おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう

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「Live as long as you may, the first twenty years are the longest half of 
your life」 
 イギリスの詩人ロバート・サウジーの「The Doctor」一節。『心に残る言葉』(小野寺健・著/河出書房新社・1992)からの引用だ。
 11月に広島で行われた高校の同窓会。早くに会場ホテルに着いた私は、続いて姿を見せた詳子ちゃんと「平和公園」へ出かけた。そのことは前回のブログに書いた。すると、同窓生のニッシー君から「たったそれだけ?」という感想が寄せられた。もちろんそれだけのことではなかった。
 たまたま同窓会の前夜はバレエの発表会があり、またその前夜は舞台稽古と店での「投げ銭ライブ」。さらにその前には舞台美術担当として持ち道具や大道具の点検と搬入などもあった。ひとつづつこなしていくことに、まさに忙殺された。同窓会は私にとってそれらを終えた後の<打ち上げ>でもあった。だからといって、同窓会の印象が希薄だったわけでは決してない。長年にわたって同窓会事務局を担当しているクニさんから、送っていた当日のSDカードが戻ってきたのであらためて振り返ってみる。クニさんは直前になって母親が倒れ、欠席となった。母親はその後いくらかの回復をみせていると聞いた。
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 冒頭の英詩は以下のように日本語訳がなされてある。
「いくら長生きしても、最初の20年こそ人生のいちばん長い半分だ」
 今年、古希を迎えた私たち同窓生。まさに、この最初の20年に相当する時代に人生の大部分が凝縮されていたのは確かだ。だからこそ、いささかの羞恥を覚えながらも懐かしさに相集う。そして、その後のいくらかの成長を見せようとしても底が見えてしまう滑稽さもある。風貌は時間とともに変化をするが、瞳の奥にはあの時代の輝きを残している。無謀なな夢。自信と不安。脆弱な自尊心。異性への憧れと劣等感、自己嫌悪。人生の道標を見ずに知らずに、己だけを頼みにしていた不遜。そして蹉跌の第一歩はこの時期に経験した。
 とまあ、それらは私であって、着実に一段一段、人生の階段を上っていった同窓生もいただろう。それにしたって、その人にとっては波乱に満ちたものだったにちがいない。同窓生ひとり一人に「よくがんばったなあ」と声をかけたい思いだ。
「二十歳くらいまでに知ったこと、経験したことが土台になって、あとはそれを拡大、延長していくのが、あらかたの人間の人生なのではないだろうか。この感受性のつよい時期に、ほんとうにすぐれた人に出会い、美しいものに打たれ、高い理念に燃え、激しい愛情を経験するかどうかーそういうことが、その後の人生を左右する」と著者は詩の一節に解説を加える。半世紀前にこの文章に接していたらと思う。
「人生に手おくれということはない」(同書)といってもなあ。
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 平和公園に行った折、原爆資料館のエレベーターに車椅子の女子高生と同乗した。スポーツをしていて怪我をしたが、修学旅行へは車椅子と松葉杖で参加したという。
 資料館を出て「原爆の子の像」へ歩を進めると、高校生たちが像を囲んで合唱をしていた。鎮魂と平和の歌声に私は強く心をうたれた。集団の端にエレベーターで遭遇した車椅子の女子高生もいた。引率教師に尋ねた学校名はつくば市の並木中等教育学校。帰宅してから、その時の感動を認(したた)め、写真とともに学校宛に投函した。
 そうして先日、車椅子の生徒から手紙が届いた。
「広島へ行った際、原爆被害の実相を初めて目にしました。戦争、また原爆の理不尽さを知りました。無差別で残酷な原爆にとても心を痛め、二度とこのようなことは起きてはいけないと思いました。そのためには私たち若い世代が語り継ぐ必要があると感じました。お手紙をくださったこと本当に嬉しかったです」
 感じたことを言葉にし文にし、手紙にする。大事なことが人生の1ページに刻まれた。彼女にも私にも・・・・・。託されたことを引き受けて、思いを言葉をつないで、私たちは生きていく。
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 内山アキラさん(左)も横山ノリオさん(右)も、私と同じく古希を迎えた同時代人である。内山さんは世界的な写真家として活躍を続け(2015年2月ブログ「物語は始まり、物語は終らない」)、横山さんは妻を帰らぬ旅に送り出して、この日はふた七日目だった。結婚以来、頭髪は妻が切ってくれていたという横山さん。「妻以外の人に切ってもらうってのはどうもね」。長く伸びた白髪交じりの髪を掻き上げながら、横山さんはさびしく笑った。
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「明日から死ぬほど忙しくなります」というのは村上郵便局に勤務する仕事仲間たち。左からカツオ、トシカズ、エリ、マサカツさん。トシカズさんとは車関係の仕事をしているころからの長い付き合いだ。
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 こちらは新潟県林業事務所の職員たち。ナツホさん、エミコさんと二人の女子だけが名前を明かしてくれた。
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 左からサトシ、ケイ、サオリ、ユウイチさん。新潟市から50分もかけての初来店。以前に休業日に来たことがあってリベンジの再訪となった。ありがたいことだ。情報誌の紹介記事を見たことがきっかけだと聞いた。その記事の掲載は1年以上も前だと思う。みなさん、今度は飲みましょう!あっ、当分は日・月を定休日にしているからね。
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 この夜は「村上9条の会」の役員会もあった。彼らも新潟からの4人と、こちらも初めて来店した平田医師(左端)も加わって画像に収まった。酒場が<出会いの場>でもあることを喜びとしている亭主冥利の一枚だ。
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 瀬賀医師と平田医師は高校・大学の先輩と後輩である。
平田医師は村上市に隣接する関川村の平田大六村長の息子。平田村長からは、かつてブナ林伐採阻止の住民運動や市町村合併問題でも指導や協力をもらった。11月のバレエ発表会では村長の孫娘とも共演した。岩船郡関川村。藁で作られた巨大な蛇がギネスにも登録され村人を繋ぐ「大したもん蛇まつり」。人口5700人の「小さくても輝く村」だ。
 目標は総合診療の充実だという平田医師。穏やかな笑顔が誠実な人柄を表している。在宅診療で忙しく往診に飛び回っている瀬賀医師とともに地域の重要な存在となっている。
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 市内で開業している医師をはさんでいる二人のピコ太郎は製薬メーカーの社員。今年の暮れはあちらこちらの忘年会でピコ太郎が出現したことだろう。衣装は一式5000円前後と聞いた。
 11月の「バレエ発表会」でオオカミに扮した私も長いマフラーで密かにピコ太郎を真似た。そして、舞台の袖で青年部の女子から教わった<恋ダンス>のフリを少しだけ本番で取り入れた。
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 クリスマス近くになると村上高校時代の恩師を囲んでワイングラスを傾ける集いが持たれる。何年も続くこの女子だけのパーティーへ、今年は瀬賀医師が加わった。恩師は彼の恩師でもある。
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 日々出来(しゅったい)する大小さまざまな出来事。穏やかであれと願っても浮世(うきよ)は<憂き世>でもある。スガイさんフナヤマさん、ヤスザワさん・・・・。それでも、みんなどうやら今年も乗り切ったぜ! 
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 手作りして庭のヒマラヤスギに取り付けた巣箱にスズメの姿を見つけたのは2015年6月だった。しかし、今年はその姿を見ることはなかった。それどころか、先日の風で巣箱が落下した。取り付けていた紐が穴から抜けたようだった。中を覗いて驚いたのは産卵、抱卵、羽化、巣立ちまでのために親スズメがつくった巣箱のベッドの厚さだった。天気のいい日に同じところに設置しなおすことにするが、中のベッドはそのままでいいのだろうか。それとも次の住人のために古いベッドは取り除くほうがいいのだろうか。迷いながら年を越すことになる。来年は酉(鳥)年である。
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 ユウキさん(左)が恩師の桑名先生に連れられて来店したのが20年前。それ以来の来店に同級生のトモコさん(右)を同伴した。二人と少し話して、ギターを取って1曲歌い、「いいお年を」と言い交わして送り出し、静かに店を終えた。夭夭亭年内最後の来客となったユウキさんトモコさん、あらためていいお年をお迎えください。巳年生まれで蛇好きのトモコさん、帰郷の折にはまたね。
 
