たち別れいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かばいま帰り来む

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 左はアオイさんとヨウスケさん夫妻、右はヨウスケさんの父エイノリさんだ。エイノリさんの隣には妻がいるが、「写真はダメ」というので割愛した。写真はダメでも、夫妻はいつでも一緒だ。釣りを趣味とするエイノリさん。妻と一緒の姿を、私は釣り場で何度も見ている。私の店にも結婚して以来、仕事仲間との来店以外は、常に夫婦同伴が続いている。アオイさんとヨウスケさんも継承していい〈夫婦のあり方〉にちがいない。 
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村上市議会議員の相馬エイさん(右)が倒れたのは昨年12月1日の朝だった。心臓発作だった。場所が自宅であったことと、なによりも夫のジョージさん(左)が迅速に、また冷静的確に対処したことで一命をとりとめた。議員として6期21年、ことし4月の選挙での7期目の出馬へ向けて準備を考えていた矢先だった。
 エイさんは老舗の伝統工芸漆器村上堆朱の家に、兄弟姉妹の末っ子として生まれた。奔放な少女時代を過ごし、高校時代には社会問題に大きな関心を持つようになった。
 私は当地に住んでほどなく、地元の銀行に勤めていた彼女と出会っている。その後、同じ小学校のPTA役員として、共に活動をしたり、選挙でも手伝いなどをしてきた。
 夫ジョージさんとは「村上市民ネットワーク」や「生活と健康を守る」などの活動をしている。韓国、タイ、ベトナム、インドと海外旅行にも何度か同行した。酒飲み友達でもある。
 7期目は出馬を断念したエイさんだが、彼女の無念を引き継いで稲葉久美子さんが出馬を表明した。高齢の儀父母との同居や3人の子育てで外に働きには出られない稲葉さんは、ある看護師さんから「子どもをみてもらえない?」と頼まれたのをきっかけに38年も〈子守のおばさん〉を続けている。「保育園落ちたのは私だ!」と立ち上がった子育てママさんたちの窮状をよく知る人なのだ。「いつでも子供を背負っている人」というのが私の稲葉さんの印象。1948年生まれの68歳、生活派の新人議員誕生を期待している。選挙参謀、責任者をジョージさんが務める。   
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 森林研究所の石黒さんが転勤したのは1年前。その彼が1年ぶりに仕事仲間と来店した。今年も転勤移動の季節がやってきた。この夜は舞台仲間の「マロンおばさん」役の夫・タケダさんもいっしょだった。
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わが家の庭で春をいちばんに告げてくれるのは 福寿草だ。それも年々、その数が増えてくる。〈幸福で長命〉という意味のめでたい福寿草だが、「うまのあしがた科」に属する有毒植物でもある。
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 定点観測ではないが、昨年(上)、一昨年(下)とくらべると花数が増えているのが明らかだ。クルミの殻を雑草抑制のマルチングとして使っているが、これは妻が山で採取して中身をほじくり出した残骸である。〈クルミ塚〉の様相だ。
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 そのクルミの残骸だが、こちらはリスが齧(かじ)ったもので、庭の物陰で見つけた。リスは容器に入れて積み上げてあるクルミを狙って、近くの山からやってくるようだ。面白いのは、もっとも硬いと思われる継ぎ目のような部分の両方向から齧っていることだ。これにはひとつとして例外がない。習性なのか中身を食するための合理性からなのか。リスに聞いてみたいところだ。
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 タムラさん(左)に連れてこられた(?)クマクラさん(右)。出版社で働いていた経験があったということで本への関心が高く、知識も豊富だ。キラキラと輝く瞳が印象的だった。
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 安澤さん(中央)は写真家だが、地域の宝物を探し出して花を咲かす人でもある。市議会議員をしていたころには、「今は山中 今は浜」で始まる唱歌「汽車」の作曲者大和田愛羅(おおわだあいら)に着目した。愛羅の祖父大和田清春が村上藩士だったからだ。現在、毎日夕方5時になると村上市内中に「汽車」のメロディーが流れているが、これは安澤さんの働きかけで実現した。村上駅から山形県鶴岡駅まで「うたごえ列車」を走らせたこともあった。彼の〈仕掛け〉で、私の店にインド人シェフを招いて「南インド料理を食べる会」を催したこともあった。教師をしていた彼の父が宝田明を教えたことがあると聞いた。
 平原さん(右)は1879年(明治12)に創立された「東京村上市郷友会」福会長。町田市に住んでいる。初対面だったが豪放にして磊落、心遣い気配りの人である。
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 彼岸の里帰りでいっときの貴重な時間をユカさんは夭夭亭で過ごした。事故で首から下が麻痺状態になった夫の介護をする日々。そんな日々の中で、ユカさんは近所の女性から言われたという。
「ユカちゃん、泣きたいときには風呂に顔を突っ込んでおもいきり大声を上げて泣くんだよ」
 昨年の同じ時期、そして今回も、私はユカさんから泣き言や愚痴を聞かされることはなかった。20年前、夭夭亭繁盛(?)の一時代を築いてくれた立役者ひとりだ。子どもが、この春から高校生になるという。
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 教え子を中心に縁のあった人が集まって「桂先生を偲ぶ集い」があった。席上、瀬賀ドクターから本間桂先生の昭和50年4月19日の日記が紹介された。
「晴れてあたたか也。数日来春色頓に濃く桜も八分咲きとなれり。昨日方々より音信あり。黄昏(たそがれ)益田書店より予約者のほか入手すべからざる漱石全集の豪華版(岩波書店刊)第五巻(彼岸過迄・行人)を購入して帰る。数日前には第四巻(三四郎・それから・門)の同店一隅にあるを見付け卞舞(注)措く能はずひそかに金を工面して求めたりし也。妻に対し申し訳なし。夕闇のせまる帰路歓びの下より罪悪感の湧き出づるに苛まれつつ重き足をはこべり」注/卞舞・抃舞(べんぶ)喜んで手を打って舞うこと。

 妻の目をぬすみて買ひしバラ売りの漱石おもしたそがれのみち
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 私自身の、書物にまつわる<卞舞(べんぶ)措く能はず>の経験は、「広辞苑」(昭和42年第1版第23刷)を入手したときに遡(さかのぼ)る。当時、箱根のホテルに住み込みで働いていた私は、新宿の書店で、欲しかった「広辞苑」を購入した。ホテルへ向かう電車の中でも箱根登山バスの中でも、膝に置いたその重さを、嬉しさこの上もない気持ちとともに今でも覚えている。その「広辞苑」は補修をしながら、現在も私の座右にある。価格は2500円であった。
 もちろん、私の嬉しかった重さと、桂先生の<おもしたそがれのみち>とは比べるべくもない。、
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 漱石全集豪華版第六巻、第七巻、八巻は私の手元にある。桂先生が残されたものだ。奥付には順に<昭和五十年五月九日第二刷發行、同年六月九日、同年七月九日、同じく第二刷發行>とある。「ひそかに金を工面し(中略)妻に対し申し訳なし」と書いた第四巻、第五巻に続けて刊行されたもので、価格は〈二千八百圓〉だった。日記にある第四巻、第五巻は今どこに身を潜めているのか。
 瀬賀ドクターは、恩師桂先生が残した日記、短歌、漢詩、小説などを丹念に読み進めている。いわば「本間桂研究家」だ。こうした時々の報告は一人の人間の〈生〉をあぶりだして、私にも自分の〈生〉を問いかけてくる。

