それを止めるのは私たちの果たすべき使命

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(5月27日カップル)
埼玉からの旅の途中、ヒデ&ユキコさんのサクライ夫妻である。<YOYOTEIブログ>にたどりつきましたでしょうか。楽しい旅をお続けください。お二人の<人生の旅>も順風満帆でありますように。
新潟シティガイドTaka様
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 過日(5月20日)は宝田明公演に、遠路をご来場ご下さいましてありがとうございました。おかげさまで800人ほどのお客様を迎えることができました。実行委員会はもとより、宝田座のみなさんにも喜んでいただきました。何より観客から「夫も連れてくればよかった」などの声が聞かれたことでした。特に宝田明さんは第二のふるさと村上での公演が大成功だったことで、舞台でも打ち上げ会場でも涙ぐんでおられました。私たち実行委員も<ふるさとはあたたかい>と宝田さんに実感していただいたと胸が熱くなりました。
 たいそう遅くなりましたが、お約束の写真を同封いたしました。ピントのあまい下手な写真で申し訳ありません。ご笑納ください。また、入場待ちの中にTakaさんの姿を見つけましたのでここにアップさせていただきました。今回のブログをTakaさん宛の手紙形式で書き進めることもご寛恕ください。列の先頭で微笑んでいるのは知人の元教師です。
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 新潟西区に住んでおられるそうですが、私の次女も西区に住んでいまして、5月8日には「アートミックスジャパン」の「石見神楽」を次女・孫と鑑賞してきました。私は島根県の石見地方の生まれで、物心ついたころから石見神楽を見て育ちました。終始目頭を熱くしながらの鑑賞でした。客席から大きな拍手が沸くたびに、私が拍手を受けているような誇らしい気持ちになりました。「私も石見の生まれです」と周りの人に打ち明けたいような衝動に駆られたりしました。不思議なものですね。セイン・カミュさんがプレゼンターでしたが、もう少し物語の概略を紹介したほうがよかったかなとも思いました。これも石見神楽をもっと知ってほしいという<ふるさと自慢>でしょうか。7月にはやはり西区に住む娘と県民会館で行われる染五郎の松竹大歌舞伎に行く予定です。
 先日、宝田明公演の最後の実行委員会がありました。達成感や満足感を再確認した集まりでした。瀬賀実行委員長は「いつか、また公演協力の要請があれば引き受けても・・・・」と、プロモーター(興行主)になったような面持ちでした。観客のみなさんにあらためて感謝です。
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 公演の前夜、私の店で宝田さんたちと前祝をしました。そのときの写真も同封しました。宝田さんは酒が強く、若いころには映画俳優の酒豪番付で横綱を張っていたということです。実行委員会事務局を担当したヒサミさん(上/左)マリさん(上/私の右)二人の細かい配慮、事務的作業に留まらず、チケット販売の営業活動など多岐にわたっての働きはには頭が下がりました。
 宝田企画のコグレさん(下/中)とヒサミさん、マリさんの3人は、まるで3姉妹になったようでした。協同の取り組みは新しい人間関係も創出するものですね。Takaさんとの出会いは、期せずして宝田明さんによって演出されたといっていいでしょう。今後ともよろしくお願いします。
 梅雨入りが近づいています。ご自愛とご活躍をお祈りいたします。
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アベ様
 ごめんください。過日(5月3日)、村上市の海浜公園でお会いしました者です。村山ドクターから阿部さんがお送りくださいました『伊能図』が私にも届きました。大変に高価で豪華な本に驚いております。早速の御礼をと思いながら、大変遅くなってしまいました。本当にありがとうございました。
 当日の私たちは県北の寝屋漁港(『伊能図』では根屋村)で、毎年行われる<魚まつり>に参加したグループです。朝から漁船上で漁師料理をいただき、大安売りの魚を購入して海浜公園で野外パーティーをするという、20年も続けてきた気のおけない仲間たち家族です。
 来年も同じ日に22回目の<魚まつり>が開催されます。海浜公園での野外パーティーも同様です。阿部さんご夫妻との出会いも<何か>の導きかも知れません。朝早い時刻ですと寝屋漁港の賑わいも一見の興があると思います。神奈川県座間市からは近くはありませんが、今回と同じくドライブ旅行の途中で足をお止めになるのもいいかと思います。大歓迎です。
 梅雨に向かいます。御身ご大切にお過ごしください。
 当日のお写真を同封しました。豪華な書籍、本当にありがとうございました。
追伸
 知人に郷土の歴史を探求している元教師がいます。かつて生徒たちに伊能忠敬がどのようにして地図を作ったかを教示していました。しかも伊能忠敬の扮装までして、伊能忠敬たちが歩いた所を実測してみるというもので、地元の新聞でも紹介されました。彼にも「伊能図」を見てもらいたいと思います。
 阿部さんは国土地理院におられたということ。当地の荒川河口近くに小さな高台のような山があります。この山には明治維新の頃、荒川を挟んで行われる攻防戦に備え、村上藩奥羽越列藩同盟の幕府軍により砲台が置かれ役人が駐在するための番所があり「番所山(ばんしょやま)」と呼ばれていたそうです。現在は稲荷山と呼ばれ山頂には稲荷様をまつる赤い祠(ほこら)があり、展望台も作られています。地域関係者600名の署名によって国土地理院に掲載要請をして、今は「新潟県で一番低い山」として地形図に掲載されています。標高は15.3メートルで山頂には三角点(水準点?)があります。
 展望台からは塩谷の町並みはもちろん、天気の良い日は佐渡や粟島、近隣の町や水平線が一望できます。
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 アジが釣れているという情報を得て、久しぶりに釣りに行った。釣り場の岩船漁港には福島ナンバーの車が目立つ。釣りの準備をしていると隣の青年が釣り上げたカマスをもらってくださいと言う。訛りも福島のものだ。アジを釣りに来たのでカマスはいらないのだという。カマスはうまいよ、といっても、「もらってください」と言う。仕方がないのでもらった。いい型のものが10数尾もあった。片道3時間もかけてやって来たのに、福島青年の心の内がわからない。
 私は2時間ばかりで15~20センチのアジを60尾ほど釣った。半分は3枚におろし、軽く塩をあてて酢につけた。半分は頭と腸(はらわた)を取り、塩をして干した。何匹かはタタキにもした。どれもうまかった。
 福島青年からもらったカマスは塩をして丸干しにした。焼いたら油がにじみ出て、やはりうまかった。カマスはアヒージョにしてもうまい。
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 宝田座公演「宝田明物語&煌(きらめ)くミュージカルコンサート」が終わった。当日は実行委員の一人としてカメラマンを任じられた。他のステージではないことだが、宝田さんは写真でも録音でも自由にとって、どこにでも公表してくださいと言う。カメラマンの私だけではない。観客に対しても、本番中の舞台でも同じだ。私はリハーサル、本番、打ち上げなど、約500枚もの写真を撮った。その中から、ほんの数枚をアップしておく。
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 舞台に上がっていてもおかしくないきれいな人だ。元宝ジェンヌの真矢ミキさんかと思った。もちろん、観客のひとりだ。
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 戦後、旧満州から菩提寺のある新潟県村上に引き上げてきた宝田家族は大工町のお寺に身を寄せた。舞台では大工町の祭りの<オシャギリ>も披露された。宝田少年にとっては地元の子ども世界に招かれた忘れ得ないオシャギリの音だ。
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 舞台では出演者たちの歌唱力に魅了され、圧倒された。エレクトーン演奏者長谷川幹人さんの技術の高さにも驚かされた。彼の演奏なしには表現できない舞台だった。
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 ステージのフィナーレは会場も一緒になっての「青い山脈」の大合唱だった。宝田さんにうながされて会場からステージに上がった人もいた。私の妻もその一人だった。<手紙形式>のブログの相手Takaさんも夫婦でステー上の人となって歌った。
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 打ち上げ会場である。美人が大好きな私は圧倒的な歌唱力と美しさの井料瑠美さんとのツーショットを望んでいたのに、脇から柳瀬さんがヌッと顔を出した。無粋な人だ(笑)。柳瀬さんは1年ほど前に古民家を購入して東京から夫婦で移り住んできた。実行委員の一人である。
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 実行委員の各人がそれぞれの得意分野で力を発揮した。委員の佐藤さん(右端)はチケットを一人で120枚も売った。宝田さんが生まれた旧満州ハルビンの小学校の1年下で、宝田さんと同様に過酷な体験をしてきた人だ。宝田さんの人生を自分に置き換えた佐藤さんはチケット販売にも悲壮な思いで取り組んだのだった。
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 今日から28軒の飲食店が参加して「越後むらかみBAR(バル)街」イベントが始まる。スペインのBARを<ハシゴ>する文化を取り入れて飲食街(店)の活性化を図ろうという商工会議所の企画だ。飲食店を<ハシゴ>する文化は必ずしもスペインだけではない。日本にだって古くからある。私は11歳上の兄に連れられて大阪天保山の飲食街で10軒近い<ハシゴ>をしたことがある。最後の店では船乗りの外国人と兄が喧嘩になったのを、私が取り成したこともあった。今回2回目となる「むらかみBAR」はどうだろう。
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 ここ2ヶ月ばかり、宝田座公演に忙殺された。だが、終わってみれば得ることの多い取り組みだった。宝田明さんは1934年旧満州(現中国東北部黒竜江省)のハルビンで生まれた。来月、そのハルビンへ行くことになった。名物だという<ビール祭>でビールを飲もうという2泊3日のショートトリップだ。同行者は友人のジョージさん。彼とはこれまでも数ヶ国に同行している。私には初めての中国だが、せめて宝田少年のハルビンにおいての苛烈な体験に思いを馳せてみたい。
 