 勤務するホテルのオーナーが、年明けから中国人に替わる。そのホテルの年末31日、厨房の手伝いを頼まれた。手伝いは元旦、2日と続く・・・・。

「O!what a beautiful thing God made winter to be,by stripping the trees.and letting us see their shapes and forms」(from Dorothy Wordsworth’s Journal
 ドロシー・ワーズワース(1771~1855)は英国の大詩人ウイリアム・ワーズワースの1歳ちがいの妹。イングランド湖水地方で兄とともに暮らした。
「おお、神は冬を何という美しいものにしてくださったのだろう。木々を裸にし、その姿形を見せてくださって」と、 冒頭の英詩同様に日本語訳をする著者は以下のように解説を加える。(『心に残る言葉』「小野寺健・著/河出書房新社・1992)」「(葉も花も)すべてをむしりとられてなお、毅然として立っている裸木に感動するドロシーには、東洋的な心さえうかがえる」。そして、「簡素なものに美を見て感動できるのは、豊かな心の持ち主である」と結ぶ。<富める者が天国に入るのは、駱駝が針の穴を通るのより難しい>というのは英国の教訓であるらしい。

 新春を迎えても、季節は冬である。むしろ、これからが冬本番だ。カナダから届いた白ワイン-summerhillを飲みながらPSに向かっている今は元旦の午前2時。しかし「明けましておめでとう」は寝て起きてからにしよう。みなさまにとって新しい年が穏やかでありますように。
<冬来たりなば春遠からじ>というフレーズが私は好きだ。冬を越さずに春を迎えるのも駱駝が針の穴を通るより難しい。
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# by yoyotei | 2016-12-31 11:59 | Comments(0)  

彼は問題を解決しなかったから偉大なのであり・・・・・

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「<きときと>の鰯(いわし)いらんかね!」
 行商の魚売りが、そんな売り言葉を発するテレビドラマを見た記憶がある。<きときと>とは新鮮で生きのいい様を表現するオノマトペだと思っていた。ドラマの舞台は若狭湾か富山湾あたりか。知人から釣ったばかりの鰯をもらったので『日本国語大辞典』(小学館)にあたってみた。それらしい意味としては<きっぱりと、はっきりと、しっかりと>などの意味が記されてあった。ちょっとした記憶違い、思い違いをしているかもしれない。
 新鮮なことこの上ない鰯は知人の薦めしたがって刺身で食した。これが鰯かと驚くほどに、その身は<きっぱりと、はっきりと、しっかりと>した食感だった。<きときと>の鰯はしっかりと鱗(うろこ)をまとっている。鱗はペットボトルの蓋でこそげ取るのがいいと、日々釣三昧の知人は教えてくれた。まさにその通りだった。
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 富山からいつも土産持参で来てくれるシンさんとマサミさん。今回はかまぼこ、マスの笹寿司、ホタルイカの干物などを携えて、ほとんど家族訪問といった感じで顔を見せてくれた。先月の女優田中裕子の来店以来<裕子病>にとりつかれた私の病気見舞いともなった。マサミさんは富山の居酒屋で出会うという女優室井滋(富山県滑川市出身)に触れて、私の<病状>に寄り添ってくれた。シンさんは田中裕子は名女優だと繰り返した。
 富山市議会では政務活動費の不正使用で辞職者が相次ぎ、さきほど出直しの選挙がおこなわれた。村上市においても数年前に政務活動費について「市民ネットワーク」のメンバーたちと問題提起したことがある。不透明で公私混同になりやすい側面がある政務活動費だ。もちろん政務活動費に罪はない。
<キトキト>は富山周辺で「新鮮、生きがいい」という意味で使われていることをシンさんとマサミさんに確認した。パソコンの電子辞書でも同様の意味が記されてあった。
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 カイツさん、ヒロコさんと呼び合う夫婦だが、一度だけカイツさんが「お前は黙ってろ!」と言い放ったことがある。庭で見つけた蛇を、カイツさんが捕獲しようとしているときにヒロコさんが、ああだこうだと口を出したからだ。「カイツさんは私よりも蛇が好きなの」とヒロコさんは言った。まさかと思ったが、カイツさんは捕獲した蛇を首に巻いたというから本当に蛇好きなのだろう。蛇を捕獲した道具は、冬に雪合戦などで使う雪玉をつくるものだった。
 現在は上越市に住む夫妻だが、カイツさんはかつて村上で働いていた。この日は妻を連れてのショートトリップだった。さっそく当時の仕事仲間で横須賀に住むワダさんに連絡をとった。
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 カイツさん夫妻来店の数日後、ワダさんから横須賀名物の海軍カレーが送られてきた。段ボール箱には食品ラップやティッシュペーパーから災害用トイレ処理剤までも詰めこまれてあった。どこまでも<ワダ流>なのである。カレーは数人のお客と分け合った。ワダさん、ありがとう。
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 10月に行われた「村上バルイベント」での来店客がリピーターとして来てくれた。左からセガ、サチコ、シブヤさんだ。サチコさんは数日後、今度は娘を連れて来てくれた。
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 座禅を体験した。会場は自宅近くの曹洞宗寺院。ご近所さんの若い僧侶から指導を受けた。25分の座禅初体験は私を魅了し、自宅でも続けるべく、即座に通販で座蒲(ざふ)を購入した。だが、いつもテレビやラジオの音がするわが家に静謐の環境はない。というのはいいわけだ。現在のところ、座蒲はソファーで格好の枕となっている。警策(きょうさく)で「びしっ!」と厳しく肩を打ってもらわなくては禅修行は覚束ないが、それ以前の問題だ。まずは座るところから始めなくてはなるまい。
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 左から安澤さん、ノリコさん(1947年生)、エミコさん(1950年生)の二人の姉妹と一人の弟。カネコさん(左1942生)はエミコさんの夫。
 近頃、夭夭亭には親子・兄弟姉妹・夫婦など、ファミリー親族の客が多いという実感がある。そうした間柄には、他人にもそれとわかる空気感がある。
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 マリリンことケイコさんには、近々に孫が誕生だという。若くて少し驚いたが・・・・・。老舗の金物店を営むタムラさんは押し寄せる大型ホームセンターパワーに日々立ち向かっている。
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 村上出身で同窓生の前田&大滝さん。この夜、自営業の二人は老後の生活について語った。老いていく親に自分自身の老後を重ねる年齢になったのだ。二人の生活スタイルは大きく異なるが、<老い>は同じようにやってくる。私が二人のちょっと先をぎくしゃくしながら歩いている。
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 狭山から「狭山茶」を土産にやって来たマスダさん(左)は生涯教育に力を注いできた市役所を、この春に定年退職した。東京大学経済学部を来春卒業予定のナオヤさん(右)は鉄道関係に就職が内定した。退職した者と職に就く者。二人は旅行先の鳥取砂丘で出会って以来、親子以上に年が離れた友人になった。旅行好きで鉄道にも詳しい二人に、私が高校時代の3年間、通学に利用した三江線の廃止に触れると、二人ともその情報は既知のことで、ナオヤさんは廃止前に乗ってくる予定だと言った。
 還暦以来、毎年続いてきた高校の同窓会が来年は母校の周辺で行われるらしい。私にとってもその機会が三江線最後の乗車になるはずだ。「声が小さい!」と車両の端の連結部分で先輩たちから叱咤されながら校歌や応援歌を歌わされた新入生の頃。ベニヤ板2枚分の大画面の油絵を背負い、乙原駅から竹駅を通過して川本の学校まで線路上を歩いたこともあった。描いた絵は付き合っていた女子生徒への心象を題材にしたものだった。彼女が蕁麻疹(じんましん)になったと聞いて付けたタイトルは「蕁麻疹の尻尾」。ローカルな赤字路線の廃止だが、私にとっては青春の一時期、さまざまな夢や迷い、挫折を乗せて走った鉄道だ。ナオヤさん、車窓に中国太郎の江川を眺め、石見川本駅と乙原(おんばら)駅を目に焼き付けて来てほしい。
 マスダさん、狭山のサトイモ届きました。でかいなあ!ありがとうございました。今度、なにかうまいものを送りますね。
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 左から時計周りにヒロリン、ミマ、アユ、マサキ、ユッケ、カッチャン、ベシのみなさん。マサキさんが夭夭亭は初めてというメンバーを連れてきてくれた。詳しくは聞かなかったが学校関係者ということにしておこう。ぜひまたのご来店を。
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 左からアケミ、ミキ、サチコさん。アケミさんは数十年前からのお客で、話をすれば時は瞬時に半世紀近くも遡る。先月の<バル街>にも顔を見せた。サチコさんも<バル街>からのリピーターで、つい1週間前にも<バル街仲間>と来てくれたばかり。初登場はサチコさんの娘ミキさん。母とそっくり顔のミキさんは、このほど羽田空港の保安検査の仕事が決まった。まもなく憧れの東京生活が始まる。
「がんばらなくていからダメだと思ったら帰ってくるんだよ」と、アケミさんが何度も言った。「そうだよ、そうだよ」と私。だが、言葉は不思議だ。ミキさんは「がんばらなくてもいいい」を聞きながら、きっと「がんばろう!」と自分に言い聞かせているのだろう。
「故郷の水はうまいからね」
 言葉にはしなかったが、私のミキさんへの餞(はなむけ)だ。力尽きて帰ってきたとしても、故郷は優しく迎えてくれる。ミキさん、30歳を目前の旅立ちだ。
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 11月18日、京都の吟遊詩人楠木しんいちさんの「投げ銭ライブ」をおこなった。今回は北海道から阿知波一道(あちわ・いちどう/1954生)さん(上のCDジャケット画像)の参加もあった。
 浄土真宗の僧侶でもある一道さんは胎内市善良寺での報恩講(浄土真宗の宗祖とされる親鸞 の祥月命日の前後に、宗祖親鸞に対する報恩謝徳のために営まれる法要)のため、また併せて昨年亡くなった善良寺住職加藤真人さんの追悼ライブも法要後におこなう予定で、妻久子さんを伴って来店した。同じ歌仲間で、こちらも僧侶の石川ひさとさんも石川県からやってきて合流、<楠木しんいち&僧侶2人>のライブとなった。
 この夜の演奏曲にはなかったかもしれないが、一道さんのCD『器(うつわ)』から歌詞の一部を紹介する。『器』は一道さんが55歳になった年、20009年の5月5日、5時間55分かけて55曲を歌ったライブを録音したもので、後に出会った楠木しんいちさんがコーディネートして製作された。

