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一幹(ひともと)の老臘梅のはな満ちて

 私の名前は伸二という。〈伸〉という字を問われると、〈伸びる〉とか〈人偏に申す〉と説明する。まれに〈人偏に申(さる)〉ということもあるが、ピンとくる人は少ない。それでも申年の今年はいくらか通りがいいかもしれない。
 勤めているホテルのフロントに、姓も名前も私とそれぞれ一字が異なるだけの、〈高〇伸〇〉さんという人がいる。優れた接客態度、いわゆる腰の低さで好感度がとても高く、仕事のセクションは異なるが見習うことは多い。評価の良い人と名前が似ているのはうれしい。
 ところで私の名前は叔父(母の弟)が付けてくれたと聞いている。その叔父は自分の孫にも〈伸〉の字を使って名前を付けていた。そのことを10年ほど前、叔父の葬儀の折に知った。〈伸〉という字が好きだったのだろうか。私は自分の名前を気に入っている。
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 古い馴染み客アベさんの息子さん(左)と、町内の浄土真宗の寺の息子さん(右)。最近はご無沙汰だが、飲みに来ていた頃は、ほとんど夫婦二人連れだったアベさんの両親。飲むほどに眼光が鋭くなって仏教談話にも力が入った住職の父。息子たちの顔つきや物腰に、親との共通点は見出せなかったが、酒に強いのは二人とも親譲りか。近年、客の世代交代が顕著になってきた。今年は店を開いて42年目に入る。
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 わが家の車に関することはすべて「ナカムラ自動車」にお願いしている。新年会の流れでやってきた社長のシンちゃん(右)、社員のスガワラさん(中)。初来店の新入社員ミズエさん(左)はショート・カクテルを恐る恐ると飲み干したが、酒は強いと見た。
 今は会長に退いた先代社長時代からの付き合いだが、現役バリバリのシンちゃん・ヒデちゃんというナカムラ兄弟が父の創業した会社を盛り立てている。
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 昨年暮れの約束どおり、アイコさんはフィアンセのタカダさんを連れてきた。聞いていた年齢が嘘のように若々しいタカダさんだ。アイコさんのおじいちゃん、喜んでるだろうな。一緒に飲んだ「菊水」。いちばんおいしく飲んだのはおじいちゃんだろう。<最高のものはいつもこの先にある>ことを信じて・・・・・。祈る多幸!
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 今年の年賀状には「新潟へ転勤になりました。飲みにいくぞ」とあった。そのメッセージ通り何年かぶりに元気な顔を見せたタッキーことタキカワさん。趣味の絵を通じて知り合った妻と転勤で北海道へ。現在は3人の子どもの父である。今年は新潟市から、ちょくちょく電車で飲みに来ることになりそうだ。
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 結婚をひかえているアイコ・タカダカップルに、タッキーはどんなアドバイスをしたのだろうか。客同士が親しくなってくれることは酒場亭主の喜びとやりがいのひとつだ。
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 こちらも、夭夭亭で出会ったことがドクター・セガとイチローさん夫妻との親交のきっかけだった。豊富な海外旅行体験も共通の話題のようだ。
 昨年は「宝田明講演/わが青春の戦争と平和」を実行委員長として大成功に導いたドクター・セガ。今年もなにかと活動の年になる。イチローさん夫妻の「後方支援」(?)も心強い。
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 歴史のある地元の女声コーラスグループ「クリスタル・ボイセス」のみなさんだ。「虹の彼方へ」「アメージングレース」など、英語の歌声が美しく流れた。聴く人は私ひとり。透明なハーモニーに包まれ、新年早々の贅沢を満喫した私だった。このような大勢の女子を指導しているミュージシャン・オオタキさん(右端のギター)の力量と存在の確かさには頭が下がる。メンバーの中には彼の母親もいる。年齢を少しも感じさせない、まさにクリスタル(水晶)のような歌声なのだ。
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「一人はみんなのために・みんなは一人のために」は「生活と健康を守る会」のアピール標語だ。兵庫生存権裁判は昨年12月25日大阪高裁で控訴棄却の判決が言い渡された。現在闘われている生活保護裁判は26都道府県に及び、原告は858人もいる。ここにいる仲間もそうした裁判を支援している。
 私の所属する班では「カモ鍋」で新年を祝い親睦を深めた。カモは〈マガモ米〉を作っているカサブランカダンディのオオタキさんから提供を受けた。葱や白菜は会員が栽培したものだ。ん?鍋が見えない。画面の右端にわずかに見えるのが、グツグツ煮えている「カモ鍋」なのだが。みんな、そろそろ食べ頃だぞ!

