突然の電話から


 突然かかってきた一本の電話。
「マサトモだが・・・」
「・・・マアトモちゃん?」
「おお、そうだよ。シンちゃん、あんたのことを50年も探したよ」

 私は山陰の港町で生まれた。物心ついたころには、すでに遊び相手はいつもマアトモちゃんだった。ずいぶん年上だと思っていたが、今回の電話で一歳上でしかなかったこともわかった。
 マアトモちゃんの家は漁師だった。2軒ほど隔てた隣の彼の家には、いかにも海で鍛えたような祖父がいたが、マアトモちゃんの父の記憶はない。三叉路の角にあった私の家の前は、いつも子どもたちの遊び場になっていた。釘刺し、ビー玉は男の子、ゴム飛びは女の子。紙芝居に近所の子どもたちが集まるのも私の家の前だった。
 私の家の東側には路地を隔てて白壁の高い塀をめぐらした大きい屋敷があった。白い口ひげをピンと尖らし、和服を着流した人がその家の主人で、「軍人さん」だということだった。見かけることはまれだったが、「おぞい(恐い)おっさん」ということになっていた。塀の上からは棕櫚の木がいつも緑を広げていたし、秋には石榴の割れた実がなった。
 西側は寺へ続いていた。寺の坂も墓地も子どもたちの遊び場だったが、墓地を抜けた小高い丘はスピードを体験する格好の場所だった。尻の下に敷いたのは何だったのか、丘の斜面の草の上を滑り降りるのである。滑り降りた下は山陰本線の線路だった。線路を下りに少し行くとトンネルがある。暗いトンネルを抜けるのは少年たちのひとつの肝試しだった。トンネルの中で汽車が来たらどうするか、ドキドキしながらその対策を話しあった。汽車の通過時間の観念はなかった。汽車はいつ来るのかわからなかった。もっともらしく線路に耳を当てて「まだ来ん!」と駆け出すのだった。遠い先に小さく白く開いた出口を目指して枕木の上を走る。少年の狭い足幅は枕木の間隔と合わない。平たい枕木は薄いゴムぞうりの底にやさしいが、尖った割り石は足裏をいじめる。それでも汽車に追われるかのように少年たちは走った。恐怖心を吹き飛ばすかのように「オオ~ッ」と叫ぶ。それはトンネルの中で大きく反響して、しばしトンネルの勝利者にしてくれる。
 トンネルを抜けると、そこは普段遊びなれているところとは風景が違っていた。わずかばかりの冒険者の征服感と、異国へ乗り込んだ異邦人の不安。私たちはすぐさま引き返すのが常だった。
 そうした遊びの場面にいつもマアトモちゃんがいた。

 父はすでに他界し、母は朝早くから夜遅くまで働きに出ていた。11歳上の兄は社会に出ていたし、姉は7歳上で一緒に遊んだ記憶はほとんどない。祖母が家を守っていたが、口うるささに反抗ばかりしていた。「お前はお父ちゃんがおらんのだけえの。よその子とはちがう」というのが祖母の口癖だった。
 そんな私がはじめて口にした呼び名が「マアトモちゃん」だった、ような気がする。幼児期から少年期、いつも口をついて出てくるのは「マアトモちゃん」だった。
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 家の前の広場の向こうには広い道路があって、道路を渡ってまっすぐ行くと海に出た。海も少年たちには日常の遊び場だった。防波堤に囲まれた船着場には数隻の漁船が停泊していた。漁師だったマアトモちゃんの家には伝馬船があった。家の許可があったのかどうか、マアトモちゃんと私は伝馬船の舫(もやい)を解いて櫓(ろ)を漕いだ。櫓漕ぎの師匠はマアトモちゃんだった。初めは防波堤の中を回るだけだったが、私たちはいつの頃からか防波堤の外、「大人の海」へ漕ぎ出すことを夢見ていた。

 マアトモちゃんからの突然の電話は、いきなり私を50年前に引き戻した。
 小学校の6年生の夏、私は母と弟の3人で、生まれた海辺の町を離れた。マアトモちゃんが学校から帰って来たときに、私はもういなかった。別れの言葉を交わすことはなかった。
「生きている間に会いたい」
 マアトモちゃんは言った。顔はどうしても思い出せないが、その声は張りがあって図太くて、いつも私の兄貴分だった少年時代のマアトモちゃんの面影につながるものだった。
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by yoyotei | 2010-06-14 11:09  

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