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追悼/高原君

 高原君、いや高原、本当はこうでないとキミに呼びかけている気がしません。 
 ある日、私のブログに佐々木國男君からの書き込みがありました。「高原がガンで入院している」。驚きながら、しかし、今の時代です。適切な治療を施せばだいじょうぶと、さほど深刻には受け止めませんでした。ですから、「うまい酒を飲もうぜ、必ず会いに行くからな」とメールを送り、君からは、すぐに「ありがとう、元気でガンをやっつけます。美味しい酒のためにがんばります」と、返信がありました。そして、文末にはまた「ありがとう」とありました。7月はじめのことです。

 それなのに、いまキミの訃報をどう受け止めればいいのか・・・、あまりにも早いこの旅立ちを、どんなふうに見送ればいいのか・・・。キミの家族が、友人・知人が、戸惑いと喪失感のなかで、呆然としている様子が目に見えるようです。
 
 ボクたちは第一次団塊世代として生まれ、価値観が多様に変化する時代を生きてきました。吾郷中学校から川本高校と、多感な時代を多少の逸脱もありながら、共に過ごしてきました。大阪での学生時代、キミのアパートはボクたちの溜まり場になっていました。時代の波に翻弄されながらも、それぞれの将来を模索し、手繰り寄せようとして、あがく場所でもありました。
 その後、ボクは東京・新潟と、故郷から遠く離れて生きることになり、キミとの連絡も長くとだえていました。6年前、吾郷中学校の還暦同窓会で、実に40年ぶりに再会し、ボクは予定を変更してキミの家に立ち寄って奥さんともお会いし、さらには奥山の利枝子さんの実家のお寺に泊めてもらうという、変わらない逸脱ぶりを楽しんだものでした。
 キミもボクも、幸いにして家族を持つ幸運に恵まれ、同窓会の折には、会場になった「三瓶荘」で働く、頼もしいキミの息子さんにも会いました。
 
 青春の時を共に生き、その後を走り続けて来た60数年を、ゆっくりと振り返り、語り合いたいものと、そして、それはこれからなのだと思っていました。それなのに、世界に冠たる長寿の国にありながら、かくも早い別れの時を迎えることになってしまいました。

 しかし、高原君。時は虚(うつ)ろに過ぎたのではありません。時代に向き合いながら、時には抗(あらが)いながら、キミもボクもそれぞれの人生を築いて来たはずです。その、かけがえのないキミの人生は、キミの家族が、友人が、キミと出会ったたくさんの人々が、形は変わって受け継いで行くのだと思います。ボク自身もその一人でありたいと思います。いま、なにかとても大切なバトンを、キミから託されたように感じています。過ぎていく時を惜しみつつ大切に生きること、キミはそれをボクに教えて、そして逝ったのだ重く受け止めています。
 
 ご家族のみなさま、高原浩文君のご逝去、心からお悔やみ申し上げます。病と闘っていることを知りながら、見舞いにも励ましにも行かないでしまったこと、申し訳なく、高原君にすまなかったと後悔しています。それぞれの人生をもっともっと語り合いたかった。無念、残念であります。

 高原君!あの井川君も原君も、藤島君もすでにこの世にない。いい男たち、魅力的な男たちは、なぜこんなにも早々と駆け足で通り過ぎていくのでしょうか。
 願わくは、ご家族のため、ボクたちのために、天にあっては命の太陽となり、地にあっては導きの道を踏み固められんことを・・・。さらには風となって時に厳しく、時に優しく、背中を押し、身体(からだ)を包んで欲しい。
 青春時代のキミとの出会いが、どれほどボクの人生を意味のあるものにしてくれたことか。心からの感謝を捧げます。ありがとう高原君。
        