 見性の見込なきを以って大森老師より破門を言ひ渡されて夢より醒む
 
 桂先生は、煩悩を離れて内観し、無我の境地に達しようと禅門に入った。見性(けんしょう)とは仏教用語で、諸種の妄惑を照見して、本来固有の真性を見きわめること。大悟徹底すること。(「広辞苑」)
 ところで夭夭亭の文庫には、本間桂先生が残された普及版の「漱石全集」全三十四巻もある。こちらは昭和31年から32年にかけて出版されたもので定価は150円であった。
「偲ぶ集い」の数日前に、高知に住む桂先生の長男から、四万十川の新海苔とカツオの土佐煮が送られてきた。新海苔は添えてあった丁寧なレシピにしたがって天ぷらに、土佐煮はマヨネーズをつけていただいた。

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 仕事で北海道に住んでいる和田さんから、<横須賀発〉の本マグロが送られてきた。当地に住んでいた頃の短いつながりをいつまでも大切にする人だ。和田さんを知る人たちと賞味しよう。ありがとう。

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 俳優の宝田明さんが主宰する「宝田座」が村上で公演をすることになった。内容は第1部「宝田明物語」、第2部「ミュージカル・レジェンド」。昨年10月の講演「わが青春の戦争と平和」とはちがい、ミュージカル俳優としての宝田明さんの舞台だ。共演者も劇団「四季」でヒロインを演じた井料瑠美さんを筆頭に、日本のトップクラスのミュージカル俳優たちが来演する。
 今回は村上市の協力事業となり、立ち上げた実行委員会も多彩なメンバーが集まった。先日は宝田明さん本人と事前打ち合わせをし、講演の協力体制について確認した。公演は5月20日(金)18:00開演、全席自由、入場料4,000円。会場は1,000人収容の村上市ふれあいセンター。
 宝田さんと談笑するのは、ブログ初登場の私の妻(左)と、今回も実行委員長を務める瀬賀ドクターである。
 少年の日を3年近く過ごした村上を、宝田さんに温かい町と思ってもらえるよう協力したいと思っている。

『名作365日』(槌田満文著・講談社学術文庫・昭和57年)は、日付のある文学作品を明治・大正・昭和の名作の中から365作を選び出したものだ。昭和36年1月1日から一年間「東京新聞」夕刊のコラムとして掲載された後、39年に河出書房新社から〈河出ペーパーバックス〉の一冊として刊行、57年に名作の若干の差し替えをして文庫化されたもので、3月31日に著者が選んだのは内田百閒の「ノラや」だ。
 ノラという名前は戯曲「人形の家」(イプセン)のそれではなく、野良猫(のらねこ)のノラだ。そのノラが家出をして帰ってこない。「ノラや」は、ノラがいなくなって2ヵ月あまり、愛する猫を思って書き続けた日記体のエッセイだ。
 ノラがいなくなって4日後の3月31日には「あまり泣いたので洟(はな)をふいた鼻の先が白くなって」皮がむけてしまったほどであった。
「ノラや」は、風の音がしても雨垂れが落ちてもお前が帰ったかと思い、今日は帰るか今帰るかと待ったが、「ノラやノラや、お前はもう帰って来ないのか」という悲痛な呼びかけで終わっている。
このいきさつは、内田百閒と門下生との交流を描いた、映画「まあだだよ」(1993年 黒澤明監督)でも取り上げてあったと記憶する。また内田百閒は漱石の門下生だった。
 
「小倉百人一首」に「たち別れ いなばの山の 峰に生(お)ふる まつとし聞かば いま帰り来む」(中納言行平)という和歌がある。
「久保田正文氏の『百人一首の世界』(文藝春秋社刊)によれば、氏の郷里では、猫が行方不明になったとき、この「たち別れ」の歌を三度となえると、無事にもどってくるという言い伝えがある、といわれている」との記述を『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫/平成3年/1989年単行本の文庫化)に見つけた。久保田氏の郷里がどこかは紹介されていないが、ノラの帰宅を狂おしいほどに待ち望んでいた内田百閒は、この和歌を唱えたのであろうか。知っていれば三度どころか、お題目のように唱え続けたかも知れない。もっとも、私自身は「ノラや」の本文に接していない。内容の引用も、『名作365日』からの孫引きなのだ。
 そんなこともあって、内田百閒の本を渉猟していたら、やはりあった。以下は『新潮日本文学アルバム内田百閒』(新潮社1993)を参考にした。
 愛猫ノラが姿を消すと百閒はノラ探しのビラを5回にわたって配った。その1回から3回までのビラが上記の本に写真で掲載されている。それを見ると1回目、2回目のビラは印刷文字の周囲が赤い線で囲ってあるが、2回目のビラは線の部分が、なんと「立ちわかれ」の歌になっている。つまりビラの内容がぐるりと「立ちわかれ」の歌で囲われているのだ。しかも歌の冒頭に「オマジナヒ」とある。本の奥付に〈無断転載を禁ず〉とあるので画像を載せられないのが残念だ。
 ビラの内容は〈その猫は雄、名前はノラ、「ノラや」と呼べば返事をします〉〈薄謝3千円〉などと、少し滑稽で、とても切実だ。

 近頃は猫ブームだそうである。NHKテレビの「岩合光昭の世界ネコ歩き」が、私は好きだ。登場するネコたちの表情にも、時々入る岩合光昭さんのネコへの語りかけにもいやされる。世界のあちこちの町で、人々に愛されて暮らすネコたち。幸せな気分にしてくれる。
「幸せとは物を買うことと勘違いしているからだよ。幸せは人間のように命あるものからしかもらえないんだ。物は幸せにしてくれない。幸せにしてくれるのは生き物なんだ」
 <世一貧しい大統領>といわれたウルグァイのホセ・ムヒカ前大統領のことばだ。ヒオセ・ムヒカ前大統領は現在、来日中だ。
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# by yoyotei | 2016-03-31 10:12 | Comments(4)  

