慢な動作で窓を開け、板塀を乗り越えて出てきた男は相当に酔っ払っているようだった。ぼさぼさの頭にけっして清潔とはいえない身なり。抵抗する様子もなく、たとえ抵抗しても難なく取り押さえられると判断した私たちは、男を私たちの部屋に引っ張り入れた。そして、名前は、住所は、何の目的であの部屋に入ったのかなど、まるで警察の取調べのような尋問をあびせた。だが、20代なかばに見える男は何を聞いても答えようとしなかった。力なく、ただうなだれているだけだった。
「どうする?」
「警察呼ぶか」
「あんた、なんにも言わないなら警察呼ぶよ」
 もっとも何かの事情を話したとしても、窓ガラスを割って他人の部屋に侵入した男である。私たちが勝手に処分を下すようなことではない。結局、同窓生が近くの公衆電話に走った。

 パトカーはサイレンを鳴らすことなくアパートの前に止まり、二人の警官が部屋に飛び込んで来た。向かいの姉妹も加えて事情を聞かれた。男は警官の質問にもいっさい答えない。警察署へ連行されることになって男には手錠がかけられた。私たちのうちからだれか二人いっしょに来てくれということで、私と同窓生が同行した。深夜の街を、今度はけたたましくサイレンを鳴らしてパトカーは走った。
 中野警察署で私たち二人は、あらためて事情を聞かれた後、パトカーでアパートまで送ってもらうことになった。警察署を出る直前、取調室の中から激しい怒声が聞こえてきた。男を尋問する容赦のない警察官の声だった。私は男を警察に引き渡したことを少し後悔しながらパトカーに乗り込んだ。
 
 翌日、姉妹が菓子折りを持って礼に来た。私たちはなんだか妙な気持ちで菓子を食った。
 その翌々日の夜遅く、男が侵入した部屋の女性が、やはり菓子折りを持って来た。みんなが出払っていて私一人だけが部屋にいた。
「いろいろとお世話になりました」
 そして女性は続けた。
「お騒がせをしまして・・・。実はあの男は私の弟なんです」
 息を飲み、言葉を失った私に、彼女は言った。
「よかったら私の部屋に来ません?」
 
 女性の部屋はドアと窓を除いた全部の壁が、ほとんど天井まで本で埋まっていた。
「あの夜、弟は新宿でしこたま飲んだ後、私の部屋に泊めてもらおうして来たんです。私、暮れから正月休みで故郷(くに)へ帰っていて・・・。行くあてもないし寒いし、おもいあまってガラス窓を割って部屋に入ったのよね」
 彼女は、そんな弟を警察に突き出した私たちを恨みにも思っていないようだった。そして、私よりも10歳近くは年上のような彼女は、徐々にくだけた口調になり、話は別の方向に流れた。
「今夜はさっきまで新宿で草野のじいちゃんと飲んでいたの」
「草野?」
「草野心平よ、知ってるでしょ。あの蛙の詩の・・・」
 あの著名な詩人草野心平を「草野のじいちゃん」と呼ぶ女性が目の前にいる。
「私ね、会社勤めをしながら詩を書いてるの」
 彼女はそう言って一枚の名刺を私にくれた。名刺には何の肩書きもなく、「藤井章子」とだけあった。
 ただそれだけのことだった。トイレは共同のアパートなのに、廊下などで顔を合わせることはその後も一度としてなかった。  
 