 陽気な人に出会った事がある/うつむきながら歩き続ける人にも/天高く昇る事もあるだろう/はいつくばってのたうちまわることも/生きる人々の様々な歌を聴くだろう/歌われる前からそこにあった歌/鳥が飛ぶ空を選んだにしても/空は飛ぶ鳥を選ばない
♯僕がいのちを台無しにしても/いのちは僕をだいなしにはしない/鳥が飛ぶ空を選んだにしても/空は飛ぶ鳥を選ばない   「空は飛ぶ鳥を選ばない」から

 このCDアルバムは数年前、加藤真人さんが私に届けてくれた。加藤さんは夭夭亭での楠木しんいちさんのライブに息子さんと来店し、ブルースハープで参加したことがあった。その加藤さんが昨年亡くなったことを一道さんから今回のライブの折に聞いた。さらに、前回の私のブログ冒頭に掲げた「ねがうよ」の文章は加藤真人さんが書いたものではないかと一道さんはいう。加藤さんが私にCDを手渡す際に添えてあったのか、ライブで来店した時に・・・・。私の記憶の一部が欠落していたのだろうか。文章の内容にも関連して不思議は深まるばかりだ。
 不思議はもうひとつある。ライブの翌々日、広島で行わる高校の同窓会出席を控えて、デジタルカメラのSDカードを新しく購入し装填していた。その上でライブの様子も撮影したのに画像を引き出すことができない。どうしたことだろう。不思議だ。
 私は北海道には行ったことがない。一道さんをたずねて北海道に足を運ぶのもいいなと思い始めている。しんいちさんと同じく<青春18切符>で行くか。<大人の休日クラブ>もある・・・・・。いい出会いをもらった一夜だった。「抱えきれぬ程の/大きなものを/出逢いの中に/手渡されている」。一道さん作詞「Peace to you」の一節だ。胸の奥にズンッときてブルッと震えた。震えはしばし止まらなかった。
 私は、「ねがうよ」の文章は加藤真人さんから私に手渡されたメッセージだと思うことにした。
 追悼の思いをこめて加藤真人さんの「ねがい」を今一度掲載する。
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「君にこの声が届きますように/絡みつく風をすり抜け今願うよ
明日を急(せ)かす鼓動に/僕はいつからか戸惑い。
隠してた醒めない夢に迷って/繰り返す日々に居場所を探してた
君に出会い/無力を知り/抱えきれない光にも触れた
そこに何があって意味なくあれたって/答え合わせじゃつまらない
君にこの声が届きますよお(う)に/焼付く時をすり抜けて
今願うよ」
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 今年の同窓会は広島でおこなわれた。最も遠くから最も早く会場に着いた私は、続いて到着した詳子ちゃんと「平和公園」を訪れた。詳子ちゃんの父は原爆投下直後に広島へ入り、二次被爆をしたということだった。
「平和記念資料館」ではオバマ大統領が献上した折鶴(上)も見た。
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「原爆の子の像」を取り囲んでいるのは茨城県立並木中等教育学校の生徒たち。彼らは折鶴を捧げて平和と原爆犠牲者の鎮魂を歌った。深い感動に満たされた私は泣きそうになり、しばしその場を立ち去りがたかった。
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 原爆ドームを視野におさめながら、大田川の川岸ではコンサートがおこなわれていた。
<しんいち&僧侶2人>ライブ、並木中等教育学校の生徒たちが捧げたコーラス、そして広島の川岸コンサート。想いと願いは詩となりメロディーとなり音となって、深く沈潜し、高く飛翔していく。
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 平和公園で出会ったベトナムの娘さんたちが満面の笑顔をくれた。片言の日本語は日本で働く人たちだろうか。この日は日曜日。「平和公園へ行ってみようよ」と3人は話したに違いない。周辺ではイチョウが黄色く色づき、穏やかに時間が流れていた。ベトナム語で「カーム オン(ありがとう)」と言いたかった。11月20日。汗ばむほどの陽気に包まれた一日だった。
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 スーパーの地元野菜のコーナーにビーツがあった。嬉しくなってロシア料理ボルシチをつくった。コリアンダーもあった。ベトナムでもタイでもコリアンダー(パクチー・香菜)は料理に欠かせない。インスタントラーメンに入れた。たちまちベトナムの麺料理フォーのような味わいになった。いま日本でパクチーが静かなブームだという。パクチー愛好家をパクチストというとか。独特の香り、それをクリアーすれば後は病みつきになるだけだ。
 色鮮やかで多彩な野菜たち。サトイモは狭山のマスダさんから送られた。ユズは常連の姉御マヤさんが持ってきた。大地から人から恵みをもらっている。
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 11月25日にキューバのフィデル・カストロ前評議会議長が死去した。彼は2003年3月来日。広島を訪問して、「人類は広島の教訓を学び取っていない」と訴えた。27日には国連総会第1委員会(軍縮)で採択した核兵器禁止条約交渉の開始を求める決議案に、なんと日本は反対した。アメリカの「核の傘」にあるとしても反対はないだろう。これまでは一貫して棄権としてきた日本だ。広島と長崎の教訓を学び取っていないのは日本政府ではないのか。
 29年前の1987年6月にキューバからバンド「Los Novels Cuba」が当時のソ連経由で新潟から入国した。日本キューバ友好協会の招きだと聞いた。そして、日本での最初の公演が村上市で開催された。公演後メンバーたちと夭夭亭で打ち上げをした。写真はそのときのものだ。彼らが持参したキューバのラム「ハバナクラブ」にしレモンを絞り込んで飲んだ。ラムのうまさに驚いた。
 キューバ・リブレ(Cuba Libre)というカクテルがある。第二次キューバ独立戦争の合言葉として使われた「Viva Cuba Libre(キューバの自由万歳)」にちなんで作られたカクテルだという。1898年4月に始まった米西戦争においてアメリカが勝利し、キューバがスペインから独立して1つの国家としての歴史をスタートする。その独立を祝う為に生まれたカクテルがまさしくキューバ・リブレだったのだ。
 1898年8月、キューバ独立を助けた1人のアメリカ人将校がハバナのバーで、キューバにアメリカ兵と共にやって来たコカ・コーラと、当時の地元で最も人気のあった、バカルディ社のゴールド・ラムをミックスすることを思いついた。そして、他のアメリカ人将兵たちが次々にこのドリンクをオーダーし、「キューバ・リブレ!」と雄叫びを上げて乾杯したのがこのカクテル誕生の由来といわれる。(ウィキペディアから)
「キューバ・リブレ」は「ラムコーク」ともいう。
 村上公演を実現させた、日本キューバ友好協会の会員だった画家ウチヤマさんの絵が夭夭亭にある。フラメンコダンサーの絵がそれだ(下)。30年前、長くスペインで画業を磨いたウチヤマさんは、当地で教員をしていた大学時代の友人の計らいで個展を開催した。その折に、私がこの絵を購入したことがきっかけで、酒のグラスを合わせることになった。
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 故八木三男先生と八重子の刀自夫妻の家の新しい住人が決まった。その家族と移譲の仲立ちをしたセガ医師、娘の絹さんらが夭夭亭で一席を持った。「ちょっとさびしい気がする・・・」と、絹さんに葉書を書いていたが、新しい住人は素敵な家族で、自分のことのようにうれしかった。
 そして、絹さんから「実家売却(またはふるさと)」とする歌が届いた。
  
