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 新年から弔辞です

 昨年末、故郷の友が逝去し、別れの言葉をブログにアップした。その「追悼/高原君」の末尾を、「今年も残りは1週間ほどに、だがドラマが起こるには十分過ぎる時間だ」と結んだ。予言したわけではないが、しかしこれもドラマだろうか。隣家の本間桂さんが亡くなったのだ。このブログでも本間翁として、何度か登場していただいた。12月27日逝去 享年89歳だった。
 葬儀は大晦日に行なわれ、弔辞を捧げることとなった。以下はその原文だ。

『人生において遭遇する大きな幸運のひとつは、すばらしい人との出会いだと、私は信じて疑いません。

 ある夜、ある若者が私の営む店で酒を飲んでいました。若者の酒は暴飲といっていいほどの、いささか乱暴な飲み方でした。会計をすると、「ちょっと待ってください」と、カウンターの電話を取りました。しばらくして、中年の男性が姿を見せました。男性は「私の教え子が大変なご迷惑をおかけしました」と、深々と頭を下げられました。その男性が本間桂先生であり、支払いに窮して助けを求めた若者が、後に医師となって、先生の病状に寄り添い続けられた瀬賀弘行さんでした。
 教師と教え子のこのような関係を、爾来40年、今この瞬間まで、言葉を失うほどの驚きをもって見つめています。

 私にとって、もうひとつの幸運は、その数年後、偶然にも本間桂先生のお隣に住まいを得たことでした。
「ご縁ですね。お隣同士になれましたのも」と先生から声をかけていただき、お名前どおりに笑顔の絶えない奥様の笑子さんの佐渡言葉と、気取りのない温かさに迎えられて、私の新しい住まいでの生活が始まりました。
 以来、お二人で、また夏休みには会いに来られるお孫さんたちを伴なって来店されるようになりました。そうした折々の会話で、先生の学識の深さ広さに驚嘆したものでした。
 もとより、学問とは無縁の私に、その学識の広大さを計る物差しはありません。しかし、どこまでも謙虚な語り口調を通して、単なる知識の積み重ねではない、人間としての道を探求される求道者の真摯な姿をそこに見ることができました。
さらに、先生の薫陶を得た、多くの村上高校卒業生から、類まれな授業スタイルを聞くことも少なくありませんでした。英語教師であった先生は詩・歌・戯曲から散文にいたるまで、テキストを参照することなく、長い英文をよどみなく坂書をして生徒を驚愕させたなどの逸話は枚挙にいとまがありません。
 また、英語だけでなく哲学や文学に深く通じていて、ドイツ語、漢語などを駆使し、学問をする目的を人間の探求や事物の真髄にせまることとされていたようでした。私には、それがみずからを律する求道者の姿に見えました。そしてそれは、生きながらにして「伝説の人」となっていきました。
 そうした、求道者・伝説の人と隣同士になり、店のお客になっていただき、親交を結ぶという幸運が、私をどれだけ豊かにしたことでしょうか。

 今年5月、先生の米寿を祝う集いが私の店でありました。カナダから次男ご一家もおいでになり、先生は「自ラ米寿ヲ祝ス」と題した七言絶句を披露されました。
  親朋オオムネ逝イテ幾年カ経タル
  寂漠タル身辺竹肩ヲ覆ウ
  天寿八旬加ウルコト更ニ八
  胸ニ感謝ヲ抱イテ閑庭ニ立ツ
「親しく交わった友人たちのほとんどはすでに旅立って数年になる。寂しさがわかるかのように、長く伸びた竹の小枝が私の肩を覆ってくれる。ここまで生きてこられたことを感謝しながら、静かな庭に佇めば、さまざまなこと去来する」といった感慨でしょうか。
 ところが、その日からほどなく、体調を崩された先生は緊急入院となったのでした。

 2年3ヶ月前に奥様笑子さんが他界されました。
「あの人、何にもできんからね。私が先に逝ったら食べることも・・・」
 そう言っておられた笑子さんが、本当に先に逝ってしまわれました。
 隣に住まいするということは、さまざまな生活の息づかいが伝わってくることでもあります。
「言われたとおりにやっとるんだがなあ」
と、台所から聞こえてきた先生の声。
「言うたとおりにやっとりゃあせんがね。こうなる前に火を弱くせんと・・・」
と、叱咤し、料理指南をしておられた笑子さん。