 人は誰も幸せを求めて生きている
 愛とやさしさ温もりを探し続ける
 それなのになぜ人は戦うのだ
 それなのになぜ人は殺し合うのだ?
 作詞・宝田明、作曲・沢木順による「私の願い」の一節だ。そして、歌は「戦争を止めるのは私たちの一人一人の力/それを止めるのは私たちの果たすべき使命」と宝田座の出演者全員によって高らかに歌い上げられた。 
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# by yoyotei | 2016-06-09 13:34 | Comments(2)  

人生は少しいびつなぐらいが面白い

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保育士の学校へ通っているミサさん(左)。なんと片道2時間の電車通学だという。お母さんがピアノの先生で、私と知り合いということで来店してくれた。幼く見えるが根性は半端ではないとみた。
 右は美容師修行中のレンさん。レンさん、本当は〈恋〉と書く。〈愛〉とか〈愛〉を含んだ名前はあるが〈恋〉という名前には初めて接した。二人は高校の同級生。長い人生のスタートを切ったばかりのようである。
 二人とも、夢に向かって努力し精進を重ねながら、時に過酷な現実に打ちのめされることもあるだろう。自身の無力さを痛感し絶望の淵にたたずむこともあるだろう。しかし人生は、欺瞞なしに自分自身を見つめ、その〈自己〉を否応なく引き受けることでしか成り立たない。〈がんばれ!〉という励ましは、ほとんどその意味だ。がんばれ、ミサさん、レンさん。
 とはいっても、自分に向き合うのがやりきれないことも多々ある。そんなときには酒でも飲むか。かくして私は酒飲みになったともいえる。

 市議会議員選挙が終わった。支援した候補者は当選を勝ち取った。私は公示日のポスター貼りや、街宣車に乗ってのウグイス嬢ならぬ〈ウグイスじじい〉としてマイクを握った。昨年12月に心臓発作で倒れて今回立候補を断念した相馬エイ議員は、選挙戦最終日に後継者の応援のためリハビリ入院中の病院から一時退院して駆けつけ、街頭でマイクを握った。その最終日には、5月20日「宝田座」村上公演の後援先への挨拶に来ていた宝田明さんの乗った車が、私の乗った街宣車の後をしばらく追いかけるというハプニングもあった。その後は宝田さんと食事をし酒を飲み、カラオケで歌も歌った。