模糊として男旅する薄氷

 漱石の書簡集をめくっていて次のような記述を見つけた。
  「子供の名を伸六とつけました。申の年に人間が生まれたから伸で六番目だから六に候」
 明治41年12月26日付の高浜虚子宛書簡のくだりだ。前のブログで私の名前の伸二に触れていたので、ちょっと目に付いた。とはいっても、私の生年の干支は申ではなく亥である。
 高浜虚子にはこんな句がある。〈高木より高木に冬日亙(わた)り行く〉。こちらは私の苗字そのものだが、この大きさは私にはない。
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 ヒデボウ(右)とハットリさんが来店した深夜、私はすでに泥酔していた。そんなことにはお構いなく飲むのが二人だ。久しぶりのヒデボウは頬がふっくらして穏やかな表情になった。充実した結婚生活を送っているようだ。私のように飲んでも多弁にならず、眠りこけることもない。カメラのシャッターを切ったのはヒデボウの親友のハットリさん。来店する人たちの中では最高レベルに〈親友度〉の高い二人だが、共通点は私には捉えられない。むしろ共通点がないからこその親友なのだろう。
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 ノリコさん(左)とミエコさん(右)は同じ町内に住む幼馴染。
 20年前、「自分探しの旅に出ています」と店の戸に張り紙をしてインド通いをしていた私。風雨で剥がれそうになっていた張り紙を張りなおしてくれたのがノリコさんだった。市街地から車で1時間もかかるブナ林で野外コンサートをしたときには女友達と足を運んでくれたりもした。しかし、20年の歳月は、みんなそれぞれに変化をもたらした。ミエコさんにも・・・・・・。「私だけはまっさら」と笑ったノリコさんだって・・・・・・。
〈よるべなく酒をふふめばふふみたる酒が誘(いざ)なふ生きのかなしみ〉 
                                 筏井嘉一(いかだい・かいち)
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農村で生まれ育ったヒロキさん(左)は岩船港で漁師をしている。31歳のヒロキさんがどんなきっかけで漁師になったのかは聞き漏らしたが、なにやら嬉しい感動が湧き上がってきた。「俺は漁師になる!」と決断した瞬間をいつまでも忘れないでほしい。心からエールを送る。
 少し先輩のタクヤさん(右)は建設会社に勤めている。さわやかな二人の関係も聞き漏らした。この次にはじっくりと話を聞きたい。
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 左からタカシ(48)、カズヒサ(54)、セイ(50)の3氏。建築、不動産などの関連業者という関係だ。この夜の話題は「アイリッシュコーヒー」というカクテル。アイリッシュウイスキーと生クリームがなかったので提供はできなかったが、彼らが見たというテレビ番組を、数日後、私も目にすることができた。世界的に著名な日本のバーテンダーが「アイリッシュコーヒー」をつくる場面だ。一杯のカクテルに心血を注(そそ)ぐプロの仕事。おおいに刺激を受けた。
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 左からウメダさん、アヤコさん、イタルさんだ。
 アヤコさんは夭夭亭の一軒おいた隣のスナック「レガート」のママ。
 私は45年前、当地村上市に流れ着いて、「松浦家」という料理屋に住み込んだ。「松浦家」にはこの地では草分け的な存在の「不二サロン」というバーがあり、いきなりそのバーをまかされた。熱海周辺で少しだけバーテンダーの経験はあったが、「不二サロン」のカクテルメニューの豊富さ、取り揃えられた洋酒やリキュールの多彩さにたじたじとなり、言葉の壁にも戸惑ったことだった。
 数年して、そこを辞めた後に、イタルさんは板前として「松浦家」に勤めた。したがって当時は接触はなかったが、同じ料理屋にいたというだけの縁で時々顔を出してくれる。そのイタルさんは現在、季節料理の店「山蕗」の主人だ。ウメダさんはその店の常連であり、アヤコママとイタルさんとは同期生だという。
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 こちらは地元選出の県会議員タケちゃん(左)とカサブランカダンディーのオオタキさん(右)に、真ん中はここでも「レガート」のアヤコママだ。タケちゃんとアヤコさんは学校の同期生。私がいたころの「不二サロン」へ二人で顔を出したこともあったという。
「レガート」はとても上品なカラオケスナック。私もオオタキさんに誘われて顔を出すことがある。アヤコママの孫娘とは年に一度「大滝舞踊研究所」の発表会で共演する。アヤコママもマイクをとればプロ級の歌唱力、日本舞踊もあでやかに舞う芸達者な人だ。
 
 数日前に、ある女性が一人で店にやってきた。30年近く前、今はなくなった近くのスナックでママをしていた人だ。その店が小火(ボヤ)を出したことがあり、オーナーや、その関係者たちが心配して駆けつけた。騒ぎが収まった後、ママや関係者らを私の店に招いた。そこまでは私も覚えていた。だが、元ママが言った。
「あの時、マスターが熱いスープをふるまってくれたじゃあない。あれが嬉しかった・・・・・」
 寒い季節だった。

 昨年の暮れ、スーパーから出てくると50がらみの女性から声をかけられた。
「私、脚の手術をしたんですが歩き方が変じゃあないでしょうか」
「は?」と、女性の顔を見たが知り合いではない。
「大学病院で手術したんですよ」と言いながら、女性はまるでモデルのような腰つきで私の前を歩いた。
「変ではありませんよ」と言い残し、私は逃げるように車でその場を去った。そしてしばらく走ってから思った。
「とても素敵な歩き方ですよ」
と言ってあげればよかったかな、と。

 勤めているホテルが経営コンサルタントを導入することになり、先日の会議で担当者から、経営刷新を手がけてきた実績や、今後の改善点などが語られた。指摘された点は私も気になっていたことでもあり、刷新に向けた手腕に期待をしている。

 タイトル句〈模糊として男旅する薄氷(うすごおり)〉は長谷川久々子(はせがわ・くぐし)。薄氷は「うすらひ」とも読む、春の季語で「薄氷を履(ふ)むが如し」というようにきわめて危険なたとえであるという。(『きょうの一句-名句・秀句365日-』村上護著/新潮文庫・平成17)
 ふらっと旅に出たいと思うこと、しきりだが、私を旅へ誘(いざな)うのは何者なのかも〈曖昧模糊〉として正体不明である。確定申告もまだ終わっていないし、今年の抱負も定まらないまま、早々と2月が往く。
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# by yoyotei | 2016-02-27 18:37 | Comments(0)  

一幹(ひともと)の老臘梅のはな満ちて

 私の名前は伸二という。〈伸〉という字を問われると、〈伸びる〉とか〈人偏に申す〉と説明する。まれに〈人偏に申(さる)〉ということもあるが、ピンとくる人は少ない。それでも申年の今年はいくらか通りがいいかもしれない。
 勤めているホテルのフロントに、姓も名前も私とそれぞれ一字が異なるだけの、〈高〇伸〇〉さんという人がいる。優れた接客態度、いわゆる腰の低さで好感度がとても高く、仕事のセクションは異なるが見習うことは多い。評価の良い人と名前が似ているのはうれしい。
 ところで私の名前は叔父(母の弟)が付けてくれたと聞いている。その叔父は自分の孫にも〈伸〉の字を使って名前を付けていた。そのことを10年ほど前、叔父の葬儀の折に知った。〈伸〉という字が好きだったのだろうか。私は自分の名前を気に入っている。
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 古い馴染み客アベさんの息子さん(左)と、町内の浄土真宗の寺の息子さん(右)。最近はご無沙汰だが、飲みに来ていた頃は、ほとんど夫婦二人連れだったアベさんの両親。飲むほどに眼光が鋭くなって仏教談話にも力が入った住職の父。息子たちの顔つきや物腰に、親との共通点は見出せなかったが、酒に強いのは二人とも親譲りか。近年、客の世代交代が顕著になってきた。今年は店を開いて42年目に入る。
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 わが家の車に関することはすべて「ナカムラ自動車」にお願いしている。新年会の流れでやってきた社長のシンちゃん(右)、社員のスガワラさん(中)。初来店の新入社員ミズエさん(左)はショート・カクテルを恐る恐ると飲み干したが、酒は強いと見た。
 今は会長に退いた先代社長時代からの付き合いだが、現役バリバリのシンちゃん・ヒデちゃんというナカムラ兄弟が父の創業した会社を盛り立てている。
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 昨年暮れの約束どおり、アイコさんはフィアンセのタカダさんを連れてきた。聞いていた年齢が嘘のように若々しいタカダさんだ。アイコさんのおじいちゃん、喜んでるだろうな。一緒に飲んだ「菊水」。いちばんおいしく飲んだのはおじいちゃんだろう。<最高のものはいつもこの先にある>ことを信じて・・・・・。祈る多幸!
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 今年の年賀状には「新潟へ転勤になりました。飲みにいくぞ」とあった。そのメッセージ通り何年かぶりに元気な顔を見せたタッキーことタキカワさん。趣味の絵を通じて知り合った妻と転勤で北海道へ。現在は3人の子どもの父である。今年は新潟市から、ちょくちょく電車で飲みに来ることになりそうだ。
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 結婚をひかえているアイコ・タカダカップルに、タッキーはどんなアドバイスをしたのだろうか。客同士が親しくなってくれることは酒場亭主の喜びとやりがいのひとつだ。
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 こちらも、夭夭亭で出会ったことがドクター・セガとイチローさん夫妻との親交のきっかけだった。豊富な海外旅行体験も共通の話題のようだ。
 昨年は「宝田明講演/わが青春の戦争と平和」を実行委員長として大成功に導いたドクター・セガ。今年もなにかと活動の年になる。イチローさん夫妻の「後方支援」(?)も心強い。
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 歴史のある地元の女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」のみなさんだ。「虹の彼方へ」「アメージングレース」など、英語の歌声が美しく流れた。聴く人は私ひとり。透明なハーモニーに包まれ、新年早々の贅沢を満喫した私だった。このような大勢の女子を指導しているミュージシャン・オオタキさん(右端のギター)の力量と存在の確かさには頭が下がる。メンバーの中には彼の母親もいる。年齢を少しも感じさせない、まさにクリスタル(水晶)のような歌声なのだ。
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「一人はみんなのために・みんなは一人のために」は「生活と健康を守る会」のアピール標語だ。兵庫生存権裁判は昨年12月25日大阪高裁で控訴棄却の判決が言い渡された。現在闘われている生活保護裁判は26都道府県に及び、原告は858人もいる。ここにいる仲間もそうした裁判を支援している。
 私の所属する班では「カモ鍋」で新年を祝い親睦を深めた。カモは〈マガモ米〉を作っているカサブランカダンディのオオタキさんから提供を受けた。葱や白菜は会員が栽培したものだ。ん?鍋が見えない。画面の右端にわずかに見えるのが、グツグツ煮えている「カモ鍋」なのだが。みんな、そろそろ食べ頃だぞ!