 ここまで読んでくださった方は、かなりの違和感を持たれたと思う。この「追悼/高原君」は、故郷島根県の親友の逝去に際しての弔辞として書いたものなのだ。郵送では間に合わないかもしれない。PCメールはない。そこでこのブログを利用した。親友の一人が提案し、親友の一人がプリントアウトをして、さらに同窓生が葬儀で代読してくれた。
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 葬儀が行なわれた21日(土)、私は所属する「生活と健康を守る会」の講話と忘年会の会場で、市内の曹洞宗「普済寺」の角一覚隆住職と、娘さんの法侖尼の話に耳を傾けていた。
 住職は「われつねにここにありてせつなり」という語句を引き、今を生きる、ここで生きる、自分を生きるという話をされた。親友の葬儀に行けない私の肯定的な言い訳でもあるが、「それでいいんだよ」と、親友が言っているように聞いた。
 法侖尼は高名な尼僧の話をされた。ある刑務所に講話に行った尼僧に、服役囚の一人が言ったという。「おれはこれまで、誰にも頼らず誰の世話にもならないで、この腕一本で生きてきた」と。それを聞いたその尼僧は(凛とした声でひと言)「その腕、だれにもらった!」と喝破したという。
 その言葉は私の胸に突き刺さった。なに一つとして自分だけで成し遂げたことはない。直接間接にどれほどの人に助けられてきたか。そして、思いは親友の死に飛んだ。青春時代の、親友とのあれやこれやのやり取りや行動。それらの一つひとつが自分という人間をつくる要素にもなってきたのだ。
 交流会になって酒が入り、カラオケのマイクを握った。

    親しき友の悲しみを 励ます言葉尽きるとも
    光れ銀河よ 友情の 涙を夜空に散りばめて
    ああ、青春の胸の血は夢ひとすじに燃えるもの

 涙が滲んできた。こみ上げるものがあって声が震えた。青春時代を語り合える親友が、また一人旅立ってしまったことの深い喪失感と寂寥感にとらわれた。

 親友の訃報は18日に届いた。その日は朝から嘘のように腰痛が消えていた。訃報に驚きながら、親友が痛みを持って行ってくれたのだと思った。翌朝、職場のホテルで清掃担当の女性にそれを話した。
「よかったね。きっとその人が持って行ってくれたんだよ」
 腰痛に苦しむ私を知る彼女は、真顔で応じてくれた。その後、腰痛はぶり返したが、快方に向かってはいるようだ。

 今年最後のブログだと宣言していたのに、こういう形での追加ブログになった。今年も残りは1週間ほど、ドラマが起こるには十分過ぎる時間だ。大切に<今>と向き合いたい。
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by yoyotei | 2013-12-19 06:54  

バトンは渡されていく

 前回のブログ発信が10月30日だった。11月は一度も発信をしないまま、すでに12月半ば。かくも長い沈黙はブログを始めて以来だ。ダイアリーどころかマンスリーにもなっていない。だが、私自身が沈黙していたわけではない。けっこう、あれこれと動き回っていたし、さまざまな思いに心を揺らしてもいた。言い訳まじり、愚痴まじりになりそうだが、ともかく更新のパソコンに向かう。