 国会議員が出す年賀状の宛名書き、印刷会社の夜間勤務、銀座のサンドイッチマンなど、単発のアルバイトから足を洗った私は、阿佐ヶ谷にある商事会社で働くことになった。商事会社といっても、当時の仕事は専売公社から払い下げられる輸入葉煙草を詰めた樽をトラックで集めて回ることだった。葉煙草はアメリカなどから輸入されて来るらしく、その樽は分厚い米杉で作られていた。会社では用済みとなった樽を払い下げてもらって解体し、新しく梱包用の箱の材料にするのだった。仕事のスタッフは社長とトラックの運転手、それに「ノブさん」と呼ばれている大男。それに私である。私はトラックの助手として、運転する「原さん」と常に一緒だった。朝、出社するとその日の行先が告げられて原さんとトラックに乗り込む。着いた先で真ん中から胴切りにされた樽の残骸を積み込む。阿佐ヶ谷の会社に帰ると荷を降ろす。降ろすのはノブさんも手伝うが、ノブさんの仕事は樽に巻きついている金属のタガを外すことだ。
 樽の調達先は千葉や遠くは福島県の須賀川までも行った。朝出て、帰ってくる頃にはとっぷりと日が暮れていることもよくあった。運転をしない私は、ほとんどは遠出のドライブ気分で楽しい毎日だった。正社員でない私の場合は週給で、終末に給料をもらうと帰りは東中野で電車を下りずに新宿まで行った。歌舞伎町にあった「天新」という天ぷらの専門店で天丼を食べるのが週一回のぜいたくだった。
 原さんとは車の中でさまざまなことを話した。社長は在日韓国人だということ。青山学院大学の英文科を卒業して自分で現在の商事会社を起こしたということ。原さん自身は早稲田の卒業生で会社の立ち上げにも関与したこと。どうりで2,3日のアルバイトに来る学生に早稲田が多かった。そして、社長も原さんも、まだ20代の後半なのだということもわかった。まだ若いのに運転ばかりしているせいか痔に悩まされていることも原さんは打ち明けた。
 ノブさんは癲癇持ちだった。時々、突然ぶったおれて痙攣し、口から泡を吹いた。そばに誰かいればすぐにタオルを口に突っ込んでやった。発作が治まるとノブさんはきょとんとして、次に少し照れたような笑いを浮かべた。私はトラックで遠出をしないときには、バールを持ってノブさんといっしょに樽のタガ外しをした。口数は少なく、黙々と作業をして、時々ぶっ倒れる。発作が治まるとしばらくして、照れた笑いを浮かべながら、また作業に戻る。私よりかなり年長だったノブさんを私は大好きだった。

 社長には結婚して間もないという奥さんがいた。社長と同じ青山学院大学英文科卒業だということだった。会社の作業場には露天の資材置き場とバラック建ての社屋があり、少し離れた所にやはりバラック建ての風呂があった。いつもではないが風呂をたてた日には私たちも仕事を終えてから入ることがあった。
 ある日、入浴道具を持った若い華やかな女性が現れて、風呂に向かって私たちの前を通っていった。原さんがなにやら言葉を交わして、その人が社長の奥さんだとわかった。原さんは奥さんが風呂場に入るのを目で追いながら、ノブさんと私を交互に見て「ニヤッ」とした。バラック建ての風呂場は隙間だらけだ。近づいて覗く気になれば覗ける。だが、それはあまりにも恐れ多いことだった。

 どのくらいの期間、阿佐ヶ谷の商事会社に通っただろう。社長は私に何度か正社員にならないか話を持ちかけた。そして、私にまだ向学心が残っていることを感じていたらしい社長は、大学に行くことをすすめ、そのことも考慮するからと言ってくれた。すでに「しんちゃん」と呼ばれるようになっていて、私自身も家族的な親しみを感じていた。社長とはあまり話すことはなかったが、社屋から通りを横切って少し下った低地にある在日の人たちの集落にも私を連れて行った。私は判断に迷っていた。
 
 アルバイトが休みの日、アパートで同居人とインスタントラーメンを食べていると、玄関で私の名前を呼ぶ声がする。私たちの部屋は玄関にいちばん近い。出てみると叔父夫婦だった。叔父は「お前が・・・」と言ったきり絶句した。親族の中で最も厳格で知られた叔父が、髪を肩まで伸ばし、薄汚れた私の姿に言葉を失った。部屋に入ってもらうと今度は叔母が立ちすくんだ。似たような男たちが鍋に顔を突っ込むようにしてラーメンをむさぼっていたのだ。
 大手の商社に勤務し、横浜に居住していた叔父は、私の母からの手紙で住所を知り様子をうかがいに来たのだった。叔父は私に何の説明も求めず、2,3日のうちに横浜に来るよう厳命して帰って行った。帰り際に叔父は「来る時には必ずその髪を切って来い!」と、散髪料金を玄関の上がり框(がまち)に投げ出すように置いた。叔母はいつの間にやら近くの店から赤魚の粕漬けを買ってきた。「焼いて食べるんだよ」と言う叔母の目が悲しげで、私は視線から逃れるしかなかった。