 湯気あがる鹿鍋かこみ沁々(しみじみ)と谿(たに)に仕留めしさまにはふれず   仲 宗角

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 われらの胃袋においしくおさまったカモを提供してくれたカサブランカ・ダンディーのオオタキさん(左)は、カサブランカなどユリも栽培しているが米も作る。その農法は水田にマガモを放ち雑草を食べてもらう。除草剤などの農薬は極力使わない有機栽培だ。〈マガモ米〉と称している。
 右は初来店のイケダさん。オオタキさんの娘さんの友だちとどうやらこうやらという関係・・・。この夜の私は記憶が定かでないが、運転してきた車に泊まるといったイケダさんが、野性味を帯びて、とても魅力的だったという印象は確かだ。画面右端の顔のオブジェがイケダさんに似ているのは、もちろん偶然だ。
 二人の背後に掲げられた油絵は村上出身の画家鳥居敏文氏(1908-2006)の手になるものだ。鳥居敏文氏は東京外語大学独語科を卒業後渡欧、1935年までパリで絵を学んだ。帰国後は独立美術協会を中心に活動。2004年には「九条美術の会」発起人となった。この絵は、あるお客さんの厚意で掲げさせてもらっている。*関連の追記が文末にある。
 カサブランカダンディー・オオタキさんも油絵を描く。自宅の作業場には彼の描いたカサブランカの絵がある。
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 暖冬小雪といわれていたが1月下旬になって雪景色が出現した。雪が降ると小鳥たちが餌を求めて庭にやってくる。冷蔵庫の中で軟らかくなってしまった柿をおいたら、いつの間にか消えていた。少しは小鳥たちの命に寄与できたか。〈冬来たりなば春遠からじ〉。春が待ち遠しいのは私たちだけではあるまい。
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 村上総合病院のドクターたちだ。紅一点の産婦人科医ハルカさんの快活な笑顔は周囲を元気にする。
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 「元気なまちづくり。元気な人づくり」をめざす「ウェルネスむらかみ」(NPO法人・総合型スポーツクラブ)のスタッフとサポーターのみなさんだ。市展で最高賞の市長賞を受賞したことのあるヤマダさん、古い馴染みのイガラシさん、ナカムラ自動車社長シンちゃんの妻サヨコさん、大滝舞踊研究所の指導員でもあり発表会では必ず舞台裏で顔を合わすセガさん、瀬波病院院長のムラヤマ・ドクターなどなど。さまざまな顔を持つ人たちである。
 東京外語大学でインドのヒンディー語を専攻したという私にとっては憧れのオオタ・アキコさん(旧姓瑞慶覧-ずけらん)さんもかつてはウェルネスむらかみのスタッフだった。彼女は、いま懐妊中で出産に備えているということだった。
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 朝日新聞「天声人語」(2016・1・26)は「『文人の命日につけられた名は、どれも味わい深い。きょうは「寒梅忌」。寒さに向かってきりりと咲く花を、作家藤沢周平さんの作風や人柄に重ねている』と書き出している。
 この夜、土浦の今井さんが来店して、歌人のイナバ女史が合流し、さらにドクター・セガが足を運んで、店での「臘梅忌(ろうばいき)」となった。「臘梅忌」は「夭夭亭」店名の名付け親である故八木三男先生の命日(1月25日)につけられた名である。八木三男先生については過去にもこのブログで取り上げたことがあるが、「臘梅忌」にあたりあらためて振り返ってみたい。
 八木三男先生は1932年新潟県長岡市に生まれた。1945年新潟県立長岡中学校(旧制)入学。1951年新潟県立長岡高等学校(新制)卒業。1952年京都大学文学部入学。1956年京都大学文学部(国史学科)卒業。同年新潟県立村上高等学校教諭として着任。1984年にいがた県民教育研究所創立に参加。1987年新潟県立村上高等学校を退職。同年東京大学教育学部で研究生として学ぶ。1990年にいがた県民教育研究所所長。2008年1月25日死去。享年75歳。
 八木三男先生の著書の一冊「楷と臘梅」に次の文章がある。
『それにしても、2004年は大規模な自然災害や政治災害が相次いだ。国内では石原都政治の教育テロリズムや憲法や教基法の改訂の動きの具体化などのほかに、中越大震災やインド洋津波大災害があり、人間の尊厳を傷つけたり、「平和と自由」の日本の国家理念を著しく荒廃させる野望が日程にのぼり、イラク戦争のほかに想像を超える悲惨が地球を覆った。(中略)
 政治や自然がそんな具合だったからだろう、わが家の「臘梅」が十二月中に狂ったよう一面に開花した。臘梅は光沢のある黄色い花が蝋細工のような風合いをもつために普通「蝋梅」と書くようだが、わたくしは「臘梅」のほうが好きだ。草木の名称には「侘助」や「都忘れ」のように即物的でないのがいい。旧暦の十二月である「臘月」に咲くという意味だろう。太陽暦なら一月末から二月にかけてである。芳香を放つ。十数年まえの一月の末、鎌倉の東慶寺の玄関先でその満開を見たことがある。雪国では通常二月の雪のなかである』