 カラオケでは、このところ三波春夫の「一本刀土俵入り」(長谷川伸原作・作詞藤田まさと・作曲春川一夫)をよく歌う。よく歌うがうまく歌えない。うまく歌えないが好きだ。宝田さんとカラオケをしたときにもこれを歌った。やはりうまくは歌えなかったが、それでも歌いながら泣きそうになった。長くなるので全部の歌詞は紹介しないが、歌の2番と3番の間の科白(せりふ)を記しておく。ストーリーの概要がつかめると思う。酒を飲んでこれをやるとこみ上げてくることしばしばなのだ。
「相撲に成れずやくざになって たずねてみりゃあこの始末 さっこの金持ってお行きなさいまし 飛ぶには今が潮時だ あとはあっしが引き受けました さっ早く、早くお行きなさいまし あの、お蔦さん 親子3人 仲良くお暮らしなさんせ 10年前 櫛、笄(こうがい)、巾着ぐるみ 意見をもらった姐はんへ せめて見てもらう駒形の しがねえ姿の土俵入りでござんす」
と、まあこれを思い入れたっぷりにやるのである。同席者には迷惑なことだろう。後で聞いたら5回も歌った、ということもあった。  
 原作者の長谷川 伸(はせがわ しん、1884年(明治17) - 1963年(昭和38)は小説家、劇作家。本名は長谷川 伸二郎(はせがわ しんじろう)。使用した筆名には他にも山野 芋作(やまの いもさく)と長谷川 芋生(はせがわ いもお)があり、またそのほか春風楼、浜の里人、漫々亭、冷々亭、冷々亭主人などと号している。筆名が多いのは新聞記者時代の副業だったので名を秘したのだった。
「股旅物」というジャンルを開発したのはこの長谷川伸とされている。名前の伸二郎といい、いくつかの〇〇亭といい、なにやら自分に引き寄せたくなる。
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 北越後とか越後の北果てなどと自分の住んでいる土地をいうことがある。その越後に住んで40数年になるが、住む前から知っていながら目にしたことのなかった「越後の笹飴」を、先日働いているホテルのみやげ物売り場で見つけた。「越後の笹飴」は漱石の「坊っちゃん」に出てくる。四国の松山中学校に赴任する坊っちゃんが下女の清に『何を見やげに買って来てやらう、何が欲しい」と聞いて見たら「越後の笹飴」が食べたいと云った』というくだりだ。『越後の笹飴なんて聞いた事もない。第一方角が違ふ』と続く。そして、松山へ到着した夜、坊っちゃんは夢を見る。『清が越後の笹飴を笹ぐるみ、むしゃむしゃ食っている。笹は毒だから、よしたらよかろうと云ふと、いえ此笹が御薬で御座いますと云って旨そうに食って居る』
 笹飴はとてもむしゃむしゃ食えるものではない。ぺろぺろと舐めるだけである。まして乾燥した笹の葉は食えた代物ではない。だが糯米(もちごめ)と麦芽が原材料という飴は素朴で適度の甘みがいい。
『坊っちゃん』の注釈に「越後の笹飴は葉の広く大きい越後特有の笹にくるんで、その移り香を賞味する飴。北国街道筋に当たる高田の製品が、江戸時代から有名であった」とある。画像の笹飴は越後村上成田屋製造で10枚入り650円だった。笹の移り香はあるようなないような・・・・・。だが、笹に包まれた風情は捨てがたい。
「一本刀土俵入り」の原作では、酌婦から足を洗って所帯を持ったお蔦は娘のお君と飴売りをするとある。 
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 ホテルの売店で見つけた「越後の笹飴」だが、私のホテル勤務が丸3年を過ぎた。「設備・清掃」というセクションに属している私を含む男3人の主な仕事を記しておこう。
まず、出勤時と退勤時にはボイラー計器の目視点検、貯湯槽内温度の記録をする。主たる仕事は浴場の湯の管理と清掃だ。まず、温泉供給パイプに大量の水を流してパイプ内洗浄をおこなう。シャンプーなどの詰め替えや補充、鏡や洗いイス、洗面器もスポンジに洗剤を含ませて洗う。浴槽の湯の入れ替えは男女とも週1回おこなう。湯を抜いた後、ポリッシャーという器具を使って浴槽と浴室の床を洗剤で磨く。浴槽の掃除が終わると温度を調整しながら新しいお湯(温泉水)を入れる。お湯が満タンになるまで40分は必要だ。
 それらが終わるとロビー、ゲームコーナーの掃除。検収室、会議室、パントリー、宴会場のバックヤードなどは使用状況をみながら掃除をする。これからの季節は野外作業が加わる。芝刈り、草取り・・・・・・。これらも自主的な判断で行う。
 3ヶ月ごとに温泉井戸の掃除のために温泉の供給が止まる。そのときに温泉タンクを空にしてタンク内の掃除をする。館内のダクトや送風孔のフィルター洗浄と取替え、窓ガラスやガラスドアなどの汚れ取りも男たちの仕事だ。どこそこの電球が切れた、トイレの水が止まらない、洗面台の水が流れない、テレビのリモコンがおかしい、障子が破れている、こうした事態への対応もことごとく男たちが担当する。結露でカビが生じた客室の壁紙を張り替えたこともある。
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 浴場関連は規模やシステムが違うが、それ以外の清掃・補修やトラブルは一般家庭で起こることと変わらない。日曜大工や庭の管理が好きな人なら苦にならない作業だ。特に熟練・練達を求められはしないが、私は昨年「家屋工事技師」の通信養成講座を終えた。日々の作業の参考になっている。好天だった先日は館外のカイヅカイブキを植木バリカンで刈り込んだ。芝庭をコの字に囲んで植栽されたものが30メートルほどある。作業はその日のうちには終わらなかったが、次の私の勤務日が雨でなければ作業を継続する。
 男3人女2人が私たちのセクションのメンバーだが、女たちの作業内容は男たちとはちがう。それでも、お茶、昼食は一緒にとり、休憩室も同室だ。5人の人間関係がスムースであれば仕事は楽しい。私にとってはこれまでほとんどなかった環境だが、それぞれの気心も知れてジョークも通じる仲間になっている。家族や健康についてが茶飲み話の中心だ。 
 経営改善のために3月からコンサルタントが入っていることは先のブログにも書いた。新しいコンピューターシステムの導入、業務の指示系統の整備、料理改革などが課題としてあげられている。また、能力が低下しているボイラー2基を新しく設置することも決まった。5月の連休後から改善に向けた変更が本格化する。

 5月になった。連休は店も休みがちになる。とはいってもそうそう休んでばかりもいられない。なかば書斎と化している店の一角で本やパソコンに向かいながら客を待つ。予約がある日以外、それは常態化している。「読書の邪魔だったかな」と言って入ってくる客もいる。
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 上はカナコさんとキヨシさん夫妻である。秋田のカナコさんと長崎のキヨシさんが新潟の大学で出会って結婚し秋田で暮らしている。酒好きの二人は国内をかなり広範囲に居酒屋めぐりをしてるようだ。この夜は『太田和彦の居酒屋味酒覧〈第二版〉』(新潮社)が夭夭亭への道しるべだった。二人とも亥年、ついでながら私も亥年である。短い時間だったが楽しい酒になった。函館に住んでいたカナコさんの〈ハゲオジ〉が、60年も前に「横手焼きそば」を始めたという話も飛び出した。私は、その〈ハゲオジ〉に似ているらしい。
 居合わせたソエカワ夫妻とも話が弾んだ。旅先で地元の人と交流することは旅の楽しみでもあり、忘れがたい思い出にもなる。
 今回のブログで私の釜爺(かまじい)の仕事についてかなり詳細に紹介したが、私が勤務するホテルは「ニューハートピア瀬波」という。この夜、カナコさんキヨシさん夫妻が宿泊したのが、偶然にも「ニューハートピア瀬波」だった。
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 県北の小さな漁村が年に1度おおいに賑わう。「2016SANPOKU さかなまつり」だ。
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 3日(火)の「さかなまつり」は21回目を迎えた。1年に1回だけ、このイベントで顔を合わす人もいる。第1回目から欠かさず参加しているのは私とドクター・ムラヤマ夫妻、ヤマガ夫妻か。船上でカニやエビをたらふく食べて、格安で売られる魚を買い、海浜公園で大宴会。その後は、ヤマガ邸でカラオケ。もちろん私は「一本刀土俵入り」を2度は歌った。さらに「生活と健康を守る会」の班の飲み会。その後は・・・・・・・。轟沈。
 この日は憲法記念日。「安保法制廃止アピール」のスタンディングと街頭スピーチの参加案内が来てたが<身>はひとつだ。「さかなまつり」を優先した。だが、国会では憲法改正に向けたスケジュールが現実のものとなっている。そんな中で今年の2月、「新潟日報」声欄に「憲法、普段から話そう」と題する投稿が載った。投稿したのは関川村の伊東正夫さん(86)だ。伊東さんとは以前、市町村合併問題の学習会などで教えを受けた。伊東さんは訴える。「日本国憲法は戦後最大の重要局面にある。このまま何もせず、ずるずると流されるか。志を持って声を上げるか」
 もちろん、流されてはならない。
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 同じく「新潟日報」5月1日付の声欄には「インド旅行に一点の後悔」と題した投稿が掲載された。投稿者の西沢有紀子さんの名前に覚えがあった。
 23年前の1993年、初めてのインド1週間の団体ツアー旅行をした有紀子さんは帰国後、手書きの旅行記を書き友人知人に配った。たまたま有紀子さんの父が、私の店の客だったことから、私も一冊頂戴した。当時の私は2度目のインド旅行から帰ったばかりの〈インドおたく〉だった。
 インドに強く魅かれた有紀子さんは、友人と二人の団体ツアーということでようやく家族の許しを得てインドへ旅立った。20歳前後だったと思われる。飛行機に乗るのも生まれて初めての海外だった。
 貧しい人々が多いインドで、カレーを食べ残すツアーの日本人に憤慨し、物乞いをする指や手足のない人たちに心を痛め、路地の不潔さに逃げ出したい気持ちにもなった有紀子さん。それでも旅行記の終わりに有紀子さんは書いた。「考えるのはインドのことばかり。日本にいれば清潔だし安全なのにどこか物足りないのだ。なぜかこの整った街並み、過ぎ行く人々を見ていると無性にインドが恋しくなる。ああ、インドに帰りたい・・・」
 投稿からは、その後1人旅でインド南端まで足を伸ばしたことが知れる。有紀子さんは「インドへ帰った」のだった。そして、そこでの「一点の後悔」とはこうだ。
 南端のカニヤクマリで10歳くらいの少年2人から請われて写真を撮った。そして少年たちは写真を送ってくれと住所を書いた。帰国後、現像すると逆光で顔もよくわからない写真だった。どうしようと考えているうちに結局、写真は送らずじまいになってしまった。写真を待っているだろう少年たちの笑顔を思うと、20年たった今でも暗い気持ちになる有紀子さんなのだ。
 初めてのインドで感じたことは、私も有紀子さんとほとんど同じだった。混沌、雑多・・・。人間のはらわたが路上にぶちまけられているような赤裸々の生。翻弄されながら、その中に潜むやすらぎ。インドが自分に訴えてくるのは何なのだ!
 そして、インドで出会った人たちに<不義理>をしたことは、恥ずかしながら私には多々ある。送らなかった写真、返信をしなかった手紙。有紀子さんの投書を読んで天を仰いだ私だった。「アアッ・・・・」
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 左はドクター・ムラヤマ。右の2人は「さかなまつり」の大宴会会場の野潟海浜公園で出会った旅行中の夫妻。私のカメラに写っていたが、写真を送ると約束したんじゃないかと、とても気になってきた。探してみたが住所や名前を書いたメモはどこにもない。だが、あの後、泥酔した私はビニールシートに正体もなく沈み込んでいた。私の「一点の後悔」でなければいいが。