 テレビが南アフリカ元大統領ネルソン・マンデラ氏の追悼式を伝えた。偉大な人だった。白人によるアパルトヘイト(人種隔離政策)に反対し、27年間も投獄されながら、釈放されて大統領に就任すると、加害者を赦(ゆる)し、懲罰を放棄する和解の精神を掲げた。
「人は生まれながらにして人を憎むのではない。憎むことを学ぶのだ。ならば人は愛することも学ぶことができるはずだ」
 体系的な学問を習得することは重要な学びだ。体験や話を聞くことももちろん学びだ。学びは偏見を取り除くとマンデラ氏は語った。抑圧し差別する側は偏見の「檻(おり)」に閉じ込められているのだとも。学ぶことは人を解放し、自由にする。
 だが、現代社会には、人を偏見の檻に閉じ込めるためだけの言説と情報もまた多い。そうした情報に惑わされないためには何が必要だろうか。私は、人間の尊厳が守られる社会、すなわちマンデラ氏が目指した「虹の国」の実現につながる学びでなくてはならないと考える。
「銃を持とう、斧を手にしよう。それを海に捨てよう」と呼びかけたマンデラ氏。柔和な表情を湛えた、不屈の非暴力の闘士だった。同時代に生きたことを幸せに思う。
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 12月3日には村上市民ネットワークの講演と交流会をおこなった。「平和憲法と犠牲のシステム」と題した講師には会津若松市の牧師・片岡謁也(えつや)さんを迎えた。ネットワーク会員以外にも、片岡さんを知る市民の参加があった。講演後はネットワーク会員と交流、夜は夭夭亭で酒を飲みながらの交流・懇親会となった。ギターを手に歌い、語り、笑い・・・。魅力的な人と知遇を得た一日だった。
 片岡さんが講演で引用した「無関心が最大の罪」とは誰の言葉だったか。マザー・テレサだとしたら、先日、整形外科医院の待合室で手に取った週刊誌にマザー・テレサの祈りの言葉が掲載されてあった。
「主よ、私をあなたの平和の道具としてお使いください。憎しみのあるところには愛を、悲しみのあるところには喜びを、争いのあるところには許しを、絶望には希望を、理解されることよりも理解することを、愛されることよりも愛することを」
 マンデラ氏もマザー・テレサも、今年の流行語になった報復の「倍返し」とは無縁の境地だ。「許し」は敗北ではない。
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 ところで整形外科医院に行ったのは腰痛治療のためだ。2週間ほどになるだろうか、腰から左脚にかけて痛みと痺れが生じ、時には立っているのもつらいほどになった。診断はヘルニア(らしい)。手術は最後の治療選択肢ということで、筋肉注射を打ってもらい、鎮痛剤を飲んだが、まったく効果がない。
 その夜は店を開けるどころではなく、自宅でブログ更新のパソコンに向かったところへ、カサブランカ・ダンディーOotakiさんから電話が来て飲むことになった。座って飲んでいる分には痛みはないのでいささか調子に乗って飲んだ。だが、帰宅してからがひどかった。猛烈な痛みに襲われ、背を丸めながら呻いているうちに眠りに落ちた。
翌朝、足を引きずりながら前日の医院へ行った。美人看護師が笑顔で尻に打ってくれた筋肉注射の痛かったこと。それでも鎮痛効果はなかった。
 午後は、眼科で眼底写真の撮影があった。点眼薬で瞳孔拡散をし、造影剤を点滴注入しながら、強烈にまぶしい明かりを注視しながらの撮影だ。二度目だが、これも辛い。額を当てている撮影器具から無意識に頭部が離れていく。看護師がそれを後ろから押しつける。
 撮影後の診断で眼球への手術(注射)をすすめられた。9月にも同様の注射をし、その効果があったようなのだ。年明け早々に予定を組んだが、その費用は私にとってバカにならない金額だ。
 眼科からの帰路、その足でまたもや整形外科医院へ寄った。午前の筋肉注射がまったく効かず、痛みは耐え難いものになったのだ。青信号の横断歩道でも何度か立ち止まらずにいられない。停車している車のドライバーの視線も気になるが足を運べないほどの痛みなのだ。「歩けなくなりますよ」と忠告してくれたホテルの接客係の言う通りだった。この日、2度目の病院で、腰骨へのブロック注射を打ち、強めの座薬を処方してもらった。