「臘梅忌」の色紙を掲げているドクター・セガは八木三男先生の教え子で、先生の病状に最後まで寄り添い治療に当たった。土浦の今井さん(左)は月刊誌の編集者として先生と親しい交際があった。農業を営み、スーパーでは魚をさばきながら、優れた歌人でもあるイナバ女史(右)は、晩年の先生のプール通いを数年にわたって助けた。「楷と臘梅」に『敗血症のあとの腰痛を治すためにはじめたプールの水中歩行は途中から「脊椎小脳変性症」のリハビリに変わった』とあり、プール通いは「ボランティアでプールへ運んでくれる農民歌人のお陰である」と書かれている。農民歌人がイナバ・ノリコ女史だ。
 画面の中でドクター・セガが握るケイタイは、先生の妻・八重子の刀自につながっている。
「君が生きているなら僕が生きているも同じと言いき生きざらめやも」。死に近い夫が妻に激しい痛みの中からうめきながら吐露した言葉、それを受け止める妻。
 八重子の刀自は村上を離れ、いま娘家族の近くに暮らしている。
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 イチノセさんは常に敬意を持って人と接する。「すごい!」を連発する人でもある。初対面のイナバ女史との間に〈短歌〉は語られたのだろうか。 
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 今井さんは周囲とすぐに親しくなる。これはひとつの人徳だ。電装会社を営むソエカワさんと妻スミコさんも、仲良くいっしょに写真に納まった。昨年は妻の病気を心配した今井さんだったが懸念に終わってよかった。すでに今年の〈山行脚〉が始まっている。
「いい人だね」「いい人はいいね」は川端康成『踊子』の中に出てくるせりふだ。手元に本がないので正確ではないかもしれないが、今井さんにもこのせりふはあてはまる。「いい人だね」「いい人はいいね」
 そしてソエカワ夫妻にはちょっとアレンジして、「いい夫婦だね」「いい夫婦はいいね」がぴったりだ。
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「鬢(びん)のォほつれェは枕の~咎(とが)ァ~よ~」「おう久次じゃねえか」「いよう虎か」「久しく会わねぇが えーばかにめかしこんでるじゃあねえか」「フッフッフ なあにそれほどでもねえがよ」「ま しかし人間 妙なもんだぜ あの時分は知ってのとおりにっちもさっちも行かねぇで弱ってたんだが」「こちとら相変わらずよ」「それがちょいとしたことでこの先の清元の師匠ンとこへ出入りしているうちにフフフ そのつまりなんだ師匠とオツな仲ンなったってわけよ」「なぐるぞこのやろう 久しぶりの立ち話でのろけかい なんかおごれやい」「フッフッフッフ」(『滝田ゆう・落語劇場』双葉社1991)から「包丁」
 もちろん、ソエカワ兄とドクター・セガとの間にこんな会話はない。だが、こんな会話が似合うソエカワ兄である。
 
 イナバ・ノリコさんは優れた歌人だ。生活や家族、仕事の思いを赤裸々に吐き出す。ゆったりと穏やかな語り口調からは想像しがたいほどの烈しさで歌う。その歌を紹介したいが、彼女の歌集が手元にない。出版された当時、贈呈を受けたのだが家中探しても見つからない。どこに隠れているのだろう。まだ残部があるというので頼んでおいた。近いうちに紹介できると思う。

 今井さんの来店で賑やかな「臘梅忌」となった。山本健吉編著の『句歌歳時記/冬・新年』(昭和61 新潮社)から臘梅を詠みこんだ句歌を抜き出してみた。

 枯木なす梢々に臘梅の黄の花咲けり師走朝目に               窪田空穂
 臘梅や雪うち透かす枝のたけ                          芥川龍之介
 臘梅の花をついばみ尾長居り憤るさへ最早ものうし             吉田正俊
 
 *先にあげた『楷と臘梅』に「新潟県ミレニアム美術展」と「中越大地震被災者救援美術展」という「にいがた県民教育研究所」が開催した美術展の記録が載せてあり、そのなかに「鳥居敏文画伯とわたくし」という小見出しで八木三男先生と鳥居さんとの出会いが記されてある。
「鳥居さんは大正末期の村上中学校の出身で、わたくしが村上高校の創立記念誌を編集したとき、その表紙や扉絵、目次絵などを描いていただいたのをきっかけに、以来交際をいただいていたものである」。
 私は村上高校の卒業生ではないが、この記念誌を所有している。八木三男三先生から寄贈されたものだ。
「新潟県ミレニアム美術展」は2000年12月13日から18日まで、物故者を含む作家39人、作品147点を展示し、新潟市民芸術文化会館に1300人以上の鑑賞者を集めた。開催期間中は92歳になる鳥居さんが会場に詰めていたという。
「中越大地震被災者救援美術展」は2005年4月16日から21日まで、渋谷区表参道の新潟館ネスパスで開かれた。97歳になり入院中だった鳥居さんの呼びかけに、「にいがた県民教育研究所」が全面的に協力したものだ。
 私は「にいがた県民教育研究所」の草創期からの会員であったが、八木三男先生が亡くなられてから退会した。請われて何度か寄稿したこともあった。
 鳥居さんの絵が、私の店に足を止めているのも偶然ではないのかもしれない。

 2月になった。主を失い、その妻も去った八木邸の庭に臘梅は花をつけ、芳香を放っているだろうか。
 
  一幹(ひともと)の老臘梅(おいらふばい)のはな満ちてわが冬庭を香(か)となさんとす 
                                                   窪田空穂
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# by yoyotei | 2016-02-04 06:39 | Comments(0)  