 8日(日)には新潟市で行われるイベント「アート・ミックス・ジャパン(AMJ)」に故郷島根県の石見神楽が来演する。すでにチケットは購入済みで、娘と孫娘も初めての生神楽の鑑賞に同行する。大げさだが父とヒゲ爺の魂の原点に触れることになるかもしれない。演目は「ヤマタノオロチ」だ。
「古事記」「日本書紀」に登場する<頭が八つ尾が八つ>のヤマタノオロチをスサノオノミコトが退治するという話。子どものころ見たものはせいぜい2頭の大蛇だったが、今回は伝承どおりに8匹の大蛇が出るという。「18メートル、8匹の大蛇。圧巻の迫力。過去のAMJで拍手が鳴り止まなかった伝説のステージ」。見ないわけにはいかない。見終わった後の酒までが楽しみである。
 
 活字で見たもの、テレビなどで聞いたせりふなど気になったものを書き留める癖がある。2012年の日記の余白にこんなメモがあった。「黒木メイサはちょっとだけアロエでできている」(TV/CM)。それに並べて「私はかなりの部分が酒でできている」とある。「恋ってさ、髪の先っちょにたまるんだよね。だからそこを切るとさっぱりする」。ドラマのセリフだったか。そして「人生は少しいびつなぐらいが面白い」と。どこでだれが言った言葉かはメモられていない。いびつに生きようと思う人は少ないと思うが、まあちょっと自嘲気味ではある。 
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# by yoyotei | 2016-05-06 08:56 | Comments(2)  

たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む

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 左はアオイさんとヨウスケさん夫妻、右はヨウスケさんの父エイノリさんだ。エイノリさんの隣には妻がいるが、「写真はダメ」というので割愛した。写真はダメでも、夫妻はいつでも一緒だ。釣りを趣味とするエイノリさん。妻と一緒の姿を、私は釣り場で何度も見ている。私の店にも結婚して以来、仕事仲間との来店以外は、常に夫婦同伴が続いている。アオイさんとヨウスケさんも継承していい〈夫婦のあり方〉にちがいない。 
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村上市議会議員の相馬エイさん(右)が倒れたのは昨年12月1日の朝だった。心臓発作だった。場所が自宅であったことと、なによりも夫のジョージさん(左)が迅速に、また冷静的確に対処したことで一命をとりとめた。議員として6期21年、ことし4月の選挙での7期目の出馬へ向けて準備を考えていた矢先だった。
 エイさんは老舗の伝統工芸漆器村上堆朱の家に、兄弟姉妹の末っ子として生まれた。奔放な少女時代を過ごし、高校時代には社会問題に大きな関心を持つようになった。
 私は当地に住んでほどなく、地元の銀行に勤めていた彼女と出会っている。その後、同じ小学校のPTA役員として、共に活動をしたり、選挙でも手伝いなどをしてきた。
 夫ジョージさんとは「村上市民ネットワーク」や「生活と健康を守る」などの活動をしている。韓国、タイ、ベトナム、インドと海外旅行にも何度か同行した。酒飲み友達でもある。
 7期目は出馬を断念したエイさんだが、彼女の無念を引き継いで稲葉久美子さんが出馬を表明した。高齢の儀父母との同居や3人の子育てで外に働きには出られない稲葉さんは、ある看護師さんから「子どもをみてもらえない?」と頼まれたのをきっかけに38年も〈子守のおばさん〉を続けている。「保育園落ちたのは私だ!」と立ち上がった子育てママさんたちの窮状をよく知る人なのだ。「いつでも子供を背負っている人」というのが私の稲葉さんの印象。1948年生まれの68歳、生活派の新人議員誕生を期待している。選挙参謀、責任者をジョージさんが務める。   
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 森林研究所の石黒さんが転勤したのは1年前。その彼が1年ぶりに仕事仲間と来店した。今年も転勤移動の季節がやってきた。この夜は舞台仲間の「マロンおばさん」役の夫・タケダさんもいっしょだった。
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わが家の庭で春をいちばんに告げてくれるのは 福寿草だ。それも年々、その数が増えてくる。〈幸福で長命〉という意味のめでたい福寿草だが、「うまのあしがた科」に属する有毒植物でもある。
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 定点観測ではないが、昨年(上)、一昨年(下)とくらべると花数が増えているのが明らかだ。クルミの殻を雑草抑制のマルチングとして使っているが、これは妻が山で採取して中身をほじくり出した残骸である。〈クルミ塚〉の様相だ。
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 そのクルミの残骸だが、こちらはリスが齧(かじ)ったもので、庭の物陰で見つけた。リスは容器に入れて積み上げてあるクルミを狙って、近くの山からやってくるようだ。面白いのは、もっとも硬いと思われる継ぎ目のような部分の両方向から齧っていることだ。これにはひとつとして例外がない。習性なのか中身を食するための合理性からなのか。リスに聞いてみたいところだ。
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 タムラさん(左)に連れてこられた(?)クマクラさん(右)。出版社で働いていた経験があったということで本への関心が高く、知識も豊富だ。キラキラと輝く瞳が印象的だった。
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 安澤さん(中央)は写真家だが、地域の宝物を探し出して花を咲かす人でもある。市議会議員をしていたころには、「今は山中 今は浜」で始まる唱歌「汽車」の作曲者大和田愛羅(おおわだあいら)に着目した。愛羅の祖父大和田清春が村上藩士だったからだ。現在、毎日夕方5時になると村上市内中に「汽車」のメロディーが流れているが、これは安澤さんの働きかけで実現した。村上駅から山形県鶴岡駅まで「うたごえ列車」を走らせたこともあった。彼の〈仕掛け〉で、私の店にインド人シェフを招いて「南インド料理を食べる会」を催したこともあった。教師をしていた彼の父が宝田明を教えたことがあると聞いた。
 平原さん(右)は1879年(明治12)に創立された「東京村上市郷友会」福会長。町田市に住んでいる。初対面だったが豪放にして磊落、心遣い気配りの人である。
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 彼岸の里帰りでいっときの貴重な時間をユカさんは夭夭亭で過ごした。事故で首から下が麻痺状態になった夫の介護をする日々。そんな日々の中で、ユカさんは近所の女性から言われたという。
「ユカちゃん、泣きたいときには風呂に顔を突っ込んでおもいきり大声を上げて泣くんだよ」
 昨年の同じ時期、そして今回も、私はユカさんから泣き言や愚痴を聞かされることはなかった。20年前、夭夭亭繁盛(?)の一時代を築いてくれた立役者ひとりだ。子どもが、この春から高校生になるという。
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 教え子を中心に縁のあった人が集まって「桂先生を偲ぶ集い」があった。席上、瀬賀ドクターから本間桂先生の昭和50年4月19日の日記が紹介された。
「晴れてあたたか也。数日来春色頓に濃く桜も八分咲きとなれり。昨日方々より音信あり。黄昏(たそがれ)益田書店より予約者のほか入手すべからざる漱石全集の豪華版(岩波書店刊)第五巻(彼岸過迄・行人)を購入して帰る。数日前には第四巻(三四郎・それから・門)の同店一隅にあるを見付け卞舞(注)措く能はずひそかに金を工面して求めたりし也。妻に対し申し訳なし。夕闇のせまる帰路歓びの下より罪悪感の湧き出づるに苛まれつつ重き足をはこべり」注/卞舞・抃舞(べんぶ)喜んで手を打って舞うこと。

