水底の歌

 83歳で現役のライフセーバーという、当地では著名な人の講演を聴きました。
 水没死した遺体を引き上げた経験を語るなかで、夜中に霊が訪れた際に唱える歌があるといいます。「人麻呂やまこと明石の浦ならば我にも告げよ人麻呂の塚」というのがそれです。すぐに『水底の歌-柿本人麿論-』(梅原猛・著 1973 新潮社)を想起しました。

『水底の歌』は副題にもあるように、それまで通説であった柿本人麿(人麻呂)の生涯に異論をとなえるもので、当時大きな話題になりました。でも、僕が夢中になってその著書を読んだのには特別の理由がありました。
 万葉集中第一級の叙情歌人といわれる柿本人麿は、持統・文武両朝に使えた宮廷詩人とも吟遊詩人ともいわれ、後世山部赤人と共に歌聖と呼ばれました。氏姓・生没共に不明。藤原京の末期に下級官吏として石見で没したと推察されるというのが通説でした。『水底の歌』はその通説の根拠を明らかにした上で、人麿の生涯の根本的な見直しをおこなうというものでした。特別の理由とは、人麿の終焉の地の考察が、僕が生まれ育った周辺で展開されていたことでした。読み進むうちに、おぼろげな記憶と万葉の時代が交錯しました。
 人麿の死の場所は、古来から石見国の高津川(現在の島根県益田市)の川口にあった鴨島(かもしま)であったとされていました。人麿の死後、その地に神社が建てられましたが、後に大津波によって水没しました。しかし、人麿を厚くうやまった津和野藩は再び神社が津波に襲われるのを恐れて現在の高津城跡に移したといわれます。僕はその柿本神社を訪れたことがあります。長い石段を登ったことぐらいしか覚えていませんが・・・。
 江戸時代の末まではこの伝承が生きていましたが、浜田藩の儒者・藤井宗雄が疑問をとなえました。人麿が国府の役人として石見国に来たのなら、国府から遠く離れた高津の地、しかもその沖合いの鴨島に葬られたのはおかしいという疑問です。藤井宗雄は、当時の石見の国府が浜田市国府町にあったらしく、国府からあまり遠くには動かないとして、浜田にある亀山にその地を想定しました。
 僕は浜田市に生まれて小学校6年生までを過ごしました。国府へは遠足で行き、そこにある国分寺を見学したこともあります。亀山には後に城が築かれ、その城跡には何度か足を運びました。もちろん、当時人麿との関連など知る由もありません。

 昭和12年(1937)、歌人・斎藤茂吉は島根県の江ノ川(ごうのがわ)上流の湯抱(ゆがかえ)にある鴨山を人麿の終焉地と推定します。万葉集の人麿の死に関する歌の独自の解釈にもとづくものです。僕は中学・高校時代は江ノ川上流域でおくりました。湯抱は小さな温泉地で、高校の同窓生に温泉旅館の娘もいました。しかし、こうしたことも『水底の歌』を読むまではまったく知りませんでした。この地には「人麿がつひのいのち乎終はりたる鴨山をしも此処と定めむ」という歌碑が立っているらしいのですが、これも見てはいません。湯抱には人麿に関する伝説も、人麿をまつる神社もありません。
『水底の歌』を読みながら、中学や高校で人麿に関しての、このようないきさつを教えてくれていたら、古代史や万葉集などへの興味も湧いただろうにと悔しく思ったものです。 

『水底の歌』で梅原猛氏は、人麿の流罪水死刑説を主張しています。江戸時代の国学者、契沖・賀茂真淵によって形成された人麿に関する常識をくつがえし、湯抱を終焉の地とした斎藤茂吉の「鴨山考」も厳しく批判しています。そして、古来からの万寿3年(1026)津波で水没した高津鴨島説を支持し、人麿は和銅元年頃、石見国に流され、高津の沖合いで殺されて鴨島に葬られたという仮説を立てました。1977年にはその仮説の証明のため10日間にわたって海底調査をおこないました。短期間の調査で決定的な成果は得られなかったそうですが、単に机上の学問に終始することなく、真摯で幅広い真理探究の学問への姿勢は、日本における水中考古学の第一歩とされています。<参考『万葉を考える-梅原猛著作集13』集英社 1982>
『水底の歌』を僕に勧めたのは、当時、国文学を専門にしていた高校教師で、僕が島根県生まれであることを知っていたからでした。万葉集についての造詣もその人から教わりました。ドライブ旅行を趣味にしていたその人は、江ノ川沿いの僕の出身高校をたずねて来たと、僕を驚かせたこともありました。すでに鬼籍に入って10年になります。

 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れゆく舟をしぞ思ふ

 人麿の代表作とされる(異説もある)この歌は、流人の歌とされています。明石(兵庫県)には柿本神社があって、初めは水難の神として人麿がまつられました。後に「ひ(火)・とまる(止まる)」の連想から火難の、「ひと・うまる(人・産まる)」の連想から安産の神とされました。
「ほのぼのと」の歌は中世にさまざまな神秘的解釈がおこなわれたようで、明石すなわち明るいところから、島隠れ、すなわち暗いところへと、死霊の乗り物である舟が移行するのを歌っているとの解釈があります。「南無阿弥陀仏」や、「南無妙法蓮華経」のように唱えるだけで、霊験あらたかであるという信仰があったのです。
 冒頭の「人麻呂やまこと明石の浦ならば」の歌も、誰の歌かはわかりませんが、霊に穏やかな成仏を願う呪文として唱えることがおこなわれているようです。

 83歳のライフセーバーは、この夏も、瀬波温泉海岸の海水浴場で、水難事故防止に取り組まれるでしょう。赤銅色に焼けたみごとな身体の彼は、僕には「生きている人麿さん」のように思われます。

 
  
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by yoyotei | 2010-05-08 08:39  

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