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この人を看取ると決めし春の雪

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 早春の一日、クラゲたちに会ってきた。クラゲは<水母><海月>と書く。幻想的、神秘的で、動くアブストラクト絵画のようでもあるが、骨を持たないことから、しっかりした考えがなく、態度が定まらない人をクラゲにたとえることもある。しかし、来館者の減少で閉館の危機にあった加茂水族館を救ったのはこのクラゲたちだった。
 サンゴの水槽にたまたま発生したクラゲを飼育したのをきっかけに、飼育数が世界一とギネスに認定されるなどして、来館者が増えてきたのだ。
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 さらに、2008年(平成20年)に下村脩さんがノーベル化学賞を受賞すると、その受賞理由となった緑色蛍光タンパク質(Green Fluorescent Protein; GFP)がオワンクラゲ由来であることが報道された。そこでオワンクラゲ(上)を飼育していた加茂水族館が、がぜん注目されたのだった。同館の入館者数が通常の1.5~2倍にまで増加したという。<骨なし>などと見下すことなかれなのだ。
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 まやさんが、東日本大震災の跡地などを旅してきた。遅々として進まない復興の現状に暗澹として考え込んだという。
 それでも、ニッカウイスキー仙台工場では、見学者の多さに驚いた。NHK連続テレビ小説の「マッサン」効果だ。私自身も、長く水割りで飲んできたウイスキーを、近頃はオンザロックで飲むようになった。より深くウイスキーの真髄を味わうべし、という嗜好を「マッサン」に刺激されたのだ。
 先夜は東京から帰省中の前田夫妻と3人で「グレンリベット」1本を空にした。もちろん3人ともオンザロックだった。
 まやさんからはさまざまな土産をもらった。パステルカラーの可愛いのは<ニッカ・ボンボン>というプチ・ウイスキーボンボンである。 
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 平和への思いを共有し、運動で共同することもある元中学校教師桑名さん(上右)と教え子たちによる女子会。
 他界して久しい桑名さんの夫は美術の教師だった。20数年前、ブナ林伐採の反対運動を始めた際には、「ブナ研究会通信」にブナの根元のデッサンを寄せてもらった。大地をしっかりと抱え込むような力強いタッチだった。彼の笑顔は私の脳裏に今もある。桑名さんは、夫が亡くなってから、あらためてその人望の厚さに感じ入ったという。知人で店の客でもあった人が、中学時代に学校生活に悩む娘が、彼によって救われたと私に語ったことがあった。
 
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 こちらは医療関係者ご一行。久しぶりの顔も何人か。
 あっ、右奥のピースサインは笠原さんで、一行とは無関係だ。転地転職を望んでいた笠原さんは村上に就職が決まり、新しい日々を歩み始めた。環境に早く馴染んで、自分の中に<なにか>を育てることを目指して欲しい。人生は短いと、最近の私はつくづく感じている。
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 ビールや地元の日本酒を納入してもらっている「酒のかどや」の若おかみヒサコさん(中)、新潟駅南にある<風呂敷>の専門店「ふろしきや」のミキさん(左)。そして、新潟よろず仕掛人/越のおでん会会長MANVO・Hideさん(右)。2月22日はフーフーフーでおでんの日ということを聞いた。おしゃれセンスと落ち着いた語り口のミスマッチが、存在を際立たせている。こんな友人がいると楽しいと思う。
<2.22おでんの日>で思い出した。4月に予定していた<大峰山一泊行>は日程を変更して8月29日になった。こちらも語呂合わせで<8.29ヤキニク(焼肉)の日>。前回の一泊行も8月29日、偶然にも私の誕生日だった。今回も山頂で歳を加えることになりそうだ。土浦の今井さん、よかったらご参加を。 
 ところで、今年から月に何冊かの本を読むことを自分に課したという「ふろしきや」のミキさん。店の文庫から『河童の覗いたインド』を進呈して、「インドへ行くかもね」というコメントをもらった。
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 総合病院の副院長だった内科の大田医師が転勤になった(奥のネクタイ姿)。当地での勤務は5年にもなったという。温厚で誠実そのものの医師だった。次の勤務地は加茂市。(クラゲ水族館の加茂ではなく新潟県加茂市)「また来ますよ」と私の手を強く握った。
 外科の峠医師は、この夜も妻の予後を気にしてくれた。
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 クラゲ人気の陰に隠れているが、どうしてどうしてコブダイの重厚な存在感はビクともしない。こんな顔をした人がどこかにいたはずだと、あの人この人の顔を思い浮かべてみる。
 佐渡の海には<弁慶>と名づけられたコブダイがいたが、今も悠然として海底に健在だろうか。
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地元の印刷会社「フォトスタンプ新潟」発行のミニコミ紙『moca』の取材を受けた。次回がカレー特集ということで、私のつくるカレーも対象に選ばれたのだ。
 取材記者の井川恵さんの「今まで食べたカレーの中でいちばんおいしい」との評価を受けて、少し舞い上がった私だった。