 妻の目をぬすみて買ひしバラ売りの漱石おもしたそがれのみち
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 私自身の、書物にまつわる<卞舞(べんぶ)措く能はず>の経験は、「広辞苑」(昭和42年第1版第23刷)を入手したときに遡(さかのぼ)る。当時、箱根のホテルに住み込みで働いていた私は、新宿の書店で、欲しかった「広辞苑」を購入した。ホテルへ向かう電車の中でも箱根登山バスの中でも、膝に置いたその重さを、嬉しさこの上もない気持ちとともに今でも覚えている。その「広辞苑」は補修をしながら、現在も私の座右にある。価格は2500円であった。
 もちろん、私の嬉しかった重さと、桂先生の<おもしたそがれのみち>とは比べるべくもない。、
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 漱石全集豪華版第六巻、第七巻、八巻は私の手元にある。桂先生が残されたものだ。奥付には順に<昭和五十年五月九日第二刷發行、同年六月九日、同年七月九日、同じく第二刷發行>とある。「ひそかに金を工面し(中略)妻に対し申し訳なし」と書いた第四巻、第五巻に続けて刊行されたもので、価格は〈二千八百圓〉だった。日記にある第四巻、第五巻は今どこに身を潜めているのか。
 瀬賀ドクターは、恩師桂先生が残した日記、短歌、漢詩、小説などを丹念に読み進めている。いわば「本間桂研究家」だ。こうした時々の報告は一人の人間の〈生〉をあぶりだして、私にも自分の〈生〉を問いかけてくる。

 見性の見込なきを以って大森老師より破門を言ひ渡されて夢より醒む
 
 桂先生は、煩悩を離れて内観し、無我の境地に達しようと禅門に入った。見性(けんしょう)とは仏教用語で、諸種の妄惑を照見して、本来固有の真性を見きわめること。大悟徹底すること。(「広辞苑」)
 ところで夭夭亭の文庫には、本間桂先生が残された普及版の「漱石全集」全三十四巻もある。こちらは昭和31年から32年にかけて出版されたもので定価は150円であった。
「偲ぶ集い」の数日前に、高知に住む桂先生の長男から、四万十川の新海苔とカツオの土佐煮が送られてきた。新海苔は添えてあった丁寧なレシピにしたがって天ぷらに、土佐煮はマヨネーズをつけていただいた。

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 仕事で北海道に住んでいる和田さんから、<横須賀発〉の本マグロが送られてきた。当地に住んでいた頃の短いつながりをいつまでも大切にする人だ。和田さんを知る人たちと賞味しよう。ありがとう。

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 俳優の宝田明さんが主宰する「宝田座」が村上で公演をすることになった。内容は第1部「宝田明物語」、第2部「ミュージカル・レジェンド」。昨年10月の講演「わが青春の戦争と平和」とはちがい、ミュージカル俳優としての宝田明さんの舞台だ。共演者も劇団「四季」でヒロインを演じた井料瑠美さんを筆頭に、日本のトップクラスのミュージカル俳優たちが来演する。
 今回は村上市の協力事業となり、立ち上げた実行委員会も多彩なメンバーが集まった。先日は宝田明さん本人と事前打ち合わせをし、講演の協力体制について確認した。公演は5月20日(金)18:00開演、全席自由、入場料4,000円。会場は1,000人収容の村上市ふれあいセンター。
 宝田さんと談笑するのは、ブログ初登場の私の妻(左)と、今回も実行委員長を務める瀬賀ドクターである。
 少年の日を3年近く過ごした村上を、宝田さんに温かい町と思ってもらえるよう協力したいと思っている。

『名作365日』(槌田満文著・講談社学術文庫・昭和57年)は、日付のある文学作品を明治・大正・昭和の名作の中から365作を選び出したものだ。昭和36年1月1日から一年間「東京新聞」夕刊のコラムとして掲載された後、39年に河出書房新社から〈河出ペーパーバックス〉の一冊として刊行、57年に名作の若干の差し替えをして文庫化されたもので、3月31日に著者が選んだのは内田百閒の「ノラや」だ。
 ノラという名前は戯曲「人形の家」(イプセン)のそれではなく、野良猫(のらねこ)のノラだ。そのノラが家出をして帰ってこない。「ノラや」は、ノラがいなくなって2ヵ月あまり、愛する猫を思って書き続けた日記体のエッセイだ。
 ノラがいなくなって4日後の3月31日には「あまり泣いたので洟(はな)をふいた鼻の先が白くなって」皮がむけてしまったほどであった。
「ノラや」は、風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰ったかと思い、今日は帰るか今帰るかと待ったが、「ノラやノラや、お前はもう帰って来ないのか」という悲痛な呼びかけで終わっている。
このいきさつは、内田百閒と門下生との交流を描いた、映画「まあだだよ」(1993年 黒澤明監督)でも取り上げてあったと記憶する。また内田百閒は漱石の門下生だった。
 
「小倉百人一首」に「たち別れ いなばの山の 峰に生(お)ふる まつとし聞かば いま帰り来む」(中納言行平)という和歌がある。
「久保田正文氏の『百人一首の世界』(文藝春秋社刊)によれば、氏の郷里では、猫が行方不明になったとき、この「たち別れ」の歌を三度となえると、無事にもどってくるという言い伝えがある、といわれている」との記述を『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫/平成3年/1989年単行本の文庫化)に見つけた。久保田氏の郷里がどこかは紹介されていないが、ノラの帰宅を狂おしいほどに待ち望んでいた内田百閒は、この和歌を唱えたのであろうか。知っていれば三度どころか、お題目のように唱え続けたかも知れない。もっとも、私自身は「ノラや」の本文に接していない。内容の引用も、『名作365日』からの孫引きなのだ。
 そんなこともあって、内田百閒の本を渉猟していたら、やはりあった。以下は『新潮日本文学アルバム内田百閒』(新潮社1993)を参考にした。
 愛猫ノラが姿を消すと百閒はノラ探しのビラを5回にわたって配った。その1回から3回までのビラが上記の本に写真で掲載されている。それを見ると1回目、2回目のビラは印刷文字の周囲が赤い線で囲ってあるが、2回目のビラは線の部分が、なんと「立ちわかれ」の歌になっている。つまりビラの内容がぐるりと「立ちわかれ」の歌で囲われているのだ。しかも歌の冒頭に「オマジナヒ」とある。本の奥付に〈無断転載を禁ず〉とあるので画像を載せられないのが残念だ。
 ビラの内容は〈その猫は雄、名前はノラ、「ノラや」と呼べば返事をします〉〈薄謝3千円〉などと、少し滑稽で、とても切実だ。

