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江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ

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 20年前にオーストラリア人アンドリューと結婚してキャンベラで新生活を始めたチカさん(右)が一時帰国をした。チカさんの実家は300年前に芭蕉が『奥の細道』の道中で宿泊した「井筒屋」という宿屋である。数年前まで喫茶営業や、一日一組限定で客を泊めていたが、現在は住宅だけの町屋「仕舞屋(しもたや)」になっていると思っていたら、外観を一新した食事処になっていた。開催中の「町屋の人形様巡り」期間だけの営業かもしれない。
 この日はチカさんの帰国に合わせて学生時代の友人二人が村上にやってきた。マミさん(左)は福岡から、ナリコさん(中)は富山から。3人は15年ぶりの再会だという。
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 2日後、かつて毎週のように集まっていたチカさんの村上の友人も再会を喜び合った。イズミさん(左)とセイキさん(右)さんだ。日本食のラーメンが2000円前後もするというオーストラリアの物価事情など、久しぶりの再会に話は尽きない。
 イズミさんと私は、少なくとも年に一度は顔をあわせる。彼女は「MURAKAMI・SASAGAWANAGARE国際トライアスロン大会」のメインMCとして欠かせない存在なのだ。スタートのスイム会場でオープニングセレモニーから、緊迫するスタート実況を、昨年は一人で担当した。私は数年前からフィニッシュ地点での実況だけにしている。
 かつては英語塾で子どもたちに英語を教えていたイズムさん。私の孫も二人が彼女の生徒だった。その一人は大学で英語を専攻し、また一人孫娘は高校を卒業するとアメリカへ渡って行った。
 セイキさんの妻の叔父と私は村上へ来てすぐに親しくなった。隣村に実家があった妻とすでに一緒に暮らしていた私は、当地に住むことになって、親戚への<顔見世>をしないわけにはいかなくなった。設けた席は妻の実家。囲炉裏を囲んで鍋をつつくという貧しい異例の披露宴だった。時は正月元旦、親戚衆は紋付羽織の正装で、祝儀袋に丁重な祝辞。普段着の私は身の置き所もなく恐縮して頭を下げるだけだった。
 そんな中、セイキさんの妻の叔父、サトシさんが顔を出してくれた。彼は大きな風呂敷包み持参していた。「伸ちゃん、これを」といわれて解(ほど)いた包みの中では、大きく鮮やかな鯛が緑の松葉の上で踊っていた。生きた鯛ではない。祝いの生菓子だ。当時、サトシさんの家は和菓子の製造を家業としていたのだ。しかし、私はその生菓子をサトシさんに頼んでいたのだろうか。代金を払った確かな記憶はない。なにしろ金はなかった。見事な生菓子は親戚衆への唯一の引き出物となった。
 クリスチャンだったサトシさんは教会で出会った、少し障害のある女性と結婚した。子どもはつくらないことにしている、と聞いたことがあった。セッターという猟犬を飼っていて狩猟もする、酒は豪快に飲む、教会に通う、意気に感じたことはドン!と引き受ける。上手な物の言い方はできないが、心根(こころね)は深く優しい。こんな人と出会い、私の村上での生活は始まったのだった。
 サトシさんが天に召されて久しい。妻はサトシさんの没後、実家に戻ったと、この夜セイキさんから聞いた。
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介護施設で働くミカさん(左)マロンさん(中)サトコさん(右)の3人。ミカさんは夭夭亭における<おもてなしの友好親善大使>と私が勝手に任命している。マロンさんは「大滝舞踊研究所」の舞台仲間だ。1昨年の発表会の演目「居場所」で共演した。彼女の役名が「マロンおばさん」だったのでマロンさんとする。右のサトコさんはスタジオミュージシャン大滝秀則さんが、先ごろリリースしたCDを購入してくれた。大滝さんの同期生らしい。
 マロンさんにはトライアスロンのMCをお願いしてみた。彼女は演劇もするし、読み聞かせもしている。MCフリートークの経験的ノウハウは私が付きっきりで伝授する。確約はしてもらっていないがおおいに期待している。本当に私は急激な視力低下で難儀をしているのだ。
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 産婦人科医セリさんが結婚のために村上を離れた。この夜、紅一点の彼女を囲んで10人ほどの医師たちが送別の酒盃を傾けた。圧倒的に男性が多い総合病院の医師たちの中で、女性らしい優美な存在感と、専門職としての毅然とした存在感を絶妙なバランスで並存させていた。いつか母になったセリさんに会ってみたいと思う。
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 商工会議所で働くジュンちゃんが、県内の国立大学に通う次男ナオヤさんとカウンターに座った。幼いころに「川崎病」を煩い、母親が心配していたのを覚えている。その子どもが父親とウイスキーのグラスを交わすまでに成長した。親に対する丁寧な言葉遣い、さわやかに謙虚に自分を語る穏やかな口調。どうしたらこんな青年が育つのか、その秘訣をたずねたいほどだ。
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 ジュンちゃんは3年前の3月にも、横浜の裁判所に就職が決まった長男ユウキさんと、同じようにカウンターに座った(上)。父の笑顔は3年前も現在も変わらない。
 子どもに向き合い、子どもと一緒に将来を展望する。そんな親らしいこととはほとんどしないまま、私は7人もの孫を持つ身になった。「ウ~ム」である。