 3日後、髪を切って神奈川区生麦町の叔父の家に行った。阿佐ヶ谷の商事会社の社長や原さん、ノブさんにも別れのあいさつはしなかった。叔父の家では利発な優等生タイプの従姉妹が私を冷ややかな目で見た。太宰治を読んでいるというと、軽蔑するようにそのことを叔父に告げた。それでもその弟は、私を「兄さん兄さん」と慕ってくれた。
 叔父の一家は、ある新興宗教の熱心な信者だった。私は、朝夕一家と共に仏壇の前に坐らされ勤行を続けることになった。一ヶ月くらいたった頃、叔父に小さな寺に連れて行かれた。小さい巻物のような物で頭をコンッと叩かれて受戒を施されたことになった。その寺で叔父は私に小さな仏壇を買い与えた。
 およそ一ヵ月後、横浜での軟禁状態が解かれて、小さな仏壇とともに私は東中野のアパートに帰ってきた。すでに「津軽弁」も「七三分け」もいなかった。
 驚いたことに翌日から「座談会」と称して宗教団体のメンバー数人が部屋にやって来た。私の信仰への導きだったのだろう。だが、信仰する気もなく、むしろ懐疑的だった私は徹底的に彼らと対峙した。叔父に対しては言えなかった数々の疑問を投げつけた。毎日のように彼らはやって来た。彼らに対してことごとく反発する私に、組織の上層部が来るようになったが、私は少しもひるまなかった。
 やがて、同窓生とは何とはなしに気まずい行き違いが生じるようになった。アパートを出るために、私は仕事と住まいを求めて新聞の求人欄にあった箱根のホテルへ履歴書を持って行った。身元保証人は叔父に頼み、その日から寮に住み込んだ。温泉の大浴場で手足を伸ばしたとき、あまりの快適さに泣きそうになった。そして、こんなことを快適に感じる自分はもう駄目だと思った。芦ノ湖の湖面をさわやかな風が渡る季節だった。


   狂うことも許されない血は越境をめがけて下向しつづける
   怯える瞳と汚れる毛をもつ水牛の群のように
   ゆるやかな放物線を描いて他国へと沈下してゆく
   廃屋やすてた畑が生暖かくごったがえす脊髄を重たく背負って
   血は太陽の落ちる所 条件のなにもない未来へ
   告発されて追われる者の陽炎となって
 
 
  ここに紹介した詩は、あの藤井章子さんの「流浪」と題されたものだ。この詩は冒頭で書いたように同人誌「同時代20」(1966’3月 編集黒の会)に所収されている。この同人誌を、私は箱根のホテルに勤務してから、休日のたびに出かけた新宿の書店で見つけた。古本のコーナーにあったのかもしれない。表紙に藤井章子の名前を認めて購入し、この詩を何度も読み返した。だが何度読み返してもこの詩の世界は自分に迫って来なかった。
 あれから45年。箱根、熱海、三島、神戸、新潟と、流浪する私のわずかな所持品と共に流れさすらって来たひとつの詩であった。
 あらためてこの詩を読み返し、しばしあの時代を振り返ってみた。なんということだろう。詩と言葉は瞭然として立ち上がって来たではないか。私は詩人の凄さを知らされた、と同時に「流浪の民の血を忘れ」た自分にも気づかされた。
 既製概念の否定と破壊、変革と多様な価値の創造。熱病にかかったように、あるいは夢遊病者のように彷徨した時代。だがそれは、必ずしも過去の時代の中にすべて葬られてしまったわけではあるまい。わずかながら残っている熾き火に息を吹きかけ、炎を燃え上がらせることはもう無理だろうか。


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   わたしたちが流浪の民の血を忘れてから
   屈辱の海原を器用に漕ぎ抜けた季節から
   可憐な草花はいくど枯れたり甦ったりしたか
   血がゆく先き先きで出合う行止まり
   その度に受ける拒否された自由
   の告知をからだにしみこませていながら
   冴え冴えとして胸を貫通する響き
   古くなった魂を歯でかみ砕くときの虚な余韻を
   わたしたちも固く節くれだった魂に
   深々としみこませようではないか  

 
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 藤井章子さんには『燔祭の記録』(1970)、『夜想曲』(1984)、『しらじらとして白々と』(草原社)などの詩集がある。近年も詩誌に寄稿するなど、健在らしい。年齢は当時私が感じたよりも若いかも知れない。『同時代』は1950年代に創刊され、現在は『第3次同時代』として継続されている。
            
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by yoyotei | 2011-10-04 12:28 | Comments(3)