 福島を出でてこの地にたどり着きし若き家族にこの家を託す
 年ごとに学校替わりし二人子よ山見ゆるこの家で羽根を休めよ
 父母とわれの四十余年この家のすみずみまでを動画に収む
 友を呼び風呂を薦めし父の声湯殿にいまも残るかのごと

 <若き家族>は福島の原発事故を逃れて当地に暮らしていたのだ。
 八木邸の玄関を入った正面の壁にウチヤマさんの油彩画があった。やはり、30年前の個展で購入されたものだったが、今はどこにあるのだろうか。庭にあった円い穴の開いた鞍馬石の石柱は・・・・。

 タイトルは以下のように続く。「一生を通じて彼の精神を苦しめていた問題に結局忠実だったから偉大なのである」(『決定版夏目漱石』江藤淳/昭和54/新潮文庫)
 「彼」とは夏目漱石である。漱石を苦しめていたのは「愛」の問題だ。「人間的愛の絶対的必要性を痛切に感じながら、それが同時に絶対的に不可能であることを、全ての智力を傾けて描いていた奇妙な男」(同)
 今年は「奇妙な男」漱石の没後100年だった。明日から師走だ。
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# by yoyotei | 2016-11-30 08:51 | Comments(2)  

枯れそめし草の黄よりもなほ黄にてこの蟷螂も雨に濡れつつ

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きみにこのこえが/とどきますよおにからみつく/かぜをすりぬけ今ねがうよ/あしたをせかすこどうにぼくは/いつからかとまどいかくしてた/さめないゆめにまよって/くりかえすひびにいばしょを/さがしてたきみにであい/むりょくをしりかかえ/きれないひかりにもふれた/そこになにがあっていみな/くあれたってこたえあわ/せじゃつまらない/きみにこのこえが/とどきますよおに/やけつくときをすりぬけていま/ねがうよ

 この文章が書かれた紙は、久しぶりに腕を通したベストのポケットから出てきた。いつ、誰が書いて、私に渡したのか。いや、渡された記憶もないし、思い当たるフシはまったくない。ポケットに入っていたことすら不思議なのだ。しかも、書かれている内容も単純なメモといったものではない。意味を探りやすくするために段落を整理し、漢字混じり文にしてみる。

「君にこの声が届きますように/絡みつく風をすり抜け今願うよ
明日を急(せ)かす鼓動に/僕はいつからか戸惑い。
隠してた醒めない夢に迷って/繰り返す日々に居場所を探してた
君に出会い/無力を知り/抱えきれない光にも触れた
そこに何があって意味なくあれたって/答え合わせじゃつまらない
君にこの声が届きますよお(う)に/焼付く時をすり抜けて
今願うよ」

 強い筆圧で大きく書かれた最後のフレーズ<ねがうよ(願うよ)>。いったいこれは何なのだろう。

 アイコさんとカズノさんは昨年の暮れに初来店、2016年1月のブログに登場してもらった。そこに私は「新しい年は、カズノさんもアイコさんも変化に向き合うことになるのだろう」と書いた。そして、変化はあった。二人とも幸せな変化ではなかった。冒頭の文章が二人の思いを代弁しているかのようでもある。元気を取り戻すことを<願うよ>。
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 小児科の医師と看護師、それに深夜に呼び出されたタドッチことタドコロ泌尿器科医師(左)
 中央のミキコさんは4人の子どものママさん。その後ろコジハルことハルナさんにはカリンちゃんという1歳7ヶ月の女の子。ケンタロー医師には1歳10ヶ月のアカリちゃんがいて、来年1月には第2子が誕生予定。博多生まれマサヒロ医師は独身だったかな、子どもの話は出なかった。
 ケンタロー医師は中国とパキスタンの国境クンジェラブ峠を越える旅行をしたという。パミール高原、カラコルムハイウエィと聞いただけでワクワクドキドキする。かつては真剣にこの旅を計画したこともあったが・・・。この峠は標高4733mとも4943mまた4693mともいうが、はっきりしない。かつて日中共同で製作されたNHK番組「シルクロード」の何週目かに「パミールを越えて」というタイトルがあったのを記憶する。当時、数台の車でキャラバン隊を組んで走りぬけた砂漠を今は鉄道が通る。
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 第3回えちご村上BAR(バル)街イベントがおこなわれた。今回も提供するのはキーマカレー&バトーラのミニセット。前回は押し寄せる(?)客にパニック寸前になったので。昼間勤務するホテルの佐藤さんに手伝いをお願いした。フロント担当の佐藤さんは186センチ、22歳のイケメン青年。「いつでも手伝いますよ」と言ってくれたので、彼の指名予約を受け付けることにした。
 前売りチケットの売れ行きは前回を下回ったということだったが、夭夭亭では<後バル>最終日に来客数が前回に並び、さらに3人の増客だった。
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 左はサントリー新潟支店の三宅隆人さん。メーカーとしてバルイベントになんらかの協力・協賛ができないだろうかと状況視察をかねてのはしご酒。25歳の爽やか青年が隣に座ってナオコさん(右)もご満悦なのだ。
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 大沼広美さん(右)は長岡市の「NPO法人まちなか考房」の事務局長であり「ながおかバル街」実行委員長。函館の西部地区で行われていた<バル街>イベントに啓発されて、5年前に長岡でも開催に踏み切った。その後は県内各地に広がり、村上ではこの秋で3回目の開催となった。長岡では10月22日(土)に参加72店舗、村上の3倍もの規模で開催された。
 坂田晃秀さん(左)は長岡市役所職員で<ながおか・若者・しごと機構>の特命主幹。「NPO法人まちなか考房」では事務局統括を担う。村上では商工会議所・観光サービス部会の主催だが、長岡では実行委員会が主催し、行政が協力支援という開催形態のようだ。この夜は村上のバル街探訪。地域おこしやイベント仕掛け人たちのなんと魅力的なことか。つい「友達になりましょう」と手を握った。
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 居合わせた長岡市役所の坂田さんにケーキへの点火をしてもらうこの夜の主役はカオリさん。前回はミホさんの誕生会でやはりケーキのご相伴にあずかった。カオリさんも誕生日のお祝いだったのかな。
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 カサブランカ・ダンディことオオタキ・シゲオさんに初孫が生まれた。マリリンの祝福を受けて顔がほころぶ新米ジジイなのだ。
 この夜、山ほどの洗い物を彼女たち保健医療課の女子たちがやってくれた。こうした人たちに支えられて、この店はどうにか存続している。
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 この夜の最後のバル客。メモにサイトウ・タケシさんとあったがどちらがそうなのか記憶にない。障害者福祉について熱く語ったように思う。あらためてじっくり飲んで語り合いたい二人だ。
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バルイベントで初来店だったアサミさん(左)さんが、翌日には母と一緒にやってきた。母フジコさんは40年来のお馴染みで、今でも現役の看護師だ。母と娘はバルメニューの<キーマカレー&バトーラ>を「うまい!」を連発しながら食べてくれた。
翌日は新潟知事選挙の投票日。「原発イヤだから!」と、キパッと言って帰っていったアサミさん。結果は「新潟に新しいリーダーを誕生させる会」の米山隆一候補が勝利した。最大の争点は柏崎刈羽原発再稼動だった。「福島原発事故の検証なしに再稼動の議論はできない」とした泉田知事の路線を継承した米山候補に県民の期待が集まったのだ。アサミさん、やりましたね。今度うまい酒を飲みましょう。
 この勝利は、再稼動した川内原発の停止を訴えて勝利した鹿児島県の三反園訓知事に続くものだ。
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 ミキさん&カズオさん夫妻は20年ぶりの来店だと聞いた。確かに顔に覚えがある。
<オープン43年目、伝説の店になりつつあります>が今回のバルイベントで私が掲げたキャッチコピー。客にも私にもさまざまに時がめぐり、共に歳を重ねていく。 
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 フジコさん同じ看護師のユウコさん。カウンターから顔を覗かせているカール。<おしゃまなパリジェンヌ>といわれていたカールもすっかり年老いた。それでもユウコさんとの酒場通いはやめられない。
「ああいう若い人がいると店に活気が出るね」と、アサミさんを笑顔で見送ったユウコさん。登山、長距離ウオーキングに加えて最近はマラソンも始めたという。
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 ジュンちゃん、シゲコさんなど4人は同級生。この夜は同級会の計画で盛り上がった。商工会議所に勤めるジュンちゃんには確定申告の相談や営業上のことで、長い間お世話になっている。今回のバルイベントでも・・・・・。
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村上中等学校の英語科の教師たち。左から時計回りハルナ、イーライ、エミ、サトミ、タクミ、オサムさん各氏。
ハルナさんが手にしているのはサトウキビ。「Sugarkane!」と誰かが叫んだ。
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 イーライさんはオーストラリアからやって来た37歳。同僚の日本人教師たちから日本語のレッスンを受けていた。
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 左からマサユキさん、セイコさん、ヒロミさんの市役所職員の3人。前夜に続いてサトウキビをかじってもらった。Sugarkaneだと昨夜教わったばかりの英語を・・・。すかさずマサユキさんが<Sugarkane>というジーンズのブランドが日本にあると教えてくれた。さらに、サトウキビ畑で働いていた労働者たちの作業着がジーンズだったことがブランド名の由来だろうとはマサユキさんの考察。まちがいなくそうだと思う。
 セイコさんとヒロミさんは「ざわわ、ざわわ」だねという反応。もちろん森山良子が歌う「さとうきび畑」だ。