    《絹さんの短歌通信》

 十六で国を離れて八年を異国で学びし息子は二十四
 窓のなき四畳の下宿住人はインド、中国、韓国、パキスタン
 学業を終えミュージシャンになるという息子と歩くロンドンの街
 黒人と日本人で組むバンドその名はザ・ユナイテッド・キングダム
 滞在は大丈夫なのか金はあるか心残してヒースローを去る

 絹さんの長男は日本の高校でうまくいかず、2年のときにオーストラリアへ脱出。その後イギリスのマンチェスター大学、ロンドン大学大学院へ進み、昨年12月に卒業した。短歌は卒業式に出席した折に詠まれた。
 子どもが持つ潜在能力や適性、親のあり方や家庭環境などはけっして一様ではない。世界を広げ知友の和を輪を広げて成長していく子ども。ときとして親の理解の外へ踏み出していくのが子どもたちだ。それでも親子の関係は途切れない。
 それにしても昨年12月は夫の父の葬儀が大阪であり、同じ月に息子の卒業式でロンドンに飛ぶ。母の介護もある。4月には<家>のことで、次男をともなって村上に来る予定もある。忙しく駆け回る絹さんだが、<短歌通信>は来信がある限り続けるつもりだ。一人の女性の、展開されていく人生を見つめていきたい。
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 手前左から、エノキーダ、ミヤー、トミー、ヤマガーミ、セキシャン、ガーリーチエコ。保健所みなさんだがニックネームには聞き取りのミスがあるかも知れない。
 数年前の冬、大阪での甥の結婚式に出席した。帰宅後、保健所で行われた飲食業者や食品製造業者を対象にした講習会に参加した。主要な講習内容は「ノロウイルス対応」だった。しかし、私自身がその時点で「ノロ」に感染していた。大阪からの帰途、東京の長女宅に立ち寄った際に感染したのだった。「ノロ」感染で頻繁にトイレに駆け込みながら受けた「ノロ対応講習」だった。
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 ドキュメンタリー映画『標的の村』(監督・三上知恵/制作・著作/琉球朝日放送)を見た。「オスプレイ」着陸帯の建設に反対して座り込んだ東村・高江の住民を、国は「通行妨害」で訴えた。反対運動を萎縮させる目的だ。わが物顔で飛び回る米軍のヘリ。自分たちは「標的」なのかと憤る住民たち。10万人が結集した県民大会の直後、日本政府は電話一本で「オスプレイ」配備を通達。ついに、沖縄の怒りが爆発した。
 2012年9月29日、新型輸送機「オスプレイ」の強行配備前夜。台風17号の暴風雨の中、人々はアメリカ軍普天間基地ゲート前に身を投げ出し、車を並べ、22時間にわったってこれを完全封鎖した。映画は、前代未聞のこの出来事の一部始終の記録だ。(上映パンフレットから)

 この国には<犠牲のシステム>がある、という研究者がいる。どのような<大義>があろうとも、それによってだれかが犠牲になることがあってはならない。犠牲なくしてなりたたない<大義>なら、それは<大義>そのものに間違いがあるのではないか。基地の前でスクラムを組み、車の下に身を横たえて抵抗する人たち。彼らを力ずくで排除する警察。抵抗する人たちは<大義>の前には余計者で邪魔者なのか。騒乱の基地ゲート前、並べた車の中で「安里屋ユンタ」を歌い続ける女性。爆発した怒りは、悲しみとなって深く深く沈潜していく。絶え間のない怒りと悲しみは<怨念の鬼>を生んでも不思議ではない。しかし、沖縄の人は飲んで歌って踊る。そう、内なる<鬼>をなだめるかのように飲んで歌って、踊るのだ。
 流れる涙の中で上映が終わり、明るくなった会場に女子高生の一団がいた。「どうでした?」と声をかけると、「衝撃でした」と一人が応えてくれた。「穏やかに暮らさせてあげたいよね」と、私は涙声になった。
 映画の中で、抵抗し闘う親たちを見て育った11歳の少女が言う。「お父さんとお母さんが頑張れなくなったら、私が引き継いでいく」。状況は大きく違うが、親子の連関は濃密だ。
 