 笑子さん亡き後、食事はヘルパーさんの手を借りることになりました。しかし、食は満たされても笑子さんを失った心の空虚が満たされるはずもありません。「さびしくなりました」「さびしいです」。何度か聞いた絞り出し、呻くような、先生の真情の吐露を、私は忘れることができません。
 若い頃、受戒をされて仏の弟子にになられたという先生は、自宅前の龍皐院に建立された笑子さんの墓前に、献花と、朝夕の読経を欠かすことがありませんでした。その姿は、亡き妻の菩提を弔うのもさりながら、ご自分のさみしさと闘っておられるように私に思えました。
 笑子さんがお元気な頃は、入浴中の風呂場から、先生の歌声が聞こえてくるのが常でした。歌は往年の歌謡曲。数冊もの歌の本を所有しておられ、拙い私のギターを伴奏に何度か歌っていただきました。なかでも、古賀政男の「影を慕いて」は好んで歌われるレパートリーのひとつでした。
 この秋、病院からの一時帰宅の折、自宅にしつらえられたベッドに半身をおこして歌われた、その一節は哀切極まるものでした。
「ながろうべきか空蝉の儚き影よわが恋よ」
 妻を偲び、老い衰えていくわが身になぞらえておられることが、痛いほどに感じられるものでした。
 先生、本当にさびしかったことでしょう。
 ギター教室、俳句の会、絵手紙サークルと、多趣味で行動的だった笑子さんは、ちょっと底の厚いスニーカを履き、いつも弾むような足取りで私の家の前を通って行かれたものでした。
 先生、そんな風に、ちょっと先に旅立たれた笑子さんはきっとどこかで待っていらっしゃいますよ。それは先生と出逢われた佐渡の、海を見下ろす丘の上か・・・。先生が、愛用の自転車を走らせれば、冬の日本海もなんのその、すぐに笑子さんの元に行き着きます。

 この世における立身出世、地位や名誉、そうしたものには敢然と背を向け、清廉を潔しとして、その生を全うされた桂先生。先生の部屋に掲げてあった高名な禅僧の書「白雲は自らたのしむ」、そのままに、世俗の塵の中にありながら、飄然としておのれの境地を生き続けて来られた桂先生。広大無辺な学識を、少しもひけらかすことなく、あらゆるものに頭(こうべ)を垂れる謙虚さを、無言のうちに示された桂先生。
 私は、桂先生と出会い、桂先生という人間を知った幸運な一人として、いまここに衷心からの感謝を捧げるものです。先生を仰ぎながら自分を見つめなおす営みを続けようと思います。言葉に尽くせない数々の教えを胸に、ご冥福をお祈りするものであります。
 願わくは、空を見上げたとき、漂う白い雲に穏やかな先生の顔が浮かばんことを。
 ご戒名の「大鑑桂道居士」そのままに、大いなる教えの鑑(かがみ)として、永久(とわ)に私たちと共に居られんことを』

 歴史愛好家の大滝友和さんも「最後の生徒」として弔辞を捧げた。葬儀の後、その大滝家でしこたまに飲んだ。この日、大滝さんは西宮市に住む長女が第一子を生み、爺になった。人が逝き、人が生まれる。やはり、それはドラマであろう。
 
 目覚めたら時刻は新年の午前1時だった。紅白歌合戦の1場面すら観ないでしまった。またビールを飲み、眠り、目覚めてまた飲む自堕落な元旦だった。前日、本間桂翁の霊前に誓った「先生を仰ぎながら自分を見つめなおす」の言葉はなんだったのか。
 天候も大荒れの元旦。波乱の幕開けとならなければよいが・・・。
 ともかく、新年明けましておめでとうございます。今日(2日)はホテルの釜爺業務で仕事始め、夜も夭夭亭の新年初開店です。
 あっ、散々に苦しんだ腰痛。やはり、故郷の友高原君が持って行ってくれたようだ。腰に少し違和感は残っているが、痛みに襲われることはなくなった。


























 

by yoyotei | 2014-01-02 06:40  

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