 むかし海の向こうから/いくさがやってきた/夏のひざしのなかで
 あの日鉄の雨にうたれ/父は死んでいった/夏のひざしのなかで                  
 中等学校の教師たち同様、みんなが関心を示してくれるサトウキビ。これはジョージさんの娘婿の故郷鹿児島から送られたもので、おすそわけにいただいたものだ。反原発で誕生した三反園知事の鹿児島から、慎重姿勢を維持する米山新知事を誕生させた新潟県に届けられたサトウキビ。なくなってしまったので通販で取り寄せた。でも、こちらは味が薄いようだ。
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 バルイベント最後の客で、前回をこちら3人の看護師が記録を伸ばしてくれた。左からニジコさん、エツコさん、ノリコさん。懐かしい顔もあれば友人の妻もいる。前回のバルは初めての来客が目立ったが、今回は数年ぶり数十年ぶりといった顔ぶれが多かった。
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 外国人たちにカウンターを囲まれると、急速に自分の日本人意識が目覚める。2日前に初来店したイーライさんがERT仲間をつれてきてくれたのだ。みんなフレンドリーに打ち解けてカメラに収まってくれた。
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 左からイーライさん(オーストラリア37)、イライサさん(USA24)。いずれも国名の後は年齢。以下<さん>は省略。
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 シャオビー(USA22)クリス(USAカリフォルニア31)
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 ジョナサン(USAバージニア22)タイラー(USAオハイオ27)
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 イライサ、ニッキ(USA25)
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 シン(日本42)、エミ(日本33)とこちらはカウンターの端で日本代表を務めたお二人さんだ。シンさんは一人でウイスキー1本を空(から)にするという酒豪。いい雰囲気の二人に「大滝舞踊研究所発表会」(11月19日開催)の招待券をプレゼントした。今回の発表会で私はオオカミに扮して、ヒヨコ役の幼年部の女子たちと共演する。
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 この自作のオオカミは「オオカミなんかこわくない」というバレエの演目でMHK全国放送された際に使用した。もう17年も前になる。それ以来の出番を迎える。ハロウィーン用ではない。
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 家族と一緒のとき、人は別の顔を見せることがある。シンちゃんことナカムラ自動車社長も例に漏れない。夜は空手指導に情熱を燃やす<心優しい猛者>が、家では娘の弁当を作るという。
「お父さんのいいところと直してほしいところは?」。娘たちに聞いてみればよかった。

  注文していたワインが宅配便で届いた。同時に二人の女性客が入店した。カウンター席に座ってもらい、「ご旅行ですか?どちらから」「東京からです。夕日を見に」「今日はいい天気でしたね。夕日は?」「見ました」・・・・・。
 女性客の一人はこじんまりした目鼻立ち。話し口調と声に、初めてではない、どこかで会った人だと思った。記憶をたどっている私の目線に応えて「そうです」とうなづいた。目に微笑をたたえて静かに言葉をつなぐ、その人は女優の田中裕子さんだった。私の中で、その名前が浮かぶまでには、それでもいささかの時間を要した。
「田中裕子さんというのは本名ですか」「ええ。今は沢田ですけど」。沢田は女優の夫、沢田研二の姓だ。出生地や女優になったきっかけ、舞台「マクベス」や、彼女も行ったことがあるバラナシ(インド)のことなど、私はまるでインタビュアになったように質問をなげかけた。そうした話の中で、女優は曽祖父が村上の出身だと驚くようなことを打ち明けた。曽祖父はタキザワといい呉服屋を営んでいたが、商売に行き詰まり村上を離れた。女優の祖父は田中姓の家の養子になったかして女優の本名につながった、といった話だった。
 一見、どこにでもいるようで地味な印象。小声で抑揚を抑えた話し振り。しかし、かつて沢田研二との恋愛から結婚に際して女優につけられた<魔性の女>という冠詞や、女優の内部で燃え盛っているマグマが、いつ噴出すかしれないような不思議な存在感を、映画やテレビドラマの中の女優を思い浮かべながら、私は確かに感じとった。それは「結構、飲まれるんですね」という私の問いかけに「飲むときにはね」と応えた女優の<凛>とした反応からもうかがうことができた。<やるときにはやります><私が決めたことです>。懸命にこらえながら、それでも瞳に滲み出る涙。悔しさに血が滴るほど唇を噛み、押し黙ったまま震える。時として怨念や情念を迸らせて挑みかかる。修羅の世界を自身としても女優としても生きている、そんな女優の姿や表情を、目の前の本人に重ねて連想した。「女が行く極楽に男はなく、男が行く極楽に女はいない」と書いたのは尾崎紅葉だったか。この世は男女の愛憎が織り成す修羅の場でもある。
 1時間後、女優と所属事務所のスタッフを送り出した後、私は女優と同じ、濃い目の水割りを数杯立て続けに飲んだ。化粧っ化のない普通のおばさん然とした女優にカメラを向けるのはためらわれた。だから画像はない。
だからこそ、女優がそこにいたのも<幻>だったともいえるのだ。

 枯れそめし草の黄よりもなほ黄にてこの蟷螂も雨に濡れつつ      吉野秀雄

 木枯らしの季節になると、蟷螂(かまきり)の色も枯色となる。交尾の後、メスはオスを食い、産卵して枯れてゆきながら、なお生きている。(山本健吉『句歌歳時記』新潮社/昭和61)

10月も終わる。秋が深まる。
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# by yoyotei | 2016-10-12 02:01 | Comments(6)  