 湯気あがる鹿鍋かこみ沁々(しみじみ)と谿(たに)に仕留めしさまにはふれず   仲 宗角

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 われらの胃袋においしくおさまったカモを提供してくれたカサブランカ・ダンディーのオオタキさん(左)は、カサブランカなどユリも栽培しているが米も作る。その農法は水田にマガモを放ち雑草を食べてもらう。除草剤などの農薬は極力使わない有機栽培だ。〈マガモ米〉と称している。
 右は初来店のイケダさん。オオタキさんの娘さんの友だちとどうやらこうやらという関係・・・。この夜の私は記憶が定かでないが、運転してきた車に泊まるといったイケダさんが、野性味を帯びて、とても魅力的だったという印象は確かだ。画面右端の顔のオブジェがイケダさんに似ているのは、もちろん偶然だ。
 二人の背後に掲げられた油絵は村上出身の画家鳥居敏文氏(1908-2006)の手になるものだ。鳥居敏文氏は東京外語大学独語科を卒業後渡欧、1935年までパリで絵を学んだ。帰国後は独立美術協会を中心に活動。2004年には「九条美術の会」発起人となった。この絵は、あるお客さんの厚意で掲げさせてもらっている。*関連の追記が文末にある。
 カサブランカダンディー・オオタキさんも油絵を描く。自宅の作業場には彼の描いたカサブランカの絵がある。
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 暖冬小雪といわれていたが1月下旬になって雪景色が出現した。雪が降ると小鳥たちが餌を求めて庭にやってくる。冷蔵庫の中で軟らかくなってしまった柿をおいたら、いつの間にか消えていた。少しは小鳥たちの命に寄与できたか。〈冬来たりなば春遠からじ〉。春が待ち遠しいのは私たちだけではあるまい。
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 村上総合病院のドクターたちだ。紅一点の産婦人科医ハルカさんの快活な笑顔は周囲を元気にする。
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 「元気なまちづくり。元気な人づくり」をめざす「ウェルネスむらかみ」(NPO法人・総合型スポーツクラブ)のスタッフとサポーターのみなさんだ。市展で最高賞の市長賞を受賞したことのあるヤマダさん、古い馴染みのイガラシさん、ナカムラ自動車社長シンちゃんの妻サヨコさん、大滝舞踊研究所の指導員でもあり発表会では必ず舞台裏で顔を合わすセガさん、瀬波病院院長のムラヤマ・ドクターなどなど。さまざまな顔を持つ人たちである。
 東京外語大学でインドのヒンディー語を専攻したという私にとっては憧れのオオタ・アキコさん(旧姓瑞慶覧-ずけらん)さんもかつてはウェルネスむらかみのスタッフだった。彼女は、いま懐妊中で出産に備えているということだった。
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 朝日新聞「天声人語」(2016・1・26)は「『文人の命日につけられた名は、どれも味わい深い。きょうは「寒梅忌」。寒さに向かってきりりと咲く花を、作家藤沢周平さんの作風や人柄に重ねている』と書き出している。
 この夜、土浦の今井さんが来店して、歌人のイナバ女史が合流し、さらにドクター・セガが足を運んで、店での「臘梅忌(ろうばいき)」となった。「臘梅忌」は「夭夭亭」店名の名付け親である故八木三男先生の命日(1月25日)につけられた名である。八木三男先生については過去にもこのブログで取り上げたことがあるが、「臘梅忌」にあたりあらためて振り返ってみたい。
 八木三男先生は1932年新潟県長岡市に生まれた。1945年新潟県立長岡中学校(旧制)入学。1951年新潟県立長岡高等学校(新制)卒業。1952年京都大学文学部入学。1956年京都大学文学部(国史学科)卒業。同年新潟県立村上高等学校教諭として着任。1984年にいがた県民教育研究所創立に参加。1987年新潟県立村上高等学校を退職。同年東京大学教育学部で研究生として学ぶ。1990年にいがた県民教育研究所所長。2008年1月25日死去。享年75歳。
 八木三男先生の著書の一冊「楷と臘梅」に次の文章がある。
『それにしても、2004年は大規模な自然災害や政治災害が相次いだ。国内では石原都政治の教育テロリズムや憲法や教基法の改訂の動きの具体化などのほかに、中越大震災やインド洋津波大災害があり、人間の尊厳を傷つけたり、「平和と自由」の日本の国家理念を著しく荒廃させる野望が日程にのぼり、イラク戦争のほかに想像を超える悲惨が地球を覆った。(中略)
 政治や自然がそんな具合だったからだろう、わが家の「臘梅」が十二月中に狂ったよう一面に開花した。臘梅は光沢のある黄色い花が蝋細工のような風合いをもつために普通「蝋梅」と書くようだが、わたくしは「臘梅」のほうが好きだ。草木の名称には「侘助」や「都忘れ」のように即物的でないのがいい。旧暦の十二月である「臘月」に咲くという意味だろう。太陽暦なら一月末から二月にかけてである。芳香を放つ。十数年まえの一月の末、鎌倉の東慶寺の玄関先でその満開を見たことがある。雪国では通常二月の雪のなかである』

