形見のトランク

23年前のことです。
 行きつけの喫茶店の2階で絵の個展が開かれていました。覗いてみると、会場には油絵、水彩など数10点が並べてありましたが、人影はなく、口ひげをたくわえた男性が所在なげに座っていました。彼が絵を描いた本人だということはすぐにわかりました。
 絵はスペインをテーマにしたものが多く、フラメンコダンサーを描いたものが目に付きました。手馴れたタッチは画歴の長さをうかがわせるものでした。絵には価格が表示してありましたが、衝動的に買えるような金額ではありません。しかし、一枚の絵とその価格に、これならと思えるものがありました。荒いタッチの画紙に、迷いのない筆使いで描かれたフラメンコダンサーの水彩画でした。
「今、全額の所持金はありませんが、明日の支払いでもかまいませんか?」
 僕は、ヒゲの男性に声をかけました。
「もちろんかまいません。市内の方ですか?」
「ええ」と答えて手付金を払い、出された紙に住所と名前を書き入れました。
「いかがですか?」
 彼は長机の下からワインとグラスを取り出しました。ワインは半分ほど空いていて、それは彼が客待ちをしながら飲んでいるようでした。部屋の隅から彼が持ってきた椅子に腰を下ろしてワインをいただくことになりました。たちまちワインは空になりました。
 彼は「1分だけ留守番を・・・」と言い残すと、階下の隣にある酒屋から新しくワインを買ってきました。
 彼はこの町に大学時代の同期生がいること、その縁で個展を開いたこと、長くスペインに滞在していたことなどを語りました。同期生というのは僕も知っている中学校の音楽教師でした。昼間から飲むワインは話を盛り上げました。
 その夜、彼は僕の店に来てくれました。一人の女性が彼に寄り添っていました。
 助手をしてもらっていると紹介されましたが、それ以上に親密な関係であることがうかがい知れました。目鼻立ちのはっきりとした女性の顔は、僕が買ったフラメンコダンサーの顔に酷似していたのです。

 数ヵ月後、画家の同期生である音楽教師が、ある話を持ってきました。
 近日、キューバのバンドがソ連経由で新潟に入港する、バンドは日本とキューバの友好団体の招きによるものだが、日本国内での演奏ツアーの初日をこの町で開催したい、協力してもらえないかというものでした。そして、この話はあの画家からの依頼だということでした。

 「ロス・ノベルス・キューバ」の演奏会は、市内小学校の体育館でおこなわれました。キューバのバンドというめずらしさもあって演奏会は成功裏に終わりました。打ち上げは僕の店で、バンドのメンバーが持参したキューバ産のラム「ハバナクラブ」と、ミニ演奏会で盛り上がりました。画家と助手の女性も一緒でした。

 時はそれから5年も流れたでしょうか。ある冬の夜、一人の女性が僕の店を訪れました。画家と一緒にいたあの助手でした。
 女性は店の壁にかけてあるフラメンコダンサーの絵を凝視していました。そして、ぽつりと言いました。
「彼、亡くなったんです・・・」

 翌朝、僕は所用で電車に乗りました。驚いたことに昨夜の女性も同じ電車に乗り合わせました。ごく自然に向かい合わせに座って、彼女の話を聞くことになりました。
 画家には妻もいたが、不仲で別居状態が長く続いていたこと。癌を患った彼を、臨終まで世話をしたのは自分だったこと。そして、今は彼が描いた絵を観て回る旅を続けていることなどを、問わず語りに話しました。
「私は彼の絵を一枚も持っていないんです」
 彼女の話は、画家の死後の始末にからんで、不仲であっても正式な離婚をしていなかった妻よりも、自分の立場の弱さを打ちあけるものでした。
 彼女の足元には、ライトブラウンのトランクがありました。使い古されたトランクは、女性が持ち歩くには不似合いな無骨なものでした。それは画家が若い頃、スペインで手に入れて、死ぬまで愛用していたものだと彼女は話しました。
「結局、彼が私に残してくれたのはこのトランクだけなんです」
 その言葉を最後に聞いて、僕は目的地の駅で電車を降りました。彼女は数点の絵が残っているという、画家の生まれ故郷の町まで電車に乗り続けるということでした。

 フラメンコダンサーの絵は、今も僕の店の壁で、眉間にしわを寄せて鋭いまなざしを向けています。


 
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by yoyotei | 2010-04-24 12:24  

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