言葉こそ生きる楽しみ生きる術(すべ) 不如意の無念も表せぬとは

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「かなしからずや身はピエロ、月のやもめの父無児(ててなしご)!月はみ空に身はここに、身すぎ世すぎの泣き笑い!」(第一詩集「月光とピエロ」堀口大学から「ピエロの嘆き」)。9月10日(土)の新潟日報は題字下にこの詩を掲げた。泣き笑いの日々を生きるのは人のさだめ、その身を昂然と輝く月に比すればおのれはピエロのごとくだという。
 石原裕次郎が「青い満月」を歌ったのは40数年も前だっただろうか。
   青い満月教えてくれよ/親も故郷をも捨てたいときは/だれにすがればよいものか
   好きな同士が一緒になれぬ/何もせぬのに嘘まで触れて/なんで世間が邪魔をする

   青い満月察してくれよ/人の世界にあいそがつきて/月に物問う切なさを
   人にかくれて泣きたい時は/月よお前の雫(しずく)にぬれよう/あすも今頃出てお呉れ
                       (作詞・萩原四郎 作曲・上原賢六)
 「月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。万(よろづ)の事、先の詰まりたるは、破れに近き道なり」と、これは「徒然草」第八十三段の一節。
 人を感傷に誘い、人と語らせ、物事の消長にまで思いを巡らしめる月。その月はまた雲間に隠れることもある。
「待てど暮らせど来ぬ人を/宵待ち草のやるせなさ/今宵は月も出ぬそうな」と歌われる竹久夢二の『宵待草』。

はげしいむし歯のいたみから/ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら/わたしは棗の木の下を掘つてゐた、
なにかの草の種を蒔かうとして/きやしやの指を泥だらけにしながら/つめたい地べたを堀つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえてゐる/うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で/ちろ、ちろ、とみみずがうごいてゐた、
そのとき低い建物のうしろから/まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた/月があがつた。

日本近代詩の父と称される萩原朔太郎(1886~1942)の最初の詩集『月に吠える』におさめられた詩「白い月」。
                       
『百人一首』にも月を詠んだ歌は数多い。私などでも口をついで出るのは次の一首だ。
「月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身一つの 秋にはあらねど」(大江千里』)。また、「なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな」という西行の歌もある。王朝人のなんとセンチメンタルなことかと思うが、突如として高校時代の国語教師野津迪子(みちこ)先生を思い出した。先生が大学の卒業論文に西行を取り上げたと聞いたことがあったからだ。先生の知的なまなざしで見つめられると妙な反抗心が生まれた、そんな素直でない年代であった。
 迪子先生は結婚して野津から神田へ姓が変わった。神田先生は美術や演劇部の顧問で、美術部に入部した私に「代金はいつでもいいから」と言って油絵の道具一式を買い与えた。その道具で描いた油絵の第一作が今も店の壁にある。代金はいまだ未払いのままである。
 神田先生はベトナム戦争の悲惨な状況を私に教えた人でもあり、社会への関心というひとつの窓を開けてくれた先生だった。敬愛する二人の結婚を同窓生から聞いたのは卒業してから30年も後のことだった。自分のことのように嬉しかった。
 童謡『月の沙漠』の情景が私は好きだ。「月の沙漠をはるばると旅の駱駝が行きました」(作詞・加藤まさを 作曲・佐々木すぐる)
 かつてシルクロードの旅やインド西部タール砂漠のキャメル・サファリに大きく興味をそそられこともあったが・・・・・。作詞の加藤まさをは外国へも、まして砂漠へも行ったことはなくて、千葉県の御宿海岸でこの詩の着想を得たという。
  「広(ひろ)い沙漠を ひとすじに 二人はどこへ 行くのでしょう
  朧(おぼろ)にけぶる 月の夜(よ)を 対(つい)の駱駝は とぼとぼと
  砂丘(さきゅう)を 越(こ)えて 行きました
  黙(だま)って 越えて 行きました」
 神田先生夫妻は健在だろうか。同じ月を二人寄り添って眺めておられるだろうか。
*<沙漠>と<砂丘>、沙と砂が使い分けられていることを歌詞を確認して初めて知った。
                         
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 農業の現状と将来を語る農業者二人。山形県高畠町からやってきた猪野クニオさん(左)と地元で米中心の農業集団を率いる板垣ヨシマサさんだ。彼らの熱い語り合いから、<農業こそはわれらが天職>といった思いが強く伝わってくる。
 そんな中で環太平洋連携協定(TPP)をめぐって、輸入米の価格偽装問題が浮上している。
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 産婦人科医のユミコさん(左端)が結婚して村上を去ってから3年近くも経っただろうか。その彼女がかって勤務した当地の病院の同僚たちと顔を見せた。ユミコ医師と私は<インドつながり>で、ベトナムに同行したこともある。ユミコ医師の右隣は、同じ産婦人科医のセリさん。先月のブログにも登場してもらった。
 セリさんの隣がこの夜の主役・小児科医のカツヤマさんだ。カツヤマさんは7年ほど勤めた当地の総合病院から長岡市の病院へ移ることになった。右は長い馴染みの外科医ワタナベさん。
 先に引いた詩人萩原朔太郎は群馬県前橋市の開業医の家に生まれた。セリさんも前橋の出身だが生家は開業医ではないらしい。これも前回のブログで紹介したが、セリさんは「前女(まえじょ)」こと県立前橋女子高校出身。朔太郎は「前高(まえたか)」と呼ばれている県立前橋高校(旧・県立前橋中学校)へ入学したが落第したと経歴にある。
 そのセリさんが、転勤するカツヤマ医師を「いい人オーラ」が蓋(おお)っていると表現した。本人もほとんど怒ったことがないという。<いつも穏やかに笑顔を湛えている人>というのが私が持ち続けてきた印象だ。長岡でも子どもやおかあさんたちから信頼される医師として活躍してほしい。
 先ごろ、朝日新聞「声」欄に次のような投稿が載った。
「医師の役目は病気を治すことだけではない。できる限り、患者が望む生き方ができるようにサポートすることだ。そのためには、患者の声をよく聴き、その人の生き方や思いを理解し、不安や悩みを取り除く必要がある」。 
 小学生の時、ストレスから体調を崩し受診した投稿者は、医師の冷たい態度に診察のたびに泣いていたという。患者としてのつらい体験から、「患者の心を傷つけない医師になる」という18歳の決意表明。心からエールを送りたい。もちろん、長岡へ転勤するカツヤマ医師にも。
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 鹿島アントラーズの育成部長高島さんを真ん中に飯島夫妻である。鹿島・高島・飯島と<島>が並んだ。ついでに私は島根県出身だ。
 歩行に支障をきたしていた飯島夫人カヨさんがずいぶんと回復したように見受けられた。そして、相変わらずの可愛い笑顔だ。トライアスロンでもボランティアとして、やはり笑顔で参加していた。
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「ギターを抱いた吟遊詩人」とも「さすらいのフォークシンガー」とも称される楠木しんいちさんが顔を見せた。1年ぶりか。京都市を拠点に、青春18切符で鈍行列車を乗り継いでの全国フォーク行脚は30年が過ぎた。この夏のライブ・スケジュールの一端を紹介してみる。
〇7/18(月)京都市嵐山『音や』〇7/30(土)金沢市湯涌創作の森『夕暮れ時コンサート』〇8/3(水)神奈川県大磯町『今古今(こんここん)』投げ銭ライブ〇8/6(土)三浦市三崎『ラ・クエンタ』投げ銭ライブ〇8/7(日)東京・阿佐ヶ谷『あるぽらん』〇8/15(月)ピースウォーク京都市市役所前スタート〇8/16(火)京都市『キッチンハリナ』ライブ〇8/20(土)東京都国立市『くにたち市民芸術小ホール』参加フリーライブ〇8/27(土)北海道今金町〇9/2(金)札幌市ギャラリー&カフェ『樹樹』〇9/3(土)札幌市『タペストリー』〇9/9(金)群馬県前橋市『クールフール』〇9/10(土)前橋市『水星』〇9/15(木)東京東中野『リズ』などといった具合である。
 この夜、二人だけでビールを飲みながら話した。さまざまな人間の営みや社会における価値観の変遷・・・・・。彼の語り口調はいつも穏やかで緩やかだ。
 彼には、はつ菜さんという一人娘がいる。父と同様のシンガーソング&ライターとして活動し、<京都の妖精>といわれていた。そのはつ菜さんが、今年の5月に博多の音楽関係者と結婚したという。そして、父しんいちさんは9月24日(土)に博多でライブを行ったはずだ。
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 これは、一昨年の「夭夭亭ライブ」のはつ菜さん。そして歌った歌の一節。 
 