 近頃は猫ブームだそうである。NHKテレビの「岩合光昭の世界ネコ歩き」が、私は好きだ。登場するネコたちの表情にも、時々入る岩合光昭さんのネコへの語りかけにもいやされる。世界のあちこちの町で、人々に愛されて暮らすネコたち。幸せな気分にしてくれる。
「幸せとは物を買うことと勘違いしているからだよ。幸せは人間のように命あるものからしかもらえないんだ。物は幸せにしてくれない。幸せにしてくれるのは生き物なんだ」
 <世一貧しい大統領>といわれたウルグァイのホセ・ムヒカ前大統領のことばだ。ヒオセ・ムヒカ前大統領は現在、来日中だ。
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# by yoyotei | 2016-03-31 10:12 | Comments(4)  

模糊として男旅する薄氷

 漱石の書簡集をめくっていて次のような記述を見つけた。
  「子供の名を伸六とつけました。申の年に人間が生まれたから伸で六番目だから六に候」
 明治41年12月26日付の高浜虚子宛書簡のくだりだ。前のブログで私の名前の伸二に触れていたので、ちょっと目に付いた。とはいっても、私の生年の干支は申ではなく亥である。
 高浜虚子にはこんな句がある。〈高木より高木に冬日亙(わた)り行く〉。こちらは私の苗字そのものだが、この大きさは私にはない。
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 ヒデボウ(右)とハットリさんが来店した深夜、私はすでに泥酔していた。そんなことにはお構いなく飲むのが二人だ。久しぶりのヒデボウは頬がふっくらして穏やかな表情になった。充実した結婚生活を送っているようだ。私のように飲んでも多弁にならず、眠りこけることもない。カメラのシャッターを切ったのはヒデボウの親友のハットリさん。来店する人たちの中では最高レベルに〈親友度〉の高い二人だが、共通点は私には捉えられない。むしろ共通点がないからこその親友なのだろう。
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 ノリコさん(左)とミエコさん(右)は同じ町内に住む幼馴染。
 20年前、「自分探しの旅に出ています」と店の戸に張り紙をしてインド通いをしていた私。風雨で剥がれそうになっていた張り紙を張りなおしてくれたのがノリコさんだった。市街地から車で1時間もかかるブナ林で野外コンサートをしたときには女友達と足を運んでくれたりもした。しかし、20年の歳月は、みんなそれぞれに変化をもたらした。ミエコさんにも・・・・・・。「私だけはまっさら」と笑ったノリコさんだって・・・・・・。
〈よるべなく酒をふふめばふふみたる酒が誘(いざ)なふ生きのかなしみ〉 
                                 筏井嘉一(いかだい・かいち)
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農村で生まれ育ったヒロキさん(左)は岩船港で漁師をしている。31歳のヒロキさんがどんなきっかけで漁師になったのかは聞き漏らしたが、なにやら嬉しい感動が湧き上がってきた。「俺は漁師になる!」と決断した瞬間をいつまでも忘れないでほしい。心からエールを送る。
 少し先輩のタクヤさん(右)は建設会社に勤めている。さわやかな二人の関係も聞き漏らした。この次にはじっくりと話を聞きたい。
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 左からタカシ(48)、カズヒサ(54)、セイ(50)の3氏。建築、不動産などの関連業者という関係だ。この夜の話題は「アイリッシュコーヒー」というカクテル。アイリッシュウイスキーと生クリームがなかったので提供はできなかったが、彼らが見たというテレビ番組を、数日後、私も目にすることができた。世界的に著名な日本のバーテンダーが「アイリッシュコーヒー」をつくる場面だ。一杯のカクテルに心血を注(そそ)ぐプロの仕事。おおいに刺激を受けた。
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 左からウメダさん、アヤコさん、イタルさんだ。
 アヤコさんは夭夭亭の一軒おいた隣のスナック「レガート」のママ。
 私は45年前、当地村上市に流れ着いて、「松浦家」という料理屋に住み込んだ。「松浦家」にはこの地では草分け的な存在の「不二サロン」というバーがあり、いきなりそのバーをまかされた。熱海周辺で少しだけバーテンダーの経験はあったが、「不二サロン」のカクテルメニューの豊富さ、取り揃えられた洋酒やリキュールの多彩さにたじたじとなり、言葉の壁にも戸惑ったことだった。
 数年して、そこを辞めた後に、イタルさんは板前として「松浦家」に勤めた。したがって当時は接触はなかったが、同じ料理屋にいたというだけの縁で時々顔を出してくれる。そのイタルさんは現在、季節料理の店「山蕗」の主人だ。ウメダさんはその店の常連であり、アヤコママとイタルさんとは同期生だという。
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 こちらは地元選出の県会議員タケちゃん(左)とカサブランカダンディーのオオタキさん(右)に、真ん中はここでも「レガート」のアヤコママだ。タケちゃんとアヤコさんは学校の同期生。私がいたころの「不二サロン」へ二人で顔を出したこともあったという。
「レガート」はとても上品なカラオケスナック。私もオオタキさんに誘われて顔を出すことがある。アヤコママの孫娘とは年に一度「大滝舞踊研究所」の発表会で共演する。アヤコママもマイクをとればプロ級の歌唱力、日本舞踊もあでやかに舞う芸達者な人だ。
 
 数日前に、ある女性が一人で店にやってきた。30年近く前、今はなくなった近くのスナックでママをしていた人だ。その店が小火(ボヤ)を出したことがあり、オーナーや、その関係者たちが心配して駆けつけた。騒ぎが収まった後、ママや関係者らを私の店に招いた。そこまでは私も覚えていた。だが、元ママが言った。
「あの時、マスターが熱いスープをふるまってくれたじゃあない。あれが嬉しかった・・・・・」
 寒い季節だった。

 昨年の暮れ、スーパーから出てくると50がらみの女性から声をかけられた。
「私、脚の手術をしたんですが歩き方が変じゃあないでしょうか」
「は?」と、女性の顔を見たが知り合いではない。
「大学病院で手術したんですよ」と言いながら、女性はまるでモデルのような腰つきで私の前を歩いた。
「変ではありませんよ」と言い残し、私は逃げるように車でその場を去った。そしてしばらく走ってから思った。
「とても素敵な歩き方ですよ」
と言ってあげればよかったかな、と。

 勤めているホテルが経営コンサルタントを導入することになり、先日の会議で担当者から、経営刷新を手がけてきた実績や、今後の改善点などが語られた。指摘された点は私も気になっていたことでもあり、刷新に向けた手腕に期待をしている。

 タイトル句〈模糊として男旅する薄氷(うすごおり)〉は長谷川久々子(はせがわ・くぐし)。薄氷は「うすらひ」とも読む、春の季語で「薄氷を履(ふ)むが如し」というようにきわめて危険なたとえであるという。(『きょうの一句-名句・秀句365日-』村上護著/新潮文庫・平成17)
 ふらっと旅に出たいと思うこと、しきりだが、私を旅へ誘(いざな)うのは何者なのかも〈曖昧模糊〉として正体不明である。確定申告もまだ終わっていないし、今年の抱負も定まらないまま、早々と2月が往く。
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# by yoyotei | 2016-02-27 18:37 | Comments(0)  