半年は帰らぬ漁に出航の

 新年あけましておめでとうございます。
 秋以来、私を暗澹とさせていた左目の視力異常は「マイボーム機能不全」と診断された。瞼(まぶた)の縁のマイボーム腺という皮脂(あぶら)を分泌している腺が詰まり、皮脂の出が悪くなることによって涙が蒸発し、ドライアイ(乾き目)をひきおこしている状態らしい。涙もろくなっている昨今、それでもまだ泣き方が足りないのか、というのは冗談だが、ドライアイによって目の表面が傷ついたりして視界がぼやけるなどの症状をきたすのだという。右目のように「網膜中心静脈閉塞症」といった回復不可能な状態ではなく、目を温めるなどして詰まった皮脂を溶けやすくし、分泌を促すことで改善できる。眼科に行く直前から状態はよくなっていたが、その後もいい状態が続いている。視界がクリアになって気持ちも晴れてきた。
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 昨年4月のブログ「己(おの)が名をほのかに呼びて涙せし」で紹介した八藤後さん(左)と本間さん(中)、そして今回は富樫さん(右)も加わっての来店。3人とも、古文書の解読などを通じて地域の歴史を楽しむという「史楽会」の会員だ。前回のブログに書いたように詩人でフランス文学者の堀口大學の母・政が村上藩士江坂氏の長女(明治4年生)と知ったことを話すと、今も残る江坂家の場所を教えてもらえた。さらに、近親者あるいは縁者が居住しているらしき情報への言及。さすが、というほかない。
 初対面の富樫さんは、夫人が若いころには何度か来店されたようで、聖ペテロを演じた「大滝舞踊研究所」の発表会も観てもらったということだった。
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 八藤後さんには『火と火消し物語-村上市消防団のルーツを探る-』という私家版の著書(平成18年発行)がある。申し訳ないことに、贈呈を受けたまま精読せずに10年もの間、埃がかぶるにまかせていた。頂戴した折に「批評をしないで!」と、固く言い渡されたことも精読の妨げになったかもしれない、というのは不遜な言い訳だ。しかし、このたび改めて読み始めたところ、面白くて一気に読み終えた。
  第一部「火と文化」には「ギリシャ神話の火」「ネアンデルタール人の手に松明が!」「「江戸大火・女人地獄」などの、興味を引く小見出しがならび、第二部「火事と住民」第三部「火事と火消し」には火事と防火の郷土史がつづられてある。私が知った当時の八藤後さんは〈財政の神様〉といわれた財政課長だったが、その前には消防防災課にいた。
 第一部「文学の中の火」に、万葉集の中の歌として、狭野弟上娘子(さののちがみのおとめ)の「君が行く道の長道(ながて)を繰りたたね焼きほろぼさむ天(あめ)の火もがも」が取り上げてある。万葉集と火、となればまず最初に思い浮かぶのはこの歌だ。さすがである。  
 万葉集の代表的歌人、柿本人麻呂にちなむ明石(兵庫県)の人丸神社は「ヒトマル」、すなわち「火・止まる」だから火難除けの神様という民間信仰があることを、斉藤茂吉は「鴨山考補注」に記している。
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 カウンターが女性に占拠されたような夜だった。アカ・裕子さん(奥左)には8月の「平和カフェ」で歌ってもらった。リュウコさん(奥右)は息子が成人したら、飲みに連れてくるのを楽しみにしていると言った。後3年か。
 左側には手前からアイコ、ミホ、マリ、キヨミ、ミナコ、カオリ(敬称略)の女性が陣取った。8人もの女性に包囲されると、さすが(?)の私も少しビビってしまう。
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 飲んでいた仲間と別れて、夭夭亭まで足を伸ばしてくれたヒロヤさん(右)。交際中の彼女と、新しい展開に向けて自分自身への〈見つめなおし〉の中にいる。
 ヒロヤさんと一緒の写真に収まってくれたアケミさん(左)とレイコさん(右)。この夜は「電気ブラン」といった浅草界隈で飲まれていた酒の話になった。 
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 作家の開口健を想起させる風貌のホンマ・コウヘイさんは40年も前からの馴染みだ。30代だったホンマさんは開店するやいなや店のドアを開けてカウンターの端に座ったものだ。ホンマさんの酒は〈闘う酒〉だった。周囲と闘い、自分と闘う。年長者に対して失礼だが、今、ホンマさんはとてもいい風貌(カオ)になった。「当時の自分はあんたに救われた」と彼は言うが、ホンマさんを救ったのは彼自身だ。
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 左からカズノ、アイコ、カツトモさん。カズノさんとカツトモさんは交際中で、アイコさんはカツトモさんの妹という関係だ。静かなクリスマス・イブの夜。夭夭亭と同じ町内の実家の畳屋で修行中のカツトモさんは、大音量を発することのできるスピーカーを作るなどの趣味を語った。
 カズノさんとアイコさんは12月29日にも店に来て、洗い物までしてくれた。アイコさんは年明けに〈彼〉を連れて来る予定だ。新しい年は、カズノさんにもアイコさんも変化に向き合うことになるのだろう。
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 市役所職員忘年会の流れ保健衛生課御一行様だ。このところ馴染みになった顔もあるし、ちょっと久しぶりの顔もある。
 私自身の忘年会といえば「村上・生活と健康を守る会」と、その「班会」のものだった。前者は35名、後者は6名でのささやかな飲み会。「班会」では参加者の一人が飲み過ぎて救急車を要請する羽目になり、「ほどほどにね」と、会場の女性職員からお小言を頂戴することとなった。
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 左からユカリ、ワカコ、マナブ、スグルの4人(敬称略)。どんな関係かは聞かなかった。スグルさんは手相をみることができる。私の手相をみてスグルさんは「正直に言っていいですか?」と断ってから、いくつかの見立てをしたが、内容は忘れてしまった。手相については若いころから、感情が細やか、結婚は二度する、金運はないなどと言われてきた。〈しゃべること〉〈書くこと〉に関わるのがいいとの診断は、20数年前、西東京の夜の辻占からもたらされたものだった。
 スグルさんにはもう一度見てもらいたいと思う。「正直に言っていいですか」と前置きをするくらいだから、いい手相ではないことは確かだが・・・・・。
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 ギターを持つワカコさん。練習したことのあるギターの構え方だ。 楽器を手にする人の姿は素敵だ。

 このブログ、なんとか年内にアップと思っていたが、年を越してしまった。
 年末に孫の一人がやってきた。昨年の夏に20歳になった初孫だ。「いっしょに飲もう」とメールをよこしていたが、せいぜい梅酒を飲む程度だった。温泉で背中を流してくれて〈爺〉を感激させたが、新潟の叔母の所で体調を崩した。元旦から新潟で仕事の〈婆〉は、孫を心配しながら、大晦日の日が落ちてから車を走らせた。かくして年越しの夜を、私は一人で過ごすことになった。これまでの人生で初めてのことだ。そんな夜、北海道の和田さんから「飲んだくれております」のメールが入った。「私も同様です」の返信をしているうちにコタツで寝込んでしまった。飲んだくれていても、和田さんは横須賀で家族といっしょだったのだろう。

孫は、年明けそうそうの大学での試験のために、どうにか東京行きの新幹線に乗った。
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 戦後70年の節目だった昨年は、それに関わる世相の動きがあった。若い世代が自分たちの言葉でアピールする状況に時代の変化を感じた。私自身もいくつかのムーブメントに関与しながら思うことの多い1年だった。

 作家の野坂昭如が死んだ。青年時代の一時期、刺激を与えられた存在だった。彼についてはいづれ筆を改めたい。
 女優の原節子も訃報が伝えられた。1920年(大正9)生まれで、最後の映画出演が1962年(昭和37)の東宝「忠臣蔵」の大石内蔵助の妻りく役だった。リアルタイムで彼女の映画を見たことはないが、「東京物語」などの小津安二郎作品で知る存在だった。彼女についてもいつかこのブログで触れて見たいと思う。

 親しい友人の妻が倒れた。市会議員をしている妻は本会議の数日前に自宅で倒れ救急搬送された。快方に向かっているが、友人はこの1ヶ月間、病院に泊まりこみで付き添っている。「重かった!」というのが妻を抱き起こした友人の感慨だったが、救急車が到着するまでの数分間、心臓マッサージを施し、口から口へ何度か息を吹き込んだという。他人事ではないことが、周囲に起こり始めている。

 冒頭に記したように、私の目はとてもクリアーに見えるようになった。そのことが気持ちを前向きにし、何か新しいことにチャレンジしようかとも思ってしまう。ホテル仕事のスキルアップにと始めた「家屋工事技師養成講座」は残り1回の課題提出で終了する。とても参考になる講座だった。
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 年明けは元旦からホテルの勤務だった。2日からは夭夭亭も営業を開始したが、今年は料理に力を入れてみようと思う。営業戦略などというものではない。このところ作り始めた「チキンバターマサラ」に手ごたえを感じて、料理への意欲が増したのだ。タマネギを使わない、手間のかかるカレーだが、手間をかけるだけの価値はある。昨年の夏、30年以上も使っていたコールド・テーブル(カウンター内の冷蔵庫)が壊れて新調したことも、料理への意欲の増大につながっている。
 ホームセンタ-の花コーナーで「レックスベゴニア」の鉢植えを買った。女性の店員と言葉を交わしていたら、手ぶらで立ち去り難くなったのだ。まるでNHKテレビのドラマ「ベランダー」の田口トモロヲだ。
 わが家には40年以上も生き続けている「木立ちベゴニア」がある。当時、養護学校で教員をしていた青年からもらった鉢植えだ。元々のものは根腐れを生じさせて、すでにないが、枝を挿し木したものが健在で、親木の性質そのままに、時期になればシャンデリアのような花を咲かせてくれる。