「臘梅忌」の色紙を掲げているドクター・セガは八木三男先生の教え子で、先生の病状に最後まで寄り添い治療に当たった。土浦の今井さん(左)は月刊誌の編集者として先生と親しい交際があった。農業を営み、スーパーでは魚をさばきながら、優れた歌人でもあるイナバ女史(右)は、晩年の先生のプール通いを数年にわたって助けた。「楷と臘梅」に『敗血症のあとの腰痛を治すためにはじめたプールの水中歩行は途中から「脊椎小脳変性症」のリハビリに変わった』とあり、プール通いは「ボランティアでプールへ運んでくれる農民歌人のお陰である」と書かれている。農民歌人がイナバ・ノリコ女史だ。
 画面の中でドクター・セガが握るケイタイは、先生の妻・八重子の刀自につながっている。
「君が生きているなら僕が生きているも同じと言いき生きざらめやも」。死に近い夫が妻に激しい痛みの中からうめきながら吐露した言葉、それを受け止める妻。
 八重子の刀自は村上を離れ、いま娘家族の近くに暮らしている。
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 イチノセさんは常に敬意を持って人と接する。「すごい!」を連発する人でもある。初対面のイナバ女史との間に〈短歌〉は語られたのだろうか。 
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 今井さんは周囲とすぐに親しくなる。これはひとつの人徳だ。電装会社を営むソエカワさんと妻スミコさんも、仲良くいっしょに写真に納まった。昨年は妻の病気を心配した今井さんだったが懸念に終わってよかった。すでに今年の〈山行脚〉が始まっている。
「いい人だね」「いい人はいいね」は川端康成『踊子』の中に出てくるせりふだ。手元に本がないので正確ではないかもしれないが、今井さんにもこのせりふはあてはまる。「いい人だね」「いい人はいいね」
 そしてソエカワ夫妻にはちょっとアレンジして、「いい夫婦だね」「いい夫婦はいいね」がぴったりだ。
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「鬢(びん)のォほつれェは枕の~咎(とが)ァ~よ~」「おう久次じゃねえか」「いよう虎か」「久しく会わねぇが えーばかにめかしこんでるじゃあねえか」「フッフッフ なあにそれほどでもねえがよ」「ま しかし人間 妙なもんだぜ あの時分は知ってのとおりにっちもさっちも行かねぇで弱ってたんだが」「こちとら相変わらずよ」「それがちょいとしたことでこの先の清元の師匠ンとこへ出入りしているうちにフフフ そのつまりなんだ師匠とオツな仲ンなったってわけよ」「なぐるぞこのやろう 久しぶりの立ち話でのろけかい なんかおごれやい」「フッフッフッフ」(『滝田ゆう・落語劇場』双葉社1991)から「包丁」
 もちろん、ソエカワ兄とドクター・セガとの間にこんな会話はない。だが、こんな会話が似合うソエカワ兄である。
 
 イナバ・ノリコさんは優れた歌人だ。生活や家族、仕事の思いを赤裸々に吐き出す。ゆったりと穏やかな語り口調からは想像しがたいほどの烈しさで歌う。その歌を紹介したいが、彼女の歌集が手元にない。出版された当時、贈呈を受けたのだが家中探しても見つからない。どこに隠れているのだろう。まだ残部があるというので頼んでおいた。近いうちに紹介できると思う。

 今井さんの来店で賑やかな「臘梅忌」となった。山本健吉編著の『句歌歳時記/冬・新年』(昭和61 新潮社)から臘梅を詠みこんだ句歌を抜き出してみた。

 枯木なす梢々に臘梅の黄の花咲けり師走朝目に               窪田空穂
 臘梅や雪うち透かす枝のたけ                          芥川龍之介
 臘梅の花をついばみ尾長居り憤るさへ最早ものうし             吉田正俊
 
 *先にあげた『楷と臘梅』に「新潟県ミレニアム美術展」と「中越大地震被災者救援美術展」という「にいがた県民教育研究所」が開催した美術展の記録が載せてあり、そのなかに「鳥居敏文画伯とわたくし」という小見出しで八木三男先生と鳥居さんとの出会いが記されてある。
「鳥居さんは大正末期の村上中学校の出身で、わたくしが村上高校の創立記念誌を編集したとき、その表紙や扉絵、目次絵などを描いていただいたのをきっかけに、以来交際をいただいていたものである」。
 私は村上高校の卒業生ではないが、この記念誌を所有している。八木三男三先生から寄贈されたものだ。
「新潟県ミレニアム美術展」は2000年12月13日から18日まで、物故者を含む作家39人、作品147点を展示し、新潟市民芸術文化会館に1300人以上の鑑賞者を集めた。開催期間中は92歳になる鳥居さんが会場に詰めていたという。
「中越大地震被災者救援美術展」は2005年4月16日から21日まで、渋谷区表参道の新潟館ネスパスで開かれた。97歳になり入院中だった鳥居さんの呼びかけに、「にいがた県民教育研究所」が全面的に協力したものだ。
 私は「にいがた県民教育研究所」の草創期からの会員であったが、八木三男先生が亡くなられてから退会した。請われて何度か寄稿したこともあった。
 鳥居さんの絵が、私の店に足を止めているのも偶然ではないのかもしれない。

 2月になった。主を失い、その妻も去った八木邸の庭に臘梅は花をつけ、芳香を放っているだろうか。
 
  一幹(ひともと)の老臘梅(おいらふばい)のはな満ちてわが冬庭を香(か)となさんとす 
                                                   窪田空穂

by yoyotei | 2016-02-04 06:39  

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