 私は運命のなんとやらなんて信じてない
 そう簡単に安心なんてできない
 何度だって転ばせてよ
 何度だって傷つけてくれたっていいよ
 何度だって立ち上がってみせるから
 ねえ、ほらっ・・・。
                 「Resilience」から
 いささか自虐的な歌詞だが、結婚によってはつ菜さんの歌世界に変化があるだろうか。
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 診察待ちの眼科で、看護師から生年月日をたずねられた。右隣の人が「昭和13年8月29日」と答え、私は「昭和22年8月29日です!」と答えた。並んだ二人の誕生日が同じだった。私は右隣の男性に「同じですね」と声をかけた。男は、それがどうした?といわんばかりに、私をちらっと見ただけであった。偶然を面白がらない人だ。看護師さんの方がちょっと感動した面もちで「珍しいですね」と軽く笑った。
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 近所のスーパーで買い物をした。レジでの会計が7品目で、ちょうど1000円だった。私の次に並んでいた中年女性が「ピッタリ賞ですね」と言って顔をほころばせた。私もレジ係りも笑った。こんな些細なことでも人は笑い合える。
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 八重子の刀自(とじ)が倒れた、との報は5月下旬にもたらされていたが、このほど娘の絹さんから詳しい近況が知らされた。5月はじめに脳梗塞で倒れ、右半身のマヒと失語症の後遺症が残り、要介護5と認定されたこと。さまざまなリハビリに励みながら、現在は介護施設に入所していることなど。
 八重子の刀自は「夭夭亭」の名付親、故八木三男先生の夫人。村上を去って国分寺市に住む一人娘絹さんの近くに住まいを移したのは2年も前だろうか。村上を去るにあたって八重子の刀自と絹さん、八木三男先生の治療にあたった高校の教え子・瀬賀医師と私とで別れの膳を囲んだ。その折、刀自からひとつの話題が提供された。『百人一首』の「忍ぶれど 色にでにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで」(平兼盛)と「恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」(壬生忠見)の2首の和歌について、「汝らはいづれを好むや、またいづれを優とするや」というものであった。「天暦の御時(おほんとき)の歌合(うたあわせ)」(960年)以来千年の論争となっていることを、私はこの時に刀自から教わった。
 絹さんからの便りに、「介護施設は私の自宅から近く、リハビリの手伝いをしたり、百人一首の勉強をして過ごそうと考えています」とあった。
 刀自(とじ・とうじ)とは(老若にかかわらず)一家の女主人の敬称などと『古語大辞典』(小学館)にある。私のブログ「八重子の刀自(とじ)」(2012年6月)に、そのいきさつを載せているので再掲する。画像の左が6年前の元気な頃の八重子の刀自で、右は土浦の今井さん。
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 『二年前に「出でませ子」と題したブログで、八木八重子さんの歌集『出でませ子』を紹介した。そのなかで歌のいくつかも紹介したが、じつは歌集名の由来について、あとがきに次のようにあったのだ。 
(前略)ある日、日本書紀の中の歌垣の歌が話題になり、夫は傍らにあった筆をとり、すらすらと書きました。

八重子の刀自
打橋(うちはし)の頭(つめ)の遊びに出(い)でませ子
玉手の家の八重子の刀自
出でましの悔いはあらじぞ出でませ子
玉手の家の八重子の刀自

 この古歌は四十数年前に夫が私におくってくれたもので、結婚のきっかけとなりました。歌集名『出でませ子』は夫が書き遺したこの古歌からとり、題字は夫の最後の筆跡です。(後略)』
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 絹さんの便りには20首の歌が添えられてあった。数首を載せる。
 
 この人はわが母なりやぼんやりの表情のなかに面影求む
 家庭科のマチ針に絹、絹、絹、絹 書きたる母を思い出しおり
 歯ブラシにタオルにパジャマ、リハビリシューズ今度はわれが母の名を書く
 母がその母になしたる介護なればわが母にまたわれも尽くさむ
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「2016村上・笹川流れ国際トライアスロン大会」。開催前夜には決まって高崎さん(中)が顔を見せる。JTU(日本トライアスロン連合)の公認カメラマンである高崎さんはオリンピック・リオ大会にも大きなカメラを抱えて行ってきた。そして「リオは北京と同じ臭いがした」と語った。両国に共通するトイレ事情によるものだという。文章を書くことも生業(なりわい)のひとつである彼の話題は多岐にわたり、その掘り下げは深く正確だ。2年ぶりの偶然の再会となったマヤさん(左)とも話が弾んだ。
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 1000人を超える参加アスリート、競技を支える運営スタッフとボランティアは820人。当地でローカル大会として誕生したとき以来、公認の世界大会となってからも実況のマイクを握ってきた。当地が会場となった新潟国体トライアスロン競技でもやはりマイクを握った。だが、「今年でもう限界だ」と終了後に担当者に伝えた。なにしろ名簿の選手名が読み取れないのだ。ドライアイのために野外では対象物がちらちらする。サングラスで対応したが後半はボランティアの女性に読み上げてもらって、それを復唱するといった始末だった。来年に向かって後任者を見つけなくてはならない。
 作家の村上春樹さんなど著名人の参加もある大会だが、今回はモデルでタレントの道端カレンさんが出場した。「レースナンバー364道端カレン!東京都からのエントリー!」と紹介して「ん?」と顔を上げた時にはスタイルのいい後姿が右手のコーナーを曲がって消えた。
 参加者の最高齢は男子の80歳2名だった。2名とも最後尾でタイムアップとなった。それでも最後まであきらめることなく走り続けたが、無情にも道路上のコースを示すコーンなどは撤去された。道路の占有許可時間が終了したのだ。
「千葉県からのエントリー、タケウチ・シンセイさん、新潟県からのイシグロ・シュウキチさん、ともになんと80歳!二人はゴールをめざして今も懸命に走り続けています・・・・。しかし、残念ですが、ほんとうに残念ですが、こちら実況ブースからの放送はこれをもって終了させていただきます・・・・。ご協力ありがとうございました」と、私は4時間にわたってしゃべり続けたマイクを置いた。私の30年近いMC担当も終わった。
「人生はスポーツ。スポーツは人生だ!!100歳まで挑戦します。よろしくお願い申し上げます」
「日本トライアスロン連合(JTU)」創設者の一人でもある石黒修吉さん(80)から大会事務局へ寄せられたコメントだ。
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 秋雨の中、庭の金木犀が香ってきた。強い香りが印象的だが、咲かせる花は小さくつつましい。謙虚・謙遜・気高い人などの花言葉がある。数日のうちに濡れた地面が、ビーズを散りばめたように黄色く染まるだろう。
 タイトルの歌も絹さんが母を詠んだ一首。秋の雨は降り続いている。
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# by yoyotei | 2016-09-29 08:39 | Comments(1)  

小さな小さな倖せはここに

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長岡花火を見てきた。花火もすごかったが観客の数もすごかった。8月2・3の両日で120万人。私が観覧した3日は50万人の人出。それほどの人の海を視界に収めるのは未曾有のこと。会場への行き帰りも重要な思案のひとつだというが、次女の計らいで会場近くの駐車場が確保できたためにスムースな花火見物となった。
 豪華絢爛、大規模の花火だが、鎮魂、復興、平和への願いが込められたものと知れば、火の花が夜空に広がり、見上げている者に覆いかぶさってくるとき、息つく間もなく次々と打ちあがるスターマインに「オウッ、オウッ、オオーッ!」と声を発しながら、おのずと涙が滲んでくる。
<眠れるものは目覚めよ/天上に彷徨(さまよ)う魂はここに到れ/地上に臥す者はその顔を上げよ/いま夜空を轟かせ地を震わせて開く火の花は、天と地をつないだ/死者はひと時(とき)甦(よみがえ)り/生きてある者は冥府への道標(みちしるべ)を見た>
 そして私はといえば、トイレの帰り、自分の席を見失い迷子になった。やむなく席を探すのをあきらめて、空いていた桟敷に大の字に寝転んで天を仰ぎ続けた。途中、「マスター?!」と花火の明かりの中で声をかけられた。村上の元教師だった。50万人の中で知人に出会うこともある。

