長崎、そして・・・

 高校の卒業を数日後に控えた早春、仲のいい4人は卒業記念旅行と洒落込んだ。44年も前のことだ。行先は漠然と北九州一周とした。九州横断道路が開通して間もない頃だったと記憶する。旅の足はなんと乗用車であった。その「三菱ミニカ」の軽乗用車を、運転免許を持っていたIが所有していたのか、誰かに借りてきたのかは定かではない。それにしても、この時代に地方の高校生が車の免許を持っていたことの方が異例だ。しかし、それだけではない。Iは時おりオート三輪車トラックで通学していた。もちろん学校には内緒であったが、「車での通学は禁ずる」というような生徒規則はない。禁ずるまでもなく、そういう生徒がいるなどとは学校も想像していなかったはずだ。
 三輪トラックは彼の商売用であった。
 中国山地の広島との県境近くに生まれたIとは高校に入学して知り合った。叔父の家に下宿して汽車で通学していた彼と、同じ列車に乗る私とはすぐに親しい友人になった。彼の口癖は「10代で家を建てる」というものだった。彼の家の事情は知らなかったが、小学校のときに学級費を払うために学校へ米を持っていったことがあると聞いたことがある。昭和30年代の山間部ではそうしたこともあったのだろう。学校側が米を受け取ったのかどうか。それにしても「10代で家を・・・」という目標は、私には驚きだった。
 
 3年生になると彼はすでにして商売人だった。当時、徐々に普及し始めたテレビや冷蔵庫などの販売を始めたのだ。高校生が店舗を構えて本業にするわけではないから、注文を受けてから仕入れに行くという、無駄のない商売だった。分厚く膨らんだ通学カバンには電化製品のパンフレットや発注伝票などの商売用品が詰め込まれていて、教科書などはそのなかに埋もれていた。学業はそっちのけであった。
 仕入れに付き合わされたことも何回かあった。放課後、彼の運転する三輪トラックで広島県の問屋まで行き、商品を積み込むとトンボ返りで、真夜中の山道を帰ってくる。ハンドルをさばく彼の横で、「なんて大人なんだ・・・」と思わないわけにはいかなかった。
 ときには、彼の大盤振る舞いにあずかることもあった。高校のある町に1軒だけあった焼肉屋でビールを飲み焼肉をむさぼったときには、襖障子で目隠しされた小座敷から出るに出られなくなったこともある。カウンター席に高校の教師たちが陣取ってしまったからだ。
 成績不良で卒業が危うくなり、彼の父は酒を持参して担任に泣きついたという。彼の卒業が決まってから、私たちは旅に出たのだった。

 旅立ちの前にクラスの女子生徒たちにお願いをした。長崎の原爆病院に立ち寄るから千羽鶴を折ってほしいというものだった。日ごろの私たちを知る女子生徒たちは目を丸くしたが、千羽鶴はすぐにできあがった。間じかに迫った卒業を前に、私たちには殊勝な気持ちが少しばかり湧いてきていた。

 岬を大きく回ると、突然、長崎の町の灯が見えた。宵闇に町の灯は丘に向かって広がっていた。賑わう夜の長崎をめぐりながら車の置き場所を探した。その夜の寝場所でもある。格好の広場が見つかったのは深夜になってからだった。小さな車内で坐ったまま眠るのが、この旅のいつもの夜の過ごし方だった。
 翌朝、光の中に見上げるような像があった。みんなが声を上げた。台座に坐った巨大な像は、右手を高く天に掲げ、そのひとさし指は天を貫くように屹立している。左手はなだめるように諭すように水平に伸ばしている。平和祈念像だった。車を止めた広場は平和公園だったのだ。私たちは千羽鶴を持って祈念像と共に写真を撮った。その後、原爆病院に行ったが、病院の玄関を入ることにはためらいがあった。素直に善意をあらわすことに照れくささがあった。私たちは、たまたま通りかかった白衣の女性に、黙ったまま千羽鶴を押し付けるようにして、その場を逃げるように立ち去った。千羽鶴に下げた白いテープには、「早く良くなってください。島根県立○○高校卒業生一同」と書いた。
 旅は何日間だったのか。別府、雲仙、阿蘇、新緑にはまだ遠い枯れ色の中の九州横断道をひた走り、大村湾をカーフェリーにも乗って渡った。当然ながら、Iがひとりで運転を続けた。

 その時から2年にもならない頃、Iの訃報を受け取った。私は大阪の学校を中途で止めて上京し、不安定な生活を続けている頃だった。わずかな金を握り締めて彼の郷里へ向かった。何本も列車を乗り換え、最後の駅からはバスに乗って彼の郷里に着いた。葬儀が終わって数日が経っていた。Iの父親は山路をたどって、私を林に導いた。わずかな空き地に、真新しい土が小さく盛られてあった。父親は枯れ枝を拾うと、その土の上に線を描きながらつぶやいた。
「ここに頭が・・・」。つぶやきは、すぐに涙声になった。彼の郷里では当時まだ土葬だった。
 その夜、彼の遺影が置かれてあるという親戚の家に泊まることになった。帰りのバスはなかった。酒を振舞われながら突然の死の様子を聞いた。就寝中の心臓発作だったという。少し酔って仏壇の写真に向かったとき、私は泣き崩れた。

 わずか20歳で夭折したIの「10代で家を・・・」の夢は実現半ばだったようだ。クラスメイトを笑わせてばかりいて、楽天的に見えた彼だったが、人にも私にも言えない何かがあったのではなかったか。彼は母の話をしなかった。彼の遺影が掲げてあったのは彼の実家ではなかった。彼には家がなかったのか。彼はちょっとした苛立ちや怒りをぶちまけるとき、決まって口にする言葉があった。それは「家に火をつけてやる!」だった。

 弔問の翌朝、親戚の人に、私は一枚の紙幣を差し出した。
「これ、Iの香典に・・・」
 そして、泣きたいような恥ずかしさで続けた。
「でも、半分だけ返してください。それがないと帰れません」
  
 今日8月9日は長崎に原爆が投下された日だ。祈念式典を伝えるテレビには、あの「平和祈念像」が映し出されていた。あの像の前で眠り、あの像の台座によじ登り、友人たちと写真を撮った。そうしたさまざまなことが思い出された。思い出の中心にIがいる。
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by yoyotei | 2010-08-09 22:10  

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