路上のカフェ

  ホーチミン(ベトナム)を訪れたのは何年前だろうか。同行者は二人で、一人は私との海外の旅が三度目になる長年の友人。もう一人は産婦人科の女医。彼女は学生時代にインドへ行ったことがあるという、私とはインドつながり。彼女はベトナムは二度目となった。
 宿泊した宿は「サイゴン・ホテル」。一部屋に三人で泊まるという、私が主導の相変わらずの貧乏旅行だ。
 一日中、歩き回った後、ホテルの部屋で酒盛りとなった。長年の友人は私と同世代だけに、やはりベトナム戦争が話題になる。戦争終結から30年も経つと、市内を漫然と歩き回るだけでは戦争の痕跡は見えない。ただ、宿泊しているホテル名の「サイゴン」が歴史の証言者のように思えるだけだ。
 部屋の窓から見下ろすと、ホテル前のドン・ユイ通りは夜も更けて人影もまばらになった。だが、道路脇のわずかな明かりの下に小さな人のかたまりができていた。それは深夜過ぎまで続き、なにやら話し声のようなざわめきが聞こえていた。
 翌朝、眠り込んでいる二人を残して外に出た。どこへ行っても私は早朝の街の顔が好きだ。昼間の喧騒が始動する前の、空気をかき乱していない静寂が好きなのだ。
 通りにはまだほとんど人影はなかったが、昨夜、人のかたまりがあった場所では一人の中年女性が屋台店の準備を始めていた。立ち止まって眺めていると、「コーヒーでも・・・」と声をかけられた。「今お金は持ってないんだ。あの部屋に泊まってるんだが、後でもいいかな」
 私は向かいのホテルの部屋を指さした。
「いいですよ」と彼女はイスを置いてくれた。風呂場で使うような小さなプラスチックの腰掛だ。コンデンス・ミルクの入った甘いアイスコーヒーを飲みながら、昨夜のことをたずねてみる。夜になるとその場所は路上のカフェになるのだという。

 その夜、同行者二人を誘ってそのカフェに出向いた。氷の入ったグラスに缶ビールを注いで飲むというのがベトナムの流儀であるらしい。
 しばらく飲んでいると、三人のグループがやってきて、自然と一緒に飲むことになった。薄明かりで顔は判然としないが、グループは日本人の女性二人に、ベトナム人の若い男性だ。女性の一人は長い髪をソバージュにしている。彼女がグループの中心人物、写真家の外山ひとみだった。とはいっても、そのときには彼女のことはまったく知らなかった。知ったのは帰国してしばらくたってからだ。もう一人の若い女性は彼女の助手、ベトナム人男性は日本とベトナムの友好団体の職員だという。日本語が堪能だった。
 外山ひとみは私たちと同じホテルに泊まっていた。ホーチミンでは「サイゴン・ホテル」を定宿にしているという。ホテルの真ん前という気楽さもあって飲みながらの語り合いは深夜過ぎまで続いた。
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 1975年の解放以前はホーチミンはサイゴンといった。
 19世紀後半、フランスは清仏戦争でベトナムの宗主国であった中国を撃破して、仏領インドシナ連邦を形成した。ベトナムにカンボジアとラオスの一部を加えた地域だ。フランスがベトナムの文化や伝統を奪い圧政を敷くなかで、それに対抗する農民や労働者が活発な民族運動に立ち上がる。その中心人物がホー・チ・ミンであった。彼は1930年ベトナム共産党を結成して独立運動を展開する。
 1939年、第2次世界大戦勃発。翌年フランスがドイツに降伏したため、ドイツと同盟関係にあった日本は仏領インドシナに進駐して軍事管理下に置いた。私の父は召集されてこの地を踏んでいる。
 1945年8月、日本がポツダム宣言を受諾すると、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言したが、旧支配国フランスはそれを認めなかった。8年間におよぶ第一次インドシナ戦争、フランスによる強硬な南北分割。南の国家であるベトナム共和国はアメリカを後ろ盾にファシズム的な支配体制を強める。これに対して、弾圧された農民や仏教徒らは対抗姿勢を打ち出し、1960年に南ベトナム解放民族戦線を誕生させる。ベトナム戦争の始まりだった。
 世界が冷戦の真っ只中にあった当時、アメリカは有名な「ドミノ理論」(南ベトナムを東南アジアの共産化阻止の砦とする)を展開してベトナム介入を正当化した。ケネディ暗殺の後を引き継いだジョンソン・アメリカ大統領は、1964年8月に「トンキン湾事件」をでっち上げて、ベトナム戦争に全面的に介入する。
 1968年、解放戦線はサイゴンをはじめてとするゲリラ戦を仕掛けて徹底抗戦に打って出る。