 
 3月は卒業の月だった。慶応義塾を創設した福澤諭吉は門下生に「奴雁(どがん)であれ」と訓辞をしたという。
「語にいふ。学者は国の奴雁なり。奴雁とは群雁野に在て餌を啄むとき、 其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、之を奴雁と云ふ」。国の見張り番であれということだろう。付和雷同ではなく、独自の視点を持てと解釈することも可能だろう。
 楚の政治家で、春秋戦国時代を代表する詩人だった屈原(くつげん)を想起する。屈原は秦の張儀の謀略を見抜き、踊らされようとする懐王を諌めたが受け入れられず、江南に追放される。そして、世の悲運を嘆き、楚の将来に絶望して入水自殺をする。「楚辞」七章漁父に「屈原曰く/世を挙げて皆濁り我れ独り清む/衆人皆酔ふて我れ独り醒む/是を以って放たると」とある。
 私の母校(島根県立川本高校/現・島根中央高校)の体育祭は、汽車による上り下り、バス通学など登校パターンで4チームに分かれて得点を争った。私のチーム「東雲(しののめ)団」の応援歌は次のように歌い出した。
「汨羅(べきら)の淵に波騒ぎ/夷狄(いてき)の雲は乱れ飛ぶ」
 悲嘆を抱いて屈原が身を投じたのは汨羅(べきら)の淵(現在の湖南長沙のあたり)だった。 母校は大正13年(1924)島根県立川本養蚕学校として開校した。当時、漢籍は知識人の必須の教養とされていただろうし、憂国の士としての屈原は男子のひとつの理想像であっただろう。
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 そして4月。2日は彫刻家で詩人でもあった高村光太郎の連翹忌(れんぎょうき)だった。
「光太郎が晩年を過ごした東京中野区のアトリエの庭には毎年、レンギョウの黄色い花が咲いた。亡くなった日も、みごとに咲いていた。告別式の日、棺の上には、詩人が日ごろ愛用したビールのコップがおかれ、一枝の庭のレンギョウがいけられたという。人びとは光太郎忌を連翹忌と呼ぶようになった」(『天声人語』辰濃和男/朝日新聞1983年4月3日付)

僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る/ああ、自然よ/父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ/僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ/この遠い道程のため/この遠い道程のため

 この、高村光太郎の「道程」が、大正3年(1914年)3月に発表されたときは102行の長詩だった。長詩には「どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない」という1行に始まり、「何といふ曲りくねり/迷ひまよつた道だらう/自堕落に消え滅びかけたあの道」という行を経て、「あのやくざに見えた道の中から/生命(いのち)の意味をはつきりと見せてくれたのは自然だ/これこそ厳格な父の愛だ」と続く。
 それが9行の詩となり、詩集『道程』が刊行されたのが同年10月。長沼智恵子と結婚したのは12月。智恵子との出会いが大きな転機となっただろう光太郎は、自然の中に生きる意味を見い出し、デカダンス(虚無的、退廃的な風潮や生活態度)や葛藤からぬけだす。
 我が家のレンギョウも鮮やかに咲いた。このレンギョウ、樹勢が強くて耐寒性、耐暑性もある。枝を切り取って日当たりのよい場所にさして置くと、ほとんど活着して、翌年には花をつける。3月の福寿草、4月になってレンギョウ、スイセンと、黄色い花が咲くと我が家の庭は春だ。自然の中に生きる意味を見い出すのは、高村光太郎だけであるまい。 

 この人を看取ると決めし春の雪
                  (北海道/ひぐちのりこ)
 NHKラジオが投稿句の紹介をしていた、そのひとつだ。今回のブログのタイトルに使わせてもらった。
 今日は何を食べるかといった小事からはじまって、職業選択や結婚離婚など、私たちはいつでも<選択と決断>を迫られている。俳句の<この人>が親なのか連れ合いなのかは不明だが、凛とした決断と覚悟が伝わる。腹を決めると人は強い。
 ひぐちのりこさん、心にズン!ときました。ありがとうございます。 
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by yoyotei | 2015-04-05 17:01 | Comments(4)