 今日は釜爺勤務で大浴場の湯を入れ替える日だ。腰の状態がよほどひどければ休ませてもらうとの連絡は昨夜に済ませておいた。連絡をした仕事仲間のSさんも腰痛の経験者で、無理するなと気遣ってくれる。それだけではない。清掃担当やフロント担当たちが薬をくれたりして心配してくれる。病院の情報や対応のノウハウなども寄せてくれる。ある会合では「温めた方がいいかも」と自分がつけていたホッカイロを外してまで私に貼ってくれた人もいた。いずれも女性である。親切が身に沁みる。ありがたいことだ。
 昨夜は妻が、かつて自分が圧迫骨折をした時の鎮痛座薬をくれた。
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 昨年の今頃は鮭の加工作業に駆り出されていた。今年も釜爺勤務や通院、行事参加、店の予約客のための準備などで時間を取られると、鮭加工へは何日も行くことができない。それでも私の出番に合わせて生鮭の仕入れを調整してくれる。必要として当てにされるのはうれしいことだ。先日は午前中3時間足らずで、70尾の鮭を処理した。私の新記録だ。なにしろ、今年は5月頃から、「マキリ」という自分用の専用ナイフを入手して準備していたのだ。商品発送まで含めて作業はクリスマスの頃まで続く。
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 池袋で男の手料理「三太郎」を経営する林さんが、アルバイト店員らを連れてやってきた。林さんはアパレル関係からの転職。ダンディーに決まるのも当然か。男の子3人の父で、店名の由来は3人の太郎からだという。
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「三太郎」の常連Syoさん。貫禄の存在感だがまだ30代後半だ。車の改造などをしていると聞いた。風貌からは想像できない心優しい人なのだ。 往年の南伸介を思わせる。
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「三太郎」のアルバイト店員Ayakaさん(左)とYukakoさん(右)に、ドライバー奉仕のSyoさん、そこへ「三太郎」へ行ったこともある地元のHideさんやMurata兄も参加した。食材や酒などの購入を兼ねたショートトリップといったところか。
 林さんの食材や酒へのこだわり。人生を楽しむ独特のスタンス。該博な知識と鷹揚な懐の深さが店を流行らせているのにちがいない。同行した3人のたたずまいがそれを物語っている。Ayakaさんがカウンターに入って私は座って飲んだ。みんなが帰った後、洗い物がすべて済ませてあった。あれほどみんなと話しながら、手は休みなく動いていたのだった。
 この後、Murataさんに連れられた一行は午前3時ころまで飲み続けたらしい。そのMurataさんもやっと新しい仕事にありついた。気配りや技能など、彼の持ち味が生きる仕事であってほしい。
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 介護施設「まごの手」のみなさん。みなさん初めての来店かと思ったが、Koichiさんは以前に来たことがあったという。左からYumiさん、Yukariさん、Testuさん、そして社長のKoichiさん。ほんとうにこ気持ちのいい人たちだった。いづれ世話になるならこんな人たちにと、思った。
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 夫一郎83歳、妻博美80歳。世界50ヵ国以上夫婦で旅をしてきた二人だ。
 医者の娘として誕生した博美さん。その兄と親交のあった一郎さん。多感な青年時代に結核を患った一郎さんは、博美さんの父の尽力で当時としては貴重な特効薬で命を救われた。結婚に至るいきさつは照れて語らない一郎さんだが、この夜は新婚旅行の顛末を訊いた。行先も日程も無計画な行き当たりばったりの新婚二人旅だったという。
 家具の輸出など製造販売事業を展開してきた夫を、お嬢さん育ちの博美さんが陰で支えた。残業する社員の夜食も博美さんがまかなった。有名大学で教育を受けた一郎さんは事業一筋だけではない、この地方のこの世代では知識人の一人だ。そして、江戸っ子風にいうなら、ちょっと「粋(いき)」なご仁なのである。
「今夜はね、急に天ぷらが食べたくなって」
と、博美さん。行きつけの割烹「千渡里」からの帰りがけなのだ。やおら博美さんはバッグの中から折詰を取り出した。
「あなたこれを食べてくれない。で、ここにこのピザトーストを詰めてよ。持って帰るから」
 折詰には鴨のローストと大ぶりな海老のてんぷらが入っていた。私は喜んで頂戴した。
 高齢の夫婦の二人暮らし。別居している息子も、その嫁も時には私の店に顔を出す。
「じゃあな、また来るぞ」
 照れ屋の一郎さんは、わざとちょっと乱暴な口調で店を出る。
「世話になるぞ」「世話になったな、ありがとうよ」。
 このシンプルな人間関係で生きてきた、その確かな自信が小気味いい。
 