 客の来ない夜、この映画の上映を主催した一人のノリコさんと飲みながら話した。多岐にわたった話の中で稲葉範子さんの歌集『綿雪』所収の一首、「ささくれし手もてわが肌撫づ田植えせし夜を遠蛙鳴く」が話題になった。秀逸だとノリコさんは高く評価し、私も異議なく同調した。そして、ノリコさんは与謝野晶子を連想し、私は結句の「遠蛙鳴く」から想起した短歌があった。斉藤茂吉『死にたまふ母』の「死に近き母に添寝(そひね)のしんしんと遠田(とほだ)のかはづ天(てん)にきこゆる」の一首だ。蛙(かはづ)の声は、夫婦の情愛を、生死の別れ際(ぎわ)にいる母と子を無窮の世界へ誘うようである。

<短歌通信>の絹さんの母、八重子の刀自(とじ・とうじ)の大学の卒業論文は斉藤茂吉だったと、『綿雪』の稲葉範子さんが教えてくれた。 
 斉藤茂吉といえば、私にとっては「人麻呂」であり、終焉の地「鴨山」である。過去のブログ「あの、ちょっと一杯やりませんか」(2014年8月)からそれに関する部分を再掲する。
『小児科医の姓は水流(つる)さんという。なんとも珍しい。本人は栃木出身だが、九州方面にルーツがあるらしい。後日、『難読姓氏辞典』(大野史朗・藤田豊編/東京堂出版 昭和52年)で見つけることができた。その隣には「水流丸(つるまる)」という姓も紹介されてあった。
 この姓の由来を考えてみた。水が流れて<つるつる>になるという連想から思い浮かんだのは、高校時代の夏、学友たちと訪れたことのある、島根県中部地方を流れる江川の支流濁川にある断魚渓だ。流紋岩の谷を侵食してできた渓谷。激しい水の流れによって削られた川床は<つるつる>になっている。同行していた女子たちの視線もかまわずパンツ一枚になった男たちは、天然の滑り台よろしく水の流れに押されて何度も何度も滑り下った。その時にいた男たちの何人かは、すでにこの世にいない。
 その断魚渓のある濁川が古くは石川と呼ばれていたとして、万葉集の柿本人麻呂の妻・依羅娘子(よさみのをとめ)が詠んだ、「今日今日とわが待つ君は石川の貝(谷)に交じりてありといはずやも」の和歌の谷(かい)は、ここ断魚渓ではないかとの説があるという。
   (『人麻呂的恋愛指南-万葉・恋の舞台-石見をめぐる旅』発行/石見観光振興協議会)
 この、石川断魚渓説は私もどこかで読んだように思い、確認しようと斉藤茂吉の『鴨山考』『鴨山考補注』などにあたったが見つけることができない。だが、人麻呂の終焉地を探索する茂吉の『備後石見紀行』から、私は思いがけない<旅>をすることになった。
「自動車は乙原(おんばら)に着いた。此処はやや広い所を占め生活が何となく活発で、小学校児童が自動車に寄って来て物言ふのでも何となく賑やかである。自動車から見える向かひ家に、諸薬請売業、安産一粒丸などと言ふ看板が懸かってゐて、これも一つの旅行気分といふことが出来る」(『備後石見紀行』)
 この時の茂吉の紀行は昭和10年4月である。私は昭和30年代後半の中学高校の6年間を、この乙原の母方の祖母が住む家で暮らした。粗末で小さな家だった。
 さらに、『鴨山考補注』にはこんな個所もある。
「そして写真を撮った。一は川本町の琴平山から対岸の川下村谷戸方面を撮った。ここも山が重畳して山峡の感じである。二は川本町の農蚕学校の方面を斜に対岸を撮った。ここにも相当に高い山がある」
 この「農蚕学校」が昭和13年に「農林学校」となって私の叔父の母校、さらに昭和24年に島根県立川本高等学校となる。夏の一日、断魚渓に遊んだ学友たちの、そして私の母校である。
 長くなるが、『備後石見紀行』をもう少し引用したい。
 昭和10年4月19日、午前6時50分の川本行乗合自動車で浜原を出発した茂吉一行は、粕淵を過ぎ、午前7時半に吾郷本郷に着いた。「此処で自動車が江ノ川を舟に乗って渡る」とある。吾郷には私が卒業した中学校があったが、すでに廃校となった。しかし、かつて自動車を乗せるほどの渡し舟があったことは知らなかった。
「其処を渡れば、今度は自動車が江ノ川の左岸に沿うて走る。江ノ川を主として、風光がなかなか佳く、若しこの三江線の鉄道が備後の三次まで完成したなら、この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」
 はたして茂吉の予見は的中したのだろうか。   
 三江線は1978年(昭和53)に江津(島根県)・三次(広島県)間の108、1kmで全線直通運転が始まった。しかし、豪雨災害による運休もたびたび。名だたる過疎路線で廃止論議の途絶えることがない。2013年(平成25)8月の島根西部を襲った豪雨被害では、またもや寸断。再開が危ぶまれていたが、大規模場復旧工事が終わり、先月、およそ1年ぶりに全線運行再開となった。1日の乗降客が300人程度で日本一ともいわれる超過疎路線。運行経費、被災からの復興費用などを考えると、日本一の<贅沢路線>なのだそうである。私はこの三江線で3年間高校に通った。
 さて、再び『備後石見紀行』に戻る。乙原を経由した茂吉一行は午前8時半に川本町に着く。そこで小学校長に会った後、「旭旅館で午食を済まし、大急ぎで零時五十一分の汽車で発った」とある。私の高校時代にもこの旭旅館はあった。すでに他界した友人とのつながりから、この旅館に出入りするようになり、女将には本当によくしてもらった。この女将に娘が二人いたことも記しておこう。
 小児科医の水流(つる)さんの姓をきっかけに、はからずも、歌人斉藤茂吉をガイドに思い出の地を旅することになった。
 江川(ごうのがは)濁り流るる岸にゐて上(かみ)つ代のこと切(しき)りに偲ぶ(茂吉)』