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 夏の夜のしばしの同窓生交歓は、1961年(昭和36)生まれの左からトオル、エミ、マコト、ノリコ、ヒデノリ、アツシの各氏。
「週間FM」で編集にたずさわっていたというノリコさん。あの数日後、キヨミさんが叔母さんと二人で顔を出してくれましたよ。「FM」ではないが、YOYOTEI(夭夭亭)が中継地になっているような気がして嬉しくなりました。
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 前回のブログではジョージさん(右)の親族のうち、<薩摩隼人><薩摩おごじょ>を中心に紹介した。今回紹介するのは、まずジョージさんの妻の姉の息子ヨウジさん(中)、その妻フミコさん。ヨウジさんは瀬波温泉のホテルで私と同様の仕事をしている。フミコさんは私の三女と同期、職場で<生き字引>といわれているそうな。彼女の父も<物知り>で古い馴染みである。
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 左から、ジョージさんの次男アキヒコさん、長男ケイスケさん、ケイスケさんの妻エミさん。
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 彼らが見入っているスマホの画面には<ケンシロー君>が映っているのだろうか。ケンシロー君はケイスケ・エミさん夫妻が飼っている、スローロリスという超小型の猿。9歳になるが人見知りが激しく<ビビリウンコ>をするので連れてはこなかったという。一度だけ私も<面識>がある。
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 エミさんとフミコさんは夫がイトコ同士だ。その妻たちは義理のイトコというのだろうか。 
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 半年ぶりの会田さんだ。以前のこのブログで出産予定を明らかにしたが、予定よりちょっと遅れて長男が誕生した。結婚して8年。さまざまな苦闘を経てのうれしい誕生だった。命名は陽嵩(ひたか)くん。スマホの動画で6ヶ月になった陽嵩クンは元気に<寝返り>をしていた。父になった会田さんのうれしさがズンズンと伝わる。あらためておめでとう!。
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 愛子さんが大きいおなかを抱えてやってきたのはいつだったか。その子が生まれて4ヶ月になった。こちらはユイちゃんと名付けられた。
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 愛子さんの父、友和さんと愛子さんの第一子アオイちゃん。アオイちゃん誕生の知らせを聞いたのは隣家本間桂先生の葬儀の朝だった。人が死に、人が生まれる。命の輪廻を実感したことであった。
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 会田さん(右)の目線の先には母に抱かれるユイちゃんがいる。命の不思議さ、命の重さ・・・・・・。
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 この夜はどうしたのだろう。「石亀」のエミさんまでも孫を連れてきた。生糸(きいと)ちゃんだ。生糸ちゃんの曾祖父から始まって、夭夭亭に顔を出した八藤後家の4代目となる。早々と酒場デビューを果たした生糸ちゃんだが、本格デビューになる頃には店も私の命も・・・・。「ウーム」である。
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 ナツキさん&コウシロウさん夫妻だ。ナツキさんの隣にはテレビ会社の統括担当部長を務める父アツシさんがいる。そのアツシさんは「俺はいいから、二人を」と画面には納まらなかった。そこには若い娘夫婦を見守る父の姿があった。
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 昨年10月の飲み会もスタートが夜の9時30分だった。今回も9時30分スタートで「二次会?」と思っていたが、予約の電話をもらったルミさんの名刺を見て納得した。名刺には「エステティック&リフレクソロジイ/ダイアモンド・ムーン代表」とあり、「ダイアモンド・ムーン」は瀬波温泉(株)ホテル汐美荘内にあるのだった。仕事が終わるのが9時過ぎということなのだろう。
 この夜はルミさんの誕生日だった。キャンドルライトに浮かび上がるルミさんは、その容貌と、かもし出す雰囲気がいかにも職業にふさわしい。二十歳前後の頃にも夭夭亭には来たことがあると聞いた。
 ルミさんの夫は建設会社を営んでいる。穏やかな印象の人だ。このグループ全体がエレガントな空気感に包まれているのはルミさんの存在があるからだろう。
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 初代の祖父は産婦人科を開業していた。父の代から眼科となり自分もそれを継承したドクター・トガシさんは、私の次女と小学校の同級生。彼の姉も眼科医で何度かの来店があったが、現在は沖縄に住んでいるという。<沖縄で暮らしたい>というのが動機だったらしい。
 マリンさんはドクター・トガシさんの姪で薬科大学生。彼女の母は<沖縄へ行った叔母>の姉だそうだ。
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 今回のブログは親子、孫、兄弟姉妹など、親族のつながりを紹介する内容になった。8月は親族や<魂>が寄り集まる季節、私の店にもそうした人たちが集ったようだ。
 この地に住んで半世紀近くになる私自身も、必ずしも親族ではないが、さまざまな人とのつながりの中で生きてきたし、これからも人とのつながりに助けられて生きる。
 6月末、ある人が旅立った。自ら立ち上げ長年続けた型枠工事の会社をたたみ、土を耕すことに新しい生きがいを感じていた。夏の朝、小学校の同級生だった妻と草取りをしていて倒れ、畑からそのまま天に昇っていった。<頑固だった父の、幸せな旅立ち>だったと、会葬御礼のはがきにあった。
 5月の連休に行われる「魚まつり」に初回から、子や孫を呼び寄せて大家族で参加。21回目の今年も元気にバーベキューコンロで魚を焼いていた。その日の夜には、彼の自宅地下室のカラオケルームで遅くまで歌いまくった。それが顔を見た最後になった。下の写真は5年前の「魚まつり」、前列右端がその人、山賀正喜さんだ。
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「人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや」『徒然草』(第九十三段)
<人は、死ぬことを憎むのならば、生命を大切に愛惜すべきである。この生きながらえているうれしさを、毎日よくよく心に味わい楽しまないでよいものであろうか>(訳注・安良岡康作/旺文社文庫1971)
 妻祥子さん(前列中央黄色のヤッケ)は喪主のあいさつをこう締めくくった。「これからは二人の日々の思い出を糧にして生きていきます」                              


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 運転免許証を更新した。というよりも更新できたというべきかもしれない。視力に不安があったため、直前に眼科で検査をし、規定の0,7以上が見えることを確認していたのに、更新当日はかろうじてのパスだった。車の運転ができるか否かによって生活は大きく変化する。まずはよかった。

 オリンピックが閉幕した。早朝からのライブ映像をほとんど欠かさず見た。喜びがはじけるメダル獲得者たち。強い意志、過酷な鍛錬、寄せられる期待の重圧・・・・・・。そうして勝ち取った栄光。「偉いもんだ」と拍手を送りながら、しかし私の思いは敗者へ向かう。私自身に勝利体験、成功体験がないからだろうか。
 9月25日(日)には「村上・笹川流れ国際トライアスロン大会」がおこなわれる。フィニッシュエリアで一般参加の出場者たちに、MC担当の私はマイクに叫ぶ。「自分への挑戦に打ち勝ったすべての人が勝利者です」。そしてオリンピックイヤーの今年は呼びかけるかもしれない。
「みなさんひとり一人の胸の中にいちばん輝くメダルを掲げて下さい」


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 村上駅前にあった「ビストロ駅舎」が店を閉じた。小学校教師を退職後にオープンした店は、面倒見が良くて姉御肌のトキコママを慕う教え子や相談事を抱えた客たちが集った。借用していた土地の返却期限となったための閉店だ。26年前、私も少しばかり開店に関与しただけでなく、遭遇するあれやこれやに耳を傾けてもらったこともしばしばだった。駅前のユニークな名物店が消えた。街はもう秋の気配である。
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秋の夜は更けて/すだく虫の音に
疲れた心いやす/わがやの窓辺
静かにほのぼのと/倖せはここに

星のまばたきは/心のやすらぎ
明日の夢をはこぶ/やさし君が笑み
静かなわが窓辺/倖せはここに

静かに静かに/街の灯も消えた
遠い空みてごらん/明日の夢がある
小さな小さな/倖せはここに
                               「倖せはここに」(作詞作曲/大橋節夫)
 
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 今日8月29日、私は60代最後の誕生日を迎えた。
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# by yoyotei | 2016-08-29 05:39 | Comments(6)