 元旦のテレビで映画『ライフ・オブ・パイ-トラと漂流した227日-』をみた。主人公が生まれ育ったのが、インド南東部のポンデシェリーという町という設定だった。ベンガル湾に面したその町を、私は2度訪れたことがある。旧フランス領だった町はバルコニーのある白い家並みが続き、波打ち際でサリーの裾を濡らして戯れる若い女たちがいても、そこがインドであることを忘れさせた。海岸沿いのカフェのテラスでベンガル湾の風に吹かれながらワイングラスを傾けたこともある。
 それはともかく、映画は第85回アカデミー賞で監督賞、視覚効果賞など4部門を受賞したものだが、後半で語られた「生きることは手放すことだ」との言葉は、正月の一人酒で弛緩した身心にしみ込んだ清冽な水だった。その水は今もしみ込み続けている。手放すことは、失うこととは違う。手放すことには自身の意志と選択がある。映画のような極限状態でなくてもだ。とはいっても現実は失われていくものを思い知らされる、選択の余地のない日々だ。
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 半年は帰らぬ漁に出航の汽笛ながなが妻子に放つ

 当地では著名な、元高校教師、阿部昌彦さん(83)の短歌が全国短歌大会で京都府教育委員会教育長賞を受賞した歌だ。
 阿倍さんは、平成18年に現代歌人協会主催の全国短歌大会で最高位の「大会賞」を受賞するなど、地元はもとより全国的にも知られた歌人だ。直接の面識はないが、ある会場での私の話を聞いたと、元同僚で歌人仲間の人から知らされて冷や汗をかいたことがある。新聞紙上で顔を知ったが、やはりどこかで会っているように感じた。
「今年(昨年)6月、東日本大震災後から再開の遠洋漁業に向かう被災地漁港の模様がテレビニュースで流れた。岸壁から手を振って見送る妻子らに、それぞれの漁船が長く汽笛を鳴らして応えるシーンに心を動かされたという」(地元紙『サンデ-いわふね』2015/12/20) 「人の営みと温もり」(同紙)に向けられたまなざしに胸が熱くなった。新聞紙上の顔写真も柔和で、その表情に心が和んだ。阿部さんに「ありがとう」を言いたい。もちろん受賞の「おめでとう」も。

 薺(なずな)打つ音が母呼ぶ亡き母を        林 翔

 薺は七草の一つナズナ。1月6日の晩にナズナなどの野草をまな板に載せ、包丁の背でたたき刻んで、神棚に供える。翌7日、それを下げて粥(かゆ)に入れて食べる。無病長寿を願って食べる七草粥(七種粥=ななくさがゆ)だ。(『きょうの一句-名句・秀句365日』村上 護著/新潮文庫)から。
 で、今日は1月7日。私は何を食べようかな。

土浦の今井さん、賀状ありがとうございました。30日夜、楽しみにお待ちしています。
 神戸の誠くん、北九州の博子ちゃん、堺の詳子ちゃん、今年、広島でね。

 文章が長い、と何人かから苦情(?)をもらい、「ダイアリー」と称しながら辛うじてマンスリーを保っているこのブログも丸6年を過ぎて7年目に入った。今年も鋭意、継続につとめたいと思っている。自分に向き合う貴重な作業でもあるのだ。目を通してくださった方々に感謝多謝である。
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# by yoyotei | 2016-01-07 05:39 | Comments(0)  

手をのべて天地玄黄硯冷ゆ

 プログラマーをしている会田さんが新潟市から一人でやってきた。来年2月に第一子が誕生するのだという。結婚7年。喜びをだれかに告げたかったに違いない。客の姿がない暇な週末。会田さんは軽く飲んで帰っていったが、お祝いに〈ちょっといい酒〉をおごればよかった。昨年は10月11日にやはり一人で来た会田さん。来年の春には3人で・・・・・・・。そのときはね。
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 歴史愛好家として執筆や講演に忙しい大滝友和さん(左)、最近も伊能忠敬についての講演の模様が地元の新聞で報じられていた。その彼が、娘の愛子さんと夫の武さんを伴ってきた。愛子さんは第二子を妊娠中だという。 
 第一子の誕生ニュースは隣家の本間桂先生の葬儀の日にもたらされた。2013年の大晦日だった。葬儀の後、共に弔辞を捧げた友和さんと私は、逝く人と生まれてきた新しい命に思いを馳せながら飲んだ。もっとも、友和さんは体調管理で酒を断っているので私が一人で飲んだのだが。

 数日前、本間桂先生の亡妻笑子さん宛の葉書が我が家に届いた。母校の創立120周年にあたっての同窓会名簿改訂に関する問い合わせだった。誤配にはちがいないが、本間家は無人だ。物故された旨を記した返信を投函しようかと思っていた矢先、長男からメールが入った。近日中に父の三回忌で帰るというものだった。
 
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 北海道の和田さんから電話。いつものように飲み屋からだった。村上にいるときにも、和田さんは酒を飲むとあちこちに電話をする人だった。彼のあのにぎやかさは<さびしさ>のうらがえしだったか。今さらながらの述懐である。秋は〈さびしさ〉に敏感になる。
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 かつて村上にいたことのある医師が久々の来店。愛飲するチンザノ・ロッソの相伴にあずかりながら近況を聞いた。なかでも、認知症状が顕著になった妻に、認知症の薬を飲むことを説得するのに一晩かかったとの話は胸を打った。内科医の妻は、当然その薬がどういう薬か知っている。自分の認知症を認めない妻は、断固としてその薬の服用を拒否するのだった。
 今、妻は施設に入所し、夫は単独での行動が可能になったが、それまではどこへ行くにも妻を伴った。夫が講師として話す時にも、私たちがブナの森でおこなったコンサートにも、夫がいる場所には必ず妻の姿もそこにあった。夭夭亭にも何度か、夫は笑顔の妻を連れて来た。だが、彼女にとって私はいつでも〈初対面の人〉だった。
 堂々たる体躯にして悠揚迫らぬ大人の風格。世界的な医学的業績もあるという彼とは、村上市内を流れる三面川源流域のブナ林が伐採されていた頃、伐採反対運動を立ち上げた私たちに共鳴して、新潟市から現地観察に参加されたのが最初の出会いだった。数年後、病院長として当地に迎えられてからは、周辺の医療環境や地域医療の現状などについてレクチャーをうけたりした。
「若いころにはずいぶん面倒をかけたからなあ」と、症状のすすむ妻に寄り添っていた彼。その彼が、「どうしました?」と声をかけるのがはばかられるほどに足元がおぼつかなくなっていた。歩きやすさを考慮したのであろう真新しい白のスニーカー・・・・・・・。
 帰りのタクシーに乗り込んだ彼の握った手を、私はしばらく離すことができなかった。

              秋の歌
                         ポ-ル・ヴェルレーヌ(堀口大學訳)