「むらかみ9条の会」では10月末に映画「はだしのゲン」の上映会をした。三國連太郎、左幸子が出演する1976年の実写版だ。用意したパンフレットがなくなるほどの盛況だった、というのは嘘ではないが、もともと参加者を少なく見積もっていたのだった。私の出身地、島根県の松江市教育委員会がで原作本の閲覧制限をしたことで、あらためて見直された。
 上映が終わって会場の明かりがついても涙が乾かないまま、くしゃくしゃの顔で挨拶をすることになった。今回、「会」の副代表を引き受けてくれた開業医の瀬賀弘行さんが、現実に流されない平和希求への理想を語った。
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 市内の病院に勤務する仲良し3人組。
 ある週末、忘年会というのでHidemiさん(左)の夫が一升瓶を抱えてやってきた。体調最悪の私は夫やMayaさんなどの仲間をほったらかしで、料理もつくらずテーブルにつっぷしていた。申し訳ないことであった。  
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「大町文庫」が完成した。亡き恩師たちの蔵書を保管し閲覧できる施設を自費で建設するという快挙。外観は地域おこしに配慮した町屋づくりだ。友人である隣家の「うおや」さんが管理を引き受けている。
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 竣工なった「大町文庫」向かいの「早川書店」から閉店の挨拶状が届いた。「後継者もなく、老骨にムチを打つことをやめる」とあった。地域の読書家の拠点として、教科書の取次ぎ店として、その役割は大きかった。私もお世話になった。先日、最後の定期配達の本が届いた。「長い間本当にありがとうございました」と手書きのメッセージが添えられていた。
 老舗の書店は閉じられたが、その向かいに「大町文庫」が誕生した。本が、「知」が不滅の旅を続けている。
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 勤務先の学校で倒れた大滝友和さんを緊急に診察したのは、その学校の学校医瀬賀さんだった。瀬賀さんを、大滝さんは命の恩人という。大滝さんの発案で『「大町文庫」の完成を祝う会』が開かれた。「知」の力を信じる者たちが飲んで語っった。
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 自費で文庫を開設した瀬賀さん。後日、瀬賀さんから「あのような愉快な会は、めったに経験できるものではありません」とのメールが届いたと、大滝さんから報告があった。文庫は書籍という知の集積だが、瀬賀さん自身も集積された知の持ち主である。
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 高校の教え子である瀬賀さんの治療受けながら老いとたたかっている本間桂翁。認知症もすすんでいるというが、瀬賀さんの「大町文庫」誕生を祝って、「賀大町文庫落成」と題する漢詩を贈った。