 その頃、私は静岡県の熱海市にいた。箱根のホテル勤務をやめて、小さな飲食店で働き始めたのだ。店は毎夜、ベトナムからのアメリカ軍の帰休兵で賑わった。横須賀に入港した若い兵士たちが、死の恐怖からの束の間の解放を酒と女で紛らわせていた。兵士たちの飲み方は乱暴だったが、年上の女たちはそれ以上に乱暴に兵士たちの持ち金を吐き出させていた。
 ベトナムにおける残虐な無差別攻撃は日本でも報じられていた。民間人の大量虐殺、生きたまま眼をえぐる拷問、吊るしぜめ。乳房を抉り取り腹を切り裂いて内臓を取り出された女性の写真も私は見ていた。それらの写真は、1964年(昭和42)1月25日発行の『歴史の告発書』(ベトナムにおけるアメリカの戦争犯罪調査日本委員会・編 労働旬報社発行)などに掲載されていたのだ。
 しかし、店に来る私と同年代の若いアメリカ兵と、戦場での残虐行為は結びつかなかった。休暇が終わると彼らは再度ベトナムへ向かう。「怖い・・・」と顔をゆがめて涙を浮かべた一人の兵士に、私は神社のお守りを持たせたこともあった。

 その後、世界的な批判の高まりのなかで、アメリカはベトナムからの撤退に向かう。そして、アメリカの後ろ盾をなくしたベトナム共和国は無力になり、1975年4月サイゴンが陥落。ベトナム戦争は終結した。
 翌1976年ベトナム社会主義共和国が成立すると、南ベトナムの首都だったサイゴンがホー・チ・ミンに因んでホーチミン市と改称された。

 路上のカフェで、外山ひとみはバイクのスーパーカブでベトナムを縦断したことを語った。別れ際には東京・新宿で開催する写真展での再会を約束した。それは果たせなかったが、ある時、週刊誌のグラビアで彼女の写真を見た。刑務所を取材したものだった。

 先月、新聞に外山ひとみの新著「ニッポンの刑務所」(講談社現代新書)の紹介記事が載った。10年以上にわたって、国内各地の刑務所・少年院を訪れ、職員や受刑者ら現場の声と姿をまとめた一冊とある。「起床から就寝まで可能な限り取材した。私ほどしつこく取材する人はそうはいない。ディープなんです」と、外山ひとみは記者にこたえている。(新潟日報/2010年5月14日付)

「サイゴン、深夜の路上カフェでビールを飲んでいた」。外山ひとみの著書『ヴェトナム台風』を紹介するネットのページに、そんなフレーズがあった。「同じ空気を吸って、同じ目線からヴェトナムの人たちと出会いたい!それには庶民の足であるバイクが一番。カブに乗って南から北まで行こう。バイクでヴェトナムを縦断しよう」とも。
 深夜の路上カフェは、まさに私たちが出会って飲んだ「サイゴン・ホテル」前の路上に違いない。彼女がバイクの旅を終えた一年後の頃だ。

 今、外山ひとみは「刑務所の写真展」を全国各地で開催している。
 精力的な活動している彼女に、「シン・ナン・コック!(乾杯)」
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by yoyotei | 2010-06-09 19:42  

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