      秋風の
      ヴィオロンの
      節(ふし)ながき啜泣(すすりなき)
      もの憂き哀しみに
      わが魂を
      痛ましむ。
     
      時の鐘
      鳴りも出づれば
      せつなくも胸せまり
      思ひぞ出づる
      来(こ)し方に
      涙は湧く。

      落葉ならぬ
      身をば遣(や)る
      われも、
      かなたこなた
      吹きまくれ
      逆風(さかかぜ)よ。
 
 よく知られているヴェルレーヌ、20歳の時の詩である。
 彼の生涯には、酒・女・神・祈り・反逆・背徳・悔恨が混在したといわれる。ヴェルレーヌほどではないが、私にも似た部分がないわけではない。デカダンスを気取った若い日々もあった。しかし、私とヴェルレーヌとのいちばんの共通点は〈ハゲでヒゲで大酒飲み〉といったところだろう。ヴェルレーヌは51歳の若さで没しているが、私はといえば、いまだになまなましい悔恨の海を漂っている。秋は無骨な男をも<センチメンタル>にする。
 このほど、年譜によって訳者堀口大學の母政(明治4年生)が村上藩士江坂氏の長女と知った。 
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 宝田明講演実行委員会の解散飲み会。この夜、参加できなかった何人かの実行委員たちも、それぞれの得意分野で力を発揮した。だれかの苦手分野をだれかがカバーする。なかでも力強い女性たちのパワーにはあらためて敬服した。宝田さんの知名度に負うところが大きかったことはいうまでもないが、大成功といっていい講演会の成果に、「次は大江健三郎さんを呼びましょうか」と瀬賀実行委員長。宝田さんの人柄も含めて学ぶことの多かった<協同>の取り組みだった。
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 父(故本間桂先生)の三回忌に帰ってきた長男、次男、そして長男のパートナーともみさん。教え子の瀬賀さん、マリさんらとは夭夭亭でまずは顔を合わせた。居合わせた村上高校の卒業生つながりでもある佐藤さんも合流した。
 この夜、隣家「禅外窟(ぜんがいくつ)=本間家」にひさびさに灯りがともった。
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 職場のホテルの作業道具室で異彩を放っている紙コップだ。何度これを発音してみたことか。いまでは、ある種の感動を持って「これでもいいんんだ」と納得している。
 ずいぶん前になるが、八百屋の店先の手書き商品表示「人肉」を目にしてギョッとしたことがある。すぐに「ニンニク」(大蒜、葫)のことだと気づいたが、<人肉>はまずい。だが<ガビヨ>はいい。字面(じづら)だけではなんのことかわからないが耳で聞けばわかる。紙コップの中には「画鋲(がびょう)」が入っている。
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「大滝舞踊研究所」の発表会で、昨年と同じく聖ペテロを演じた。「天国の門番」という設定だ。
 新約聖書マタイ伝第26章に「イエス<彼>に言ひけるは、汝の剣を元に収めよ。凡(すべ)て剣をとる者は剣にて亡ぶべし」とあり、この<彼>がペテロであるとの指摘を、ボオドレール『悪の華』(鈴木信太郎訳/岩波文庫)に収められた詩「聖ペテロの否認」の注釈に見つけた。
 いまテロの世界的拡大が懸念されている。空爆によって<叩き潰す>ことしかできないのか。彼らの<なにが>、テロ行為に追い込むのか。心して受け止めなければならない、ペテロに発せられたイエスの言葉だ。
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 今井さん、お便りありがとうございました。奥さんのこと、取り越し苦労に終わったようで本当によかったですね。「新百名山」の全山登頂も目前、あらためて意欲が増したことだと推測します。
 9月末から急速に視力が悪化した私の眼。一時回復したようでしたが、またすぐに見えづらくなり、その状態が2ヶ月近く続きました。ところが、1週間前に「あれ?」と感じた瞬間、通常に戻っていました。どういうことかさっぱり分かりません。見えにくかった期間、あれこれと悲観的なことばかり考えていました。「読むこと」が難しくなる恐怖。車の運転ができなくなる生活の変化への対策など。今週は眼科で右目の経過観察の診察があります。今回の左目の変化についても診断を仰ごうと思っています。
 一喜一憂の日々。私たちの旅は、時に暗礁に乗り上げることもあります。走り書きのメモの<最高のものは常に今より先にある>との文言に励まされたりしています。秋は<センチメンタル>などとカッコつけているうちにもう師走。少し早いかもしれませんが、よい年をお迎えになりますように。
 
 本の取次ぎなど、長く付き合いのあった書店が廃業してから3年もたっただろうか。その後は、別の老舗の書店に月刊誌などを取り寄せてもらっている。先日、本を受け取りに行くと、90歳は越えただろうとおぼしき女性が対応してくれた。紙袋に本を納める震える手元に「いいですよ、そのままで」と私が声をかけると、「大切なご本が汚れてはいけませんから」と手を止めない。ほどなく孫娘か孫のお嫁さんのような女性が足早にやってきて業務を引き継いだ。「どうも」と本を受け取って帰ろうとした私に、老女がゆっくりと実に上品な口調で言った。
「お偉いですね。勉強をなすって」
 書店を出た私は、ちょっと涙ぐんだ。

 ここのところ、立て続けに知人の訃報を聞いた。疾風のように生きて50歳そこそこで病に倒れた人。「あの人、子どものころから苦労したんだよね」と悼まれた人。「死にたい死にたい」と訴えながら、ついに自ら割腹して果てた人・・・・・・・。

  ある夜のこと、葡萄酒の魂が 壜の中で唄を歌った。
  人間よ、おお 親愛な廃嫡の息子よ、俺は
  ガラスの牢屋と朱の封蝋の底から 君に
  光明と友愛とに溢れた唄を 歌ってあげよう。

 ボオドレールの『悪の華』にある「葡萄酒の魂」という詩の第1節である。
 詩は「労働に疲れ果てた人間の喉を通って流れる時、俺は無限の喜びを身に感じる」「日曜の浮かれ小唄の繰返句(ルフラン)や俺の動悸を打ってる心の中で囀(さえづ)る希望が聞こえるか。食卓に両肘を突き 両袖を高々と捲り上げて、君は俺を誉め称え、そうして満足するだろう」などと続き、「この人生の弱々しい競技者のため、俺は闘士の筋肉を強力にする膏油となろう」と葡萄酒に言わしめている。そして、「植物性の神の御餞(みけ)」である俺(葡萄酒)は「君の胎内に落ちて」、「俺たち二人の愛情から、稀有な一輪の花として神に向かって飛び立ってゆく」と結ぶ。(鈴木信太郎訳)
 確かに、私たちの多くは「人生の弱々しい競技者」だ。しかし、いい相手といい酒を飲むと、魂は飛翔する。そうか、酒が「光明と友愛に溢れた唄」を歌ってくれていたのか。
 ボオドレールは、<脳軟化症>によって手足が利かなくなり、半身付随、言語機能障害のはてに母の手に抱かれて死んだ。1867年、48歳だった。
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 手をのべて天地玄黄硯冷ゆ      宇佐美魚目

《「天地玄黄」は『千字文』の冒頭の句。「宇宙洪荒」とつづく。習字の手本にするから、結句の「硯(すずり)冷ゆ」がとける》『句歌歳時記-秋-』(山本健吉/新潮社 昭和61年)
 故旧同人誌「玄黄」(第5号2006年4月/武蔵野書房)は山形に住む雨海修さんから贈られた一冊。「やまびこ学校」の第一期卒業生の雨海さんとはブナ林の保存運動を通じて知り合った。酒もよく飲んだ。教えられたことは山ほどある。贈られた本も多々ある。森について語ってもらったこともある。森には<精霊>が住むことを信じる人であり、森を語るときには祈りを捧げるのが常だった。彼を知るものは<仙人>と、彼を称している。

 宝田明講演会を通じて二人の書家に出会った。一人はポスターの題字「わが青春の戦争と平和」を書いた久美さん。もう一人は講演会場のステージに掲げる同じ題字を書いた正吾さんだ。いずれも練達の墨蹟に、ため息しきりだった。二人の硯も冷えているか。秋は深まり尽きて雪の便りも届いた。
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# by yoyotei | 2015-11-30 23:53 | Comments(0)