一幹(ひともと)の老臘梅のはな満ちて

 私の名前は伸二という。〈伸〉という字を問われると、〈伸びる〉とか〈人偏に申す〉と説明する。まれに〈人偏に申(さる)〉ということもあるが、ピンとくる人は少ない。それでも申年の今年はいくらか通りがいいかもしれない。
 勤めているホテルのフロントに、姓も名前も私とそれぞれ一字が異なるだけの、〈高〇伸〇〉さんという人がいる。優れた接客態度、いわゆる腰の低さで好感度がとても高く、仕事のセクションは異なるが見習うことは多い。評価の良い人と名前が似ているのはうれしい。
 ところで私の名前は叔父(母の弟)が付けてくれたと聞いている。その叔父は自分の孫にも〈伸〉の字を使って名前を付けていた。そのことを10年ほど前、叔父の葬儀の折に知った。〈伸〉という字が好きだったのだろうか。私は自分の名前を気に入っている。
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 古い馴染み客アベさんの息子さん(左)と、町内の浄土真宗の寺の息子さん(右)。最近はご無沙汰だが、飲みに来ていた頃は、ほとんど夫婦二人連れだったアベさんの両親。飲むほどに眼光が鋭くなって仏教談話にも力が入った住職の父。息子たちの顔つきや物腰に、親との共通点は見出せなかったが、酒に強いのは二人とも親譲りか。近年、客の世代交代が顕著になってきた。今年は店を開いて42年目に入る。
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 わが家の車に関することはすべて「ナカムラ自動車」にお願いしている。新年会の流れでやってきた社長のシンちゃん(右)、社員のスガワラさん(中)。初来店の新入社員ミズエさん(左)はショート・カクテルを恐る恐ると飲み干したが、酒は強いと見た。
 今は会長に退いた先代社長時代からの付き合いだが、現役バリバリのシンちゃん・ヒデちゃんというナカムラ兄弟が父の創業した会社を盛り立てている。
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 昨年暮れの約束どおり、アイコさんはフィアンセのタカダさんを連れてきた。聞いていた年齢が嘘のように若々しいタカダさんだ。アイコさんのおじいちゃん、喜んでるだろうな。一緒に飲んだ「菊水」。いちばんおいしく飲んだのはおじいちゃんだろう。<最高のものはいつもこの先にある>ことを信じて・・・・・。祈る多幸!
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 今年の年賀状には「新潟へ転勤になりました。飲みにいくぞ」とあった。そのメッセージ通り何年かぶりに元気な顔を見せたタッキーことタキカワさん。趣味の絵を通じて知り合った妻と転勤で北海道へ。現在は3人の子どもの父である。今年は新潟市から、ちょくちょく電車で飲みに来ることになりそうだ。
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 結婚をひかえているアイコ・タカダカップルに、タッキーはどんなアドバイスをしたのだろうか。客同士が親しくなってくれることは酒場亭主の喜びとやりがいのひとつだ。
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 こちらも、夭夭亭で出会ったことがドクター・セガとイチローさん夫妻との親交のきっかけだった。豊富な海外旅行体験も共通の話題のようだ。
 昨年は「宝田明講演/わが青春の戦争と平和」を実行委員長として大成功に導いたドクター・セガ。今年もなにかと活動の年になる。イチローさん夫妻の「後方支援」(?)も心強い。
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 歴史のある地元の女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」のみなさんだ。「虹の彼方へ」「アメージングレース」など、英語の歌声が美しく流れた。聴く人は私ひとり。透明なハーモニーに包まれ、新年早々の贅沢を満喫した私だった。このような大勢の女子を指導しているミュージシャン・オオタキさん(右端のギター)の力量と存在の確かさには頭が下がる。メンバーの中には彼の母親もいる。年齢を少しも感じさせない、まさにクリスタル(水晶)のような歌声なのだ。
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「一人はみんなのために・みんなは一人のために」は「生活と健康を守る会」のアピール標語だ。兵庫生存権裁判は昨年12月25日大阪高裁で控訴棄却の判決が言い渡された。現在闘われている生活保護裁判は26都道府県に及び、原告は858人もいる。ここにいる仲間もそうした裁判を支援している。
 私の所属する班では「カモ鍋」で新年を祝い親睦を深めた。カモは〈マガモ米〉を作っているカサブランカダンディのオオタキさんから提供を受けた。葱や白菜は会員が栽培したものだ。ん?鍋が見えない。画面の右端にわずかに見えるのが、グツグツ煮えている「カモ鍋」なのだが。みんな、そろそろ食べ頃だぞ!

 湯気あがる鹿鍋かこみ沁々(しみじみ)と谿(たに)に仕留めしさまにはふれず   仲 宗角

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 われらの胃袋においしくおさまったカモを提供してくれたカサブランカ・ダンディーのオオタキさん(左)は、カサブランカなどユリも栽培しているが米も作る。その農法は水田にマガモを放ち雑草を食べてもらう。除草剤などの農薬は極力使わない有機栽培だ。〈マガモ米〉と称している。
 右は初来店のイケダさん。オオタキさんの娘さんの友だちとどうやらこうやらという関係・・・。この夜の私は記憶が定かでないが、運転してきた車に泊まるといったイケダさんが、野性味を帯びて、とても魅力的だったという印象は確かだ。画面右端の顔のオブジェがイケダさんに似ているのは、もちろん偶然だ。
 二人の背後に掲げられた油絵は村上出身の画家鳥居敏文氏(1908-2006)の手になるものだ。鳥居敏文氏は東京外語大学独語科を卒業後渡欧、1935年までパリで絵を学んだ。帰国後は独立美術協会を中心に活動。2004年には「九条美術の会」発起人となった。この絵は、あるお客さんの厚意で掲げさせてもらっている。*関連の追記が文末にある。
 カサブランカダンディー・オオタキさんも油絵を描く。自宅の作業場には彼の描いたカサブランカの絵がある。
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 暖冬小雪といわれていたが1月下旬になって雪景色が出現した。雪が降ると小鳥たちが餌を求めて庭にやってくる。冷蔵庫の中で軟らかくなってしまった柿をおいたら、いつの間にか消えていた。少しは小鳥たちの命に寄与できたか。〈冬来たりなば春遠からじ〉。春が待ち遠しいのは私たちだけではあるまい。
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 村上総合病院のドクターたちだ。紅一点の産婦人科医ハルカさんの快活な笑顔は周囲を元気にする。
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 「元気なまちづくり。元気な人づくり」をめざす「ウェルネスむらかみ」(NPO法人・総合型スポーツクラブ)のスタッフとサポーターのみなさんだ。市展で最高賞の市長賞を受賞したことのあるヤマダさん、古い馴染みのイガラシさん、ナカムラ自動車社長シンちゃんの妻サヨコさん、大滝舞踊研究所の指導員でもあり発表会では必ず舞台裏で顔を合わすセガさん、瀬波病院院長のムラヤマ・ドクターなどなど。さまざまな顔を持つ人たちである。
 東京外語大学でインドのヒンディー語を専攻したという私にとっては憧れのオオタ・アキコさん(旧姓瑞慶覧-ずけらん)さんもかつてはウェルネスむらかみのスタッフだった。彼女は、いま懐妊中で出産に備えているということだった。
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 朝日新聞「天声人語」(2016・1・26)は「『文人の命日につけられた名は、どれも味わい深い。きょうは「寒梅忌」。寒さに向かってきりりと咲く花を、作家藤沢周平さんの作風や人柄に重ねている』と書き出している。
 この夜、土浦の今井さんが来店して、歌人のイナバ女史が合流し、さらにドクター・セガが足を運んで、店での「臘梅忌(ろうばいき)」となった。「臘梅忌」は「夭夭亭」店名の名付け親である故八木三男先生の命日(1月25日)につけられた名である。八木三男先生については過去にもこのブログで取り上げたことがあるが、「臘梅忌」にあたりあらためて振り返ってみたい。
 八木三男先生は1932年新潟県長岡市に生まれた。1945年新潟県立長岡中学校(旧制)入学。1951年新潟県立長岡高等学校(新制)卒業。1952年京都大学文学部入学。1956年京都大学文学部(国史学科)卒業。同年新潟県立村上高等学校教諭として着任。1984年にいがた県民教育研究所創立に参加。1987年新潟県立村上高等学校を退職。同年東京大学教育学部で研究生として学ぶ。1990年にいがた県民教育研究所所長。2008年1月25日死去。享年75歳。
 八木三男先生の著書の一冊「楷と臘梅」に次の文章がある。
『それにしても、2004年は大規模な自然災害や政治災害が相次いだ。国内では石原都政治の教育テロリズムや憲法や教基法の改訂の動きの具体化などのほかに、中越大震災やインド洋津波大災害があり、人間の尊厳を傷つけたり、「平和と自由」の日本の国家理念を著しく荒廃させる野望が日程にのぼり、イラク戦争のほかに想像を超える悲惨が地球を覆った。(中略)
 政治や自然がそんな具合だったからだろう、わが家の「臘梅」が十二月中に狂ったよう一面に開花した。臘梅は光沢のある黄色い花が蝋細工のような風合いをもつために普通「蝋梅」と書くようだが、わたくしは「臘梅」のほうが好きだ。草木の名称には「侘助」や「都忘れ」のように即物的でないのがいい。旧暦の十二月である「臘月」に咲くという意味だろう。太陽暦なら一月末から二月にかけてである。芳香を放つ。十数年まえの一月の末、鎌倉の東慶寺の玄関先でその満開を見たことがある。雪国では通常二月の雪のなかである』