 この4月は国鉄が分割、民営化されて30年になった。ローカル線はなくならないとした国の約束はどこへやら赤字路線の切り捨てが続いている。そして、昨年9月、この三江線をJR西日本は来年4月1日をもって廃止、との届出書を国交省に提出した。以来、鉄道ファンなど観光客が増え、土日祝日ともなれば1両から2両編成になった車両が満席だという。全線で3つしかない有人駅の一つ石見川本駅では、反対車両の待ち合わせで90分もの停車となる。地元の観光協会や島根中央高校の生徒らが「街中ぶらり90分案内」のビラ配りなどでもてなしている。島根中央高校は統廃合で新設された私の母校である。
「この線は日本での一名所となるであらう、それほど風光の感じが佳い」と茂吉に言わしめた三江線。存続への道はもうないのだろうか。

 座間宮ガレイさんの講演会がおこなわれ、講演後、主催者たちとの懇親会があった。座間宮さんは画像にあるように発行する『日本選挙新聞』で国内外の選挙の展望や、詳細な資料による分析などをしている。最新号では宇都宮健児氏のロングインタビューが目を引いた。「ポピュリズムを批判するだけでは、現実に目を向けられないですよね」という宇都宮氏の発言による見出しが説得力を持っている。
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 30代後半の若い座間宮ガレイさん。ペンネームは<ざまあみやあがれ>のもじりだ。
 
 3月中にと思っていブログのアップが4月にずれこんだ。そして今日は4月1日。忘れられない4月1日が私にはある。
 50年前、箱根の老舗のホテル旅館で働いていた私は、その日、同僚の一人にいたずらを思いついた。
「あんたのおふくろさんがフロントロビーに来てるってよ」
「え?」
 血相を変えた彼はすっ飛んで行った。
 ほどなく戻ってきた彼は泣き顔になっていた。そして、殴りかかろうとして私を追いかけ回した。青森の山村から出てきて、ラーメン屋を開くのが夢だと語っていた彼。「エイプリルフールだよ」との弁解も彼には通用しなかった。ましてや「ザマアミヤガレ!」とも言えない。残酷で罪深い私の<嘘>だった。親を冗談や嘘話に持ち出していけない。
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by yoyotei | 2017-04-01 18:32 | Comments(0)