 勿驚数萬冊収蔵
 先哲英知長放光 
 南北東西攢此屋
 庶幾遭遇本家郷

 驚ク勿レ数万冊ノ収蔵/先哲ノ英知長(トコシ)ヘニ光リヲ放タン/南北東西此ノ屋ニ攢(アツマ)ル/コヒネガハクハ本家郷(ホンカキャウ)ニ遭遇センコトヲ    *本家郷は魂のふるさと
 私たち、祝う会に集まった者たちで、本間翁の漢詩を額装して瀬賀さんに贈った。大町文庫に置かれているはずである。入院中の本間翁の蔵書も、いづれ「大町文庫」に収められる。
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 11月17日(日)、地元の女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」の<結成10周年記念コンサート>があった。私は行くことができなかったが、編曲・指揮の大滝秀則さん(中央)をはじめ、スタッフ数人でコンサート前夜の景気づけ飲み会となった。右は歌手松崎しげるのバンドマスター佐藤俊介さんでキーボード担当。東京で音楽活動をする大滝さんが呼び寄せた。左はクリスタル・ボイセスの中心メンバーErikoさん。 
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 大滝さんの弟子だという川崎市出身の小川正生さん(左)。ギターの弾き語りがメインの音楽活動らしいが、今回は司会。
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 今年も狭山市からMasudaさん(右)とChibiさん(左)がやってきた。Masudaさんは4年目、Chibiさんは3年目になるだろうか。地元の<いい女>を代表してMikaさんが「お・も・て・な・し」だ。あっ、割烹「千渡里」で会ったという県会議員のTakeちゃんも二人をよく覚えていましたよ。来年もまたお会いしましょう。いつも手土産(狭山茶)ありがとうございます。
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 TPP(環太平洋連携協定)の交渉結果によっては大きな打撃が予想される日本農業。そうした環境の中でも農業青年たちの、農業にかける熱意にはいつも感動を覚える。究極の米作りに邁進するYoshimasaさん(右)、果樹栽培に意欲を燃やすKoyanagiさん(左)。
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 Koyanagiさんの名刺には「梨屋弥次兵衛/小柳農園」とあり、片面には「百姓です。」と大書してある。Koyanagiさんは「百姓」を解体して「百まで女に生きる」とのたまった。それはそれでいいが、まずは嫁さんが欲しいよね。
 継承、創意工夫、情熱と根性、誇り・・・。今多くの若者青年たちが失いがちな普遍的な良き特質を、多くの農業青年たちが保持していると、私は思う。 
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 父が抗癌剤治療を受けているIshiguriさん。父から受け継いだ大工という仕事が大好きな2児の父だ。「まだまだ父から教わりたいことが山ほどある。父には病を克服して長生きを・・・」と願うIshiguriさんだ。
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 釣りの仲間でもあるNakayamaさんも建築業だ。その仕事を息子が引き継いだ。それが何より嬉しいNakayamaじじいは釣りに孫を連れてくることが多くなった。その母、息子の嫁は、子育てママさんの集まりで夭夭亭にも顔を見せてくれる。人とのつながりは、世代の交代をしながらも巡りめぐっていくようである。

 11月23日(土)には舞台美術を担当している「大滝舞踊研究所定期発表会」だった。「ターザン」という演目ではターザンに扮した子どもたちが身を隠す草むらのために、舞台の端から端まで(プロセニアム間口)16メートルに会場周辺から刈り取ってきたススキを設置した。近所で一人暮らしのOさんに手伝ってもらった。3基のガス灯は照明担当者の協力を得て、いい雰囲気のものになった。
 舞台では、子どもたちに絵本を読んでいるおじいちゃんという役を演じた。私のヒザに頭を置いて眠る女の子は、夭夭亭の隣のカラオケ・スナック「レガート」のママの孫娘だった。
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 そして、新潟市に住む私の孫娘のひとりが、来春の「劇団ひまわり/新潟エクステンションスタジオ第1回公演」に出演するというのでパンフレットが届いた。「ナチス支配下に生きた子どもたちの記録-コルチャック先生と子どもたち」というのが演目だ。演出の栗田芳宏氏の風貌が私にそっくりだと娘から言われていたが、パンフレットの写真を見ると、まさにその通り。会ったらお互いに笑い出してしまいそうだ。
 
 今年も暮れて行くが、一年を振り返ってみる余裕は今はない。この秋は休みがちだった夭夭亭は30日(月)まで、新年は2日(木)から店を開ける予定だ。開店40年目へ突入する来年の抱負も、今は思い巡らす余裕がない。腰の痛みとの戦いに勝つことが焦眉の急なのだ。

ユニセフから「長引く紛争で、深刻化する子どもたちの危機。400万人以上に緊急支援が必要です」と、シリア緊急募金の協力要請が届いた。
 12月21日(土)には「生活と健康を守る会」の忘年会で普済寺住職の話を聞く。先日、整形外科医院で住職とあった。彼も腰を痛めているようだ。
 12月23日(月)は映画「渡されたバトン」-さよなら原発-の上映会がある。私たちはいつも誰かから、何かしらのバトンを手渡されていく。そして、そのバトンを手渡さなければならない。

 長いブログをここまで読んでくださってありがとう。年内の更新はないと思う。この1年お疲れ様でした。どうかよい年をお迎え下さい。来年もよろしくお願いいたします。
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by yoyotei | 2013-12-16 07:02