「臘梅忌」の色紙を掲げているドクター・セガは八木三男先生の教え子で、先生の病状に最後まで寄り添い治療に当たった。土浦の今井さん(左)は月刊誌の編集者として先生と親しい交際があった。農業を営み、スーパーでは魚をさばきながら、優れた歌人でもあるイナバ女史(右)は、晩年の先生のプール通いを数年にわたって助けた。「楷と臘梅」に『敗血症のあとの腰痛を治すためにはじめたプールの水中歩行は途中から「脊椎小脳変性症」のリハビリに変わった』とあり、プール通いは「ボランティアでプールへ運んでくれる農民歌人のお陰である」と書かれている。農民歌人がイナバ・ノリコ女史だ。
 画面の中でドクター・セガが握るケイタイは、先生の妻・八重子の刀自につながっている。
「君が生きているなら僕が生きているも同じと言いき生きざらめやも」。死に近い夫が妻に激しい痛みの中からうめきながら吐露した言葉、それを受け止める妻。
 八重子の刀自は村上を離れ、いま娘家族の近くに暮らしている。
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 イチノセさんは常に敬意を持って人と接する。「すごい!」を連発する人でもある。初対面のイナバ女史との間に〈短歌〉は語られたのだろうか。 
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 今井さんは周囲とすぐに親しくなる。これはひとつの人徳だ。電装会社を営むソエカワさんと妻スミコさんも、仲良くいっしょに写真に納まった。昨年は妻の病気を心配した今井さんだったが懸念に終わってよかった。すでに今年の〈山行脚〉が始まっている。
「いい人だね」「いい人はいいね」は川端康成『踊子』の中に出てくるせりふだ。手元に本がないので正確ではないかもしれないが、今井さんにもこのせりふはあてはまる。「いい人だね」「いい人はいいね」
 そしてソエカワ夫妻にはちょっとアレンジして、「いい夫婦だね」「いい夫婦はいいね」がぴったりだ。
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「鬢(びん)のォほつれェは枕の~咎(とが)ァ~よ~」「おう久次じゃねえか」「いよう虎か」「久しく会わねぇが えーばかにめかしこんでるじゃあねえか」「フッフッフ なあにそれほどでもねえがよ」「ま しかし人間 妙なもんだぜ あの時分は知ってのとおりにっちもさっちも行かねぇで弱ってたんだが」「こちとら相変わらずよ」「それがちょいとしたことでこの先の清元の師匠ンとこへ出入りしているうちにフフフ そのつまりなんだ師匠とオツな仲ンなったってわけよ」「なぐるぞこのやろう 久しぶりの立ち話でのろけかい なんかおごれやい」「フッフッフッフ」(『滝田ゆう・落語劇場』双葉社1991)から「包丁」
 もちろん、ソエカワ兄とドクター・セガとの間にこんな会話はない。だが、こんな会話が似合うソエカワ兄である。
 
 イナバ・ノリコさんは優れた歌人だ。生活や家族、仕事の思いを赤裸々に吐き出す。ゆったりと穏やかな語り口調からは想像しがたいほどの烈しさで歌う。その歌を紹介したいが、彼女の歌集が手元にない。出版された当時、贈呈を受けたのだが家中探しても見つからない。どこに隠れているのだろう。まだ残部があるというので頼んでおいた。近いうちに紹介できると思う。

 今井さんの来店で賑やかな「臘梅忌」となった。山本健吉編著の『句歌歳時記/冬・新年』(昭和61 新潮社)から臘梅を詠みこんだ句歌を抜き出してみた。

 枯木なす梢々に臘梅の黄の花咲けり師走朝目に               窪田空穂
 臘梅や雪うち透かす枝のたけ                          芥川龍之介
 臘梅の花をついばみ尾長居り憤るさへ最早ものうし             吉田正俊
 
 *先にあげた『楷と臘梅』に「新潟県ミレニアム美術展」と「中越大地震被災者救援美術展」という「にいがた県民教育研究所」が開催した美術展の記録が載せてあり、そのなかに「鳥居敏文画伯とわたくし」という小見出しで八木三男先生と鳥居さんとの出会いが記されてある。
「鳥居さんは大正末期の村上中学校の出身で、わたくしが村上高校の創立記念誌を編集したとき、その表紙や扉絵、目次絵などを描いていただいたのをきっかけに、以来交際をいただいていたものである」。
 私は村上高校の卒業生ではないが、この記念誌を所有している。八木三男三先生から寄贈されたものだ。
「新潟県ミレニアム美術展」は2000年12月13日から18日まで、物故者を含む作家39人、作品147点を展示し、新潟市民芸術文化会館に1300人以上の鑑賞者を集めた。開催期間中は92歳になる鳥居さんが会場に詰めていたという。
「中越大地震被災者救援美術展」は2005年4月16日から21日まで、渋谷区表参道の新潟館ネスパスで開かれた。97歳になり入院中だった鳥居さんの呼びかけに、「にいがた県民教育研究所」が全面的に協力したものだ。
 私は「にいがた県民教育研究所」の草創期からの会員であったが、八木三男先生が亡くなられてから退会した。請われて何度か寄稿したこともあった。
 鳥居さんの絵が、私の店に足を止めているのも偶然ではないのかもしれない。

 2月になった。主を失い、その妻も去った八木邸の庭に臘梅は花をつけ、芳香を放っているだろうか。
 
  一幹(ひともと)の老臘梅(おいらふばい)のはな満ちてわが冬庭を香(か)となさんとす 
                                                   窪田空穂
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# by yoyotei | 2016-02-04 06:39 | Comments(0)